島津寒天工場跡
町指定
昭和57年3月1日指定
窯径 一三〇㎝
高さ 一八〇㎝
幕末(文化文政)の頃、島津藩の財政は非常に困窮していました。
時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿の豪商、浜崎太平次と計り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設けました。
最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(一八五四年)から明治四年(一八七一年)ごろまでであったと思われます。
この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料のテングサは、甑(こしき)島を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港に運び、
さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清)、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者等は鹿児島から派遣され、西目地方(指宿・伊集院・伊作など)からの出稼ぎ者約八〇名、地方採用者約五〇名を合わせた従業員数は約一二〇~一三〇名程であったといわれます。
現在九基の窯跡を見ることができます。