薩摩古道


室町時代に生活道路として整備され、江戸時代には鹿児島藩の参勤交代に使われたと伝わっている。

妙寺ケ谷番所
天神川板橋から青井岳駅の前に出て約30m進み、踏切を渡ると番所跡は直ぐ右側に在る。
今は鉄道が通り住宅が立ち並んでいてかつてここに番所があった要路とは思えない。
ここから西は山之口町麓の「一の関渡し」に、北は飛松番所に通ずる。
青井岳の嶺が迫る番所跡の上を旧国道が通り、ここはもう鬼山峠である。
この番所は島津領と伊東領との接点にある重要な番所であった。

日当瀬の太子様祠
天神板橋から上長野の峠まで3.5km、ここから下り坂となり道路の改良工事が進められている。
峠から1.5km坂を下ると、道下の山腹に祠がある。
安置されている弘法大師像は寛政5年(1794)の頃牛が疫病で斃れるので田野町塩水ケ谷に祀ってあったこの太子様を貰いうけてこの地に祀ったと云われている。

五反田番所跡
太子さんの祠より1.5kmで日当瀬集落に入るが、途中道路右側に番所跡がある。
寛永14年設けられた番所で永野、三十山からの道がここで出合い無頭子に至る交通の要所である。
五反田は古代の班田収授制の名残りである。この道も改良工事が終ると廃道になる。

地頭仮屋と地頭馬場跡
鹿児島街道が麓の集落に入るとすぐ左側に元役場跡があるが、ここは藩政期の地頭仮屋跡でもある。
山之口、高城、勝岡の三郷を治める地頭所は鹿児島に在ったので、重要事項は早馬で知らせた。地頭馬場は仮屋から北の方向に当り、今は空地となっているが、一朝有事の際に心掛けて日を決めて調練を行ったと云う。

山之口城跡
城跡は走湯神社の北方、東岳川と古大内川に囲まれた丘陵地にあり、天然の要害をなしている。
山之口城は一名亀鶴三石城ともいう。
城の東西に尾根筋があって亀の尾、鶴の尾と呼んだからである。
建武以来土肥実重の居城で明広4年(1496)伊東甲祐が一時この城を奪ったが慶長の初めより伊集院忠棟が居城した。
伊集院領内12砦の一つである。

走湯神社(町指定有形文化財)
五反田番所跡から1.2kmで城山の南麓の走湯神社に出る。
境内には樹令6oo年を経た大杉群があって山之口町の文化財に指定されている。
建武4年(1337)山之口城主土肥平三郎実重が伊豆の走湯権現を勧請に建立したもので村の鎮守として崇敬を集めている。
祭神は大名特命、天照里大神、少名産命、豊変姫命である。

一の渡関所跡
山之口城の北西、古大内川の手前にあった関所で藩治の頃島津氏が設けた。
郷内で最も厳重な関所で「切り寄せ」とも言っている。
元和元年(1615)古河内に建てられたこの番所は山之口番所と呼び、天和4年(1684)には一の渡番所、文政6年(1823)には再び山之口番所と呼んでいる。
古大内から鬼山越えをして飛松に至る街道はここで初めて大古内川を渡るから一の渡しと云ったものであろう。

亀甲の石散当
麓の集落の国道より北側地区に亀甲(かめんく)と云う地区名がある。
桝状に区割りされていることから亀甲といわれていて、国鉄日豊線が当地区を分断している。
亀甲の石散当は道の奥まった所に魔除けとして立てられ、石敢当と刻まれている。
高岡の石散当と同じく晋(中国)の勇士の名で石に亥Jみ、守護神とした風習の一つである。
昔は処々に残っていたようだが、今は一つだけ残っている。

山之口駅の標桂
麓の集落の中央麓保育所に曲る角にあった。
道路の改良工事で取り除かれ、二つに折れて放置されたものを地元郷土史家の手により保存されている。
一辺が30cm、高さと1m90cmの可成り大きいものである。
距離 宮崎元標 拾里四丁 山之口駅
学ノ木へ五早拾七丁拾八間
都城へ参里拾八丁弐拾弐間参尺

麓の文弥節人形浄瑠璃(県指定)
山之口麓には文弥節人形浄瑠璃が伝承されている。
この浄瑠璃は一の渡関の関守が勤務の暇に習い覚えて広めたものと云われ、文政9年(1826)の古文書を残している。
演日は近松門左エ門の「門出八島」と「出世景清」の二番があり外に間狂言の三つが入る。
文弥節は古浄瑠璃の名手初代岡本文弥がはじめたもので全国でも五ケ所しか残っていないもので県の無形民俗文化財に指定されている。

隠番所跡
地頭仮屋跡から南へ250m麓集落南はずれの旧道沿いにある。
ここからは南東の川内にも出られ、更に三股、大野方面にも峠越えの道があって交通の要所に当っている。
今は田圃と化し、道路脇の杉の古木が当時をしのばせるだけである。
なお、すぐ南側を高速道路が東西に走り、旧道を遮断している。

保食神社
麓集落の中ほどより南へ400m、字官下の小高い岡の上に在る。
藩政時代農民によって建立されたもので馬頭観音様とも呼んでいる。
農耕の神様で中でも牛馬の神様として崇敬されている。
春祭りに奉納される太郎踊は有名で、山之口町の無形民俗文化財に指定されている。

霧島街道(佐土原大道)
鹿児島街道は麓集落の西はずれから国道269号線と分岐して国鉄日豊線と交差し麓小学校前を通り高城町桜木に向っている。
この道は藩政時代「霧島街道」と呼称していて、大井手から山之口駅へ通ずる道と交差しているあたりまでを「佐土原大道」とも呼んでいた。
延宝4年(1676)佐土原の島津主膳から山之口地頭に領内巡見の知らせがあって、急遽道を補修し整備されたことから斯く呼ばれるようになったと云う。

桜木の将軍神社(町指定有形文化財)
佐土原大道、即ち鹿児島街道が桜木の内下の馬場で高岡往還(国道10号)と落ち合っている処にある。
将軍神社と云うのは、勝軍地蔵を祀ったからでこの地蔵に祈願すると戦火と飢饉から免がれたと云われている。
ここに神社を常明寺を建てたのは、室町時代の始め頃、当地を治めた桜木氏である。

王子どんの焼石神
国道269号線のバイパスが国鉄日豊線東側沿いに一直線山之口駅に至っている。
駅前通りを南東に200m行くと山之口小学校があり、校庭の西北隅に王子神社が祀られている。
太古の昔霧島山が噴火したとき王子達がこの小高い山に避難して来られた。土地の人は噴火時の焼石を御神体とし、「おじどん」と呼び祀った。

腹切りどんと兼重神社
松尾城跡の西麓にある。
松尾城攻防の時肝属兼重は松尾城の救援に赴いたが、敵の大軍ほ抗し難く、危地に落ち入り死せんとするところを、松尾城の守将上原長門守が、「我こそ兼重なり」と腹を切って兼重を救った。腹切りどんの墓は社前左側の五輸塔で、当初からのものかどうか不明だが、刀の切り跡らしい裂け口が残っており、忠節がりをしのばせる。

松尾城跡
山之口役場から南へ1km富吉に至る三股往還筋にあって自然の丘陵に築城されたものである。
建武3年(1337)の頃松尾城が畠山直顕と島津貞久に攻められ、救援に来た肝付八郎兼重が逆に窮地に追い込まれたが、城将上原長門守の身代りによって一命を得たと云われている。
明広4年(1496)より伊東氏がこの城を領していたが、天文3年(1535)北郷氏に攻めとられ以後、北郷氏の領するところとなった。

的野八幡宮
腹切りどんの墓より富吉に向って700m、的野の集落の十字路に至る。そこから東へ200m参道が続いている。
的野八幡宮は和銅3年(710)の建立で三俣院の総鎮守として肝付氏、島津氏、伊東氏との支配者は没っても崇敬された。
今は円野神社と云って弥五郎どんの祭で有名である。
又神体の右下には弥勒寺が建てられて住職の外別当役もいた。
なお、この寺にあった神代文宝の石桂は現在円野神社にある。

男塚・女塚と新町跡
的野八幡宮より西へ十字路を通り越して約20m進むと道の左に男塚・女嫁と言われる古墳がある。
この塚は七段になっていて上段に円形の塚があり、全体として大きい。
ここから更に西へ20m国鉄日豊線の手前に「新町跡」の標桂が立っている。
今は畑となっているが、この当り一帯が新町跡で奈良時代諸県地方唯一の町として栄えた処と云われている。

向原の馬頭観世音
国道269号線が花の木で国鉄日豊線と交差し、ここから450m進むと道脇に饅頭型の小高い丘があり、馬頭観音はこの頂に祀られている。
今この山は土取り場となって観音様は平地に下りている。
又延喜式駅路の一つ水俣駅跡がこの踏み切り附近西河原に推定されていて、駅馬が通り、納米を運ぶ馬の行き来が盛んであった。
向原の馬頭観音はこれら駅馬を供養するためのものと云われており、馬越.歳ヶ迫の字名からも古代からの道であることがうかがわれる。