ごぜみぞ



開発之先駆者 小野田長左衛門翁


所在地 山之口町大字山之口(麓・六十田地区)


両地域は東岳(標高八三三m)を源泉とする水量豊かな東岳川流域にあります。しかし台地上にある田畑(約二十町歩)は、水位が低く、古来より取水に非常に苦労をしていました。明治三十八年(一九〇五)の頃より、これらの状況を見かねた地区在住の小野田長左衛門氏は、一大決心し、農業用水路の開削工事に着手致しました。
大工事の割には測量技術もさることながら、財政的にも困窮する状態が続きました。遅々として進まない工事は、私財売却等でまかなわれたと言われています。


大正七年(一九一八)の頃には、同時期に進められていた大淀川流域の轟(高崎町)地区ダム工事の関係者(久山氏)と共同して、ダム工事の残りセメントを払下げ、水路改良工事がスピード化されました。取水口を五反田の砂防ダムに設け、約二キロメートルの水路は、山すそを縫うように流れ岩盤をくり抜くなどの難工事の跡を見ることができます。又、昭和八年二月二十八日には地区内六十田一之渡(新田みぞ)の水路工事に着手しました。この水路は非常にめずらしい特殊工法(サイフォーン式)が取り入れられています。又大変貴重な石積水路橋(二ヶ所)も残され、近年まで使用されていました。取水口は約三キロメートル上流の楠ケ丘砂防ダムにあり、途中は数々のトンネル工法も見受けられます。両水路共に小野田翁の莫大な犠牲の下で氏の人としての涵養(かんよう)さがなければ実現しなかった事業と思われます。地区の方々は小野田翁の幼名「五左衛門」をもじって「ごぜどんのみぞ」と呼んで水と土の大事さを後世に語り伝えています。