日向の弥五郎人形行事調査報告書

序文
日向の弥五郎人形行事記録保存調査委員長 上徳 辰美

南九州には、大和時代の隼人族に関わる大人人形伝説が広く言い伝えられてきている。
巨人伝説の「弥五郎人形行事」として現存している地域は、宮崎県都城市山之口町、宮崎県日南市、鹿児島県曽於市大隅町、鹿児島県日置市などである。
この調査報告書は、都城市山之口町が中心となり、平成十七・十八年度に国や県の補助を受けて作成したものである。
都城市山之口町・日南市の弥五郎人形行事は、「日向の弥五郎人形行事」として、平成元年二月二十七日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として、文化庁より選択されている。
今回は南九州(宮崎県、鹿児島県)全域に調査研究の範囲を広げ、巨人伝説に関わる地方的展開の解明を図ったものである。
同時にこの巨人伝説の「弥五郎人形行事」が、地域の住民の生活とどう関わってきたかが解明されれば、将来にわたって、南九州一帯の地域振興が更に期待できるものと考える。
さて、この「弥五郎人形行事」は、養老四年(七二〇) の「隼人の乱」の首長を、「弥五郎」と呼んで偶像化した行事であると言われている。
この「隼人の乱」では、大伴旅人(朝廷軍)により隼人族は鎮圧されたが、斬首などの残虐行為も行われた。
この隼人族の怨霊を恐れた大和朝廷は、全国規模の「放生会」を行った。この「放生会」の先導役となったのが「弥五郎」であると、天保十四年(一八四三)の『三国名勝図会』に記されている。
このような人形行事が現在まで保存・伝承されてきた要因として、地域の人々の物心両面にわたる努力を見逃すことはできない。
文化庁の選択の際にも、「弥五郎の人形は、八幡系の神社の秋祭りに登場するものであり、我が国にあまねく伝播している八幡信仰の地方的展開を解明する上で欠くことのできない習俗であるため、記録作成するものである」と述べている。
このことを受けて、本調査研究は、山之口の弥五郎どん・日南の弥五郎さん・大隅の弥五郎どん・日置の大王どんを調査研究の対象とし、時代の変遷とともに、人形行事と地域の人々の生活がいかに密接に関わってきたかを解明したものである。
調査研究に当たっては、文化庁や宮崎・鹿児島県教委の協力のもと、別府大学段上達雄教授外十四名で、現地調査と古文書等の論考を重ねてきた。
調査研究の結果は本文にまとめられているが、その結果は、保存会はもちろん地域住民にとっても貴重な民俗的財産となり、今後の「弥五郎人形行事」の隆盛に大きく寄与するものと確信している。
御協力いただいた国・県ならびに関係者の皆様に感謝と敬意を申し上げたい。
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例言
一、本報告書は、都城市教育委員会山之口生涯学習課が、平成十七年から平成十八年にかけて、
文化庁の民俗文化財調査費補助金及び宮崎県教育委員会の助成を受けて刊行した『日向の弥五郎人形行事涸査報告書』である。

二、調査研究は古文書などの資料や実態調査等を中心に行ったが、詞査対象地域によっては古文書等の不足もあり、報告書の内容に若干の軽重が生じている。

三、本報告書は、民俗専門研究者(専門調査員に委嘱)五名及び地元研究員(地元調査員に委嘱)六名で組織された調査委員会において調査研究が進められ、現地調査から執筆、編集、校正にいたるまで各調査員に依頼した。

四、調査研究は、調査員の御意見や御教示を得て、山之口町内はもとより宮崎県内、大分県の宇佐八幡宮さらに鹿児島県に及ぶ南九州の伝統文化・民俗芸能の行事について行った。
当初は、山之口町に保存・伝承されている伝統文化「日向の弥五郎人形行事(山之口弥五郎どん祭り)」を中心に調査が進められたが、大人信仰の民俗行事を解明する上で広範囲の調査が必要と判断したため、実際に南九州の各地域で執り行われている大人弥五郎人形行事の祭祀日(祭礼)に直接出向いて、歴史的・民俗的背景と八幡神社を取り巻く民俗行事についても調査を実施した。現地調査した大人信仰の民俗行事については左記の通りである。()内は調査日
0宮崎県都城市山之口町的野正八幡宮の山之口弥五郎どん祭り
(平成十七年十一月三日)(平成十八年十一月三日)
0宮崎県日南市田ノ上八幡神社の弥五郎さま祭り
(平成十七年十一月二十三日)
0鹿児島県曽於市大隅町岩川八幡神社の岩川弥五郎どん祭り
(平成十八年十一月― ― 一日)
0鹿児島県日置市日置八幡神社のせっぺとべ(お田植え祭り)のデオドン(大王殿)
(平成十八年六月四日)
その他、王面・装束・採り物等の採寸・写真撮影、大人人形行事関連の古文書の調査のほか、祭りに奉納される神楽や民俗芸能などの調査も行った。

五、日向の弥五郎人形行事記録保存調査委員会の主な取り組み

画像
(平成十八年十二月十三日現在)
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六、本報告書の原稿については、専門調査員並びに地元調査員がそれぞれ分担して執筆した。執筆分担については、本書目次の各章に掲載している。
第一章及び第四章、第五章、第六章については中元エ證外五名の地元調査員の情報をもとに事務局(山之口生涯学習課)で執筆した。
また、本報告書の本文については、執筆者の原稿をそのまま採用した。
本来ならば統一すべきであるが執筆者に一任することにし、執筆者間の祭祀に対する見解の若干の相違や多少の重複はあえて調整しなかった。
なお、本文中には、あるいは差別的表現が見られるかもしれない。
今日からみればあきらかに不当なものであるが、その不当性を正しく理解した上で、人権の擁護、差別の解消がなされることを願うものである。

七、章立ては第一章から第五章までを「都城市山之口的野正八幡宮の弥五郎どん祭り」、第六章を「日南市田ノ上八幡神社の弥五郎さま祭り」、第七章を「鹿児島県曽於市岩川八幡神社の弥五郎どん祭り」、第八章を「南九州人形行事にかかわる王面類」にそれぞれ配列した。
(所在地)
都城市山之口町的野正八幡宮
宮崎県都城市山之口町富吉一四一二番地

日南市田ノ上八幡神社
宮崎県日南市大字板敷字十文字八一七八番地

鹿児島県曽於市大隅岩川八幡神社
鹿児鳥県曽於市大隅町岩川五七四五番地

鹿児島県日置市日置八幡神社
鹿児島県日置市日吉町日置

八、写真については、各専門調査員と山之口生涯学習課の撮影したものを使用している。又、その写真ビデオ等については一部、山之口生涯学習課で保管している。

九、本文中の年号は和暦を用い、必要に応じて()内に西暦を付した。

十、本文は、原則として常用漢字、現代かなづかいを使用した。ただし、刊本の表記、固有名詞や専門用語、史料の引用に関しては、必ずしもこの原則によらなかった。

十一、本文中に引用された参考文献及び直接引用されていないが、参照の必要があるもののうち主要な文献については執筆者によって異なるが、本文中の当該箇所の下に()で割書又は章の末尾に列挙した。

十二、難解な語句や地名等については、適宜ふりがなをつけた。

十三、調査主体及び調査員・協力者等については、巻末に掲載した。

十四、本文中の自治体名については執筆編集時、平成十九年二月一日現在の名称とした。

十五、本文中の人名については敬称を省略した。                                                        13

目次
14~18P

総説
弥五郎人形のこと 段上 達雄
はじめに
日本民俗学の創始者である柳田国男は、「大人禰五郎」の中で大隅日向に伝えられた弥五郎伝説や弥五郎人形行事について触れている。
この「大人禰五郎」は大正六年一月の『郷土研究』に掲載されたもので、柳田が早くから弥五郎伝説と行事に興味を持っていたことがわかる。
柳田は石見国(島根県西部)、越前(福井県)、愛知県、岐阜県など全国各地に弥五郎という巨人伝説か残されていることから、五郎という名が御霊信仰に関わっていることに注目しているのである。
文化庁は平成元年に「日向の弥五郎人形行事」という名称で「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択している。
煩いを厭わず、その時の選択調書を次に掲載する。

日向の弥五郎人形行事
所在地
宮崎県北諸県郡(現都城市)山之口町的野
日南市飫肥町板敷

保存会
弥五郎どん保存会(山之口町)、田ノ上八幡神社総代会(日南市)

期日
十一月三日(山之口町)、十一月二十ニ~ニ十三日(日南市)

「弥五郎どん」あるいは「弥五郎様」と呼ばれる巨大な人形を作り、祭礼行列の先導役として曳き出す行事は南九州(日向、大隅地方)に特徴的に見られるもので、宮崎県内には次の二件が伝承されている。
山之口町的野の円野神社(古くは的野正八幡神社)に伝わる「弥五郎どん」は「大人弥五郎」とも呼ばれ、十一月三日の秋祭り(ホゼ)に登場する。
背丈四訳余りもある竹篭製の胴体に白い単衣のカタビラを着せ、木彫の朱面を付けた人形を四輪の台車に据えて、浜下りの神幸行列の先頭に押し立て、約五00メートル離れた「池の御前」を祀る池まで往復する。
この模様は天保年間に編築された『三国名勝図会』などにも記載されている。                                           19
日南市飫肥町板敷の田ノ上八幡宮に伝わる「弥五郎様」は、十一月二十三日の秋祭りに登場する高さ六討に及ぶ人形で、白い髭のある朱面と烏帽子をつけ、朱の衣に袴をはかせ、腰に長刀、右手に槍を持つ姿に組み立られる。
かつては町内に曳き出されたが、現在は境内に立てられるのみとなった。むかし、稲積弥五郎という巨人か、この地に八幡様の御神体を負うてきたという伝説の主である。
南九州には巨人伝説(大人伝説)か顕著で、「弥五郎」はその主人公として知られ、各地にその足跡などと呼はれる土地があり、その人形行事が、巨人伝説に具体的なイメージを提供していることが注目される。
また「弥五郎」の人形は、八幡系の神社の秋祭りに登場するものであり、我か国あまねく伝播している八幡信仰の地方的展開を解明する上で、欠くことのできない習俗である。
以上の点から記録保存の措置を講ずべきものである。

文化庁の記録選択を受けたのは日向(宮崎県)の二件であるが、大隅(鹿児島県)の弥五郎人形も忘れてはならない。鹿児烏県曽於市(旧大隅町)の岩川八幡社の弥五郎ドン祭りである。
弥五郎人形の伝承は「おおひと(大人)伝説」から「隼人伝説」までさまざまあり、地域的特色に彩られた豊かで特色ある伝承世界を創りあげている。
弥五郎人形に対する民俗学的考察は山口保明氏が詳細に行われており、なるべく重複はさけたいか、いくつかの問題点をあげて、弥五郎人形行事の特徴を明らかにしておきたいと思う。

一 山車行事としての弥五郎人形
的野正八幡宮の弥五郎人形は「浜殿下り」と呼ばれる神幸行事の一環として登場する。
神幸行列は獅子を先頭に、賽銭箱・大麻(大御幣)・弥五郎人形・御神馬・神榊・氏子総代長・祭り保存会長・都城市長
・猿田彦・御神旗・笛(宮司)・太鼓・神楽保存会員・巫女(浦安舞)・神輿三基・神職・氏子総代・祭り保存会員・一般参列者と続く。
的野正八幡宮の祭神(息長足姫命・誉田別命・玉依姫命)は神圏に遷座している。弥五郎人形はそれ自身が御神体と考えられているが、弥五郎は神社の祭神には含まれていない。
この行列の構成を見ると、弥五郎人形は行列の先駆けとなる随神と考えることかできる。神格は低いけれども力が強く、魔を払い場を清めることのできる神である。
岩川八幡社の弥五郎人形も浜下り(神幸行事)に登場して神輿の前を進む。田ノ上八幡宮の弥五郎人形も秋祭りの神幸行列の先駆をしていた。
現在は本来の弥五郎人形は神社近くに安置され、小型のミニ弥五郎人形か神幸行列に随伴するようになっている。弥五郎人形は神幸行列の先駆神であると考えることができる。
九州には特色ある山鉾屋台の出る大規模な都市祭礼がいくつもある。
福岡県では博多祇園山笠(福岡市) 、小倉祇園太鼓(北九州市) 、戸畑祇園大山鉾(北九州市)、飯塚祇園(飯塚市)、風冶八幡宮川渡り神幸祭(田川市)、一云一柱神社大祭(三橋町)など枚挙がない。
大分県では日田祇園(日田市) 、中津祇園(中津市)、臼杵祇園(臼杵市)の三大祇園を代表として県内各地に山鉾屋台の出る祭りがたくさんある。
佐賀県では唐津くんち(唐津市)筆頭に、小友祇園(呼子町)、浜崎祇園(浜玉町)、トンテントン祭り(伊万里市)などがあり、長崎県には長崎くんち(長崎市)、郷ノ浦祇園山笠(郷ノ浦町)などがある。 20
熊本県では八代の妙見祭(八代市)があり、宮崎県には愛宕神社のダンジリ(佐土原町)、尾末神社の秋祭り(門川町)などがある。
このように、山鉾屋台の出る大規模な都市祭礼は九州北部に色濃く分布し、九州南部になるに従って少なくなることがわかる。
鹿児島県内では祇園祭は四ヶ所行われており、いずれも商人の祭りと考えられているが、規模はそれほど大きくはなさそうである。
これは島津藩の政策により、商人町があまり発達せず、大規模都市祭礼の形成が妨げられたものと考えることができよう。
大隅日向(宮崎県南部と鹿児島県東部)に分布する「弥五郎人形」は、簡素で小型であるとはいえ、車台に載せられて神幸行列の先駆けとして進む。
いずれも巨大な人形を中核とした特殊な「人形山車」と考えることができる。的野正八幡宮と岩川八幡神社は、農村地帯であるため、ホゼ(豊祭。収穫祭。放生会の転訛と言われている)の神幸行列に登場する。
弥五郎とは名乗らないものの、鹿児島県日置市(旧日吉町)の日置八幡神社のセッペトベ(六月の御田植え祭り)に登場するデオドン(大王殿)は、かつては秋のホゼ(豊祭)の神幸行列に出されていた人形である。
田ノ上八幡宮だけは飫肥藩の城下町に成立した祭礼であるが、秋祭りという点では収穫祭といっても良いだろう。
弥五郎人形とそれに類する大人形の巡行が農村部などの収穫感謝の秋祭りに出てくる点では、都市祭礼とは言い難い面がある。
しかし、近世になって全国的に流行した都市祭礼の影響を受けながらも、農村部であるために本格的な山車の製作に至らず、豊富な竹材で製作できる「大人形」を主体とした出し物を作るようになったと考えることもできよう。

ニ 弥五郎人形文化圏
現在、弥五郎人形行事は三カ所で実施されており、地域的特色が色濃い祭礼行事であるといえるが、これらはひとつの文化圏内に含まれるものなのだろうか。
弥五郎人形行事が行われている三カ所のうち、旧山之口町の的野正八幡宮と旧大隅町の岩川八幡神社は、いずれも近世には島津藩領であり、特に藩境に位置する山之口は防衛の前線として重視され、島津藩の直轄地となっていた。
しかし、田ノ上八幡宮の鎮座する日南市飫肥は、近世には伊東家の城下町であった。
伊東家は源頼朝から日向国の地頭職を与えられたといわれ、日向国都於郡(宮崎県西都市都於郡町)に代々居住して日向半国を支配した。
島津家では伊東家の南下を菩戒して、長禄二年(一四五八)に飫肥城に一族の者を城主として入れた。これによって飫肥城は両者の争奪の対象となり、幾度も合戦が繰り返されるようになった。
永禄十一年(一五六八)、伊東義祐は飫肥城を攻めて占拠し、次男伊東祐兵を城主としたが、天正五年(一五七七)には局津家の攻略にあって退去した。
しかし、その後伊東祐兵は羽柴秀吉に仕えて戦功を立て、秀吉の「九州征伐」にも参戦し、その報償として飫肥(五万七千石)を受領して藩主となった。
このような歴史的経緯を見ると、山之口や大隅と同様に、中世には飫肥も島津文化圏に含まれていたと考えて良いであろう。
日置八幡神社のデオドンは弥五郎人形行事と同類の大人形であるが、弥五郎どんではなく、デオドンと呼ばれる。                       21
日置八幡神社の鎮座する鹿児島県日置市(旧日吉町)は薩摩国で、弥五郎人形行事の伝承地(旧大隅国・旧日向国)から五〇キロ訳以上離れている。
弥五郎人形行事にともなう隼人伝説、すなわち奈良時代の「大隅日向の隼人の乱伝承」とは地域的には直接関係しない。
しかし、デオドンが大王殿と表記されるように、なんらかの権力者を意味していると考えることができよう。
それは弥五郎どんと同様に隼人の首長、この場合は阿多隼人(薩摩隼人)の首長を意味していたと思われる。
鹿児島県湧水町(旧姶良郡栗野町)の勝栗神社には弥五郎面と呼ばれる面か伝えられている。
面裏には「正若宮八幡(勝栗神社)之神兵之面再興之事干時天文十九年(一五五〇) 八月時正日(以下略)」と記されている。ここでは神兵とされており、随神的要素があったと考えられる。
また、同社が所蔵する「正若宮八幡大菩薩十王之絵箱」の箱裏には「是永正十二年(一五一五)天乙亥仲春十五日十王講結集之事次第不同本願弥五郎殿」とある。
この「弥五郎」が当時実在した人名なのか、それとも伝承の中の「弥五郎どん」なのか不分明であるが、もし伝承上の「弥五郎どん」であるなら、「弥五郎どん」は中世まで遡ることもでき、その範囲も広がるであろう。
鹿児島県歴史資料センター黎明館が平成四年に刊行した企画特別展図録「南九州の仮面 ~祈りと願いの世界~」によると、弥五郎人形の面のような王面系の仮面が南九州ではたくさん確認されていて、神幸の時に捧持する風習かあることが紹介されている。
このような神幸行列の発展したものが、現在の弥五郎人形行事であると位置づけることもできよう。

三 豊かな伝承世界
(一) 大人伝承と随神説
柳田国男は「弥五郎」という名の大人(巨人)伝説が九州南部のみならず、全国各地に大人弥五郎の伝説が分布していることは冒頭で紹介した通りである。
「弥五郎」とはどのような意味を持つ名前なのだろうか。
「弥十五郎」から、五郎を抽出してみると、これから連想されるのは歌舞伎「矢の根」「対面」「助六」などで知られた曽我兄弟の富士の巻狩りでの敵討ちである。
近世の民衆にとって「曾我兄弟」は基礎知識のひとつとして歌舞伎などを通じて共有されていたのである。
曽我兄弟は工藤祐経を父の敵とねらうが、兄十郎が白面の青年であるのに対して、弟五郎は赤く化粧をした暴れ者として登場する。
五郎=御霊と通じるため、曽我兄弟は怨霊的性格を持つと考えられている。
このような点から弥五郎という名称、そして弥五郎人形が朱色面であったことは、怨霊となった隼人の首長を連想しやすかったと思われる。
矢口貴子氏が「大人弥五郎諏」で指摘するように、弥五郎という存在は中部地方以西に分布し、さまざまな伝説と行事をそこに見いだすことができる。
なお、表「全国の弥五郎伝承と行事」は「大人弥五郎謂」の報告を要約したものである。
神社社頭で祭神の守護神として安置される矢大臣をヤゴロウと呼ぶ地方があった。矢大臣とは神社の随身門に向かい合って安置される二体の神像の俗称である。
『綜合日本民俗語彙』に「福岡・佐賀両県地方では、神社の楼門に置く矢大臣の像かヤゴロウサンと呼ばれ、矢五郎、弥五郎などと字を宛てる。
矢五郎という人は、巨人で大力であったと伝えられる」とある。『分類祭祀習俗語彙』には「熊本県玉名郡南関町では、社の楼門の中に坐する弓矢を持つ神人を、ヤゴロウサンという」と「久留米市では、神殿楼門の矢大臣を、矢五郎という」と記されている。いずれも九州の事例である。                     22
矢大臣がなぜヤゴロウと呼ばれるようになったかは明らかではないが、ここではヤゴロウサンは随神なのである。
中部地方では愛知県の津鳥神社の影響を無視することはできない。
この地域では「弥五郎」は、小正月の人形焼き、虫送り、疫神送り、厄払いなど神送りとしての要素が強く、根源として怨霊を祀る御霊信仰があると考えても良いだろう。
この点では隼人の首領という怨霊的存在と同類であるといえる。

(二) 八幡信仰と隼人
それでは隼人鎮魂と八幡社の放生会はどのような関連があったのだろうか。隼人は古代の九州南部に居住した一族で、独特な政治体制と生活文化を保持していた。
しかし、全国統一を目指していた朝廷は、隼人の同化を目指してさまざまな施策を行ってきた。しかし、それは摩擦を作り出すだけであった。
隼人の反乱は数度に及ぶ。大宝二年(七〇一)の薩摩隼人による乱、和銅六年(七一三) の隼人の乱、そして養老四年(七二〇) の隼人の乱などである。
養老四年の隼人の乱では、大隅国と日向国の隼人が朝廷軍の鎮圧対象であった。なぜ、大隅日向両国にまたがって隼人が決起したのだろうか。
『続日本紀』の和銅六年(七一三)四月三日の項に「日向国の肝杯、曽於、大隅、姶羅の四郡を割きて大隅国を置く」とあり、それまでは日向国だった四郡が大隅国として独立したのである。
そして『続日本紀』の和銅六年七月五日の項に「今、隼人を討伐した将軍と士卒のうち戦陣で功のあった千二百八十余人に、それぞれ功労に応じて勲位を授ける」と唐突に記される。
その反乱の詳細は明記されていない。大隅国の分国によって朝廷の支配は強化され、それに反発して隼人の反乱が勃発したものと思われる。その険悪な雰囲気はその後も続いたらしい。
七年後の養老四年二月二十九日、大宰府から大隅国守陽侯史麻呂が殺害されとの報告があり、朝廷はただちに大伴旅人を征隼人持節大将軍に任じて征討軍を派遣した。
同年六月十七日の項に「凶徒は剪り掃ひ、酋師面縛せられて、命を下吏に請ひ、寇徒叩頭す」と鎮圧に成功したことが記されている。
この乱を最後に隼人の大規模な抵抗は終焉を迎え、それまで独自の文化を持っていた隼人たちは、次第に同化することを余儀なくされるようになる。
正和二年(一三一三)に八幡宇佐宮弥勒寺の学僧神叫によって編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』は浩誦な史料と各地の伝説を猟歩したもので、八幡信仰史を研究する上で欠くことのできない資料である。
この『八幡宇佐宮託宣集』霊巻五に隼人征討と放生会の創設について次のように記されている。
元正天皇五年、養老三年癸未大隅・日向両国の隼人等、襲ひ来り、日本国を打ち傾けんと擬る間、同四年甲申、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。
我行きて降伏すへしてへり。(中略)豊前守将軍、大御神を請じ奉る。祢宜辛嶋波豆米、大御神の御杖人女官の名なり。と為り、御前に立ち、彼の両国に行幸す。
此の時彦山権現、法蓮・華厳・覚満・体能等、倶に値遇し、同じく計を成し給ふ。仏法よりは悪心を蕩し、海水よりは竜頭を浮べ、地上よりは駒犬を走らし、虚空より鵡首を飛ばす。
隼人等は大に驚き、甚だ憧る。彼の両国の内に、七ケ所の城を構ふ。                                             23
爰に仏法僧宝の威を振ひ、各大力を施し、二十八部の衆を出し、細男傀儡子の舞を舞わしむる刻。隼人等は興宴に依って敵心を忘れ、城中より見出でしむ時、先づ五ケ所の城奴久良・神野・牛屎・幸原・志加牟の賊等を伐り殺す。今ニケ所の城曽於の石城・比売の城の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまわく。
今ニケ所の城曽於の石城・比売の城の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまわく。須く三年を限って守って衆賊を殺さん。
神我、此の間を相助けて、荒振る奴等を伐り殺さしめんてへり。(中略)聖武天皇元年、神亀元年甲子に託宣したまわく。吾れ此の隼人等多く殺却する報には、年別に二度放生会を奉仕せんてへり。
又云く。一万度放生の事畢んぬ。巻属を引率して、浄刹に送らんてへり。
宇佐に伝わる伝説では、隼人の霊が蛯になって稲に害を与えたといい、そのため現在でも宇佐神宮の放生会では蛯と蛤を放生している。
『八幡宇佐宮託宣集』に記された「八幡世界」の中において、大隅国と八幡神との関わりは極めて深く、『八幡宇佐宮託宣集』護三巻には「人皇第一主、神日本磐余彦尊御年十四歳の時、帝釈天宮に昇り、印鍮を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。
蘇於峯は霧島山の別の号なり」と、八幡神が最初に霧島山に示現したという伝承を載せているのである。
また、名二巻には「大隅宮縁起」か記載されており、陳大王(南北朝期の南朝の陳国の王。陳は五五七年に創建されて建康を都とするが、五八九年に隋の文帝に滅ほされた)の娘大比留女か八幡神を産んだという説話である。ただし、護三巻に「大隅八幡は陳王の娘に依って生るる所の八幡なり。故に垂迹各別なり」と記されているように、神件は八幡宇佐宮の八幡神と大隅宮の八幡神とは別系統であると考えていた。
『三国名勝図会』に「的野正八幡宮(中略) 本社隅州国分正八幡宮なり」とあるように、大隅正八幡宮から勧請されたと考えられる。
田ノ上八幡神社も稲積弥五郎が一の宮八幡から勧請したと伝えている。そして岩川八幡神社は万寿二年(一〇二五)に山城国の石清水八幡宮から勧請されたと伝える。
的野正八幡宮の本社である国分正八幡宮と田ノ上八幡神社の本社一の宮八幡はいずれも現在の鹿児島神宮(鹿児島県霧島市・旧隼人町に鎮座)のことで、大隅正八幡宮・大隅一宮・大隅宮などと呼ばれていた。
当初の祭神は彦穂々出見尊だけで、一〇世紀前半ころに八幡神が配されたと推定されている。
平安時代後期には八幡神陳王伝説を流布させて正八幡宮と称するようになり、朝廷への影響力を強めて保安年間(一一二〇~二四)ころから勢力を強め、八幡宇佐宮や石清水八幡宮に対抗しようとした。八幡神陳王伝説は鎌倉期に編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』にも収録されているように、その影響力は大きかった。
平安時代末期、大隅正八幡宮は大隅国全体で三千十七町のうち千二百九十六町を占める荘園領主となり、石清水八幡宮を本家とした。
これは同国千四百六十五町の摂関家領にほほ匹敵する規模で、当時の強大な勢力を推測させる。大隅正八幡宮の荘園が石清水八幡宮を本家としていたか、八幡宇佐宮所領は摂関家を本家としていた。
いずれも八幡宮と関わるのである。平安期に八幡信仰が大隅国に敷術する要因であったと考えられる。
岩川八幡社か石清水八幡宮から勧請されたと伝えているが、これは大隅正八幡宮との関係を無視しては考えられない。神社、岩川八幡神社のいずれも大隅正八幡宮の影響下にあったのである。
奈良時代に国家神となった八幡神は、石清水八幡宮の創建にともない、朝廷にますます大きな影響を及ほすようになった。                         24
鎌倉時代に武家政権が樹立されても、武家の統領であった源氏の守護神として鶴ヶ岡八幡宮が崇敬され、関東武士団が全国に地頭として広まるにつれて、八幡信仰は全国各地津々浦々まで広がり、現在では八幡神社は全国に四万社ほどあるといわれている。
荘園制度の全盛期であった平安時代、八幡信仰が荘園守護神として大隅・日向両国に浸透するためには、大きな障壁があった。
八幡神は養老四年の大隅日向隼人の乱では政府側の豊前国軍の随軍神として参戦しており、鎮圧対象となった大隅日向両国の隼人たちにとっては敵だったのである。
このような中で、八幡宇佐宮か隼人たちの霊を鎮魂するために放生会を始めたということは、大きな助けになったに違いない。
また、本来の主神とは違う八幡神が祭祀されるようになった鹿児島神宮は、南九州では最大規模の荘園領主となり、南九州各地に八幡社を勧請して、支配体制を強化しようとした。
このような状況の中で、敵対していた隼人と八幡神は融合を果たしていったのである。それは、弥五郎どんのような、この地域における八幡信仰の独自な発達を促していったと思われる。

(二) 弥五郎どんと隼人伝承
現在、山之口町ではどのように弥五郎どんのことを考えているのだろうか。的野正八幡宮近くに建てられている『山之口弥五郎どん祭り(日向の弥五郎人形行事)』の説明板に次のような記載がある。

弥五郎どんは隼人族の首長
昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
奈良時代のはじめ(約一三〇〇年前)頃、大和朝廷は「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
養老四年、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を起こしました。
隼人族は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。
隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲となった一四〇〇余名の隼人族の怨霊を恐れた朝廷は、全国で放生会を行わせました。
放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊を慰めるようになったのです。
神仏習合の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残が現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。

山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業
宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業

この説明では、弥五郎どんは隼人族の首領であったことになっている。                                               25
ただ「隼人族の怨霊を恐れた朝廷は、全国で放生を行わせました」とあるが、奈良時代、朝廷は各国に命じて何度も放生を行わせてはいるが、隼人鎮魂のために行ったという事例はない。
八幡宇佐宮(宇佐神宮)が隼人鎮魂を目的に放生会を開始し、それが石清水八幡宮や鶴ヶ岡八幡宮など全国の八幡社へ広がったのである。
的野正八幡宮の弥五郎どんは、地元ではどのように認識されてきたのだろうか。
文政七年(一八二四)の『名勝志御純方二付取調帳』には「一弥五郎長壱丈弐尺余但竹細工右は赤塗大面を付、梅染広袖帷子着、同色之帯、太刀長八尺脇差三尺帯シ、後二三俣大鋒鑓ヲ負、四ッ車二為負、八幡宮浜下之節前二押行申候。右由緒八幡世界御退治之硼、被召列第一之勇者二て御側付之人之由申伝候」とある。
ここでは、弥五郎どんは八幡神が世界(?)退治の時に側に付き従った第一の勇者であると伝えており、随神的存在であったことが分かる。
天保十四年(一八四三) に完成した『三国名勝図会』には「的野正八幡宮地頭館より午方一里二町許り、富吉村に在り、本社隅州国分正八幡宮なり、八幡宮、国分の巻には鹿児島神社と標題す、和銅詞三年歓請す、住古三俣院の宗廟にして大社なりしといへり、正祭十月二十五日、此ノ祭日、当社より申酉方四町余、路傍御手洗池の側に仮殿を設け、三ツの神輿を守り下る、是を浜殿下りといふ、中の神輿を第一と定め、儀衛旧式あり、且大人弥五郎と呼で、朱面を被り、刀大小を倶きたる、一丈余の偶人を作り、四ッ輪の車に乗せ、十二、三歳の童子衆多の人数にて、行列の先きに推す、上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり、その権輿詳かならず」と記されている。弥五郎どんは大隅の隼人征討の故事に基づくという。
養老四年の大隅日向の隼人の乱のとき、八幡神は隼人鎮圧のために出動した豊前国軍の守護神として随行した。
この「上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり」という記述では、随神なのか隼人族の首領なのか明確ではないが、随神的要素が後退して、隼人族の首領説が強くなっているように考えられるだろう。
この記述から、少なくとも弥五郎どんは武内宿禰ではなかったと思われる。
江戸末期頃には、隼人族の首領説が強くなっていたことは、弥五郎人形に用いられた面が朱色面から老爺風の白色面に取り替えられたことでも推測できる。
明治初頭の廃仏毀釈のとき、朱色面から白色面に替えられた。それまで的野八幡神社には隣接して天台宗の弥勒寺があり、神社祭祀に僧侶が深く関与していた。まさに神仏習合の寺社であった。
しかし、明治初頭には国学の流れの中で国家神道が勃興し、明治維新で勢いに乗った神職たちは寺院のみならず石塔石仏などの石造物まで破却し、偏狭なナショナリズムの中で既成文化の破壊を目指した。
朱色面は壮年男性を表現し、黒い髭をたくわえた力強い容貌をもつ。隼人の首長説がなけれは、看過されたであろう。
しかし、当時の神職の強力な指導によって、老爺を表現する白色面に取り替えられたと考えられる。白色面の額には三本の横徽が刻まれ、白い髭が植毛され、眉は白髪交じりに彩色されている。
これは神功皇后説話に登場する武内宿祢を表している。記紀によれば、景行、成務、仲哀、応神、仁徳天皇の五代に仕えたという伝説的な長命の人物である。
近代になって沢山描かれた図像ではあるが、武装した神功皇后の傍らで、赤子の誉田別命(応神天皇=八幡神)を抱いて控えている姿がよく知られている。
明治維新とは徳川幕府が朝廷に大政奉還することによって急速に実現した政権交代劇である。
そのため、それまでの神仏が習合した神社祭祀を、神仏分離・廃仏毀釈によって大きく変革する中で、古代に朝廷に敵対した隼人の首領を神社祭祀の最も目立つ場に置いておくことはできなかったのである。
八幡神の随神ならば武内宿祢が最もふさわしいという意識の元で、弥五郎どんは政治的に変貌をとげさせられたのである。                        26
しかし、昭和五十八年には旧態に戻すために古い朱色面を模して新たな面を作成し、それ以降、的野正八幡宮の弥五郎どんは再び朱色面となった。それは「弥五郎どん隼人首領説」の復活でもあった。
日南市飫肥町の田ノ上八幡神社の弥五郎どんは、独自の伝説を伝えている。
『日向地名録』に「往時大隅国桑原郡に稲積弥五郎と言ふ者あり。彼地一の宮八幡の御神体を負ひ来り此処に鎮座す」とあり、また「長人弥五郎とて、一丈有半の偶人に着物を着せ、長刀を偏び、右手に長槍をつかしめ、之れを四輪車に載せ、群童に挽かしめ、街上を巡る。極めて古俗なり。弥五郎は稲積弥五郎の縁故なりと言ひ伝ふ」と記されている。
ここでは「縁故(=関係・ゆかり)なり」と、弥五郎どんは八幡神を勧請した稲積弥五郎に関係ある人物であるという。
岩川八幡神社については『三国名勝図会』に「祭祀十月五日、其日華表より一町許拒れる処に浜下の式あり、大人形を造りて先払いとす。
身の長け一丈六尺、梅染単衣を着て、刀大小を楓ひ、四輪車の上に立つ、此人形は土人伝へて大人弥五郎といひ、又武内宿祢なりといふ」と記されている。
ここでは大人弥五郎あるいは武内宿祢と伝えられているのである。現在では隼人の首領、あるいは武内宿祢と伝えられている。
これは的野正八幡宮と同様に、弥五郎どんの比定に紆余曲折があったものと考えられる。
薩摩国・大隅国・日向国の住民たちは、千年以上の歳月の中で自らを隼人の末裔であると意識し続けていただろうか。隼人を誇りに思う意識が盛り上がる時期は二度あったと思われる。
江戸時代後期とそして現代である。この豊かな伝承に彩られた弥五郎人形行事は、いずれも地元の人たちによって愛されてきた祭りであり、南九州という地域的特色を明確に伝える祭りであるといえる。

【参考文献】
柳田国男 「大人弥五郎」『妖怪談義』・定本柳田国男集第四巻・築摩書房・一九六八
井上辰雄 『熊襲と隼人』教育社・一九七八。
矢口貴子 「大人弥五郎諏」『昔話伝説研究第七号』
重松明久校注訓訳『八幡宇佐宮御託宣集』現代思潮社・一九八六。                                                 27

全国の弥五郎伝承と行事

画像
28P~31P

第一章 山之口町と弥五郎人形行事の祭祀組織
第一節 都城市山之口町の地勢

画像 霊峰「高千穂の峰」に連なる霧島連山

山之口町は宮崎県の南西部、都城盆地の北東部に位置し、山間部の純農村地帯で豊かな自然と、縄文時代にはすでにこの地で生活が営まれていたという長い歴史がある町である。
町域は東は宮崎市田野町、南は北諸県郡三股町、西から北は都城市高城町、北は宮崎市高岡町と接し、東西九キロメートル、南北十七キロメートルのの細長い地形で、総面積は九七・五平方キロメートル、町域の約八割は国有林を中心とする林野となっている。
都城盆地の北東の壁を構成する青井岳(五六三メートル)、東岳(八三三メートル) の山系からは山之口町をはじめ、周辺市町をうるおす農かな水が湧き出している。
青井岳渓谷を洗って高岡町に注ぐ境川、町の中心部から南部を流れる東岳川、花木川、富吉川も高城町にて宮崎県で最も大きい一級河川である大淀川に合流する。
山之口町の中心部は、これらの川がつくった扇状地に広かり、豊かな農業地帯となっている。(図一宮崎県内の地図)

また、町内の山之口地区野上集落と六十田集落、花木地区の川内集落では土器や石斧、石匙などが多数出上していることから、生活の営みは縄文時代後期まで遡ることかできる。

画像 県指定山之口村一号・二号古墳

その後の古墳時代においては、二十数基の古墳があったとされる記録が残されており、上富吉地区に残されている「山之ロ一号古墳、二号古墳」は、昭和十一年に宮崎県の史跡指定を受け現在でも原形をとどめている。
その当時から上富吉地区は人々の生活の中心地であったことか伺える。
この貴重な一号古墳と二号古墳は地域住民か工夫しなから大切に保存するとともに、古墳周辺を手作りによる緑地公園として整備し的野正八幡宮の弥五郎どん祭り会場近くに美しい姿で残されている。
さらに、山之口町は、日向神話による天孫降臨の地「天の逆鉾」が立っている霊峰「高千穂峰」に連なる霧島連山か一望できる地域で、古くは「三俣院」と呼ばれ、霧島山の裾野に広かる田園地帯で収穫される農産物の集散地であったと言われ、古くから交通の要衝となった地でもある。
奈良時代には官道沿いに「水俣駅」が置かれ、駅馬五頭か常駐して荷物を搬送したと思われ、当時は諸県随一繁栄した町であったと伝えられている。
現在もJR日豊本線が町域の北東部から南西部に走り、山之口、青井岳の二駅がある。                                         32
この日豊本線を沿うように走る宮崎目動車道には霧島連峰が眺望できる山之口サービスエリアがあり、結ぶ幹線道路である国道二六九号には憩いと語らいのパーキング「道の駅山之口」があり、多くの利用者で賑わっている。
高速自動車道の整備にともない都市圏への所用時間も短縮され、今後も交通の中継地点としての役割が期待される。
現在では季節感あふれる自然環境や伝統文化を活かした観光施設の賂備も進められ、近年の多様化、高度化する観光ニーズに対応して、新しい観光地としてのイメージづくりにも取り組んでいる。
〔『山之口町勢要闘』(地勢と沿革)山之口町役場より〕

第二節 都城市山之口町の成り立ち
平安時代山之口町一体は三俣院七百町と称する鳥津荘の中にあって摂関家、藤原頼道の荘園の一部であった。
建久八年(一一九七)に島津忠久は島津荘の下司職に任ぜられこの地を治めた。建武年代(一三三四~三六)、肝付兼重が三俣院司に配せられこれを治めた。
興国元年(一三四〇) 八月、兼重は足利蒋氏に降り、畠山直顕が日向守護職となり、その臣土肥平三郎実重の子孫が世製していた。その後は土持氏、島津氏とその消長に伴い支配する所は変わった。
明応四年(一四九五)、島津氏より講和のため三俣院を分割して伊東氏に譲り、以降四十年間にわたり伊東氏が領有するところとなったが、天文三年(一五三四)に北郷氏に代わり、更に文禄四年(一五九五)には豊臣秀吉の命によって伊集院氏が代わって領有した。
慶長四年(一五九九)に至り、伊集院氏がその主島津に誅せられた後は一時北郷氏領となったが、同十九年(一六一四)に島津氏の直轄領となって明治四年(一八七一)の廃藩置県まで続いた。
藩政時代には大字山之口元役場跡に外城(郷)の地頭仮屋があり郷士集落の「麓」か形成され、山之ロ・花木・富吉の三か所を治めた。
明治二年(一八六九) には三島通庸か地頭となり、この地を統括し明冶四年の廃藩置県により鹿児鳥県、その後都城県に属し、同六年宮崎県設四の際同県に属した。
都城支庁の所轄となり、高城区役所が設磁されて山之口郷は、その管下となった。
明治九年(一八七六) 、宮崎県は鹿児島県と合併され同県に属し、明治十三年管内を山之口(麓)・花木・富吉の三つの村に区分し、それぞれに戸長、役場を設置して始めた。
同十六年に宮崎県再県とともに高城区を廃し、都城に北諸県郡役所が設置された。
郡長谷村澄孝は行政事務を統括し、山之口(麓)・花木・富吉を合併して山之口に戸長、役場を置き、明治二十二年の町村制の実施に当たって現山之口村を形成した。
明治二十六年(一八九三) に役場を花木に移転し自治体としての体制か整備された。大正三年(一九一四)八月、日農本線が開通し、花木がようやく中心的集落を形成するに至った。
昭和二十九年(一九五四)二月、村庁舎を現在地に移転し、以来、当局及ぴ住民の協カ一致により、各種事業の推進、事務の整理、納税話識の高揚、産業経済、教育文化交通等もっぱら自治の発展に努め、町制施行の基礎が確立したので昭和三十五年に都市計画区域指定を受け、事業推進と共に急速に市街地の面目が一新された。
こうして、都市的形態の整備に伴い住民宿願の町制施行の気連が高まり、住民の熱意と努力とによって昭和三十九年十一月三日町制が公布、更に平成の大合併により平成十八年一月一日に、北諸県郡高崎町、山田町、高城町とともに都城市と合併し現在に至っている。
〔『山之口町史』(山之口町の沿革) 山之口町より〕                                                         33

画像 (図一))宮崎県(旧郡域・現郡市町村域対照図) (平成17年12月31日現在)
〔『宮崎県の地名』宮崎県の項(日本歴史地名体系46)平凡社刊による〕                                                 34

第三節 山之口弥五郎人形行事の祭祀組織
山之口町上富吉地域に鎮座する的野正八幡宮の例大祭は、毎年十一月三日に「山之口弥五郎どん祭り(浜殿下り)」として今に伝えられ、古式豊かな一大絵巻として執り行われている。
三国名勝図会にあるように相当昔から伝統ある祭り行事であることがうかがえるが、その継承には幾多の変遷があった。
古老の話によると当祭りを「浜殿下り」と呼ぶ時代の明治、大正から昭和三十六年までは同八幡宮に隣接する住民や上富吉地域で組織する神社奉賛会(氏子)を中心に、村内三か所の神社(南方神社、走湯神社、熊野神社)で運営されてきた。
当時、祭りの運営資金は地域住民の出資金と村内三か所の神社の寄付金で、また食事等は奉賛会役員自らが米、野菜を持ち寄って賄っていたが、昭和三十七年、三十八年は運営資金(寄付金)を村内三か所の神社から徴集することが困難となり、祭りが一時途絶えるという危機にあった。
この状態を懸念した当時の村長(後に町長)が「先人から大切に受け継がれてきた伝統ある文化行事(弥五郎どん祭り)をなくしてはならない。」と、自ら奉賛会の会長を務めるとともに、村内の各地域公民館長(六地域)と村内三か所の神社の氏子総代に理事として協力を求め、新たに的野正八幡宮奉賛会の組織を立ち上げ祭りが復活した。
奉賛会の役割は弥五郎どん祭りの「浜殿下り」の世話役であり、このことは現在でも受け継がれている。
このような中、弥五郎どん祭りが「日向の弥五郎人形行事」として、平成元年二月に文化庁より無形民俗文化財の選択を受けたことを契機に山之口町民全員が保存会員となり、「山之口弥五郎どん祭り」が新たに組織された。
奉賛会の組織は平成十七年四月に見直され、町長は奉賛会の会長から山之口弥五郎どん祭り保存会の名誉会長に就任し、六地域の公民館長も同祭りの理事を務めている。
山之口弥五郎どん祭りは、祭り保存会と奉賛会の両輪で運営されている。
山之口弥五郎どん祭りは、町内の各地域公民館の出資金や都城市補助金で運営されており、奉賛会の運営費は主に浜殿下りの経費に、祭り保存会の運営費は主に民俗芸能の奉納に使われる。
平成十八年度的野正八幡宮奉賛会及び山之口弥五郎どん祭りの運営費に関わる各地域公民館からの出資金並びに都城市からの運営費補助金は下記の通りである。

〇下富吉地域公民館 六二、四一〇円
〇花木地域公民館 一七八、〇六六円
〇永野地域公民館 五、三七二円
〇青井岳地域公民館 八、〇五八円
〇麓地域公民館 九四、六四二円
〇上富吉地域公民館 一七四、一〇〇円
計 五二二、六四八円

※以上の地域公民館の出資金は、各地域の世帯数で算出されている。
〇都城市補助金 五九八、〇〇〇円
〇繰越金その他 一六三、七五六円
※収入決算額一、二八四、四〇四円(内、四〇・七パーセントが各地域公民館の出資金で占めている。)

支出項目は主に左記の通りである。
〇民俗芸能奉納費 二〇〇、〇〇〇円                                                         35
〇浜殿下り行列参列費 二五五、一四八円
〇会場設営及ひ会議費 二七五、四〇七円
〇弥五郎力餅原材料費 一二〇、八四〇円
〇その他の諸費 二五七、六三九円
計 一、一〇九、〇三四円

[参考文献]
『山之口町勢要覧』山之口町役場平成十六年十一月
山之口町史編さん委員会『山之口町史』山之口町平成十七年十二月二十日
『宮崎県の地名』(日本歴史地名体系 第四十六巻)平凡社 平成九年十一月十二日                                     36

第二章 山之口的野正八幡宮の弥五郎どん祭りの歴史的背景
第一節 『三国名勝図会』及び『古今山之口名勝志』による「的野正八幡宮」と「弥五郎偶人(にんぎょう)」
一 『三国名勝図会』
『三国名勝図会』の復刻監修者、鹿大名誉教授原口虎雄氏は、『三国名勝図会』について、つぎのように記している。
『三国名勝図会』は、天保十四年(一八四三)の編纂で、明治三十八年一九〇五)島津家臨時編輯所の山本盛秀の名義で、二〇冊の和装本にまとめて出版されたものである。爾来本書は薩摩藩研究のバイブルになっている貴重書中の貴重書である。」と。
この『三国名勝図会』(以下『名勝図会と略す』)巻之五七山之口は、絵図二枚を付してつぎのように記している。
「的野正八幡宮」(地頭館より午方、一里二町許り)富吉村に在り、本社隅州国分正八幡宮なり、(此八幡宮、国分の巻には、鹿児島神社と標題す、)和銅三年勧請す、往古三俣院の宗廟にして、大社なりしといへり、正祭十月二十五日、此ノ祭日、嘗社より申酉方四町餘、路傍御手洗池の側に個殿を設け、三ツの神輿を守り下る、是を濱殿下りといふ、中の神輿を第一と定め、儀衛(ギョウレツ)舊式あり、且大人弥五郎と呼で、朱面を被ぶり、刀大小を佩きたる、一丈餘の偶人(ニンギョウ)を作り、四ツ輪の車に乗せ、十二三歳の童子、衆多(アマタ)の人数にて、行列の先きに推す、上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり、其櫂輿(ハジメ)詳かならず、また其儀衛の中、多くの武具を用ゆ、是は北郷忠相富邑を領するの時始るといひ偉へ、昔は流鏑馬もありし、又二月初卯の日祭あり、此ノ日には田鍬初(タクハハジメ)の謂れとして、牛の形を造り、墾田の状をなし、及び木刀躍りあり、富社は、古来正月元日より、七日の間、神忌と稲し、毎事蓋音の高きを禁ず・・・・・・中略・・・・・・社司亀澤某、別當禰勒寺。

◎ 上記文中詳述すべき点(五点)
〇「本社隅州国分正八幡宮なり」
鹿児島神社と宇佐神宮との関係について

〇「往古三俣院の宗廟にして、大社なりしといへり」
島津八〇〇〇町歩開発時の一二俣院七〇〇町歩と、三俣駅や院司等について

〇「御手洗池の側に椴殿を設け、三ツの神輿を守り下る、是を濱殿下りといふ、」
宇佐神宮の濱下りの影響を受けたと思われる点について

〇「儀衛箇式あり、且大人弥五郎と呼で、朱面を被ぶり、刀大小を個きたる。一丈餘の偶人を作り、四ツ輪の車に乗せ、十ニ・三歳の童人、衆多の人数にて、行列の先に推す、上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり」
大人弥五郎と朱面について
隼人族と大和朝廷、隼人の反乱、隼人征伐、放生会について

〇「社司亀澤某、別嘗弾勒寺」
社司として世襲で勤め、現在も社殿下跡に居住している亀澤家について                                          37

二 『古今山之口名勝志』
『山之口名勝志』は、正しくは、「文政七年申六月、名勝志御祉方ニ付御調帳、日州諸県郡山之口」といい、薩摩藩が領内各郷に命じて作製させ、差し出させたものである。
日向で残されているのは、『高岡名勝志』と、この『山之口名勝志』だけである。
郷内の村里、山川、寺社、古跡、などをはじめ諸所蔵物の来歴にいたるまで記録されているので、地方史研究の空白を埋める貴重な資料も少なくない。

画像 的野正八幡宮

「的野正八幡宮」別当
弥勒寺「富吉村」
但「地頭仮屋元σ己之方当σ壱里五町廿七間」
正体木像高サ壱尺九寸五分程立像冠装束左手ニ正釼右手ニ玉之形持玉フ
右作者権少僧覚容願主祝楽所良本
天文四年己丑十一月吉日(享禄二年己丑の誤であろう・・・筆者)
一、宝殿三間四面小板葺板
敷三方縁箱棟但志んちゅう御紋三通有
一、舞殿六敷三間小板葺板敷
一、長廟四敷五間茅筵葺板敷但拝殿共申候無銘鰐口有之候
一、四ツ足殿二敷方小板葺板敷
一、両善神王小板葺
一、御供所四敷三間茅
一、鳥居二宇
一、二王門壱宇
右御物御修甫所
一、十月廿五日御祭
右者御物σ御祭米壱斗七升五合相渡リ申候放生會御祭二付賓殿
内別当弥勒寺住持σ相勤神前社人相勤申候無住之硼者外寺住持
σ賓殿内相勤候
一、御代参郷士年寄之内壱人郷士先供拾弐人井手廻二而参詣仕候
但先年移地頭被差越候節者地頭σ御代参被相勤候廿四日之夜σ
翌日迫両度きやうせん弐拾五前ッヽ造酒壱対相備神楽有之候
一、弥五郎長壱丈弐尺餘
但竹細工
右者赤塗大面を付梅染廣袖帷子着同色之帯太刀長八尺脇差三尺
帯シ後二三俣大鋒鑓ヲ負四ッ車二為負八幡宮濱下之節前二押行
申候
右由緒八幡世界御退治之副被召列第一之勇者二而御側付之人之
由申博候
一、ま取壱本
一、鉄砲六挺
一、弓壷弐片
一、大不路壱本
一、日熊弐本
一、校箱弐ッ
一、長刀一振
一、先彿弐人
一、小荷駄壱疋                                                                     38
一、立笠壱本
一、う希笠壱本
右行列天文三年三俣乱之副八幡宮江深御誓願二而神領地井行列
鏑流馬等相備候右之頃σ行列尓今百姓中σ夫〃???道具相調相備候
鏑流馬之儀者当分無御座候
一、棒持大小帯者弐人
一、大面旗三本
但旗頭二右面付候
一、大團壱本
但日天月天之絵有之候
一、獅子舞者頭社人σ守越候
一、路ん子か具免弐人
一、御輿三躰
一、御かひ三本
一、小姓六人
一、鑓六本
一、御弊
一、行司弐人
但エポシスリ袴着七八ッ之子供
一、衆僧幾人二而も
右濱下井祭之式右之通御座候前代都城高木村平江と申所江
春日社有之候彼所追濱下為有之由申偉候当分者的野馬場末池之
尾権現宮池之涯江仮殿相調仮殿迫濱下有之候右権現之儀御母所
共申傭候右御輿三鉢之内中之御輿一之神輿と唱花之木村庄屋σ
手道具持致守護候ニノ御輿冨吉村庄屋手道具為持守護いたし候
花之木村之内神頷地八幡殿菜田折敷田香割田油田と為被究由右
之故一之御輿江相付候由申停候干今田畑右之字名申博候

◎上記文中詳述すべき点(七点)

画像 図一 三国名勝図会の的野正八幡宮の絵図

画像 図二 三国名勝図会の的野八幡祭式之圖の絵図

〇「放生会御祭二付賣殿内別当弥勒寺住持σ相勤神前社人相勤申候」
前記名勝図会と関連

〇「赤塗大面を付」「三俣大鋒鑓ヲ負」
前記名勝図会と関連

〇「右由緒八幡世界御退治之硼被召列第一之勇者二而御側付之人之由申博候」
前記名勝図会と関連

〇「宝殿三間四面小板葺板敷― 云一方縁箱棟・・・・・・中略・・・・・・右御物御修甫所」
的野正八幡宮境内の縄張りについて
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〇「弥五郎長壱丈弐尺餘一、ま取壱本・・・・・・中略・・・・・・一、衆僧幾人二而も」
浜殿下り、祭式の様子。

〇「前代都城高木村平江と申所江春日社有之候彼所迄濱下為有之由申博候」
北郷忠相高城々主時代(二十一年間)の浜下りについて

〇「花木村之内神領地八幡殿菜田折敷田香割田油田と為被究由右之故一之御輿江相付候由申博候干今田畑右之字名申博候」について

以上『三国名勝図会』と『古今山之口名勝志』に記載されている「的野正八幡宮」と「弥五郎偶人」を記し、本テーマと係わり、詳述、解明すべき点をあげた。
そこで、上記の詳述すべき点に触れながら、的野正八幡宮の社史、隼人族、祭りの沿革へと論を進める。

第二節 的野正八幡宮の社史

画像 宇佐八幡宮

的野正八幡宮と深いつながりを持っているのは、宇佐神宮(宇佐八幡宮)と鹿児島神宮(国分正八幡宮)である。
そこでこの三社の由緒と関連について先ず考察したい。

一 宇佐八幡宮(宇佐神宮)
宇佐八幡は、古代、天皇の即位や国家の大事に際し、勅使を派遣するなど、全国八幡宮の総本社として古来尊崇されてきた。
社記によると、神亀二年(七二七)聖武天皇の時代に現在地に創建されたとあり、祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后である。
「薩八幡宇佐宮御託宣集(第十六巻)」には、本地垂迹のはじまりについて、この宇佐神宮の祭神応神天皇は、つぎのように託宣されたと記している。
「我是日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂也、我名日護国霊験威力神通大自在菩薩、国々所々垂迹於神明初顕耳」我(応神天皇)が八幡大菩薩で、神となって国々所々へ垂迹するという託宣である。
また宇佐神宮の研究家である中野幡能博士は、『豊日史学』平成十一年三月号の、「八幡信仰の起源と文化」の論説で、「宇佐神宮の一番古い縁起書は、宇佐神宮にはなくて、平安時代の初めに、宇佐八幡宮から勧請された石清水八幡宮に伝わった「宇佐八幡弥勒寺建立縁起」(重文)である。」と述べておられる。
その石清水文書は「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」という標題でつぎのように記している。
「定大神朝臣宇佐公両氏任大小宮司以辛島勝氏為祝禰宜
右大御神(菩繭)者、是品太天皇御霊也、・・・・・・元正天皇元年養老四年大隅日向両国有征罰事、大神託波豆米宣、隼人等多殺報、毎年
放生会可修之云々、私曰天平賓字五年始於宇佐宮修放生会也・・・中略・・・・・・依今年四月十一日状橡勧官府井古記所申上如件
承和十一年六月十七日 小目  以下国司連署」                                                      40
・・・・・・以下略・・・・・・
養老四年大隅・日向の隼人を征罰したこと、宇佐八幡の御神託によって辛島波豆米の神軍か隼人等多数殺したので、毎年放生会を行うよう御神託があったことを記している。
以上、宇佐八幡宮の祭神応神天皇が、八幡大菩薩としてはじめて神に姿を変え垂迹されたこと(本地垂迹、神仏習合)、養老四年の隼人征伐で多数の隼人等を殺したので、隼人の霊を慰めるため、放生会を行うよう宇佐八幡の御託宣があり、それより放生会が行われるようになったこと、その放生会は、宇佐神宮の縁起書に示されている通り、宇佐神宮にとっては縁起にかかわる最も重要な行事であることが示されている。

二 鹿児島神宮(国分正八幡宮)
『三国名勝図会』には、先ず、「鹿児島神社、内村に在り亦正宮とも稲ず。今正八幡宮と云、祭神彦火々出見尊、応神天皇仲哀天皇神功皇后四坐」と記し、つぎに「初め彦火々出見尊一坐にて、神武天皇の勧請と伝、石清水伝記に曰、鹿児島神社彦火々出見尊也、神祇紗日、大隅国正八幡、火々出見尊也、宇佐八幡不同」と、宇佐八幡と同じではないと述べているが、続いて、井上氏蔵本「正宮伝記」を記した後、応神天皇を八幡大菩薩とする本地垂迹をつぎのように記している。
「欽明天皇五年、鹿児島神社の上に雷電おひただしく、人皆奇異の思ひをなしけるに、八流の幡降り来り、示現の奇特ありて、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を会祭す、是当社を八幡と稲ずるの張本なり、・・・・・・一説には中略・・・・・・実に八幡垂亦の最初にして、大隅州一宮なりとす、倭漢三才図会にも、当社を載せて八流之幡顕坐、最初垂跡之地也といへり」
更にまた「昔時は勅使奉弊ありて、放生大会行われ、祭式もおのずから大粧なりき」と、むかしは放生会の祭りが盛大に行われていたことを記している。
また鹿児島県地方史学会発行の『薩隅日地理纂考』には「鹿児島神社、奉祀坐彦火々出見尊当社ハ如何ナル故ニカアリケム、住古ヨリ八幡宮卜稲シテ、応神天皇、仲哀天皇、
神功皇后ヲ斎祭リテ建久八年(一一九七)ノ図田眼ニ正宮領卜見ヘタルハ皆此神領ナリ」と記してある。
このように「鹿児島神社は彦火々出見尊也、宇佐八幡とは同じからず」と言いながら、応神天皇仲哀天皇神功皇后の四坐を祭神とし、大隅国正八幡とも稲している。
これについて『隼人郷土誌』は、八幡神の伝播として

〇天平勝宝元年(七四九)、東大寺の大仏造立を支援した神として大分県宇佐の八幡神を奈良に迎え、手向山八幡として祭る。

〇貞観元年(八五九)、僧行教、宇佐八幡宮を、京都の男山に勧請、石清水八幡宮として祭る。

を紹介し、もともと隼人族が大隅の氏神としてこの地に祭っていた神様(鹿児島神社の祖形)があって、それに平安時代に石清水八幡から全国の国府に分霊された八幡神が合併されたのではないかという説、大分から移住した人々が、八幡の本家、宇佐八幡の神をこの地に持ち込んだという説、を併記している。
そして更に天永二年(一一三二)、宮坂麓の石体に正八幡の文字が現われたことを記し、宇佐八幡宮との本家争いが始まったことも紹介している。
41
いずれにしても、この国分正八幡の祭神に八幡大菩薩と言われる応神天皇を祭っていることに変わりなく、歴史学者青木和夫氏か『日本の歴史』に「宇佐八幡は、全国各地にある八幡宮の本社である」と述べており、現在はそれか定説となっている。
だとすれば、『隼人郷土誌』の記述のように宇佐八幡を勧請した石清水八幡か、全国の国府に分霊した八幡神という見方か自然であろう。
なお『薩八幡宇佐宮御託宣集』の中につきのような要請文も見える。
「薩摩国鹿児島明神、宇佐宮に申し日く、他国の神共、隼人と云う神来って、我が国を討ち取らんと欲している。誰か討つべき将を派遣せられんことを」
このように宇佐宮の勢力か強かった古代は、両者間には本社分社の深いつながりがあったと考えていいのではなかろうか。

三 的野正八幡宮
『三国名勝図会』には前記したように、「富吉村に在り、本社は隅州国分正八幡宮なり・・・・・・」と記している。国分正八幡宮を勧請したとあるのに、その主祭神である彦火々出見尊は祭られていない。
的野正八幡宮の由緒を書いた古文書の中に、「的野正八幡宮式放生会法則」という主として、本地垂迹と放生会について述べた難解の文があり、その中につぎのような文言がある。
「国主応神天皇辞十善万乗之位現利物遍増之身今八幡大菩薩是也一農即国宇佐之垂迹也二大隅国正八幡宮以一船舶為栖号八幡崎・・・」
応神天皇が八幡大菩薩になって現われ、一宇佐八幡に垂迹された。二大隅国正八幡宮に垂迹された。大きな船を栖(すみか)となし八幡崎と号した。
「五畿七道諸国圧園奉崇大菩薩毎所莫不被行御放生会之座席・・・・・・」
「奉安置御正体其後毎年十二十五日為式El行御放生会」
日本全国大菩薩を崇め奉り、どこも放生会を行わないところはなかった。
的野正八幡でも御神体を安置し奉ってからは、毎年十月二十五日を式日となし、御放生会を行った。このように国分正八幡にも配慮しなから、宇佐八幡を第一とした放生会法則になっている。
なお奈良、平安時代の太宰府に通ずる官道十六駅の一つ水俣駅に添って鎮座する的野正八幡は宇佐ともつながっていた。(※図三「日向官道十六駅想定図」〈宮崎県の歴史〉旦品次吉著)
また日本一広い荘園島津荘八〇〇〇町歩を開き関白頼道に献上した太宰大監平季基は、その一人娘の婿に肝属(伴)兼貞を迎え、島津荘最大の三俣院七〇〇町歩の院司とした。
そして、この的野正八幡宮を三俣院の宗廟とした。

画像 図三 日向官道十六駅想定要図
日向官道十六駅想定要図
(日高次吉著宮崎県の歴史より)                                                               42

「宇佐宮の特殊神事の一っ放生会は、大隅、日向の隼人を祭る神事で、古代、中世には、豊前国全体と豊後・日向・筑前国の一部が参加した。」とある。
日向といっても当時宇佐領であった地域が主だったと推察されるが、宇佐八幡の末社として宇佐八幡との関係を重視していた的野正八幡宮からも、参加し、祭式の様子を伝えていたにちがいない。
つぎに放生会の対称となつている隼人族とその叛乱、放生会へと論を進めたい。

画像 図四 荘園想定図
(山川出版社発行宮崎県の歴史より)

第三節 隼人族
隼人族が事実として年表に出てくるのは、六八二年の隼人の朝貢である。なおその隼人名には、大隅隼人と、薩摩地方の阿多隼人が出ており、日向の諸県隼人は、大隅隼人に属していたと思われる。
隼人名については、広辞苑は、「大昔、九州南部の薩摩、大隅に住んでいた種族でハヤヒトの約」としている。
なお熊襲族と隼人族との関係についても諸説があるが喜田貞吉博士は昭和十八年宮崎県の依頼により東洋堂により発刊した『日向国史』古代史編でつぎのように述べ、同族説をとっている。
神護景雲三年(七六九)には、曽公足麻呂俗伎を奏して外従五位下を授ける。
延暦十二年(七九三)には、大隅曽於郡大領外正六位、上曽乃公牛養隼人を率いて入朝し、外従五位下を授けられたり。
このように隼人の族に「ソ」姓多きは、襲人即ち隼人なりしことを知るべし、と。
また博士は、「この南九州隼人の大和朝廷に対する反乱は古くからあり、度々征討のことあったと思われるが、大事を為すに至らなかったので、国史はこれを伝えなかった」と記している。
なお大和朝廷は隼人の懐柔にもつとめ、「隼人内附、懐柔等の記事の『日本紀』に見ゆるもの、実に左の如きあり」と、つぎのように記している。
「欽明天皇元年三月、蝦夷、隼人並びに衆を率いて婦附す。天武天皇十一年(六八二)七月隼人多く来りて方物を貢す。是日大隅隼人、阿多隼人と朝廷に相撲ひ、大隅隼人勝つ。
尋いで隼人等を飛鳥寺の西に署し、種々の楽を奏す。例て禄を賜ふこと各差あり。道俗多く之を見る。
持統天皇元年五月、隼人大隅、阿多の魁帥、各己が衆を領し、互に進みて天武天皇の殖宮に誅す。七月隼人大隅、阿多の魁帥等三百三十七人に賞賜す。各差あり。      43
同三年正月、筑紫の大宰栗田真人朝臣等、隼人一百七十餘人。
並びに布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚を献ず。按ずるに隼人と共に牛皮鹿皮を献ずるは、当時隼人かなほ牧畜狩猟に従事するもの少なからざりしことを示すものとすべし。
同六年閏五月、筑紫太宰河内王等に召して、沙門を大隅と阿多とに遣はし、仏教を隼人間に伝へしむ。
同九年五月、大隅隼人を饗し、尋いて隼人の相撲を西の槻の下に見る。此の以外にも隼人馴服の事実なほ多からん。ただ日本紀逸して之を録せざるのみ。」
このように大和朝廷に服従し、朝廷に仕えた畿内隼人とも言われた隼人族もいた。これらの隼人の朝廷での役割は

〇天皇や高貴の人を守る護衛

〇清め払いをするため大声を出す吠声(はいせい)

〇竹細工の製品を作り納める。

〇歌を歌ったり、隼人舞を見せる。

等であった。
こうして大和朝廷に服従していたかに見えた大隅、日向隼人が大反乱を起すという大事件が起きた。しかしその原因は詳かでない。

第四節 隼人の反乱と放生会
『続日本紀』は、隼人の反乱についてつぎのように述べている。
「養老四年二月に至り隼人最後の大反乱あり。大隅守揚胡史麻呂を殺害するに至る。北の乱初め大隅国府に起りて、日向、薩摩に波及し、ここに有名なる養老の大征討となれり。
養老四年三月、中納言大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍となし、授刀助笠朝臣御室、民部少輔巨勢朝臣頷人を副将軍とし、大軍を発して隼人を征せしむ。
・・・・・・中略・・・・・・かくて五年七月に至り、征討功初めて成りて、副将軍笠御室、巨勢慎人等還婦す。
此の役斬首獲虜合せて千四百餘人に及び、是より隼人全く懾状して、爾後復反乱の事実を伝へず。」
このように『続日本紀』は大隅、日向隼人の反乱に対し、朝廷は征討大将軍として大伴旅人を派遣し、隼人を征伐したこと、以後反乱は無くなったことのみを記している。
『扶桑略記』は「養老四年九月征夷の事あり。大隅・日向両国乱逆す。公家宇佐宮に祈請し、其の禰宜辛島勝代豆米(ねぎからしまのまさよづめ) 、神軍を相率ゐ、行いて彼の国を征し、其の敵を討ち平ぐ。大神託宣して曰く、合戦の間多く殺生を致す。宜しく放生を修すべしと。諸国放生会此の時より始まる。」
また、宇佐神宮史史料篇巻一「八幡大菩薩因位縁起」には、おおむねつぎのように記載されている。
「養老四年、大隅、日向国の荒振る隼人等を伐ち従えるため、農前国守上宇努首男人将軍、大御神を請し奉る。
禰宜辛島勝波豆米(ねぎからしまのまさはづめ)大御神の御杖となり、御前に立ち行幸す。
彼の大隅、日向領国の奴久良(牧園町の中福良か隼人町の野久美に比定)、神野(姶良郡襲山の橘木城か)。
牛屎(うしくそ)(国分市川内牛の糞の地か)、幸原(桑原郡桑善か又は国分市の清水城か)、志加牟(国分市敷根か)の五ヶ城の城々の隼人等伐り殺す。
ただし、曽於の石城(国分市城山か)、此売(ひめ)城(国分市姫城城か)の隼人等は急に殺し難いので三年を限って殺すよう謀る。
時に波豆米大御神の宣や援助をうけ、その二城の隼人も殺し終った。そこで再び波豆米に神託があった。                                44
吾れこの隼人等多数殺した報いに、年別に二度放生会を仕ヘ奉るべしと。その時の宇佐宮の託宣から放生会を奉仕するようになった。」
以上『扶桑略記』、宇佐神宮史「八幡大菩薩因位縁起」は、宇佐八幡の禰宜辛島勝波豆米が、御神託によって神軍を率いて隼人を征伐し多数を殺害した。
そこで再び宇佐八幡の、隼人等多数殺したので、隼人の霊を慰めるため毎年放生会を行うようにという御神託があった。それ以後放生会を行うようになったことを記している。
このように隼人の反乱に対して、大和朝廷が派遣した大伴旅人の軍と、宇佐八幡の御神託による禰宜辛島勝波豆米の神軍が征伐に向かっているが、放生会の託宣は波豆米に対してであり、以後放生会が宇佐八幡の一太神事となった。
なお放生会は仏教行事であり、これを神社で行うことは、本地垂迹説の神仏習合によるものであった。

第五節 的野正八幡宮の放生会の変遷
『三国名勝図会』に、「その権輿(はじめ)詳かならず」とあるように、いつごろから放生会を行うようになったか詳かでない。
しかし「往古三俣院の宗廟にして大社なりといへり」とあることから、平季基が三俣院を開発した万寿三年(一〇二六)頃を出発点として考察したい。

一 三俣院の宗廟となった時代
(一)三俣院と平季基三俣院を含む島津荘八〇〇〇町歩は、万寿三年(一〇二六)、太宰大監平季基によって開発され、長元年中(一〇二八~一〇三六)に宇治関白藤原頼通に寄進されたというのが通説である。
なお『三国名勝図会』によれば、季埜はこのとき、島津荘八〇〇〇町歩の鎮守として宇佐八幡宮(祭神応神天皇、玉依姫、神功皇后)と、神柱社を益貫(梅北)に創建したと記している。
これは正応元年(一二八八)の「島津荘官言上状」によったもので信頼度が高いと言われている。
このように季基は、自分の館のある益貫に島津荘の鎮守として宇佐八幡を勧請し、八幡宮を創建したのであるから、同じころ、自分の所管地として院司となった三俣院にも、宗廟として的野正八幡宮を創建したと思われる。
しかし、『三国名勝図会』には的野正八幡宮は、「本社隅州国分正八幡宮なり、(この八幡宮国分の巻には、鹿児島神社と標題す)和銅三年勧請す」とある。
本社である鹿児島神宮(国分正八幡)は、その社伝に「和銅元年(七〇八)、鹿児島神社創建」と記している。これに合わせて「和銅三年勧請」としたのであろう。
なお太宰府の役人であった平季基は、国分正八幡も、宇佐八幡を勧請した石清水八幡を勧請して正八幡宮としたことや、当時の宇佐八幡の勢力を十分認識していたうえでのことであったろう。
いずれにしても、的野正八幡宮が三俣院の宗廟となったのは、平季基が三俣院の院司となった万寿三年ころか、季基の一人娘婿、肝付(伴)兼貞が譲り受けた時代だと思われる。
ではなぜ季基は三俣院を重視し、院司となったのかそれは三俣院が日本最大の荘園「島津荘」八〇〇〇町歩の中で最も広い七〇〇町歩の穀倉地帯だったからである。
荘園開発当時は、梅北あたりは三俣院の所属地だったと想定されており、現在も平季基居館の跡という伝承地を残しており、「西藩野史」「鹿屋玄兼自記」の、「三俣院の主として益貫に住し」を裏づけている。(※図四参照)           45

(二)当時の官道と三俣院
『延喜式』に国府を中心として日向の十六駅か記載されている。(図三参照)
それによると、豊後府中から南下した官道は、日向にはいってまず長井に達し、川辺、刈田、美禰、去飛の海岸諸駅をへて児湯から国府に達する。
国府から分岐した行路の一つは海岸に向かい、嘗麻(田島)、石(江)田、救麻(熊田)救弐(七野)をすぎ、宮崎、諸県両部の境界にある青井岳(山之口)の険を越えて水俣に出、都城盆地の中心島律に到り、ここから大隅にはいる。
日高次吉著『宮崎県の歴史』は、『日向の国府から太宰府までの往復日数は、上り十二日、下り六日と記されている。
上りと下りの日数に大きな差があるのは、上りには人夫か相調などを運搬し、下りは軽装になるからであろう。諸駅を縫う官道は、こうして租調などの貢租を運搬する目的で設営されたのである。
『律書断簡』に日向の地が京を去る行程二十一日、海路は十三日と記しているのは、国府から奈良京に達する日程を示しているのである。」と記し、当時の官道は、租税としての租や税金として納める織物の調などを運搬する目的で設営されたことを強調している。

ア 水俣駅
水俣駅については、三股町、山之口町のうちの諸地点、高城町などの諸説があるか、喜田貞吉博士は、『日向国史』につぎのように記している。

「水俣駅駅馬五疋」
建久図田帳に、殿下御頷諸県郡三俣院、田七百町とあり。今の北諸県郡高城、山之口、二股の諸村に当る。
今其の南部に三股村を立てて、旧禰を伝ふ。地理を案ずるに、水俣駅は今の山之口村、若しくは高城村の中なるべし。
東岳川あり、西流して大淀川に会す。是れ水俣の名ある所以にして、駅址は高城村大字高城の辺なるべしといふ。
されど前駅との中間に約四里に渉れる険路あることを思ふに、むしろその降り口なる山之口村大字山之口(麓)を擬すべきものか。
然らは次の島津駅なる都城に達するにも、距離相当る。
七野より山之口まで約五里、前引源平盛哀記に、俊寛僧都等が「月影日影もささぬ深山の峨々たる石巖を凌ぎ越えて、日向国西方島津の庄に着き給ふ」とあるのは、此の道筋なること疑を容れざるなり」

現在ではこの喜多博士の山之口麓説か定説となっていると言っていい。(※図三参照)

イ 当時をしのばせる的野正八幡宮周辺のたたずまい
〇三俣院の屯倉や官衛
前記したように水俣駅は、長い険路の青井岳山中を凌ぎ越えての出口であり、また、苦難の山越えへの登り口でもある山之口麓であったとしても、その三俣院七〇〇町歩の租、調や穀物等を院内から集め保管する屯倉や、そのための役所、官舎などは、三俣院の各地から集めやすく地理的に便利な場所で、しかも官道に添った地点に設営されたと思われる。
このような観点から現在の山之口中学校から南西部山之口一号二号古墳西方一帯が設営地だったと考えられ、屯倉のあった場所を示すと思われる「蔵ヶ迫」の字名が残されているのは特箪すべきことである。                                     46

〇にぎわいをみせた門前町
的野正八幡宮は延喜式にある式内社ではないが、式内社が総て古墳群のある地域に設けられているように、周辺は古墳地帯であった。
昭和の初めまでは県指定も七号墳まであった。現在は県指定の一・二号墳と、未指定の二本杉古墳群が残っている。
他は戦後の畑地の拡張、開発・道路の開発で滅失した。しかしこの古墳地帯には、弥生古墳時代の集落跡を物語る土器の破片が散在している。
なお、この古墳地帯周辺や前面を古来「新町跡」と呼んできており、現在も「新町」という字名が残り、往時の門前町のにぎわいを物語っている。

〇花木村の神領地を今に残す字名

画像 図五 的野正八幡宮周辺の地図

『古今山之口名勝志』に
「花之木村之内神領地八幡殿 粢田 折敷田 香割田 油田と為被究由、右之故一之御輿江相付候由申伝候干今田畑右之字名申偉候」
とあるように、花木村神領地跡には油田はそのままの地名で角田、柳田、山田、稗田、園田、梅木田、高川原田、寺田など粢田や折敷田に該当する田であったと思われる地名か残されている。(図五「的野正八幡宮周辺の地図」参照)

〇境内の縄張り
『三国名勝図会』に掲示してある的野正八幡宮の絵図や記載文と、現在の境内の縄張りを比較するとき、仁王門と社殿前の四足の建物が無いだけ、御手洗池・鳥居、弥勒寺社殿の位置等全く変わっていない。
三俣院の宗廟となった当時も現在とほとんど変わらない配置のたたずまいであったと思われる。
(※図一三国名勝図会の的野正八幡宮絵図参照)

(三)放生会の浜殿下り
『三国名勝図会』は、前記したように、「御手洗池の側に骰殿を設け、三つの神輿を守り下る。是を浜殿下りといふ」と記している。

ア なぜ「浜殿下り」と言うのか普通「浜下り」と言う。勿論もともとは海岸の浜まで神輿が下るという意であるが、的野の近くに浜があるわけではない。そこで宇佐八幡の放生会御神幸を見てみよう。
十月十日から十二日までの三日間行われる。                                                             47
十日の第一日目は、午後三時半頃道楽のにぎやかな笛や太鼓の音とともに本殿を御発輩になり、午後七時半頃御封田のある和田の浜の「浮殿」(和間神社)にお着きになり、放生会第一の神事を終わる。
この浮殿は、浜に続いた御封田池の中に突き出して造られている社で、その名の通りの浮いた神殿である。だから宇佐八幡の場合は「浜の浮殿下り」ということになる。
的野正八幡宮の場合も、浜の近くに見立てて、田んほの用水池でもある御手洗池の中に宇佐の「浮殿」のように浮いたようにしている池之尾神社の所まで下られるのであるから、
宇佐八幡と同じく「浜の浜殿下り」と言ってもいいのではなかろうか。

画像 的野の「浮殿」池之尾神社

画像 宇佐の「浮殿」和間神社

このように、宇佐八幡御神幸の影響を受けて「浜殿下り」と言われてきたのだろうと思われる。
前記、中野幡能博士著『宇佐宮』でも述べたように、宇佐宮の放生会には、日向からも参加し、末社である的野正八幡宮からも参加して祭式の様子を伝えていたと思われる。

イ なぜ三つの神輿か
的野正八幡放生会御神幸には、三柱の神を祭った三つの神輿が出るが、これは他には見られない祭式である。これも宇佐宮の「八幡造り」と関係があってのことではないかと思われる。
即ち宇佐八幡の本殿は、次の三つの神輿からなっている。

一之御殿 応神天皇
二之御殿 比売大神
三之御殿 神功皇后

これが世に言う日本最初の「八幡造り」(国宝)で、めずらしい神殿の造り方である。これをとり入れたのが的野八幡の三つの神輿であろうと思われる。

画像 三つならんだ神輿(弥五郎どんの館に所蔵)

ウ 弥五郎どん朱面の意味するものは
前記したように、『三国名勝図会』は、「大人弥五郎と呼て、朱面を被ふり、刀大小を個きたる一丈餘の偶人を作り、四ツ輪の車に乗せ、十二三歳の童子、衆多の人数にて、行列の先きに推す、上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり」と、大人弥五郎が朱面を被っていることと、上古大隅隼人征討の故事であることを記している。
また『古今山之口名勝志』は、「赤塗大面を付・・・・・・中略・・・・・・後ニ三俣大鋒鑓ヲ負・・・・・・中略・・・・・・。右由緒八幡世界御退治之硼被召列第一之勇者二而御側付之人之由申伝候」
と両者とも弥五郎どんが朱面を被っていたことと、養老四年の隼人征伐の故事であると記し、後者はその時の御側付第一の勇者であるとその身分を明確にしている。
ではなぜ弥五郎どんは朱面か。
『日向国史』文学博士喜田貞吉著(昭和四年)上巻で、喜多博士は隼人と朱面についてつぎのように述べている。                              48
「今も古墳墓の側より往々にして発見せらるる埴輪土偶の中には、朱丹を頬に加えて量扶(くまどり)すること、恰も頬紅を施したるが如きあり。
よりて人或は我が日本民族の古へに亦此の俗ありしを云為すものあれど然らず。此の埴輪土偶は蓋しもと貴紳の近習の態を模とたるものにして、隼人多く出でて之に役せられたりしものなれば、埴輪土偶の面に朱丹を加えたるものは、蓋し其の墓の主たる貴紳の従者たりし隼人の風を表はしたりしと解すべきなり。」
措鼻禅(たふさぎ)を着け、諸(そほに)を掌及び面に塗るの事は、もともと天孫民族の為さざる所なり。よりて日本紀にも『身を汚す事斬の如し』と云ヘり。
此の外にも隼人の風俗にて柑の常と異なるもの多けれども、右は特に著しきものにして、天孫民族の以て賎しとする所なれば古伝説更に之を言へるものならん。」
このように朱面は貴紳の従者だった隼人を表したものと解すべきと断定している。
なお、「御側付第一の勇者」と合わせると、帰順した強い隼人の頭領ということになり、北諸県地方で、「弥五郎どんは隼人の大将だった」と言い伝えられて来た口伝えと一致する。
ここで、弥五郎人形行事のある他の八幡社の弥五郎偶人をみてみよう。

〇日南市 田ノ上八幡神社
「天永元年(一一一〇)十月二十五日御創建と伝えられ、その由来については薩摩大隅桑原郡より一宮正八幡の御神体を巨人稲積弥五郎がはるばる背負い奉って、この地に鎮座し奉ったものである。」
という伝承があるが、書き残されたものはない。また朱面についての記述もない。
これについて『日向地誌』は「弥五郎は、稲積弥五郎の縁故なり」といい、寛政年間の薩藩の白尾国柱の著書で武内宿弥とか、川上巣師をかたどったものとかの言い伝えがあることを紹介、みな八幡神社の神輿渡御の先駆をしている点から武内宿弥を擬したものではないかとしている。
しかし弥五郎どんの朱面については触れていない。『日向地誌』の著者平部矯南は、八幡社浜下りの先頭に立つのは武内宿弥という見解を持っていたと解すべきであろう。
先に記した喜田博士の、朱面、隼人説をとれば田ノ上八幡の弥五郎は朱面であるから、武内宿弥を擬したものとは考えられない。
むしろ魁梧雄偉の形容を象ったと伝承された川上梟師に擬したと見るべきであろう。

画像 田ノ上八幡弥五郎様

〇大隅岩川八幡神社
『三国名勝図会』には、つぎのように記している。                                                          49
「八幡宮、中島村にあり、万寿二年、城州石清水八幡宮を、隅州岩川へ勧請せしに其後兵乱の時、嘗社の宝品等を賊徒に奪はれて、衰廃せしを、天文四年、檀越藤原重忠、當地頭伴兼豊造立せるの棟礼あり、祭祀十月五日其日華表より一町許距れる処に、浜下の式あり、大人の形を造て先払とす、身の長け一丈六尺、梅染単衣を着て、刀大小を侃ひ、四輪車の上に立つ、此人形は、土人伝へて、大人弥五郎といひ、又武内宿弥なりといふ。」
このように大隅岩川八幡の弥五郎は、武内宿弥なりといふと
明記している。その関係か朱面でなく白面である。

画像 岩川八幡弥五郎どん〔曽於市役所企画課提供〕

〇弥五郎どん神幸に類する日置八幡神社の「でおどん」神幸について
弥五郎どんに類する行事、日置八幡神社の「大王殿(でおどん)」の神幸行列について、『三国名勝図会』はつぎのように記している。
「・・・・・・九月十五日を正祭とし竹偶人を作り(社殿に納むる所の大王面を着け梅染の衣服に大なる木刀を侃く)四輪車に乗せ里童をして前路を馳せしむ・・・・・・」
とあり大王どんは誰を擬したものかについては記していない。しかし、この地方では武内宿弥をあらわしたものといわれている。そして、大王殿の面は大きな白面である。
こうしてみると大隅の岩川八幡神社や日置の日置八幡神社の場合は武内宿弥で白面であり、山之口の的野正八幡宮の場合は、『古今山之□名勝志』に記されているように、帰順した隼人の頭領で朱面である。なお同じく朱面の日南田ノ上八幡神社の場合は隼人の頭領か、川上梟師を擬したものと見るべきであろう。

エ 弥五郎偶人が負うた「三俣大鋒鑓」は何を意味するか
三俣の鋒は、ここ都北地方では山之神をあらわし、山之神の石碑に三俣の鋒を彫りこんだものもある。また山之神に鉄製の三俣の鋒が献供されている所は多く見られる。
山とのかかわりの深い当地方では、弥五郎どんの偶人に山之神の象徴としての三俣の鋒を負わせその威力を昂めたのではなかろうか。
なおまた関連かあるのではと考えられるのが、的野正八幡宮か三俣院七〇〇町歩の宗廟であることである。
三俣院宗廟の先頭に立って浜殿下りする弥五郎どんだから三俣の鋒を負わせたのではないかという見方である。
あるいは両者を含めての意味合いのものかとも思われるが、記録が無いのでさだかでない。
以上、的野正八幡宮が三俣院の宗廟となり、
放生会が盛大に行われるようになったと思われる長元年中(一〇二八~一〇三六)頃の三俣院・水俣駅・的野正八幡宮周辺の屯倉や新町跡等の当時をしのばせるたたずまいを考察し、浜殿下りや弥五郎偶人等について『三国名勝図会』と『古今山之口記録』を基に論述してきた。                                      50
この時代は隼人征伐後だったとは言え、平安時代の平穏な時期だったから宇佐八幡の放生会にならった現在のような浜殿下りだったと思われる。

二 肝付一族の院司時代
的野正八幡宮か三俣院の宗廟となり、放生会の浜殿下りが行われるようになった長元時代を過ぎ、長久元年(一〇四〇) になると荘園停止令が出される。
しかし、三俣院は引続き肝付一族の院司時代が続いた。
南朝の忠臣と言われた肝付兼重が、北朝方畠山直顕の大軍にその本城三俣院高城(月山日和城)を攻められ、敗退した暦応二年(一三三九)までの約三〇〇年間である。
その間のことについて書かれた記録として残されているものにつぎの二つがある。

〇神鏡六面、其中三俣的野云々、承安三年(一一七三)十月等の銘あるなり。

〇馬壱疋・・・・・・菩堤往生極楽奉納加如件 『三国名勝図会』
元応二年(一三二〇)  八月廿日 平 清幸

〇牛壱疋・・・・・・三俣院鎮守的野八幡宮奉納加如件
元亨元年(一三ニ一)五月🔲日 兵衛尉 藤原重正
🔲

〇米一石・・・・・・大般若書写僧膳米奉納加如件
嘉暦四年(一三二六)十月七日 平久助書判
右三ッ書附為有之由二而記録二相見得候得共当分右書附相見得不申候『古今山之口名勝志』

馬や牛、米一石が奉納されるとは、当時いかに大社であったかを端的に物語るものであろう。
奉納した三名の人物がどういう人であったかわからないが、院司肝付氏一族の者か、あるいは平季韮ゆかり者ではあるまいか。
つぎの一っなお「池端文書」に、「延元一年(一三三六)五月、大隅守護代森次郎三郎行重並びに大隅式部小三郎、中郷の姫木城を攻め、更に三俣院王子城を急襲する。」とある。
この三俣院王子城は、的野正八幡の北側高地にあった山城で、当時は王子城(三俣城)と言われ、後に伊東八城の一つ松尾城と呼ばれるようになった城である。(図5参照)
この王子城は、兼重本城(月山日和城)の支城であったので、畠山直顕軍の兼重攻略戦では、この辺一帯で激戦がくり広げられ、相当な被害を受けたと思われるが両軍の戦死者を供整する納経供養塔一基と兼重神社は残されているものの、的野正八幡宮が被害を受けた記録や口伝は残されていない。
その後、畠山直顕は肥後の菊池武光に敗れ、以前から高城に土着していた和田氏が三俣院の院司となり、約一〇〇年間高城に拠る。
この時代が最も不明な時代で、記録として残されているのはつぎの一つだけである。

鉾壱本有之候ニ而長中壱尺六寸左右長三寸四分ッッ壱尺六寸之内表裏ニ銘有之候
表銘ニ摂州兵庫吉氏と有之候
裏銘ニ永和五年(一三七五)正月七日と有之候(山之口名勝志)

未だ南北朝時代であるが、奉納されたこの鉾は、弥五郎偶人か背に差しかざした三俣の鉾である。
寄進者摂州兵庫吉氏は放生会の浜殿下りを実際に見て、鉾を作り奉納したとすれば当時も引き続き放生会の浜殿下りが行われていたことを物語る鉾と言えるのではなかろうか。    51
そして伊東の時代へと移る。

三 伊東氏領であった時代
明応三年(一四九四)伊東手祐の山之口城占領から、天文三年(一五三四)、時の高城城主落合刑部少輔兼佳が北郷忠相に内通し、高城が落城するまでの四十年間である。
この間のことについて書かれた古文書にはつぎのようなものがある。

応安元年(-三六八)七月― ―十四日
三俣院的野八幡宮御経汚損シ絶人也道慶干時明応十(一五〇一)天壬酉正月十八日奉而読願主伊東川内守殿『円野神社由緒記録』
正体木象高サ壱尺九寸五分程立像冠装束左手二正靱右手二玉之形持玉フ
右作者権少僧覚叡願主祝楽所良本
天文四年 己丑十一月吉日 『山之口名勝志』

御神体は高さ一尺五寸五分冠装束で、左手に銀、右手に玉の形のものを持っておられる木像である。
祝楽所の良本が領主で、僧叡容が作ったものである。奉納年は、天文ではなく、享禄二年(一五二九)年であろう。(干支をとるのが立て前であるから)

先年妖肥領ノ節ハ伊東家ノ氏神ニテ知行高五百石寄附有之宝殿箱
棟ニハ伊東家ノ紋、庵二木瓜九曜之紋為有之由候

箱棟とは米倉のことである。

高城二伊東家家臣八代長門守在城ニテ彼地ヨリ八幡参詣ノ通筋等
今横並木ヨリ申伝有之候元禄八年(一六九五)頃迄ハ並松有之候処自然二御払木二相成候。『由緒記録』

[由緒記録]
画像 伊東家の紋章(庵二木瓜の紋)

高城に伊東家家臣八代長門守在城の頃は、日和城より的野八幡参詣の道筋に、松並木が植えてあったと伝えている。
元禄八年頃までは松並木があったが、自然にお払木になったという意味であろう。
最初に出てくる都於郡伊東家七代領主手祐は、永正十三年(一五一六)、民心安定のため、宮原村(現在の高城町有水)に八竜大明神と若宮大明神を建立した人である。
大永三年(一五二三)野々美谷城で急死するが、その間の約―二十年間は高城・山之口城・松尾城・梶山城・勝岡城・小山城・野々美谷城・下之城の八外城に拠り、三俣院の地を領有し、その勢他を圧するものがあった。伊東家の氏神として知行高五〇〇石を寄附し、米倉に伊東家の紋を入れたのもこの手祐時代だと思われる。
また伊東の家臣で天文元年(一五三二)の島津、伊東の三俣千町争奪戦で討死した高城々主八代長門守祐量の時代には、高城から的野八幡参詣の道筋に松並木が植えてあったと記されており、これも伊東氏がいかに的野八幡を崇敬していたかを物語るものであろう。
放生会の浜殿下りについての記録は残されていないが、この高城からの参詣道や五百石を寄進していたことなどから考えて、祭りや浜殿下りも大事に行われていたと思われる。

四 北郷・島津氏領有時代
高城々主八代長門守祐量(員)か石山越で討死した翌年の天文三年(一五三四) 、長門守の後継城主落合刑部少輔兼佳(かねよし)の内通により、北郷忠相は高城に無血入城する。
それから明治を迎える慶応までの約三三〇年間である。                                                       52
この間の様子を物語る古文書には、次のようなものがある。
「天文二年(一五三三)北郷忠相は、高城・梶山.勝岡・山之口の各城か手に入るよう的野八幡に祈願、天文三年には各城が手に入ったので的野八幡に軍勢五〇〇〇人を召し連れて参詣した。
そして、勝岡の内餅原村、蓼池村、高城の内桜木村、山之口の内花木村を神領地に差し上げられた(※図六を参照)。
また浜殿下りの神輿先に武具、鉄砲、長柄等武者行列のように相備え、当時は流鏑馬も行われていた。それ以後は浜殿下りには武具を備えることが古例になった。」

画像 図六 天文3年正月、北郷忠相より的野八幡宮神領地を宛行る。勝岡の内餅原村、容池村、高城の内桜木村、花之木村の内粂田、折敷田香割田、油田と被相究被差上候(山之口名勝志)

これは『山之口名勝志』と『由緒記録』を要約したものである。
更に、この両古文書は当時の浜殿下り行列について、次のように述べている。
「富吉村花木村圧より道具持たせ候中の神輿を一と相定花木村請取先、後二つの神輿を富吉村、勝岡の内蓼池村餅原村、高城の内桜木村御請取古例にて候、御池の元に御椴殿を棺え三つの神輿御行にて候、往古は高木村平江春日社へ浜下り有りし由に候右春日社並び軍神社的野社人より往古社役を相勤める事になり候」
軍人社というのは、高城々主であった伊東の臣八代長門守を祭る高城の軍人社のことであろうか。
そうだとすれば、長門守か前記のように的野八幡を崇敬していたことと、軍人社も軍( いくさ)の神様であることによるものであろう。
「天文四年(一五三五)忠相とその一族的野八幡宮宝殿を再興」
『由緒記録』
この忠相時代は神領地も多く社殿も整備され、浜殿下りには各地の者が集まり、武具等を備えた大行列であったことかわかる。(※図二『的野八幡祭式之図』参照)

忠相没し忠親の時代になると
「永禄元年(一五五六) 北郷忠親的野八幡宮修甫宝殿箱棟ニ伊東家ノ庵ニ木瓜九曜之紋有之候処ニ忠親ヨリ大守貴久公伯宥公江御家之御紋十文字ニ被定候事」

北郷忠親が的野八幡を修理した時、宝殿の米倉に伊東家の庵ニ木瓜九曜の紋があったので、忠親は島津領主貴久公(伯宥公は貴久の稲号)に申し出て島津家の十字の紋にかえられたこと。
その後伊東氏も義祐の代になると勢力を盛り返し、三俣院の地をうかかうようになるが、それも元亀三年(一五七二)の木崎原合戦において島津軍に大敗、一族豊後落ちとなった。
そして秀吉の島津征伐、北郷時久の祁答院移封(一五九五)、圧内の乱、北郷忠能の都城復帰(一六〇〇)と、この三俣院の地もあわただしくゆれ動く。               53
その間の記録には
「文禄元年(一五六二) 、北郷大炊太夫久猶的野正八幡宮修補」
だけである。久猶は当時の山之口地頭である。この時期は戦乱の中にあって的野八幡の修補も思うにまかせなかったのではなかろうか。
そして慶長十九年(一六一四)、北郷忠能の三俣院の地宗藩上知で、高城.勝岡・山之口の地は薩摩藩の直轄地となる。
その後の記録は

「慶安五年(一六五二)光久公(十九代藩主)侍従綱貴公(二十代藩主)再興。」
「元禄五年(一六九二)鳥居造替。日当瀬裏山の杉、椎の木を伐って鳥居を建てた。引出しには、吉向城.勝岡の加勢をもらい二日かかって引いてきた。それまでの鳥居は楠木であった。」
「元禄十一年(一六九八)綱貴公、吉貴公(二十一オ)再興の棟札に山之口宗廟と書記されていた。」
「宝永三年(一七0六)同宮再興、太守原朝臣吉貴公、法師實宥
的野八幡社頭有
一 牛法宮 挌護 弥勒寺
右者八幡母上卜申候
的野八幡社頭有
一 春日 挌護 弥勒寺
右由緒不詳候往古高木村平江春日社江八幡浜下リ為有之事ニ而彼浜下リ相止候以後右春日的野社頭二引移候
御池内府
一 池之院(池之尾)挌護社頭有亀澤相模」
「天文五年(一七四〇 ) 、鳥居立替、富吉里場の松木 牛出し」
「的野山本繕仁王弐体仁王門 一宇右者山之口的野八幡宮江此以前無之二付而
所中ヨリ致寄進往々修補等茂所役ニテ可仕候間御免被仰付被下度旨申出趣有之願之通差免候条此段申渡候成就之節其首尾当座江申出候様ニ可申渡候以上。
寛保三年亥正月廿一日 寺社奉公所 印
山之口地頭
右地頭 大野清右衛門、弥勒寺住持盛宥山之口曖池江八郎兵衛 尾上伊右ェ門池田源左衛門代ニ而候」
「宝暦八年(一七五八)鳥居立替 日当瀬裏山の杉、椎の木 牛出し」
『由緒記録・古今山之口名勝志』

ここで注目すべきは、藩の直轄地になり東目六郷(高城・山之ロ・三股・高崎・高原・野尻)地頭仮屋が有水に設置され、
再三仮屋を訪れた藩主光久公による慶安の頃から的野八幡の再興か計画的に行われたことと、仁王二体と仁王門が所中から寄進されたことである。
このように神領地、御神幸ともに最大であった北郷忠相時代を経て島津宗藩直轄時代にはいる。
この頃になると高城から国見山を通って去川に通ずる薩摩街道も開通し、直轄地間における政治・交通等四囲の状況か変ってくる。
それに伴い的野正八幡宮の三俣院宗廟としての社格もうすれていったのは自然の成り行きであったろう。
しかし、やはり神領地も大きく、幕末になっても藩主や人々に崇敬された大社であったことは前記記録がそれを証している。

五 明治・大正・昭和初期時代
(一)明治初年の神仏混滑の禁止と廃仏毀釈
この的野八幡に大打撃を与えたのが廃仏毀釈である。                                                   54
薩摩藩では明治元年(一八六八)の神祇官示達による神仏分離令とともに、全国でも最も強力に廃仏毀釈を行った。そのねらいは寺院財産の没収にあった。
神仏分離令は、神社を神仏習合以前の形にもどして寺から独立させ、神職者を社僧の上位に置くことから始まった。
社僧は還俗して神職者になること、神職者とその家族は神葬祭に改めること、大菩薩や権現などの仏式神号を改め、仏像を御神体としたものは取り除き、神前にある仏具頬は廃毀することなどであった。
『高城町史』によれば、翌明治二年には高城地頭前田新之亜から「別当寺の財産は神社へ引き渡し、木仏は焼き、石仏は割って埋めよ」という通達が出ているから、同じ藩の直轄地であった山之口でも同様の通達が出されたものと思われる。
その達示を受けてであろう。寛保三年(一七四三)に奉納された石像の仁王像二体は打ち割って土中に埋められ、仁王門は壊されたという。
また長くこの的野正八幡を守ってきた弥勒寺には住僧の墓や供養塔等あまた立っていたと思われるが、今はそのよすがもなく、明治以降の亀澤家の墓石を中心に壊された古石塔の残欠が畑の畦等にわずかに転がり、それらか物語ってくれるのは廃仏毀釈のすさまいうことだけである。
的野正八幡宮の廃仏毀釈の厳しさを物語ってくれるものがもう一つ残されている。
それは参道に無残な姿で立っている六地蔵の石塔である。

画像 廃仏毀釈の激しさを物語る供菱石塔

六地蔵のいたみも激しいが、その上の笠や宝珠、中台は壊されて無い。
以前はこの六地蔵を彫った龕(かん)の部分は畑の畦に転がり、下の塔身(どうしん)の部分は半分土に埋まっていた。
この塔身の部分のいたみも激しく、西面と東面は全く欠けてわからない。
北面には中央に涅槃門を表す梵語、その両脇には「諸行無常是生滅法生滅々己寂滅為楽」の涅槃経にある四句偈(げ)が彫られている。
また南面には中央に修行門の梵字、その右横に万治元季戊戌と彫ってある。まことに痛々しい姿である。
都城都島町天長寺の長谷川滋氏は、「これだけ立派な供養碑を建てたのはよほどの由緒ある人であろう。彫りも立派な薬研彫である」と言い、南九州古石塔研究会長の町田満男氏は、「これはすばらしく立派な供養塔であったはずだ。ぜひ顕彰してほしい。」と言っておられた。
このように、社格が高く大社であった所ほど廃仏毀釈は徹底して行われ、この的野正八幡も一時は廃滅に近い状態になったと思われる。

ア 的野正八幡宮を圓野神社に
明治四年(一八七一)五月寺社領を没収、神社社格を定める太政官布告が出され、続いて七月郷社定則の制定となって、藩社(後に県社)郷社、村社が公的に規定され、これらの社格が与えられない神社は無挌社とされることになった。
これを受けて明治五年七月的野正八幡宮は圓野神社と改号した。
ところで、なぜ的野神社と改号せず圓野神社としたのか。私は昭和五十五年山之口町の教育長に就任したが、それ以来長年にわたって疑問に思ってきたことであった。
何か根據があることだろうと思い、地域の人々にも聞いてみたが圓野という地名があるわけでもなく、全くその理由はつかめぬままであった。               55
ところが平成元年、前田厚著述『都城市史』の復刻校正をしていた時、圓野神社という文字が目についた。しかもそれにはルビが打ってあり、よく見るとマドノになっている。
またすぐその後宇佐神宮庁の権禰宜須磨和啓氏に送っていただいた多くの資料の中に『都城盆地神社史料集』があったので、これによって県神社庁備付の圓野神社の明細書を見ると、やはりこれにも圓野(マドノ)神社とルビを打って社名が書いてある。
これによって、なるほどそうだったのかと初めてその理由がわかった。圓はマドカと読め、宮家などでもよく使われるめでたい字である。
そのマドカの読みを取って圓野(マドノ)としたのであろう。当時の国学の影響を受けた神職者によるものと思われる。
ちなみに、それ以後出版された本のいくつかをあげてみると、社名はつぎのように書かれている。
『薩隅日地理纂考』(一八九八年)鹿児島県教育委員会 的野神社
『日向郷士辞典』(一九三〇年)松尾宇一著 的野八幡宮
『日向の伝説』(一九三三年)鈴木健一郎著 的野八幡
『都城盆地の歴史散歩』(一九七四年)本村秀雄著 的野八幡
『宮崎県風土記』(一九八八年)旺文社 的野八幡神社(圓野神社)
圓野神社をもとの的野正八幡宮にかえしたのは平成十四年五月であった。

イ 弥五郎どんの朱面を武内宿禰の白面に
的野正八幡宮では、放生会の初めから帰順した隼人の首領弥五郎どんをあらわす朱面の偶人を先頭に浜殿下りをしていた。
しかし明治初年の神仏分離令によって白面か作られ、朱面に替わって白面の弥五郎偶人が浜殿下りをするようになった。

画像 古くから使用されてきた朱面

画像 神仏分離令によって作られた白面

なぜ白面に、いつ、誰が替えたのか朱面を白面に替えたのは、的野正八幡宮を圓野神社に改号した平田篤胤派の国学を信奉していた神官たちによるものと思われる。
これに関連した次のような文書が残されている。

円野神社
一、紀元二千五百六十六年明治二十九年一月三日
歴世 百二十二代今上天皇
郷社円野神社建築和銅三年ニ立今年ニ
至千百九十五年

的野神社弥五郎
一、弥五郎ハ大臣武内宿寝(禰) ニシテ身ノ長高ク衣服数反ヲ要スレトモ其依(衣)服古キモノニシテ破散シタルガ故ニ明治二十九年内申十月廿五日神官協議ニ依リ布八反ヲ以而製造、
ソ是レヲ寄附シタリ
寄附者 旦尚伊右衛門其外六名                                                                56

これは明治三十九年に圓野神社神官定が極(き)められた時に記録されたものである。弥五郎の衣装が破散したので神官協議により、布八反で製作し寄附した、とある。
寄附者は日高伊右衛門其外六名となっているが、旦尚伊右衛門は当時の的野正八幡の宮司で、現在の旦高広之宮司の曽祖父である。
この定文に「弥五郎ハ大臣武内宿禰ニシテ」とあるが、朱面を白面に替えたことについては記載されていない。朱面に替えたのは廃仏毀釈の明治の初めだったのではなかろうか。
それまでの朱面が割れて金具でつないであるのは廃仏毀釈で割られ一時廃棄されていた面を亀澤家で修復し保存していたものと思われる。割れているとはいえよく残されていたものである。
弥五郎を武内宿禰にしたのは、これも当時の神官職の人々の協議によるもので、宿禰は応神、仲哀天皇に仕え特に幼帝応神天皇を助けて偉功があり、神功皇后の新羅遠征にも活躍したと言われる伝説の人だからであろう。
大隅岩川八幡の「此人形は土人伝へて大人弥五郎といひ、又武内宿禰なりといふ」『三国名勝図会』の影響を受け、武内宿禰とし白面にしたとも思われる。
この白面が本来の朱面に保存会の人々によって替えられたのは昭和五十八年であった。

ウ 的野正八幡宮並びに放生会浜殿下りを護ってきた亀澤家
この的野正八幡宮の別当寺であった弥勒寺には、住僧の墓や供養塔などあまた立っていたと思われるが、今はそのよすがもなく壊されたと思われる古石搭の残欠が畑の畦等にわずかに転がり、廃仏毀釈のすさまじさを物語っている。
こうした墓地跡の一隅に明治以降の墓を主体とした亀澤家の墓地がある。
その中に天台宗の五輪塔の残欠が残されており、亀澤家は弥勒寺がかつて天台宗であった当時から的野正八幡宮の社頭であったことをうかがわせる。
社頭就任時期等示すものは残されていないが、的野正八幡宮と亀澤家との関わりについては、つぎのような古文書等が残されている。

『三国名勝図会』には
的野正八幡宮、地頭館より午方一里二町許り、富吉村に在り、本社隅州国分正八幡宮なり・・・・・・中略・・・・・・土民愈敬し、愈慎めり、
社司 亀澤某別當禰勒寺
『古今山之口名勝志』には

十月廿五日放生会御祭
右者御物り御祭米壱斗七升五合相渡σ申候 放生會御祭ニ付賓
殿内別当弥勒寺住持σ相勤神前社人相勤申候無住之硼者外寺住
持σ賓殿内相勤候

『古今山之口記録』の「山之口寺社之事」には
宝水三年(一七〇六)年戌十月吉詳日的野山宮再興太守源朝臣
吉貴公法印賓宥

的野八幡社頭有
一牛法宮 挌護 弥勒寺
一春日 挌護 上同

御池内二有
一池之院(池之尾)
挌護社頭取 亀澤 相模                                                              57
一両地主光 上同 同人
上四社八幡末社ニ而候 上同 旦高橋左ェ門
とある。
亀澤家の役職については、天保十四年(一八四三)編成の『三国名勝図会』では社司となっており、文政七年(一八二四)の『古今山之口名勝志』では、社人、なお『古今山之口記録』『山之口寺社之事』では、宝永三年(一七〇六)の記録として頭取亀澤相模とある。
このように亀澤家は的野正八幡宮の社司・社頭とあり、総括責任者であったことがわかる。また神職の祠官として、つぎの二通の「神道裁許之状」が残されている。

画像 延宝八年の裁許状

画像 享保十四年の裁許状

画像 延宝八年の裁許状解読
読み下だし
日州諸県郡山口的野八幡宮ノ祠官(神社に仕える神職即ち神主、社司とも言う)亀澤相模(神職名)橡(じょう、地方長官の下役名)秀盛、恒例の神事参勤の時、風折烏帽子(かぜ折りえぼし) 、狩衣(かりぎぬ)着すべきは神道裁許(審査の上許す)の状件の如し。
延宝八(一六八〇) 庚申年九月十五日
神祇管(全国の神官を支配する役所)領長上侍従卜部(うらベ官戦名)兼連                                        58

画像 享保十四年の裁許状解読
読み下だし
日州諸県郡山之口的野八幡宮祠官(神社に仕える神職即ち神主、社司とも言う)亀澤左近(官職名)藤原(藤原一族を表す姓(かばね)で、普通郷の曖(あつかい)、与頭(くみがしら)、横目(よこめ)の所三役以上位の者が名乗っていた)秀信、恒例の神事参勤の時、着すべき風折烏帽子(かぜおりえぼし)、狩衣(かりぎぬ)は神道裁許(審査の上許す)の免状で以上の通りである。
享保十四年(一七二九)巳酉年八月九日
神祇管領長上従二位(官位)ト部(官職名)朝臣(藤原氏の姓(かばね))花押

以上の亀澤家に関する『三国名勝図会』『古今山之口名勝志』『古今山之口記録、山之口社寺之事』、二通の『神道裁許之状』等からわかることは、
〇延宝八年(一六八〇) には、亀澤秀盛が的野八幡宮の祠官として相模操という職名で裁許されていたこと。

〇享保十四年(一七二九)には、亀澤秀信か亀澤左近藤原秀信として、高位の祠官の裁許状か従二位卜部朝臣神祇管領長上より授与されていること。

〇別当寺である弥勒寺には別に僧侶が勤めていたこと。

〇放生会御祭りの際は、宝殿(神殿)内は別当弥勒寺の住持(僧侶)か勤め神前(神前での祭り)は社人(祠官)が勤めたこと。

〇亀澤家は祠官であり、的野正八幡宮の社司(管理者)でもあったこと。

〇延宝八年の亀澤秀盛は、相模橡という神宮の職であったが、それより四十六年後の享保十四年の亀澤秀信は左近という上位の地位になり、裁許状発行者も従二位卜部朝臣という高官であること。

現在の亀澤家の当主は、優二という人である。二代前の祖父までは左近と名乗ってきており、土地の人々は「寺の左近さん」と言っていたという。
ではいつ頃から亀澤家が的野正八幡宮の祠官となったのか、また弥勒寺との関係はどうなっていたのか。
まず神祇の祭典を掌り、全国の祝部(はふりべ、神官)を支配する役所の神祇官であるが、大宝元年(七〇一) に大宝律令か制定された。
その中で神祇官が第一で、つぎが大政官であった。亀澤家が的野八幡の祠官となったのはいつか詳かでない。                            59
しかし、亀澤家の墓石詳の中に残されている天台宗の墓石の残欠や上記古文書、古い祠官裁許状、的野、正近地区の口伝、昔から変わらぬ社殿下の居住地等から考えて、相当古い時代からの総括責任者の社司(神官)だったと思われる。
あるいは鳥津荘を開発し、その中の三俣院七〇〇町歩の院司となった太宰大監平季悲が、的野正八幡宮を三俣院の宗廟とした万寿三年(一〇二六)ごろに神祇管から祠官を命ぜられたとも思われる。
別当寺としての弥勒寺との関係であるが、当時は神仏習合の時代であるから祠官亀澤家に続いてその西南の地に弥勒寺があり、住僧もいたが亀澤家のように世襲ではなく人数も不定で無住の時もあった。
このような関係もあって古くから伝わっている三つの神輿や弥五郎どんの面、衣装そして祭りのしきたり等、今日まで護られてきたのは長年月にわたって祠官として勤め、祠官退任後の現在もその保存継承に努めている亀澤家に負うところが大きい。
なお、ここで付記しておかなければならないことは、前記宝永三年(一七〇六)の事を記した『古今山之口記録』「山之口寺社之事」にあるように、亀澤相模と同様日高橋左エ門も同時代の祠官であったということである。
この日高橋左ェ門は、前記明治三十九年の『神官定極帳簿』の日高伊右衛門の先祖で、現在の宮司旦局広之の曽祖父にもあたり、旦尚家も昔から祠官として勤めていたことを証している。
亀澤左近を伝承してきた亀沢家か祠官を退任したのは、明治の廃仏毀釈後の明治七年(一八七四)ではなかろうか。
なぜなら、この年高城神社祠官内藤利映か圓野神社の祠官を兼任するようになっているからである。
しかし、祠官退任後も引き続き圓野神社の管理や社宝としての神輿、放生会の弥五郎どん着用の面や衣装等々の保管、浜殿下りの準備等に当たり現在に至っている。
なお、古くから伝わってきた弥五郎どんの朱面が割れて鉄釘でつないで大事に保管されているが、これは廃仏毀釈の時、割られたものと思われ、それをつないで保管してきたのは亀澤家にちがいない。
古来からの貴重な面か廃仏毀釈を物語りなから残されているのは意義深いことである。

エ 社殿前の神代文字献碑の物語るもの
この八幡宮社殿前の両側につぎのような献碑か一対建っている。献碑者は祠官内藤利映と彫られている。

画像 神代文字献碑

画像 石碑文字

最初この石碑を見た時(昭和五十七年)これは朝鮮の諺文(おんもん)、ハングルではなかろうかと直感したが、よく見るとハングルとは違うような気かする(私は朝鮮の京城師範時代ハングルは習ったことかあるので)。
正面の字はタテマツルと読めそうであるか、両側の字がわからない。そこで韓国出版社発行の『에센??(エッセン)日韓辞典』で調べたり、韓国語通信教育「かささぎ舎」に照会するなどしてわかったことは、「漢字伝来前から日本にあったという一種の音節文字で神代文字(じんだいと言われている。」ということであった。
そしてこの神代文字は、幕末の国学者平田篤胤学派か信奉している「神字日文伝」によるもので、当時の国学者はもとより、神職、軍人等に信奉されていた文字であることもわかった。  60
これは「かささぎ舎」高島淑郎氏からの回答である。

画像 ハングル文字
明治二十一年十二月吉日献碑した。
祠官 内藤利映
という神代文字の碑である。

画像 「かささぎ舎」からの回答文

では祠官内藤利映という人はどんな人物で、なぜ的野正八幡宮に神代文字の石碑を献納したのか、また的野正八幡宮にどんな影響を与えた人であろうか。
内藤利映は天保十一年(一八四〇 ) 高城郷の郷士(所三役格の四十石以上の高城では高禄取り)の家に生まれた。
明治初年の廃藩置県で高城の飛地で高城の郷社であった東霧島神社(霧島六所権現の一つ)が高崎の郷社となると、岩倉具視のすすめもあって石山の石(岩)根神社を日和城の内の城に移し、高城郷社高城(たかぎ)神社とし初代社司となった。明治五年(一八七二) のことである。
続いて祠官を拝命、同七年までは官選の町村行政職である戸長、大戸長も兼ねて祭祠と行政を併せ行う要職にあった。明治十年(一八七七)の西南戦争にはいち早く参戦した。三十八歳の時であった。
明治初年より西北諸県郡(都城を含む)神道界で重きをなし、晩年には神職の権中参教に進み、明治三十五年(一九〇二)没した。享年六十一歳だった。
明治七年より、明治二十三年の間は山之口郷社圓野神社(的野正八幡宮)の祠官も兼ねていた。

画像 内藤家天井裏から見つかった神代文字(神字原)の一部

上図は平成六年、高城町穂満坊内藤家改造の折、天井裏から出てきた藤原朝臣内藤利映印のある神代文字である。
これによって圓野神社の祠官を兼ねていた国粋的神道家内藤利映が圓野神社々頭に前記の神代文字の一対の碑を献納したことが証明された。
なぜ自分が祠官である高城神社に献碑せずに圓野神社に献じたのか。
それは内藤利映か神道家として高位であれは在る程、神祇官から見た圓野神社(的野正八幡宮)の社格の高さを知っていたからにちがいない。                    61
つぎに、的野正八幡宮にどんな影響を与えたかということであるが、利映か圓野神社の祠官となったのは、明治七年で、廃仏毀釈の激しかった明治初年時の祠官は亀澤左近である。
廃仏毀釈は著名な寺ほど激しく「当邑の総鎮守」と『三国名勝図会』に記してある高城の春日神社は別当寺東竜寺は勿論、仁王像、仁王門共に壊され、社前にある春日社に関する由緒を彫った石碑、境内にあった仏像、六地蔵石幢総て割られ、今は見る影もなく昔をしのばせるだけである。
春日神社の当時の祠官は末原氏である。的野正八幡宮、春日神社二社ともほとんど同様な壊されかたである。
廃仏毀釈、神仏分離は明治政府の命によったもので、薩摩地方は未だ藩統治であったから各郷の役人がその任を命ぜられているが、国粋主義の神職も大きな役割を担ったと思われる。
その点から考えて春日神社や的野正八幡の祠官も自らの社の廃仏毀釈を行わざるを得なかったであろう。特に高位の祠官であった内藤利映は指導者としての役割も果たさねばならなかったものと思われる。
しかし、神社尊崇の念は強く廃仏毀釈後の神社の管理維持には責任を持たねばならぬ社司であったから、祭祀には特に意をはらい、放生会の浜殿下りも着実に行われたものと思われる。
内藤利映が圓野神社の祠官となった明治七年からも亀澤家か引続き圓野神社の管理や社宝としての神輿や放生会の弥五郎どん着用の面や衣装等の保管、浜殿下りの準備等に当たってきた。
利映か圓野神社の祠官を退いてからは、児玉伊右ェ門が祠官となったと思われる。

(二)廃仏毀釈以降
廃仏毀釈で的野八幡別当寺の財産は没収され、寺領もほとんど没収されたものと思われる。
こうした状況の中で山之口村内だけで護っていかねばならぬと、経費等の面からも苦しい時代を迎え、大がかりであった行列の規模も縮小せざるを得なくなった。
しかし、的野正八幡は戦(いくさ)の神様ということで、明治二十七年(一八九四) 、二十八年の日清戦争、明治三十七年(一九〇四)、三十八年の日露戦争前後は参詣者も多く、放生会の神幸行列も盛大に行われた。
前記のように、弥五郎偶人の衣装を新たに作製しなおしたのも日露戦争直後の三十九年であった。
そして大正期を経て、昭和の時代を迎えるのであるが昭和十二年の日中戦争勃発を機に参詣者も多くなり、祭りや放生会の浜殿下りも盛大に行われるようになった。
そして終戦と同時にGHQから出されたのが「国家と神道の分離指令」であった。これをうけて行政の神社等に対する補助金交付等全く出来なくなった。
なお、また民心においては戦いに敗れたことによる敬神崇祖の念の喪失であった。
しかし、こうした中の戦後も放生会の浜殿下りは続けられたか、高度経済成長期の昭和三十七年、三十八年の二年間は中止せざるを得なかった。かえすがえすも残念なことであった。
しかしその後は、「伝統文化の再生をめざして」のスローガンの下、上富吉の地区民か立ち上がり、長年跡絶えていた郷土芸能の復興にも努め復興期を迎えたのである。
このようにして、時代と共に歩んできた的野正八幡宮の子どもたちと共にある弥五郎どんを先頭に浜殿下りする放生会は、水田農耕に基礎をおく人々の生活の中では、やがて豊年祭の行事となり、南九州ではホゼと呼ばれて各家庭生活の中にまで泌み込んでいった。                     62

第六節まとめ
「弥五郎どん祭り」が行われているのは、山之口的野正八幡宮のほかに、曽於市の岩川八幡神社、日南市の田ノ上八幡神社の三社である。
最後にここ山之口の的野八幡神社と放生会の特徴について、これまで述べてきたことをまとめてみたい。

(一)古文書や資料、口伝等か数多く残されている。
『三国名勝図会』(絵図二枚付)『古今山之口記録』、『的野八幡宮式放生会法則』、『圓野神社御由緒調』、『古今山之口名勝志』『口伝』。

(二)万寿三年(一〇一六)ごろ太宰大藍平季基か三俣院(七〇〇町)の院司となり、的野正八幡宮が三俣院の宗廟として放生会を行うようになって以来、毎年ほとんど欠かすことなく放生会の御神幸が行われてきた。

(三)宇佐八幡の放生会御神幸の影響を受けた「浜殿下り」が三つの神輿を出して行われている。

(四)歴代院司や領主に崇敬され、庇護されてきた。

(五)平安時代、放生会発足当時の面影やたたずまい、神領地名等が八幡社一帯に残されている。

(六)山之口の弥五郎どんは、赤大面の帰順した隼人の頭領で、隼人征伐の先頭に立つ勇者として古文書、口伝共に位置づけられている。
岩川八幡の弥五郎どんは白面で武内宿禰と言われ、日南の田ノ上八幡の弥五郎様は赤面であるか、「稲積弥五郎の縁故なり」と言い伝えられている。

(七)亀澤家は古くから神祇宮より一孟一俣院宗廟である的野正八幡宮の祠官を命ぜられ別当寺である弥勒寺の別当と共に的野正八幡宮の祭司や放生会に関する総てを護ってきた。
なお明治七年(一八七四)頃祠官退任後も、宝物や弥五郎関係諸用具等の保管管理に当たり現在に至っている。

(八)古来的野正八幡宮や弥五郎どん祭りについては、地区民の愛着か深く生活にとけこんでいる。
放生会の祭りに奉納される郷土芸能も、長年跡絶えていたものをつきつぎ復興してきた地区民の協力態勢によるものである。

(九)庶民や子どもとともにある弥五郎どん土地の人々は、「弥五郎どんは三人いて長男か山之口の弥五郎どんで、次男か大隅、三男か飫肥」と言い伝えている。
的野正八幡宮の前宮司上徳正義氏(故人)は、「子どもの時から『ほぜ」」(放生会・豊祭)の弥五郎どんには親しんできたが、何者かはわからないままだった。」
「うちの弥百郎どんは焼酎飲みで遊んでいたから、貧乏で冬の寒いとき時でも麻の薄い着物を着ていたという話だ。大隅の弥五郎どんはしっかり者で裕福だったからいい着物を着ていたらしい。」
と話していた。こうした庶民の中で暮らし、貧乏人の弥五郎どんだったからこそ親しみもわいたにちがいない。
山之口の子どもたちは、放生会の浜殿下りとなると、弥五郎どんにまつわりつくようにして四つ車を押す。
その時の子どもたちの心には朱面で容貌魁偉の弥五郎偶人も、自分たちと共にある明朗な弥五郎どんとしてよみがえっているのである。
また大勢の観衆も、子どもたちに囲まれた弥五郎どんの麻蚊帳の着物に触って無病息災を祈るのである。                                    63

第三章 山之口的野正八幡宮の弥五郎どん祭りを中心にした南九州の「大人」人形行事の民俗的背景
第一節 弥五郎どんという名称
一 呼称からみた「弥五郎どん」の正体

画像 的野正八幡:弥五郎どん(都城市山之口町)

「弥五郎どん」は、放生会(例大祭)に出座する巨大な人形である。荒魂がやがて昇華・浄化されて和魂になるのだが、その過程に顧現するいわば呪的性格を帯びた人形である。「祭られなけれはならない、神体(仏体)」なのである。
『日本書紀』には、神功皇后の三韓征討の折、住吉三神が「和魂は王身に服ひて寿命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」(原文は漢文) とある景情と、隼人(態襲)の中央政庁(大和朝廷)への抗戦の歴史を重ねあわせてみると、弥五郎人形の表象する世界がみえてくるようだ。
こういった意味あいでは、すさまじい荒振る神でもあるし、幾星霜を経てふるさとに祭られ、祖霊ともなり得る性格を有するのである。
「弥五郎どん」は、「弥五郎殿」である。殿の発音か薩隅方言で、との・とん・どんと変化したに過ぎないが、そのニュアンスからすれば敬称であると同時に、親しみをこめた愛称でもある。隼人族の首長というが、正史の中では隼人族に弥五郎という名を見出せない。むしろ、中古的な名称である。
普通に「何々五郎」といえば、五番目の男子である。
「弥五郎」の「弥」は数の多いことを祝って冠するといった語源説もあり、武人的な意味あいを加えて「矢五郎」と表記してあるのにも出あう。
隼人族の場合、抗戦による犠牲者を統べる霊性・仏心を帯びた人物(人間)でなければならない。それが「弥五郎」なのであるから、ここで五郎に注目しなければならない。
五郎を「御霊」とする説は多く流布しており、柳田国男・折口信夫らもそのように述べている。
二、三の例を挙げてみると、『源氏物語』に「御霊」と記されてあり、御霊会なども往時は「ごろうえ」などと言ったのかも知れない。

●五郎=御霊。長崎県をはじめ海水死人をいい、五郎次という名とも感じている。むかし水死人の腕の入墨にその名があったなどと伝える。が、御霊・御霊神で、横死者の亡霊をかく名付けて祀るのだ。
しかし、何の五郎という祭神の名か伝えられているのを、そう決定はできぬ、物凄い口碑を伴っている。(『日本民俗語大辞典』)

●岩川弥五郎を事例に五郎=御霊に通じ、巨人人形を綱で引き起こすとき老若男女がその綱にふれようと大さわぎになる。手をふれると一年間の無病息災が約束されるという。(本文において)

画像 岩川八幡:弥五郎どん(曽於市大隅町)                                                           64

「人形に依りつく霊魂にはさまざまな霊魂がある。正常な死者の魂から悪霊・怨霊・御霊と呼ばれる恐ろしい霊魂まで、あらゆる霊魂・神霊か人形に依りつく。(萩原秀三郎『境と辻の神』)

●弥五郎=弥御霊の意。(事例・岩川弥五郎)お祭の主役は大人・弥五郎なのである。
祭礼の当日には、身の丈数メートルにも及ぶ弥五郎どんの人形が、、台車に乗せられて町中を練り回るのであった。
伝承によれば大人・弥五郎は日本武尊に誅殺された隼人の首領であるか、弥五郎伝承は宮崎県・島根県・福井県・岐阜県・愛知県にもある。

画像 日本武尊像(埼玉県:三峰山)

王権にまつろわぬ大人が、その土地、土地で、恐らく欺し討ちにより誅殺された。王権のヤリロが正当なものでなかったから、大人は土地の人々により、怨霊になったと信じられた。
だが王権のオオミタカラに組み込まれた大人の氏子らは、王権への憚りから正面切って大人を祀ることができない。
それで弥五郎という人間臭い名で神祭りした。弥五郎の名に物蝙されていたのは、神威弥増せる御霊の意だったのである。(『鬼の大事典』下)
などとある。
ともかくここでは、弥五郎を御霊信仰のうちに位置づけている。御霊は不幸な死に方をし、供養されないまま浮遊していておさまりどころを知らず、世の中に不幸を招くたたり神ともなるのである。
御霊会が最初に行われたのは、貞観五年(八六三)五月のことで、京都の神泉苑であった。
『三代実録』によれば、無実の罪で亡くなった崇道天皇(早良親王)・伊予親王(桓武天皇皇子)・藤原夫人(伊予親王母)・観察使・橘逸勢・文室宮田麻呂の六人の霊がたたり、疫病が流行したので「霊座六前」として祀り、たたりを封じこめたとある。これは、仏事による御霊鎮めである。
崇道天皇をはじめとする人物に対する御霊鎮めの法会であるか、社会の指導的位置にある統率者や権力者が不幸な死に方をすれば、天変地変が起こり暮らしを圧迫する。
とりわけ疫病の発生や稲虫の異常発生など怨霊のしわざと考えられ、慰撫・鎮送の祭りを営む。阿蘇から高千穂に伝えられている「鬼八法師」、これは鬼八三千王などとも称されているが、悪事をはたらき庶民を窮地に追い込み苦しませる。結果は三毛入野命と高千穂神社の御祭神により誅殺され、体を三所に分けて埋められる。
たたりがはげしく早霜を降らせるなどしたので、鎮めの祭りを行い神楽を奉納する。
今でも続けられている祭りで、結局鬼八の霊は転生して、山鎮め・霜鎮め・風鎮めの神となり庶民を守護するのである。
これは弥五郎の伝承とは異質であるが、体を切り分けて埋められたり、在所の人々によって手厚く祀られているなどのことは類似している。
その死に方が遺恨を残したままの憤死であったり、意に反して惨殺されたりした場合、御霊の霊威をいよいよ発現する。
この人神を鎮めることによって善神化させ、やがて和霊となるのである。                                                65
たたりをなした御霊が恵みや福をもたらす和霊に転生する。それが神(仏)になるよう「祭られる隼人」の姿であり、「弥五郎人形」の象徴する意味あいとも解せられる。
しかし、それは単に仏会を営み経典を読誦し、あるいは神事を営み祭詞を奏上するだけでは済まされないのである。神泉苑で催行された最初の御霊会においても、『三代実録』によれば、自由に一般庶民が従覧したとあって民衆も加わっている。歌舞・相撲・騎射など、民衆世間の風俗も取り入れられ、盛大に行われたようである。
こういったことを素地として、疫神送りの祇園御霊会(京都八坂神社)が地方に伝播して、都城・北諸盆地に多く分布する「六月燈」もその一類である。
「弥五郎どん」の信仰的背景の一つに、御霊信仰かあったことは疑い得ない。しかし、ただそれだけではない。
形代-人形とみれは、実に多面的な要素をはらむ信仰人形である。
中央政庁(王権側)からみれば返逆の人間の姿であったとしても、隼人(ふるさと側)からみれば伝統の地域の生産・文化を守護した人間である。
つまり「弥五郎どん」は、隼人の霊神であり、祖霊信仰のシンボルともなった。

画像 祖霊信仰のシンボル 的野正八幡:弥五郎どん(浜殿下り)

結論的には、「弥五郎どん」は隼人族を代表する通称名詞であると同時に、はるかに幅広いというべきか、普遍性をもつ抽象的固有名詞と解してよかろうと思われる。

二 「弥五郎どん」の実像をさぐる
『三国名勝図会』(巻之三十一) には「大人弥五郎」触れており、「大隅国」(曽於郡)の総説には、まず
●景行天皇の御宇、大人の隼人といへるもの、其容貌夜叉の如く、大逆無道にして、一族数千人を集め、隼人城と上井城に拠て、一に王命に随はず云々
とある。これは「体躯の大きい隼人という者」の意であろう。
以下の文章を読むといかにもすさまじい人物として描かれており、これを伝承や歴史に徴して考えるならは、隼人族の代名詞であって固有の名ではない。

画像 上井城跡を望む(霧島市国分)

●大人隼人記曰、大人弥五郎殿は上小川村の拍子橋にて、日本武尊御討なされたり云々
ここでの大人弥五郎殿は、固有の名として記されてはいるが、それは対日本武尊との関わりからで、隼人の統率者として理解する方か通りがよい。

●隼人を誅し給ふといふは、日本武尊川上梟帥を殺し給ひしことなるべし、又諸国放生会の始まりは、養老四年になるに、上文の如く伝へしは、隼人三度反ひて逆乱せしを誤りて一度の事となすと見えたり云々
これでみると、以下の文にあるように時代の上からは混乱している。つまり、隼人を攻め討つくだりは、前後の文章の関係から隼人の大人弥五郎と川上臭帥とは同一人物ということになる。
川上梟帥の伝承は諸地にあり、これまた族長のイメージで把握される。確かに川上梟帥は古代風の名称であり、弥五郎の方はむしろ中古風の俗称名である。

●大人隼人記にいへる弥五郎は、川上梟帥取石鹿文を伝へしにや、野口村枝之宮は隼人の四肢を埋めて祭り、或は大人弥五郎の四肢ともいへり云々
これは居住地域からの推定であるが、王権(朝廷)に抗戦した態製・隼人の歴史は長く遠い。この同一人物説にも一応の疑問を投けかけてはいるが、にわかに固有の名称とは決めがたい。ここでは、同一系列の人物像として意味づけしたのであろう。

画像 弥五郎どん伝説地と国分地方の主要な社寺(『国分郷土誌』により作成)

ところで、こだわり続けてきた「大人弥五郎」についての『三国名勝図会』の結論は、どうかといえば、
●今山之口邑的野八幡宮浜下に、大人弥五郎といへる人形を製し、行列の先に推し、是隼人征討の故事といひ伝へ、末古邑八幡の浜下にも大人弥五郎あり、白尾国柱日、市成邑の双子壟・桜島の竈等皆弥五郎遺蹟の伝へありと、其大人隼人、或は大人弥五郎といへるもの、必ず一人の隼人をいふには非ず、後の俗、養老中征討の隼賊と、互に混れしも知るべからず。

画像 的野正八幡の「弥五郎どん祭り」(11月3日)

とあって、結局個人として特定することは至難であるとする。
的野八幡弥五郎・岩川八幡弥五郎、市成あたりの弥五郎伝承を事例に、藩学者国柱説をあげ「大人弥五郎といへるもの、必ず一人の隼人をいふにあらず」と結論して、後々の習俗や養老の隼人の戦いとが混同し、その実態は知り得ないと強調している。
『三国名勝図会』(全六〇巻)は薩摩の藩命により編さん、天保十四年(一八四三)に成立した藩撰書の一つ。
往時は国家神道化がすすみ、やかて廃仏毀釈という一大仏教文化喪失の時を迎える。現代からすれは、すでに本書の成立以降一六〇年を経過しているが、はるかな時を過去に流していた、その時代でも大人弥五郎どんの実像は捉えかたく、抽象名詞化していたのである。                           67

第二節 弥五郎どんの登場まで
一 「弥五郎どん」が生まれてきた社会的背景
「弥五郎どん」は、特定の家譜に連なる苗字をもたない。的野弥五郎・飫肥(田ノ上)弥五郎・岩川弥五郎などの呼称は、単にその社号や土地名を冠したに過ぎない。
また、鎌倉権五郎景政のように御霊神として祀られることもない。
ちなみに、五郎権現(宮城県亘理郡)や権五郎神社(茨城県牛久市)は、権五郎景政を祀り、御霊神社という。
してみると、的野八幡(都城市山之口町)・ 田ノ上八幡(日南市大字板敷)・岩川八幡(曽於市大隅町)には「弥五郎どん祭り」かあっても、祭神として祀られているわけではない。

画像 岩川八幡(曽於市大隅町)

この三社に共通している主祭神は、八幡系統の神々である。「弥五郎どん」は、いまだ神(仏)に昇格しているのではなくて、ひどく人間的な霊神としてとどまっている。
「弥五郎どん」は、かつて生活圏をともにした後裔でなければ支えられない霊神(仏性)なのである。
古い例でみると、正暦五年(一〇一二)の京都船岡山での御霊会の記事に
「会集の男女、幾千人かを知らず、幣吊を捧ぐる者、老少街術に満つ。(中略)此の事、公家の定めにあらず、都人蜂起して勤修するなり。」(『本朝世起』)などとある。
「弥五郎どん」の場合もこれと似た背景、つまり民衆の参加によって祭りか成立する。民衆か加わって、それを行事化し習俗化して「祭り」を定着させていくのである。
これを参照して考えてみると、いわは反政府権力の象徴である隼人族の首長を、堂々と祀り祭神となすことは憚られるだろう。
「弥五郎どん」は、中央政庁(朝廷)に対して反秩序的な存在であることは確かなことである。固有の実名かあったとしても、そのままでは登場させられない事情がある。

画像 田ノ上八幡:弥五郎どん(日南市飫肥)

そこで、「弥五郎どん」か御霊化し、登場するまでの歴史的経過をみておきたい。
詳細は別章「歴史的背景」にゆずるとして、ここでは隼人に関する記録を簡略に示すにとどめる。                                    68

◆天武十一年(六八二) 隼人が朝貢する。大隅隼人と阿多隼人が相撲をとる。隼人らを飛鳥寺(明日寺)の西で饗する。
◆朱鳥元年(六八六) 大隅・阿多隼人、天武天皇の殖庭で誅をする。
◆持統元年(六八七) 大隅・阿多の魁帥、天武天皇の殖庭で誅をする。大隅・阿多の魁帥らに物を賜う。
◆持統三年(六八九) 筑紫大宰粟田真人等隼人を献ずる。(隼人一七四人・布五〇常・牛皮六枚など)
◆持統九年(六九五) 大隅隼人を饗する。天皇隼人の相撲を観る。
◆文武二年(六九八) 日向固に朱沙を献上させる。(日向国初見)
◆文武三年(六九九) 大宰府に三野・稲積―一城を修築させる。(三納=児湯郡三納郷・稲積=桑原郡稲積郷を比定)
◆文武四年(七〇〇) 薩末比売・久米等、肥人を従えて覚国使をおびやかしたので、筑紫惣頷に決罰させる。
◆大宝二年(七〇二) 政府に反抗する薩摩・多徽を討ち、戸を校し吏を置く。(吏=国司・薩摩国の成立)薩摩隼人の征討にあたった軍士に、勲位を授ける。大宰府管内の九神に幣吊を奉る。
◆和銅二年(七〇九) 薩摩隼人郡司以下一八八人が入朝する。
◆和銅三年(七一〇)  隼人、朝拝に列する。隼人等に宴を賜い、位を授け、禄を賜う。日向国は采女を貢することとする。日向隼人の曽君細麻呂、荒俗を教喩したので賞せられ、外従五位下を授けられる。
◆和銅六年(七一三) 日向国の肝杯・贈於・大隅・姶𧟌の四郡を割き、大隅国を置く。隼賊を討った将軍・士卒のうち、軍功のあった一二八〇余人に勲位を授ける。
◆和銅七年(七一四) 豊前国の民二〇〇戸を移して、隼人を教導させる。
◆霊亀二年(七一六) 薩摩・大隅二国貢上の隼人の八年一替を六年一替に改める。
◆養老元年(七一七) この年、郷里制を施行する。
◆養老四年(七二〇)  大宰府、大隅国守、陽侯史麻呂殺害を奏上す。(一説に、大隅隼人の直坂麻呂による殺害) 中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍とする。詔して隼人を征討中の旅人を慰問する。
征西将軍以下に物を賜う。征隼人持節将軍旅人、帰郷する。大隅・日向の隼人を鎮定するため宇佐宮に祈請する。多くの殺生をおこなったので、諸国放生会をはじめるという。
◇養老五年(七二一) 征隼人副将軍笠御室等、帰京する。隼人の斬首獲虜合計一四〇〇余人。
◇養老六年(七二二) (蝦夷・隼人征討の将軍以下に勲位を授ける)大隅・薩摩・多瀬等、国司の欠員は大宰府の官人を権に補任することを定める。)(『宮崎県史』別編年表)

右の年表は朝廷側による編述であるが、これによると、往時の隼人は全く意志・行動の統一集団ではない。
王権におもねる者たちもあり、あるいは上番して、さながら芸能奉仕衆のように歌舞を披露したりする。
さらには物産を献納したりして、位階を授かるなどをはじめ、中央政庁に帰順する手段を方策している。
和平のための施策ならばそれでよいのだが、隼人が隼人を攻めるといった分断策もとられており、同族においての身内の争いもある。混迷の隼人領土を想定しないわけにはいかない。
養老五年(七二一)に王権に対する抵抗戦が終止符をうっても、それですべてが終わったわけではなく、政庁は班田収授を行うことが叶わず、懇田のまま耕作させることを余儀なくさせられてもいる。
ここでは、戦史に触れることか主眼ではないので簡略にとどめるが、養老四年(七二〇) の抵抗戦の主な原因は、造籍(戸籍作成)の動きに対する隼人の反対であるとされる。
ただ、それだけではないにしても一触即発の緊張状況にあったことは確かであろう。

画像 宇佐本宮:勅使門(大分県宇佐市)                                                            69

すでに中村明蔵の指摘があるように
「”反乱“という用語を用いることについては、それはあくまでも大宰府、あるいは中央政府側の立場からの用語であって、隼人側の立場からすれは”抗戦“である」(『熊襲・隼人の社会史研究』)
のであって、この立場をとらなければ「弥五郎どん」はたちあらわれないし、祭りも成立しない。
さて、征隼人軍は大将重・副将軍二人を任命して、南下の軍を進めている。
これは一万人以上の兵力でもって組織する軍勢の場合であり、抗戦した隼人側には斬首された者や捕虜となった者か一四〇〇人余りに及んだ。
往時の人口動態の推計からすれば、まれなる大乱であった。
日向・大隅・薩摩の兵士たちか征隼人軍側にかり出されるなかで、抵抗軍は政府の懐柔策に同調しない、生粋の隼人意識をもった強固な連合体であったに違いない。
『八幡宇佐宮御託宣集』に、奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟.曽於乃岩城・比売乃城の「隼人七城」の名か見えており、おそらく姶良・国分地方を中心の拠点として、抗戦したのであろう。

画像 上之原迫跡(縄紋の森)から、上井城跡と国分平野を望む

その隼人征討軍には、宇佐神を奉ずる者や仏教に精通した法蓮等が加わっており、こういった事情がなけれは、「放生会」を営む契機も出来しなかったし、「弥五郎どん」が顧現することはなかったのである。(このことは、後述する。)

二 浮遊する霊魂
確かに養老四年(七二〇)から翌五年にかけての戦いは、南九州における最大の事件であったか、戦いによって死没した怨霊の浮遊観をとどめるのは、これの戦いのみではない。
それ以前の神話・伝承の時代史かあり、御霊は積っていたのである。簡略に例示してみよう。

◆景行天皇十二年 熊襲、朝廷に背く。天皇、群臣と熊襲を討つことを謀る。
◆景行天皇十三年 天皇、熊嬰を平定する。
◆景行天皇二十七年 熊襲、再ひ背く。日本武尊、熊襲征討に出発する。日本武尊、熊襲国に至り、その後熊襲を征討する。
◆景行天皇二十八年 日本武尊、熊襲征討の旨を奏する。
◆仲哀天皇一年 熊襲、背く。
◆仲哀天皇九年 日向国の橘の小戸の水底に居る表筒男・中筒男・底筒男の三神、神功皇后の祈請に応じる。
◆応神天皇十三年 応神天皇、髪長媛を日向より召す。
◆仁徳天皇八十七年 この年、隼人剌領巾、仲皇子を刺殺する。
◆清寧天皇元年 隼人、雄略天皇の陵の側で昼夜哀号して死ぬ。
◆清寧天皇四年 蝦夷と隼人、内附する。
◆欽明天皇冗年 蝦夷と隼人、帰附する。
◆敏達天皇十四 三輪君逆、隼人に庭殖を警備させる。(『宮崎県史』別編年表)
「熊襲と隼人は同族か」などをはじめ種々の説はあるか、在地の伝承によれば生活圏の重なりか多い。熊嬰の場合においてもまた、朝廷に対する抗戦史を伺うことかできる。
はるか古えの伝承・物語であり、土地の生活人としてして受けついでいることは、事実認識というよりは、むしろ心意伝承の方に重きを置いているように見受ける。       70
こういったことであれば、熊嬰の時代からその霊性(悪霊)の浮遊観は連綿として受け継かれてきたことになる。
養老年間の大事件すら、すでに一三〇〇年近い年月を経過しているのであって、いわば御霊信仰による「鎮めの心」かなかったならは、祭りそのものも派生しなかったであろう。
ただ、この潰滅状況と同時期に「弥五郎どん」の祭りか行われたのではなかろう。
「弥五郎どん」の供養を主体とした行事を催行するようになったのは、不詳でありかつ分明させ難いが、ずっと時代を経ての後のことであろう。
放生会は仏事が主体であるが、八幡神か仏に救済を求めた故に、成り立った神仏混交の行事でもある。これこそが浮遊する霊魂を救済する手段であり、それがまた人間本来の真性(慈悲心)でもある。
ただ、右の年表を読むと、「熊襲の最後の首長か弥五郎どん」であるという説、あるいは「中央政権に帰順した隼人の首長か弥五郎どん」であるという説などが、生まれてきたのもむべなるかなと言いたいところもある。
だか、やはりこれは宇佐宮に祈請して、祢宜の辛島勝代豆米(はづめとも)が軍神を率い、呪術にたけた法蓮を伴って下向し、隼人を討った時の事件か祭りの発端となったのだった。
浮遊する霊魂の鎮め、これか放生会であり、従って、敗戦した隼人軍の総大将(首長)こそ、一身に隼人族の霊魂を背負った象徴である。そのひと、その霊性こそが「弥五郎どん」であった。

第三節 大人弥五郎人形行事と放生会
一 放生会と「弥五郎どん」との関わり
「宇佐八幡宮の祭礼のなかで、最も古い儀礼の営みか「放生会」とされている。
『続日本紀』や『扶桑略記』をはじめ、『八幡宇佐宮御託宣集』等によれは、養老四年(七二〇)の戦いを発端にして、「放生会」か営まれるようになったとするのか通説となっている。
しかし、養老四年にはまだ宇佐の神宮寺は設立されていない。中野幡能の指摘かあるように、最初の頃は戦勝祈願の意味かあったのかも知れない。
(『八幡信仰と修験道』)天平九年(七三七)に八幡神か弥勒菩薩を尊崇したいとの託宣を得て、翌年に弥勒禅院を宮内に移した。
これか、神宮寺の始まりの弥勒寺であった。(『八幡宇佐宮御託宣集』)
さらに中野は、
「放生会の養老四年始行説は主として福岡県田川郡香春岳・豊日別社の銅鏡奉上儀礼を中心とするもので、放生儀礼であったとしても、従属的なものであったのではあるまいか。
というのは法蓮は八幡宮内部ではなく、まだ虚空蔵寺の時代で援助的な立場であった。
しかし神亀元年(七二四)から天平十六年(七四四)という説は、この間、法蓮は八幡宮内部に入って流水品による本格的放生会か行われているのである。
このようにみると、宇佐でいう放生会には二段階かあり、第一段階は間接的放生会であり、第二段階の放生会は本格的な流水品による法生会であると共に隼人慰霊の斎会であった。」
と結論づけている。(『宇佐八幡宮放生会と法蓮』)                                                        71

画像 宇佐神宮(宇佐鳥居と参道)

おそらくこれが、本格的な隼人鎮慰の最初の儀礼であろう。
このあたりの事前の動きについて、谷川健一は詳しく触れており、「八幡神は祢宣の辛嶋勝波豆米を先頭にして、隼人征討の軍隊に参加している。
大隅国桑原郡には、豊前・農後からの移住者による八郷が見受けられるか、その中に稲積郷がある。
”鹿児島県の地名“(「日本歴史地名大系」)では、牧園町の宿窪田を古くは稲積と称したという一方、国分市には韓国宇豆峯神社がある。

画像 韓国宇豆峯神社(霧島市国分上井)

画像 霧島市国分上井(『三国名勝図会』)

(中略)これは豊前豊後から和銅七年(七一四) に大隅に移住した辛嶋氏など渡来系の人々によって遷祀されたものにちがいない。
(中略)朝廷の意向を汲んで、隼人征討に主導権を発揮したのが、大神氏であることは言うを侯たない。
それにもかかわらず大神の御杖として、その霊的能力を示したのは辛嶋波豆米であった。」と。(『四天王寺の限』)
朝廷は豊前国司の宇奴男人(宇奴刀首人とも)を将軍に任命したので、男人は小山田社に鎮座の八幡神(応神天皇) に戦勝を祈願、神輿を造り、豊前国下毛郡の大貞薦池(三角池とも)の真薦を刈って、祝の大神諸男が七日間潔斎して調作した薦枕を神験として奉じ、辛嶋勝波豆米が御杖人となって、征隼人軍の先陣に発った。
八幡車の陣容はそれだけではなく、男人将軍は僧団の法蓮をはじめとする華厳・覚満・鉢能らも加わえて計略を練った。
御杖人(神官)は、渡来人秦氏系のシャーマン祢宜尼であり、代々祢宜尼をつとめる家系であった。
法蓮は旧宇佐国造の出で(渡来人説も)、大和の道昭に学んだという古代仏教の代表的な傑物であり、宇佐における神仏習合をこのようにみてくると、政府軍への動員は八幡軍を核として豊前の諸地からの召集、大隅をはじめとする移住者の参加、さらに隼人から帰順した者たちの勧誘、こういった複合軍の編成であり、これは後の藤原広嗣の乱にも見られる。
政府軍と隼人軍との兵装備にも格段の差があったであろうし、シャーマニステックな巫術を用いる政府軍の攻撃に隼人軍は苦闘するよりほかはなかったであろう。
隼人軍の将名は見つけることはできても、これは政府軍におもねた者たちのようである。
言ってみれは、抗戦する隼人の総大将「弥五郎どん」の軍勢は、在城にこもりゲリラ戦で挑んだのであろうが、遂いに軍星の輝きを見ることは叶わなかった。
それでも、一年有半にわたり対抗したのは、今でいう薩摩風土の勇敢な熱情を表象するようなものであったろう。
したがって、敗残の将「弥五郎どん」は、政府(王権) 側からみれば鎮送されざるを得ない隼人の鎮まらぬ霊魂の代表であり、隼人側からすれば往時の政治状況をはねかえすために勇敢に戦った祖先の神霊の象徴となるのである。
つまり、「弥五郎どん」は王権側からすると当然送るべき鎮魂の形代であり、隼人側からすればかつての領地を代表する敬愛すべき巨人像なのである。
同じ「鎮送人形」としても抽象的個人名でなければ、祀ることが叶わなかった事情もあろう。                                        72
ところで、宇佐神宮の創建はいつのことであったろうか。
八幡神は御許山を神体山とする宇佐地方の山岳信仰に派生したとも伝えるが、『社伝』によれば、欽明天皇三十二年(五七一)のこと、八幡神が菱形池のほとりに示現して「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」とつけたという。

画像 快慶作僧八幡神座像 国宝:奈良県東大寺蔵(『神仏習合と修験』新潮社)

それは三歳の童子の姿で童子は黄金の應に変じた。その鷹がとまった地に、和銅元年(七〇八)鷹居社を祀り、やがて小山田社を経て神亀二年(七二五)現在地に遷り、神宮を創建したとある。
『延喜式』によれば、
「八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」とある。
祭神は八幡大神(応神天皇=誉田別尊)・比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)・神功皇后(息長帯姫命)であり、鎮座の年代は、応神天皇を祀る一之御殿が神亀二年(七二五)、比売大神と呼はれる三女神が二之御殿で天平五年(七三三)、神功皇后が三之御殿に祀られ弘仁十四年(八二三) の鎮座である。

画像 足利尊氏自筆の神号:奈良県:大和文華館蔵(宇佐風土記の丘歴史民俗資料館「八幡大菩薩の世界」展示から)

ちなみに、これらの祭神をみても異彩を放つ神社であり、応神天皇と神功皇后の関わりは「記紀神話」にも語られるが、主祭神は応神天皇である。
仲哀天皇の妃だった神功皇后は、天皇の急死にもひるむことなく朝鮮半島の新羅に進軍、軍功をあけ筑紫国(福岡県)に戻り、無事に出産、これが応神天皇の誕生である。
また、三女神は宇佐嶋に降臨した海上守護の神ともされている。
法蓮のことはさきにも触れたが、養老四年(七二〇) の大事件を契機として、我が国で最初の神仏習合的な放生会を営んだ主役で、しかも朝廷と宇佐神宮との結束をより強固にした人物でもある。
天平十年(七三八年)聖武天皇の勅願により、宇佐神宮の神宮寺として創建された神宮寺の別当こそ、法連であった。
『続日本紀』に見られるように、法蓮は秀いでた医術・巫術の持ち主であり、しかも開墾・開拓を進めた人物で「宇佐君」の姓を賜わるなど、強力な古代仏教の指導者であった。
これらのことを合わせ考えると、『日本書紀』にみえる豊国奇巫と豊国法師といった先人の流れを汲む人物のようである。渡来の道教的な巫術も駆使し、名を馳せたシャーマンでもあったろう。
征隼人軍の陣営のうちに女シャーマンの辛嶋勝波豆女や法蓮とその弟子たちか加わっているとなれば、そこに一種の幻術的な心理作戦も展開されたであろう。
戦いのさなか傀儡子(人形)を操って油断させ、鎮圧の拳に出たと伝えているのもそのあらわれであろう。宇佐軍(政府軍)は戦いに果てた隼人の戦士の首一〇〇個を持ち帰り、凶首塚に埋めた。
その下手に百体社を建て、祀ることもした。ところが、疫病がはやり、凶作ともなったので、これは隼人の怨霊のたたりであるとの風評か起こった。
この怨霊を慰めて、鎮送するのが宇佐における「放生会」の始まりであった。(ちなみに、北諸・都城盆地では、隼人の霊が田螺となって稲を食い荒らし、不作となったとも伝えている。)
ここで、「弥五郎どん」行事に関わる宇佐神系の神社について、簡潔にメモしておこう。                                           73
まずは、石清水八幡宮(京都府八幡市)である。

画像 石清水八幡宮(京都府八幡市)

貞観元年(八五九)に奈良大安寺の僧行教が、宇佐八幡から八幡神を勧請して鎮祭したという。
これは八幡神を都の近くに移し、「王城(宮廷)を鎮護すべし」との託宣が下りたことによるという。
(『岩清水八幡宮護国寺略記』)ここでは、遷座から間もない貞観五年(八六三)に寺家の沙汰として放生会が始行された。
天暦二年(九四八)には宣命使が立てられて、延久二年(一〇七〇)からは行事に準じて、勅使か下向することとなった。
石清水八幡の「放生会」は、三日間放生の儀礼を催し、諸国の八幡宮の範として、その頂点を占めた。放生会は連綿として続いてきたが、明治元年(一八六八)の神仏分離令により中秋祭と改めた。
明治十七年(一八八四)には「男山祭」となり、大正七年(一九一八)に「石清水祭」と改称、現在も盛大に行われている。(『仏教行事歳時記・放生』)

二 三社の放生会 -大隅正八幡・田ノ上八幡・的野正八幡-
ここでは、大隅正八幡宮(国分八幡・鹿児島神宮)についてである。
いわば隼人の根拠地(霧島市隼人町)に鎮座する神社であり、欽明天皇五年(五四五)に応神天皇の霊社として創建。八幡大神を配祀したのが始まりで、この頃から大隅八幡と呼ぶようになったと伝えている。

画像 大隅正八幡宮:霧島市隼人町内(『三国名勝図会』)

画像 大隅正八幡宮(霧島市隼人町)

また、承平年間(九三一 - 三八)の平将門反乱調伏祈願のため創祭されたともいう、九州五所の八幡別宮の一っであった。(『角川・日本地名大辞典』)式内大隅国五社の一。

中世別当を懸峯山霊腔山寺弥勒院と号して、天台宗に属した。摂社に石体神社があり、本社発祥の霊地としている。
末社に保食神社・三之社・御門神社・隼風神社・両之社・四所神社・武内神社・山神神社・大多羅知女神社・稲荷神社がある。例祭日は八月十五日、この日隼人舞神事がある。
他に同社の神事の主なものを挙げると、浜御殿神幸(陰暦八月十五日、十六日)があり、これは彦火火出見尊海津見宮行幸の故事に倣ったものである。
十五日鳳螢渡御、翌日還御、甲冑・陣羽織・舞姫姿などの行列は里余に及ぶ。(『神道大辞典』)
この「浜御殿神幸こそ実は放生会でもあって、『三国名勝図会』(巻之三十一)には「昔時は、勅使奉幣ありて、放生大会を行はれ、祭式もおのつから大粧なりき。永和二年(一三七六)丙辰、正八幡大宮司北村河内ノ守入道了覚、写すところの社務記ニ曰、毎歳八月十五日、正宮浜下之神事には、騎馬武者二百六十人、神輿に供奉する云々」とある。        74
「記紀神話」の天孫降臨のお膝元でもある同宮の主祭神は、彦穂々出見尊・豊玉姫命に加えて宇佐三神である。

画像 天孫降臨の伝承:西御在所: 霧島神宮大鳥居右端に雪の高千穂峰が見える(霧島市田口)

ところで、海幸彦(火照命)・山幸彦(火遠理命)の兄弟神の争いごとの神話は著名であるが、敗れたのは兄の海幸彦であった。
海幸彦は隼人の祖神とされ、祭事儀礼のなかにこの神話を伝えることともなった。
それはともかく、同宮の宮司川上親昌の「古事記と熊襲・隼人と浜下り考」(『隼人学』)によると、平成十二年十月、浜下り神幸を復活、盛大に催されたとある。
岩川八幡についても『二-国名勝図会』(巻之三十六)に記録があり、万寿二年( 一〇二五)に岩清水八幡宮を岩川へ勧請、その後衰廃したが、天文四年(一五三五)藤原重忠・伴兼農によって再建されたと棟札にある。祭祀は十月五日、華表(鳥居)から一町ばかり離れた所に向けて浜下りの式がある。
この際には、大人の形を造って先払いとし、身の丈は一丈六尺、梅染の単衣を着て、刀の大小を個び四輪車に立てられている。
この人形は、土地の人の伝えでは大人弥五郎といい、また武内宿祢であるとも言っている。ここでもやはり留目しておきたいのは、「弥五郎どん」の祭りとはいいつつも、祭神ではないことである。
「弥五郎どん」は永遠に神社神道における、公認の祭神にはなり得ないのだ。
「弥五郎どん」の祭りのあるところ、武内宿祢が関わりを示しており、それは国家神道の浸透を反映するもので、武内宿祢を主祭神とする社は宮崎県にもあり、気比神宮(福井県敦賀市)はことに著名である。
田ノ上八幡(板敷神社)については、、『日向地誌』に記事があり「往昔大隅国桑原郡二稲積弥五郎卜云者アリ。彼地一宮正八幡ノ神体ヲ負ヒ来リ此ニ鎮座ス。社殿ハ天永元年(一一一〇) 庚宙十月二十五日創建スル所ナリ。(中略)例祭元ト十月二十五日流鏑馬二疋ヲ走ラシム。騎者ハ八重笠ヲ戴キ弓矢ヲ持チ木ノ的ヲ三処ニ建置キ、馬ヲ走ラセナガラ之ヲ射ル。其人ハ猟装束ナリ。是ヲ射手卜呼ブ。其従者甲胄ヲ撓キ頬甲ヲ著テ槻人中ヲ奔走ス。是ヲ餌袋卜呼ブ。餌トハ鳥獣ノコトナリ。(中略) 又長人弥五郎トテ長一丈有半ノ偶人ニ衣袴ヲ着セ長刀ヲ楓ヒ、右手ニ長槍ヲ杖ツカシメ、之ヲ四輪車ニ載セ群童二挽シメテ街上ヲ巡ス。極テ古俗ナリ。然トモ明治六年(一八七三)以来ハ祭日モ一定セズ流鏑馬モ廃シタリ。唯偶人弥五郎ハ旧二俯レリ。弥五郎ハ稲積弥五郎ノ縁故ナリト言伝フ。」と平部嶠南(旧飫肥藩家老・藩校教授)は記している。

画像 平部嶠南(『宮崎県大百科事典』)

これによると、大隅桑原郡から大隅正八幡宮(国分八幡)の御神体を背負い、稲積弥五郎なる者がやって来た、つまり大隅正八幡を勧請したのか祭り始めだとしている。

画像 田ノ上八幡:弥五郎どん(稲積弥五郎とも)

この記載法でみると、稲積弥五郎(稲津弥五郎という説もある)は固有の名であるが、おそらく稲積は土地名を冠しているのであり、「弥五郎どん祭り」始行のいきさつを述べているのであろう。 75
稲積弥五郎は修験者であったという説もあるか、宇佐にも稲積山(宇佐市横山区)かあって神降りの山と伝え、現在は稲積六神社が鎮座している。
古くは登拝を許さない山で、豊前求菩提山修験者の峰入りでは稲積山が最後の巡拝地となっていた。
このあたりは韓国渡来人の辛嶋氏の本拠地であり、韓国宇豆峯神社(霧島市重久)等との関わりも見出せそうなので、あるいは宇佐稲積山との関連もあったのかも知れない。
しかし、もっとも妥当するのは、桑原郡に稲積城もあったし、やはり大隅正八幡から勧請したことを物語っているのであろう。
それに飫肥の愛宕山信仰を考慮に入れると、修験者の介在を考えられないこともないし、稲積弥五郎とはその修験者であったのかも知れない。
また、稲積弥五郎は大人弥五郎ともみられよう。
流鏑馬神事は多く八幡系の神社で行われたようであるが、ちなみに新田八幡神社(宮崎県児湯郡新富町)の夏祭りの先導役は、いぶくろ面をつけ鎧を着けて皮製の笠をかぶり、餌袋を袈裟がけにしている。
採り物の矢を肯竹に持ち換えて、神幸の道々で厄払いをする。これは、流鏑馬の競技に伴う鳥獣の鎮送習俗の一法を伝えているともみられる。

画像 新田八幡のいぶくろ:餌袋(児湯郡新富町)

的野八幡宮の「弥五郎どん祭り」については後に詳述するので、ここでは簡略に記すこととしたい。
的野正八幡宮(円野神社)の本社は、国分正八幡(大隅正八幡)で、和銅三年(七一〇) に勧請し、古くから三俣院の宗廟でありかつ大社だったという。
正祭(例大祭)は十月二十五日に催行し、社殿からみて申酉(西南)の方向四町余りにある、御手洗池の側に仮殿をしつらえ、そこまで三つの神輿を守護して下だる。
これを浜殿下りという。そのうち、中の神輿を第一と定めて儀衛(行列の儀礼)の範とし、これは旧い様式をとどめている。
また、大人弥五郎と呼ぶ朱面を被り、刀の大小を楓いた一丈余の偶人を作り云々と、『三国名勝図会』(巻之五十七)に紹介されている。

三 八幡神勧請のこと
神社史における創始と創建とは、その担う意味あいか異なっていて、神々がふいに降臨したり、あるいはある一定の場所に示現したり、必ずしもその経緯は定まってはいない。
こういったことは、寺院の成立過程においても、また同等である。その創始の場合は、上地に住する者あるいは外地から訪れた者か霊威を感得し、その土地(場所)を霊域と定め、祀りはじめる。
対象は樹木であったり、巨石であったり、または土地の地主神のような民俗神であったりもする。
例えば、宇佐神宮の南方に八幡神の聖地とされる御許山(標高六四七メートル)がある。
山岳行者の修行の山と伝え、その頂上に三体の巨石が在り、御神体として崇められ、現在においても禁足地となっている。そこには大元神社か建てられ、毎年四月――十九日に大祭か催行されている。
鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の東北端にも摂社石体神社があって、そこの岩間から「八幡」の文字が出現したと伝え、八幡神の最初の垂迩の地といった説もある。
これらはともに地盤を同じくする巨石信仰の類で、社の創始伝承といえるであろう。
八幡神は神武天皇であるなどの説もあるが、神々はとかく遊歩性を秘めており、『今昔物語』(巻十二) に「石清水にして放生会を行なふこと」(第十)の条には、次のようにもある。    76

初メ大隅ノ国ニ八幡大菩薩卜現ハレ在シテ、次二宇佐ノ宮ニ遷
ラセ給ヒ、遂ニ、此ノ石清水ニ跡ヲ垂レ在マシテ、多ノ僧俗ノ神人
ヲ以テ、員ス不知ヌ生類ヲ令買放メ給フ也。然レハ、公モ、此ノ
御託宣ニ依テ、諸国ニ放生ノ料ヲ充テ、其ノ御願ヲ助ケ奉ラセ給フ。
此レニ依テ、年ノ内ニ此ノ放生ヲ行フ事無量シ。然テ、毎年ノ八月
十五ヲ定テ、大菩薩ノ宝前ヨリ宿院ニ下ラセ御マシテ、此ノ放生
ノ員ヲ申シ上グルニ、大キニ法会ヲ儲テ、最勝王経ヲ令講メ給フ。
其ノ故ハ、彼ノ経ニ、流水長者が放生ノ功徳ヲ、仏説給フ故也。
然レバ、此ノ会ヲ放生会卜云フ。

これによれば、八幡神は大隅国に八幡大菩薩として示現し、宇佐神宮に遷座、ついには石清水(男山)に垂迹したと記す。

画像 京都府八幡町(竹村俊則『新撰京都名所図会』)

養老四年(七二〇) の征隼人軍が用いたという傀儡子の人形祖型も隼人域に発生したともいわれ、おそらく秦氏系辛嶋一族にも関わりがあるのであろう。
引用文の後半では、石清水の神が多くの俗僧たちに命じて放生会を行ったといい、朝廷でも八幡大菩薩の御託宣によって、諸国に放生の行を割り当て、年間の放生会は数えきれないほど流布したと記し、放生会のいわば定義をしている。
八幡神または八幡大菩薩の大隅国示現のことは、他に類書を見出し得ないが、信仰基盤の上では心に留めておきたい一項である。
次に、神社創建のことである。例えば、はじめ霊域に祠を建て、鳥居をしつらえ注連を張り、山神・水神などのいわば民俗神を主体に祀る。
この神域(霊域)に、例えば記紀神の降臨を顧って祭祀し、社殿を建てる。
神社の発生・創建には種々の筋合いがあるようで、民俗神そのままを祭神とする場合もあれば、新たに他の神々を迎えて祭神として祀ることもあって、必ずしも一定の約定みたいなものか存する訳ではない。
最初から主祭神として迎える神々を定め、地鎮祭を営み、社殿を造営することもあり、それは時の政庁の考え方などを含め、いわゆる政冶色を濃く反映した施策による創建である。
勧請とは、例えば神楽祭場に神(仏)の来臨を請う時などにも用いるか、神社や寺院に神や仏の分霊を請じ迎えて祭祀することにも用いる。
年代を記述している神社の縁起や社伝等においては創始・創建・勧請の年代を混同しているようなこともあり、寺院の場合もまた同様である。
まさしく勧請年代が、勘定に合わないこともあるようである。

・欽明天皇五年(五四五) 大隅八幡、応神天皇を配祀
・欽明天皇三十二年(五七一) 応神天皇示現
・和銅元年(七〇八) 宇佐、鷹居社を祀る
・和銅三年(七一〇) 的野八幡、大隅八幡神を勧請
・養老四年(七二〇) 隼人の抗戦
・神亀二年(七二五) 宇佐宮を創建(応神天皇を祀る)
・天平五年(七三三) 宇佐、比売大神(三神)を祀る
・天平九年(七三七) 宇佐宮弥勒寺成立
・天平十六年(七四四) 宇佐宮弥勒寺、放生会を行う
・弘仁十四年(八二二) 宇佐、神功皇后を祀る
・貞観元年(八五九) 宇佐八幡神勧請、石清水八幡宮成立                                                  77
・万寿二年(一〇二五) 岩川八幡、岩清水八幡神を勧請
・天永元年(一一一〇)  田ノ上八幡、大隅八幡神を勧請

これは、典拠(出典)により変わることもあるが、「弥五郎どん」の行事を行う各社については、どのような時代の流れを経て放生会を催行する手筈となったのか。
それには宇佐宮領・弥勒寺領の荘園等の関連も深く関わることになってくる。
少なくとも文化庁が「南九州の大人弥五郎人形行事を、記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として選択した「八幡信仰の地方的展開」を解明するための素地を確かめることには連なる。
全国には八幡神社四万余社を数えるというが、大人「弥五郎どん」の人形行事は、隼人族を祖とする意識をもつ領域にしか派生しなかったのである。

画像 的野正八幡:弥五郎どん祭りの日(11月3日)

第四節 的野正八幡宮立地の原風景
一 地名に生きる「弥五郎どん」

画像 的野正八幡(都城市山之口町)

的野正八幡宮は(富吉集落=都城市山之口町)丘陵地に鎮座、楠やイチイガシに囲まれ、参道には杉か枝を伸ばし、神韻を醸し出している。
二の鳥居の正面参道の右には「的野正八幡宮別当弥勒寺跡」の標柱が建てられ、その寺跡は竹林に覆われている。廃仏毀釈の名残りも痛々しい。

鎮座地の北東には、累々と山地が重なって望まれ、東岳(標高八三三メートル) ・青井岳(標高五六三メートル)がどっしりと壁をなしている。
社殿の南西部には都城盆地を隔てて、霊峰高千穂峰(標高一五七四メートル)がそびえたつ。
自然条件は水利・地層をはじめ農業に適しており、都城盆地北東部の穀倉地帯をなし、山林原野も多く県域有数の狩猟域でもある。
的野正八幡宮の近傍には、古墳二基かあり円墳であるか、古くは町城に二〇数基の古墳が確認されていた。                               78

画像 隼人文化圏における古墳時代迫跡分布図(『隼人世界の島々』小学館)

しかし、近来の諸開発事業により失われたようで、かつて王子山(花木)では、隼人の墓制ともされる地下式横穴墓か発掘され、鉄製刀子などかみつかっている。
地表からおよそニメートルの深さの竪穴を掘り、そこから横に水平に掘り広げ、羨門(横穴墓の入口)と羨道(通路)と玄室(亡骸と副葬品を納める室)を造ってある。
羨門は石塊等を用いて塞ぐ。近年の調査結果では、墳丘をもつ横穴墓も確認されている。霧島山麓の西諸全域で多く発掘され、高原町(日守地下式横穴墓群) ・小林市(尾中原地下式横穴墓) ・野尻町(大萩地下式横穴墓群)など全国的にも珍らしい墳墓という。
えびの市(小木原古墳群、数百基の地下式横穴群を確認)からは、短甲. 頸甲・馬具・剣・刀・鏃.鉾等鉄製武器等の副葬品か発掘され、それらか異常に多いことから、上村俊雄の「南九州の考古学」では、「おそらく対隼人の前線基地であったであろう」と推測している。(『海と列島文化5・隼人世界の島々』)
地下式横穴墓の存在は隣町の高城町をはじめ、西都原や高鍋町あたりまでのびており、山之口町あたりも当然この文化圏に含まれるのである。
的野正八幡宮周辺の地図から、「地名」を瞥見してみよう。なんと「田」のつく地名が多いことか。
小長田・脇ノ田・亀田・柳田・前牟田・川原田・寺田・園田・高川原田・角田・稗田・門田・油田・山田・梅木田・後田・黒上田・高田・久保田・前田等々
この比較的狭い範囲に異状に多いのに気づく。中には苗字(名字) になっている地名もかなりある。
柳田国男によれば「要するに開けば水田に成るべき地」のことを「田代」というとある。
これに従えば、的野八幡宮を囲む周囲は、地形や自然条件からすれば田代地帯であったようで、水田適地ということである。

画像 的野弥五郎どんのふるさとは豊かな田園地帯

つまり新たに開いた墾田地名と解きほぐされよう。
次に多いのは、「原」のつく地名のようである。
京陣原・後原・向原・北川原・木上原・田島原・上森川原・上王子原・下王子原・桑原等々、また、「野」のつく地名に、的野・房野等かある。

画像 的野正八幡宮周辺の集落地名図(字図参照)

画像 的野弥五郎どんの里:秋の風景(富吉)

柳田によれば、
「山・岡・谷・沢・野・原などという語を下に持った地名は、大体皆開発の以前から有ったものと見てよかろうが、其中でも実例か殊に多く、意味に著しい変遷かあったらしいのは”野“ という言葉であった。
(中略)元は野(ノ)というのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。火山活動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国で無いと、見ることの出来ない奇抜な地形であり、之を征御して村を興し家を立てたのも亦一つの我社会の特徴であった。」という。(『地名の研究』)                        79
まさしく適確に的野八幡宮の立地環境を説明しているようでもある。
また、「野」は都に対する外圏部という意味もあり、それでは「的野」の「的」には如何なる意味があるであろうか。
目処とか目標とかの意かあり、本命として狙う標的のことでもある。そして弓神事等で射手を出す家を指す場合もある。現在もこのあたりが有数の狩猟地帯であることからすれば、背後の山々から獲物を追いおとし、狩りの場とした狩猟地名であるかもしれないし、ともかく古くから人々の心をひきつける著名な丘陵地であったことには間違いない。
地名は土地の人々が暮らしの中で、その場所と親和関係を結ぶことによって生ずる親和呼称なのだが、前畑や西畑は畑地のある位置を示し、光神下とか諏訪前・加良神とかいうのは信仰地名だし、ちなみに油田などというのは、社寺に献ずる燈明料を得るために名づけた地名であろう。王子山とか王子原は、かつての有力者を葬った場所を指し示しているのであろう。
富吉川に沿う樋口は、取水口を意味していようし、今別府は新たに追加開墾した地所を指すともいうが、おそらく社寺の封米を担当したところの地名であろう。
新開は新しく開墾した土地、新町は奈良時代に栄えた場所とも伝えているし、新興の場所名であるに違いなかろう。
ここは「弥五郎どん」の浜殿下りの沿線に沿うており、古城の城下や榎木集落は現在も人家が密集していて、往昔の門前町の姿を防彿とさせる。

画像 的野弥五郎どんの浜殿下り(八幡馬場)

二 田園地帯を行く「弥五郎どん」
いつの時代から、「弥五郎どん」の浜殿下りが行われたのか分明しがたいが、的野正八幡宮を出発した行列が眼前に霊峰高千穂峰を仰ぎつつ、墾田地帯を分け行くのに稲作儀礼が伴わないわけがない。

画像 浜殿下りの行列の小荷駄(八幡馬場)

そういった自然環境を背景として、「弥五郎どん」への民俗信仰が生起する。
現在、山之口町内にも十三か所に田の神が祀られていて、豊作の祈願をしている。
享保元年(一七一六)から翌年にかけては、霧島山の噴火により田畑は大被害をうけて不作、享保十七年(一七三二)には蜆が異常発生し、天明・天保の大飢饉へとうち続く。
稲田に害虫が多発生すると、神社では虫祈祷をして虫払いし、虫送り(虫供養)もした。まだ鎮まらぬ隼人の霊がたたり、田螺が時ならぬ発生をし、本来ならば食用とするのだが、余りに余って稲株を食い荒らし、不毛に終わったという伝承もある。
元亀三年(一五七二)法華嶽薬師寺(東諸県郡国富町)の僧侶四十名が、島津家調伏の廉で斬殺され、伊東領内に虫入りの異常を生じ、領民か困窮したという。
五穀は実らず諸寺に祈祷を申しつけたが効験なく、島律義久は代賢和尚を召して大施餓鬼法要を行わせ、天正九年(一五八一)に応験あって、五穀豊穣を成就したとも伝えている。  80
広く伝承されている「実盛送り」、これはサベ虫(銀虫)送りのことで、都城市高崎町縄瀬にも斎藤実盛の供養碑がある。
実盛は平安時代の武将で、合戦中に乗馬が稲の切り株につまづき討死したので、その非業の死の怨念が人々にたたり、稲の害虫となったとも伝えている。

画像 法華嶽薬師寺(宮埼県国富町深年)

画像 斎藤実盛供養碑(都城市高崎町縄瀬)

この供養碑の前で「太鼓踊り」を奉納して実盛の霊を慰め、稲につく害虫を除いてもらう。
山之口町に隣接する高城町有水にも同様の伝承があり、有水殿という非業の死をとけた武将の碑の前で、「太鼓踊り」を奉納して稲につく虫払いをする。
こういった事例はいくつもあるが、隼人族を代表する総大将「弥五郎どん」の非業の死もまた同じで、虫祈祷・虫供養の信仰対象ともなった。
その霊性、威風堂々の姿は「われわれ意識」を高揚させ、隼人の慰霊行事(放生会)でありながら、そこはそれ負性を正性に転換させる庶民の知恵で、こういった機能を「弥五郎どん」に背負って貰った。
肩をいからし大小の太刀を侃き、その仮面(王面)に宿す迫真力こそ、「弥五郎どん」のもつ霊性(仏性)の証ともなった。
「浜殿下り」の行事は、こういった意味でも住民の頼りであったし、和合の要となった。
一方では、語りぐさの種子となり、そこからまたいくつかの話題が生まれ、やがて中心的行事となって集落に定着した。
「弥五郎どん」は彼岸に鎮送されながら、かつ比岸に再生する往復の形代なのである。
「弥五郎どん」は、本来的には鎮送人形であるが、そこに実に無類の多機能を負わされることになる。
あくまでも、この祭りの本質は御霊信仰であり、それゆえに滅びない。逆説的に言えば、御霊信仰が基底にある故に再生しなければならないし、忘れ去ることを阻んでいるのである。
果ては、庶民の英知の結集した勝利の人形ともなるのだ。
はじめは的野正八幡宮の鎮座する富吉村の正近・中原・榎木・窪田・片平が中心の祭祀組織であったろうか、徐々に山ノロ村・花木村か協調し、現代では山之口町全体が関わり、近在の各町までも祭りに加わりつつある。

第五節 的野正八幡宮の絵図を読む
一 『三国名勝図会』の鎮座図と祭式の図
『三国名勝図会』(巻之五十七)の日向国諸県郡の項に、「的野正八幡宮」の条があり、二つの絵図が収められている。
一つは鎮座地の風景描写であり、いま一つは祭式の絵図で、往時(文政・天保年間・およそ一八〇~一七〇年前)の場景や様子を伺うことのできる好個の資料である。
『三国名勝図会』は薩摩藩の藩撰書、文化三年(一八〇六)編述の『薩摩名勝志』(全十九巻)の不備を補うために、再撰することとなり新たに編述された。
そのため藩内各郷に対し調査を依頼、成立したのが『山之口名勝志』(「文政七年申六月・名勝志御糺方ニ付取調帳・日州諸県郡山之口」)である。                81
ただし、『山之口名勝志』にはその元となった絵図を収めていない。おそらく再撰方から原図を求められ、提供したのであったろう。
『三国名勝図会』(全六十巻)に収める絵図はその筆法が酷似しており、藩庁方の絵師が再度筆をとり、描いたのであったろう。
「凡例」には、
「巻中の図画は、旧所有の者に従ふ、故に其所図の処、或は更革して、今や旧時と違へるもあるべし、本府の如きは、間改写するもあり」
と記し、さらに
「然れども自射から其地を渉歴するに非ず、其邑人等に細問し、或は画図を閲して是を記す、看る者其概略なるを知るべし」
と注記している。
この凡例の示すところによると、可能な限り実写(実景)に近いものを求めたことが知られる。
まず、的野正八幡宮の鎮座図である。社殿・鳥居・池之尾社の位置図は現在と殆ど同じ。別当弥勒寺(慶応三年廃寺)の位置も同じである。
現状と比べると、社殿への階が絵図よりやや急である。廃仏毀釈で仁王門(仁王像)は失なわれているが、かつて流鏑馬が行われたという八幡馬場は、すっきりとその筋をのはしている。
境内を見ると、本殿(宝殿)は石積みにして高く、板葺き(桧皮葺?)のようである。並んでいる舞殿は小板葺き、拝殿は茅葺きか。四脚の簡略な造りは小板葺き、ここは受札所か。
本殿左側の楠は、大樹となって今も残る。弥勒寺も茅葺きか板葺きかに見える。

画像 都城市山之口町富吉(『三国名勝図会』)

多く松が描かれているが、これは絵師の常套の描法。参道の向こう側には田畑がのぞまれ、一の鳥居から御手洗池にいたる松は、おそらく現在のように杉であったろう。
御手洗の小島池之尾社で放生の儀礼を行ったとも聞かないので、文字通り的野正八幡宮に参拝する人々が、口をすすぎ手を洗った身浄めの池であったのであろう。
聞くところによると、池中の小島は造作したのであっても、浮島となるのは自然の湧水によるのであるという。

画像 的野弥五郎どんの旅所:池之尾社

二 『山之口名勝志』に「浜殿下り」をさぐる
「次に、的野八幡祭式」の絵図である。社殿を下り二の鳥居を潜り、別当弥勒寺の前に三星の神輿を連ね、「弥五郎どん」が先導しつつ「浜殿下り」に発進する様子である。
『山之口名勝志』には、

一、十月廿五日 御祭
右は御物より御祭米壱斗七升五合相渡り申候。放生会御祭ニ付宝殿内別当弥勒寺住持より相勤、神前社人相勤申候。                              82
無住之靭は外寺住持より宝殿内相勤候。

とある。十月二十五日の放生会には、藩主から祭米の給付があり、別当弥勒寺の僧が主座を勤め、これに社人も加わって執り行う。住僧不在の時は、他の寺から僧を呼び催行する。

一、御代参郷土年寄之内壱人、郷士先供拾弐人井手廻二て参詣仕候。但先年移地頭被差越候節は、地頭より御代参被相勤候。廿四日之夜より翌日迄両度きやうせん弐拾五前ツゝ造酒壱対相備神楽有之候。

この放生会では、代参の郷士・年寄のうちまず郷士が供饌して参拝し、あとじゅんぐり十二人が参拝する。ただし、先年、よそに移った地頭かみえた時は、その地頭から代参役を勤める習わしである。
法会前日の二十四日の夜から当日まで、二度もてなし饗応する。つくり酒一対を準備し備えて神楽がある。これは、放生会の際の寺社側の接待要領である。
次に、「弥五郎どん」の本体及び「浜殿下り」のことについて、細やかに記録している。

一、弥五郎長壱丈弐尺余但竹細工
右は赤塗大面を付、梅染広袖帷子着、同色之帯太刀長八尺脇差三尺帯シ、後ニ三俣大鋒鑓ヲ負、四ツ車ニ為負、八幡宮浜下之節前ニ押行申候。
右由緒八幡世界御退治之硼、被召列第一之勇者ニて御側付之人之由申伝候。

「弥五郎どん」は並はずれた背丈の巨人で、竹細工でつくりあげる。それには赤色塗りの大面をつけ、梅染め広袖の帷巾を着せ、同色の帯をまき、大小の太刀を偏かせる。
背には三つ俣の大鉾を負わせ、四輪車に乗せ、八幡宮浜下りの折、先頭に立たせ押して行く。
右の由緒では、八幡神が顕現し、世治めのために召し連れられた第一の勇者で、側付の人だったと言い伝えている。つまり「弥五郎どん」は、八幡神の随神の姿でとらえられている。
人形の姿・貌は現行のそれとほほ同様であるが、ただ勇者は勇者であったとしても、八幡神つきの側付き用人であったというのは、まず留目しておきたいことである。
八幡宮主催の放生人形なれば、当然の記述として受けとめられようか、この「弥五郎どん」は隼人族の怨霊の代表である。
当事者八幡神側からすればかつて敵対した最強の人物像なのである。「申伝候」と書かざるを得ない「ふるさと意識」の心理も汲んでおきたい。
このことは、八幡神の伴神に仕立てることによって、八幡神の浸透度の強大さをも物語る。(このことは後にふれる)
次には、行列の採り物(持ち物)等について記述している。
一、ま取(纏)壱本
一、鉄砲六挺
一、弓台弐片
一、大不路壱本
一、白熊弐本
一、挟箱弐ツ
一、長刀一振
一、先払弐人
一、小荷駄壱疋
一、立笠壱本
一、うけ笠壱本
右行列天文三年(一五三四)三俣乱之励、八幡宮江深御誓願ニて神領地井行列鏑流馬等被相備候。
右之比より行列年今百姓中より夫々道具相調相備候。鏑流馬之儀は当分無御座候。

右の記録は三俣の乱の折、八幡宮への戦勝の誓願が成就したので、神領地を寄進し、行列をととのえ流鏑馬等も行った。
この頃から、行列に百姓連中がそれぞれ道具(祭具)をととのえて参列したが、流鏑馬は当分の間行われなくなってしまった。
この記録をそのままに読めば「弥五郎どん」の出座は、戦勝祈願のためであり、尚武神の役を担っていることにもなる。
隣地・隣国同士の戦いならは、武の神として出座することは一応納得できるが、「弥五郎行事」という枠内で記載しているので、このことはおおよそ四七〇余年前に遡るということにもなる。
流鏑馬も神事の一つとして執り行っていたのであろうが、すでにもうこの時分から廃絶状況にあったようだ。

画像 流鏑馬:宮崎神宮(宮崎市神宮2丁目)
83
さらに、記録は続いて、
一、棒持大小帯者弐人
一、大面旗二本 但旗頭ニ右面付候
一、大団壱本 但日天月天之絵有之候
一、獅子舞は壱頭社人より守越候
一、路ん子か具免弐人
一、神輿三躰
一、御かひ三本
一、小姓六人
一、鑓六本
一、御幣
一、行司弐人 エボシスリ袴着七八ツ之子供
一、衆僧幾人ニても
右浜下井祭之式右之通御座候。前代都城高木村平江と申所江春日社有之候。彼所迄浜下為有之由申伝候。
当分は的野馬場末池之尾権現宮池之涯江仮殿相調、仮殿迄浜下有之候。右権現之儀御母所共申伝候。
右神輿三鉢之内、中之御輿一之御輿と唱、花之木村圧屋より手道具為持致守護候。弐ノ御輿冨吉村庄屋手道具為持守護いたし候。
花之木村ノ内神領地八幡領菜田・折敷田・香割田・油田と為被究由、右之故一之御輿江相付候由申伝候。于今田畑右之字名申伝候。

右は、「浜殿下り」の行列順による記述ではないか、放生会の祭りを構成する分担役の員数等もわかる。
これによれば、以前は都城盆地中央部の春日神社(現都城市高木町八日町)まで、浜下りしていたという。
同社は和同年間(七〇八-一四)に創建されたと伝える古社で、かつては社殿も大きかったというが、現在は小祠化してしまっている。
ちなみに、「弥五郎どん祭り」には「太郎踊り」を奉納するが、春日神社においても、「ベブ(牛)どん」を奉納しており、ともにこれは豊作祈願の打植え祭りである。

画像 春日神社のべぶどん:かつては的野弥五郎どんはここまで浜殿下りしていた(都城市高木町八日町)

いつの時代のことであったのか年代は特定できないか、以降は的野八幡馬場末の池之尾に仮殿を設けて、浜殿下りするようになった。
ここの権現宮は、応神天皇の母、神功皇后の鎮まり所と伝えている。御輿三基の守護役は、花ノ木村・富吉村の圧屋か主体となって勤める。
花ノ木村の神領地はそれぞれ用途を定め、一の御輿分としたことなどを伝えている。
これは、今にいたるまで田畑の字名(地称)となっているということで名残りをとどめている。
こういった当時の状況をみると、古くからしっかりした祭祀組織をもって「浜殿下り」を行い、旧山之口郷にとっては重要かつ大かかりな行事として、定着していたことが知られる。
まさしく伝統の祭りである。以下、「浜殿下り」に関しては、神輿に掛ける鏡のことなどについての記録や三俣(三叉)鉾の形状等に触れている。

三 的野正八幡宮の祭日について
『山之口名勝志』には、的野八幡宮の祭日についても列記しており、
正月元旦・同七日・同十五日・ニ月朔日・同初卯日・三月三日・四月三日・同十五日・五月五日・六月十五日
・七月七日・同十五日・同廿九日・九月九日・十月廿五日・十一月初卯日・十二月廿五日・同廿九日
と、書き出して示し、「右之通四季之御祭有之候。例日より外十七度御祭二は造酒壱対相備神楽有之候。」と注記している。
的野正八幡では、年間都合十八回の祭りを執り行ない、例祭日(十月廿五日)以外は酒を醸造して御神酒となし、一対を供え神楽を催した。
さらに二月初卯の祭りについて、注記を施しており、田狂言(打植え・太郎踊り)・木刀踊(棒踊り)については、いつの頃から始まったのか、その子細はわからないとも述べている。  84
この二月初卯日の奉納芸能は、現在「弥五郎どん祭り」において新たな芸能、たとえは「棒踊り」につきものの「奴踊り」を加えるなど祝祭芸能として奉納し定着している。
旧暦は新暦に改められたか、一月元旦(元日祭)は年間の平穏無事を祈願し、七日(七五三祭・厄年祓祭)は「七とこ祝い」といって、七歳になった子どもたちか晴れ着姿で的野正八幡に参拝し、お祓いを受ける。

画像 的野正八幡宮にての七草祝い(七とこ祝い)

三月初卯日は春の祈念祭。旧六月十五日頃から旧薩摩藩領の各社では六月燈の季節に入るが、的野正八幡では七月二十五日に夏祭り(六月燈)を行なう。
十一月三日は例大祭の「弥五郎どん祭り」(御神幸祭)、同じく十一月二十三日は秋祭り(新嘗祭)、これこそ、これが本来の豊穣祭(豊歳・方祭)である。( このことについては後述する)
十二月三十一日は除夜祭、年中の無事に感謝し歳神(正月様)を迎える準備をする。
「弥五郎どん祭り」の例大祭は、集落のこういった一年をサイクルとした暮らしの中で、相互の心を結びつけ、行われてきたゆえに年中の行事となり人々の心を支えてきた。
まさしく民衆の和の基盤を獲得させ、それがまた種々の機能を与えられた大人人形の役割ともなったのである。
『山之口名勝志』には、以下、的野八幡の境内社をはじめ山之口郷の各神社に触れるが、牛洪宮をはじめとして春日社(高木村・八幡宮末社)の格護役が、弥勒寺となっているのも注目される。
ただし、池之尾社については、社人とある。
この別当弥勒寺についても『同書』に記録があり、

一、的野山正八幡宮別当真言宗花蔵院 弥勒寺
一、本尊弥勒菩薩
一、寺領高 寄附高 開基之由緒、開山代々之訳相知不申候。当分無住二て御座候。仏鮪米等も無御座候。

とある。『本書』が天保期の調製とすると、すでに一六〇年~七〇年前に弥勒寺は衰微し、住僧もなく仏鮪米等の寄進給付等もない状況であった。

画像 的野正八幡宮の別当寺は第二鳥居の右側に位證していた(弥勒寺跡)

本来的には放生会の儀礼は、弥勒寺の住僧(別当僧)が法主となって執り行う行事である。仏会であるからには、別当寺の僧が核になっていた筈である。
それにしても『同書』には、次のようにも記録している。

一、大林坊多門坊金蔵坊福城坊金光坊、右六ヶ寺的野山弥勒寺脇坊ニて的野馬場左右ニ寺立為有之由、何年間比破壊仕候段相知不申候。右之通寺跡申伝候。

弥勒寺支坊の六坊は、的野正八幡宮への参道左右に立ち並んでいたが、今はその坊跡を伝えているだけである。
それにしても寺院間には、それぞれに交流があったようであるから、郷内修善寺の西之坊や東之坊の住僧も放生会の執行を助成したのであったろう。                 85
ただ、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会も神仏混交の行事であったように、的野八幡宮においても代々の祠宮が全体を掌握し祭りを営んだようである。
「弥五郎どんの館」には、代々の祠官であった亀沢家に対する神祇管領長の発行した延宝八年(一六八〇) 、享保十四年(一七九二) の「神道裁許之状」も残されており、それは近代にまで続いてきたと伺っているので「弥五郎どん祭り」の継承者としての祠官の働きは、それを支えてきた村人たちとともに、称賛されなければならないだろう。

画像 歴代祠宮の神道裁許状(弥五郎どんの館収蔵)

その土地その集落の文化を担ってきた社寺の役目は、まことに意義の深いものがあったと言わなければならない。

四 『古今山之口記録』から絵図を読む
さて、『三国名勝図会』(巻之五十七)に載せる絵図の背景を探る資料として、いまひとつ『古今山之口記録』(的野正八幡宮所蔵)がある。
まず「別当弥勒寺」について
「和銅三年(七〇八)八幡一同二為相建由申伝候。中興開山は盛円法印二て右僧万治二年(一六五八)亥七月六日遷化。」
とある。弥勒寺は八幡宮と同時の建立と伝え、中興開山は盛円法印で、万治二年に亡くなった。(開創当時の僧名は不明。)と、いったことから筆を起こし、境内の結構については、「宮殿(石居)・茶之間(石居).庫裡(堀立)・本門壱宇(石居)・本地堂(石居)」とあって、いずれも茅葺きとある。
「石居」とは、土台石を置いて柱を建てていることであろう。『名勝志』には板葺きともあったか、それ以前はすべて茅葺きだった。
これらは当住僧の手によって、そこには種々の出入りがあったようであるが、修造したことをはじめ、延享二年(一七四五)に成就したと記す。
そのほか盛円法印入寂後の寺領高を大豆高により示すが、脇坊は『名勝志』と同じく六坊であっても、坊名を異にしている。
常慶坊がそれであり、のちの満蔵坊のことであろうか。これは、寛永十一年(一六三四)の記録である。
以下、本寺大乗院宛に弥勒寺が差し出した種々の文書の写しを収めているが、盛円時代にまつわる文書が大半である。
祭りについても記録があり、『古今山之口記録』『山之口名勝志』の両書はほぼ同じであるが、前者には注記がある。いま注記あるもののみを示すと、

的野正八幡 三俣宗廟
御祭年ニ拾八ヶ度之事
「十月廿五日施生絵御祭米能米壱斗七升五合御物より相渡候」
とあり、あり、これは前述の通り、放生会を営むに当たって、祭米を藩主より授かったということ。
「正月元日・同七日・同十五日・ニ月朔日・ニ月初卯日・三月三日・四月十五日・五月五日・六月十五日・七月十五日・十月廿五日・十一月初卯日」
の祭りについては、神前方頭取からの分担が決められていた。
四月三日・七月七日・九月九日の祭りは「神前方内侍より相勤候」とあり、七月廿九日の祭りは「神前方権祝子より相勤候」とある。
十二月の祭りは「神前方惣社人中より相勤候」とあり、さらに「右之外二季彼岸初中後御祭有、年ニ拾八ヶ度之御祭ニて候」とその司祭役を付記している。
さらに、的野正八幡宮の境内の建物についても触れており、いつの補修になったのかは明白ではないが、『名勝志』の記録は、『古今山之口記録』から書写したもののようである。  86
他に注目しておくべき記載に、
「鐘楼堂壱宇明暦年間(一六五五-五八)迄ハ有之候得共、御取除ニ相成候」
とあり、『一云一国名勝図会』(巻之五十七)の絵図にはみえない。神社神道の権勢により、仏道色が徐々に除かれているようである。
また、「浜下り行列之次第」についても所載しており、

一、先払
一、小荷駄
一、鷹弐羽
一、備鉄但母衣十本
一、弓台十片
一、鉄砲拾挺前袋入
一、立筒
一、間印
一、対挾箱
一、対鑓
一、大母衣
一、請笠
一、立笠是より
一、獅子舞
一、論子弐人
一、御輿三躰
一、五かい三本
一、御幡
一、別当僧
一、番ノ幾人ニても

とある。。これを、先に挙げた『名勝志』の記載するところと比べてみると、ほとんどは一致しているか、より『名勝志』の方が念入りな記載である。
『古今山之口記録』に典拠を求めて、のち現状に合わせ加筆したのであろう。相違点を二、三例示しておくと、

・古今山之口記録…弥五郎人形についての長の記載、造鉢についての「竹細工」の記載かない。由緒について「八幡世界御退治」の記事を含まない。
採り物について、鉄砲十挺とある。論子(師)式人とある。論師とは、仏教に通じた人の意。番ノ僧は、幾人にてもとある。番ノ僧は、仏堂(堂守)を守る輪番僧。
全体的には、より仏教色を濃くとどめているようである。
・山之口名勝志・・・採り物について、鉄砲六挺とある。天文三年(一五三五)の三俣の乱については簡略に示す。
大面旗三本・小姓六名・鑓六本・行司式人(論師に相当か、行事の世話役)但し、これは子ども役とある。「衆僧幾人ニても」とあり、番ノ僧に相当しようか、衆僧は一般的には多くの僧侶のこと。

そこで、『三国名勝図会』(巻之五十七)の「祭式之図」を再見してみると、「浜殿下りの行列」には、おおよそ八〇名の諸役が描かれていて賑々しい。

画像 『三国名勝図会』

しずしずとゆく道行きではなく、まるで動画をみているようでもある。これに、参拝客(観衆)が加わっていることを想像すると、当時から大きな祭りであったことは確かである。
まず、四つ輪の台車に乗せられた「弥五郎どん」を子どもたちが曳き押して、景気をつける姿も躍動的だし、台車には梶棒もつけられている。
道(神幸路)は今のように平坦ではなかっただろうし、車輪を抑す姿も描かれている。
「弥五郎どん」は立烏帽子、背に負った三刃の鉾は描かれていない。
続いて二人の先払い、小荷駄・弓台二片・鉄砲六挺の組が進む。帯刀姿の二人か担ぐ挾箱、さらに長刀一振、大不路一本、請笠・白熊の下には獅子舞の二人とつづき、鑓に懸け面を結んだ大面旗、ま取(纏)を風になびかせなから、行列が池之尾の中島に向かう「浜殿下り」の様子である。
二の鳥居を潜る葱花輦は一の神輿、つづく二の神輿、守護する六本の直槍、中には三刃の鑓もみえる。それぞれの神輿には、ぴったりと祠官(神職)が寄り添う。
階を下る行列の中には、日天・月天の姿を描いた大団旗も見えて、三の神輿は松樹の下にかかっている。
ざっとこんな風に絵図を読み解くことができようが、それにしても、なんと武具の多いことか。                                  87

画像 三基の神輿を先導する二人の猿田彦大神(的野正八幡宮)

これについては『古今山之口記録』に、
天文二年(一五三三)三俣乱ニ北郷殿、的野八幡宮江御祈誓被成候は三俣北郷之手ニ入候ハゝ御祭浜下リ御輿先ニ武具弓鉄抱長柄等、
武家如行列相備、且ハ鏑流馬可仕と御立願ニ候得は三股本郷手ニ入、初て八幡宮ニ参詣之時軍勢五千人引率シ、御参詣為被成事二て于今余宮浜下リニハ相替、武具を相備候ハ古例二て候。
とある。北郷殿とは、都城島津家八代の忠相のこと。
忠相は天文二年(一五三三)伊東氏八外城(山之口・高城・有水・桜木・三俣・樺山・勝岡・野々美谷)を領有すべく、的野八幡宮に参詣立願した。
翌年、伊東領のうち樺山・山之ロ・勝岡を獲得し、やがて高城を入手、都城盆地支配の実権を握った。
忠相は神仏に篤い人物としても知られているが、この時も応験あって、軍勢五千人を率き連れて的野正八幡に参詣、「浜下り」には武具を備え流鏑馬も行なうと誓約し実行、これが古列となった。
顧成就の武者行列が加わるようになったというのである。
これは、信心厚い忠相が八幡神を「尚武の神」として崇敬していたことを物語るもので、伊東氏もそうであったが、神仏に立願して事をなすことはよく行われたのであった。
八幡信仰は八幡神の威光を喧伝する戦神と、放生会の鎮魂行事が表裏一体となって、諸国に流布したのだった。
隼人族の悲劇が生じたのは往昔のこと、その実話・伝承も風化しつつあり、近郷近在の合戦では、もはや「尚武の神」としての神性の方が強く認知されていた。
それにしても「浜殿下り」の先導役は、最期をかけて強靱な精神力で抗戦した「弥五郎どん」である。中央政権に帰順し伏していたならば、おそらく今に伝わる「弥五郎どん祭り」はなかったであろう。
こういった捉え方からすれば、当然ここ山之口の里が隼人の文化圏にあり、隼人社会の住民である意識が多分に祭りを支えてきたのであったろう。
言ってみれば、この天文年間(一五三二-五五)以前、つまり四七〇年前の祭りは、あるいはもっと放生会の色合いが濃いものであったろう。
『古今山之口記録』の「行列次第にも「別当僧」「番ノ僧」とみえるし、『名勝志』にも「衆僧」などとみえるが、ただ、「祭式之図」には僧侶の姿を探しようもない。   88
あるいは、薩摩藩の姿勢が反映しているのかも知れない。
「弥五郎どん祭り」に武具持ちか登場することについては、『古今山之口記録』の記事を踏襲したのであろう、『名勝志』にも同等の記事を載せている。
『三国名勝図会』(巻之五十七)にも「其儀衛の中、多くの武具を用ゆ、是は北郷忠相、当邑を傾するの時始る」と記している。
『日向郷士事典』も「的野八幡宮」の項に、同じ記事を載せている。

画像 『古今山之口記録』(的野正八幡宮蔵)

画像 『古今山之口記録』(的野正八幡宮蔵)

この典拠となっている『古今山之口記録』は、いつの頃に書かれたものであろうか。
後尾が欠損しているので、年代を確定する資料に乏しいが、これが藩撰書編纂の求めに応じて、まとめられたものであることは間違いない。
そこで、薩摩藩には『三国名勝図会』の先行類書に『薩摩名勝志』(全十九巻)がある。
この編纂のための藩内各郷への示達調査は、安永九年(一七八〇) から寛政初年にかけて行われ、文化三年(一八〇六)編纂の作業を終え、藩主に献呈されている。
このことは、再撰報告資料『高岡名勝志』の追録部分の記事で知ることかできる。
おそらく『薩摩名勝志』編纂示達を受けて、まとめられたのが『古今山之口記録』であろうから、その成立は文化三年(一八〇六)以前となる。
編纂事情を考慮に入れると、多分寛政期(一七八九-一八〇一) 頃が妥当するであろうか。今から数えて、二一〇年前頃の記録であろう。

五 「浜下り」類似のこと
いま一つ、加筆しておきたいことがある。薩摩藩領における強大な信仰基盤に諏訪信仰がある。
的野正八幡宮の近在に四諏訪神社があり、上下諏訪大明神社(南方神社)=山之口町花木・諏訪上下大明神社(諏訪神社)=高城町穂満坊・諏訪大明神社(南方神社)=高城町桜木・諏訪大明神社(南方神社)=高木町諏訪原がその四社である。
これら各社には、諏訪信仰の地方的展開を示す「献上馬」の祭りを伝えている。ちなみに、高城町穂満坊の社は北郷忠相の再建という。
伝えるところによれば、文禄・慶長の役の折、島津氏は出陣するに当たって崇敬する諏訪神社に戦勝を祈願をした。                            89
願が成就したので、願ほどきのために神馬を献上し、神舞を奉納、守護の諏訪神に感謝したとか。その折の大名行列を模したものが献上馬だという。
四社の神幸行列には、多少の違いも見受けられるが、行列員数は七〇余名を数えて実に盛大である。
この神幸行列には、神輿はないものの馬上の稚児が「よりまし」となって、諏訪神の神霊役をつとめる。

画像 諏訪信仰の献上馬(都城市高城町桜木:南方神社)

神幸行列を先導する「棒つき」は、いわば物言う「弥五郎どん」風であるし、弓一対・鉄砲一対・ほろ(母衣)槍一対・まとい一対・おほろ(大不路)一対・うけがさ(請笠)一対・はぐま(白熊)一対・挟箱一対・荷駄(四人つき)・長刀等々の採り物をみるとまことに類似点か多い。
しかも荷駄つきの四人か交互に歌う馬方節(馬子唄)は都ぶりの歌詞を含み、発ち歌もまた「弥五郎どん祭り」のそれと同じである。
「弥五郎どん祭り」をはじめ、「献上馬」祭りは都城盆地の北東部の比較的狭い範囲に集中しており、相互に影響しあったことが伺われる。
いずれも水利のよい穀倉地帯に位置しており、祭りを支える地盤もととのっていたと言わなければならない。

第六節 弥五郎人形の巨人化
一 猿田彦大神と王面行事と「弥五郎どん」

・岩川八幡・弥五郎=身の長け一丈六尺=大人弥五郎
武内宿祢とも。(『三国名勝図会』)
・田ノ上八幡・弥五郎=長一丈有半ノ偶人=長人弥五郎
稲積弥五郎・武内宿祢とも。(『日向地誌』)
・的野八幡・弥五郎=長壱丈弐尺余=大人弥五郎
後に竹内宿祢も浮上(『的野神社神官定極帳簿』)

とあり、いずれも一丈(約三・〇三メートル)を越える背丈である。「弥五郎どん」はなぜ大きいのか。なぜ巨人化したのか。熊襲・隼人の偶像的なシンボルといえばそれまでだが、その霊性の巨大化について、二、三考えてみることにしよう。(武内宿祢説が三社にまとわりつくのは、隼人側からすれは必ずしも原初的ではないとも察せられるので、これについては後述する。)

「神幸行列の先導役は、普通には猿田彦命(猿田彦大神)である。天孫・慶慶杵尊は、猿田彦命を案内役として降臨する。
猿田彦は『記紀』によれば、「身丈か高く赤ら顔で鼻高く、眼はかっと見開き、その輝く姿はほおづきのようだ」と記され、天狗にも擬される。神楽の道行きでも露払いの役をつとめ、高千穂神楽などでも一番舞は「彦舞」である。                         90
道開きの神として、あるいは道祖神としても祀られ、長寿祈顧の対象ともなっている。

画像 猿田彦大神(『日本の神々の事典』学習研究社)

画像 舞い入れの道ゆき神楽で先導をつとめる猿田彦大神(高千穂神楽)

祭りの折神輿の先頭に立ち、赤ら顔の猿面の神こそ猿田彦命である。
的野正八幡の「弥五郎どん祭り」では、「弥五郎どん」を先頭にして、のちに続く三基の神輿にはふたりの猿田彦命が先払い・案内役としてつく。
三神の神輿を導くかたちをとっており、いわば二段区切りの編成をとっている。神話のふるさと「山之口の里」では、眼前に天孫降臨の霊峰・高千穂峰を仰ぐ。
「弥五郎どん」が神話意識の中で、猿田彦大神信仰と習合したとも考えられる。「弥五郎どん」行事を伝える三社は、すべて霧島信仰圏内にある。
かつて真幸一帯(えびの市)の宗廟であった香取神社の祭りでは、天宮神社への神幸の際に武具に吹き流しをつけ神面を結びつけているが、これは猿田彦命であり、先払いの役をつとめている。

画像 猿田彦大神役をつとめる行道面(えびの市飯野今西:香取神社)

的野正八幡宮の「祭式之図」にみる大面旗も行列にまぎれこんではいるが、この類である。
そこで、久しく「弥五郎どん祭り」の継承・発展にご尽力の中元工禮の書面に
「浜殿下り行列の形態を見ると、前半が弥五郎にまつわる放生会、後半が八幡神の御神幸行列となっているように見える。
行列の途中に的野正八幡の旗があり、その旗の前に猿田彦がおって御神幸の案内をしている。
放生会では弥五郎どんが主人公で、御神幸行列では御神輿三体が中心で、浜殿下りでは弥五郎どんの放生会行列と御神幸行列が―つになっているように思える。」とある。
「的之八幡祭式之図」をみると、このことはその通りに読みとれるし、その初原の形態がどのようであったかはさぐる記録がないので分明しがたい。
ただ、後々にその前後関係はともかく「弥五郎どん」が、武内宿祢に変えられて登場する歴史的背景からすれは、国家神道・神社神道の浸透による影響とも考えられる。
また、放生会そのものの根幹か仏教の行事でありながら、神仏混合のかたちで諸国に流布したことにもよるところがあろう。
「祭式之図」をつぶさに見ると、神道的行事と仏教的行事か組み合わさっていることが読みとれる。
この行事の変遷については、さらに検討してみる必要があるが、本来庶民にとっては神仏混交は当り前のこと、日常の習俗ともなっているのであって、これについての実例はいくらでも挙げることができる。
的野正八幡別当等も幕末にはすでに廃絶しているし、支坊の六坊はそれよりはるか以前に廃されていた。そういった往時の状況からすると、神道色をより強めながら、祭祀は集落の行事として、維持されてきたのであった。                           91

画像 弥五郎どんを先に送り、猿田彦大神を先頭に神社旗と続き、三基の神輿の第二行列がすすむ(的野正八幡宮)

先に述べた猿田彦命(神面)か、神幸行列の先導となる例はかなり多い。いま、大隅半島の事例を挙げてみると、

■安楽神社(志布志市安楽)・・・打植え祭(二月)・浜下り(九月)。古くは、山口六社大明神社と称した。
■高尾神社(肝付郡肝付町内之浦)・・・かつて五社詣りの神幸の折、ハナタカ面(猿田彦)が先導した。
■平田神社(肝付郡肝付町内之浦)・・・夏越祭(旧六月二十九日)に、ハナタカドンが浜下りする。(海浜祭)
などがあり、
■投谷八幡神社(曽於市大隅町)・・・玉子御神幸(十月十五日)・・・『三国名勝図会』(巻之三十六)に、正祭八月十五日とあり、
『薩隅日地理纂考』(十八之巻)には浜下りについて「神王面及び御鉾等を両所に分けて守り下る。」とあり、これも神面の御幸である。
■止上神社(霧島市国分重久)・・・王の御幸

画像 霧島氏国分重久(『三国名勝図会』)

『薩隅日地理纂考』(十七之巻)によると、すでに慶長(一五九六-一六一五)の頃に王の御幸は廃絶しているようであるが、その姿は神面に麻の神衣を着け天冠をいただき、宝剣を帯していた。
その由緒について
「王ノ御幸トハ往古たたり熊製帥力霊魂祟ヲナシテ人民禍ヲ被ル故二景行天皇熊曽退治ノ行装ヲナシ霊魂ヲ鎮メシトイフ。」
とあって、毎年正月十四日に「贄祭」を行い、初狩の獲物の固を供憫して熊製・隼人の霊を祭った。
また、「一説に隼人ヲ誅セシ時ノ故事ヲ伝習ストイフ」ともある。前者は王権側が執行する放生の儀の説明であり、後者は動物供犠つまり血祭りによる霊鎮めである。
ここには、かつての王の御幸に用いられたという神面(王面)も伝えられている。
また、同社には別当寺の修験僧・覚遍法印が彫作したといわれる呵畔一対の王面も伝存している。それは、ここ隼人塚のある神霊的な磁場において、形づくられた神面の宿命的な表現でもあったろう。

画像 止神神社(霧島市国分重久)

■諏訪神社(都城市庄内町)・・・熊襲踊り
止上神社の王の御幸と、同様の伝承「社伝」をもつ。景行天皇の御代、熊襲は朝廷(中央政庁)に服さなかったので、日本武尊に命じて首長の熊襲果帥を討たせた。
「熊襲踊り」は、熊襲の最期の姿を象ったともいい、熊襲の戚亡を喜ぶ村人の表現だなどともいう。
熊襲・隼人は南九州の人々にとっては、いわは悲劇を秘めた先祖である。その装束は、鬼神面や切顎の面をつけ、竹輪のバラ太鼓を前結びに抱いた異様さで知られている。
打ち鳴らすバラ太鼓の音は哀韻を帯び、それは浮はれぬ先祖の霊を慰める鎮送の芸能であろう。技術史の上からは、竹文化に生きた熊襲・隼人の誇りともすべき芸能である。
他にもバラ太鼓踊りはあるか、三社に伝わる「弥五郎どん」の体雅も竹細具で作りあげる。                                           92
竹による製作ならば荒目の草刈り籠などから、精緻な茶ベロなどまで、どのような形状でも操り得るのが隼人の技でもあった。

画像 熊襲踊り(都城市庄内町:諏訪神社)

画像 隼人の技:漁具のウグイ(宮崎県総合博物館収蔵)

■霧島神宮(霧島市霧島町)・・・メンドンマワイ
本来は、霧島神宮(西御在所権現)の祖神とされる野上六社権現社の行事。
今は御神体を笈に入れて、春秋二回巡幸するが、メンドンとは面殿で、おそらくはこれも猿田彦命が先導したのであろう。
ちなみに、「メンドンが来っど」などといって子どもを泣き止ませる習俗もあった。
天孫降臨を先導する猿田彦命は、背の長七尺あまり、実に七尋というくらいに大きく、眼は八廻鏡のようで、照り輝く様子は赤酸醤に似ている大男である。

画像 種々の伝統行事を伝える霧島神宮(霧島市)

「弥五郎どん」にも、こういったよく知られていた先導者としての猿田彦命の映像が投影されているのかも知れない。
ともかく神面(王面)を行列に加えるといった巡幸の祭祀形態は、随分と古くから行われていたようで、「弥五郎どん」の「浜殿下り」も同様の素地をもつものと理解されよう。
向山勝貞は「巡行する仮面」(「隼人文化」第二号)のなかで、「八幡信仰と仮面神巡行」の項を設け、
「古代大和国家の勢力浸透は、九州土着の信仰である八幡信仰というものを媒介として行われ、八幡は、土着の在来の信仰行事を自己の信仰体系の中に摂取することで、
神権的支配の浸透をはかったのである。八幡信仰固有の神事とされる放生会も、そうしたものの一つではなかろうか。
仮にそうでなくても、この神事が隼人征伐との関連で説明されていることは、やはり看過することはできない。
仮面神信仰の習俗は、隼人社会に元米存在したもので、古代大和王権の象徴としての八幡信仰が、これを自己の信仰体系の中に組み入れることによって、南九州隼人社会の支配を目指したのである。
(中略)”仮面神の巡行“も、中世になれば、政治的支配権の行使という実効力を失い単なる古めかしい神事として、各地の神社にその残影を止めることになる。」
と述べている。支配・服従の関係からみると確かにそうであろうが、隼人側の心意伝承の上からみると、必ずしもそう簡単には片づけられないようである。             93
結果からみての隼人帰順説に従うならば、正解であろうが、対抗・抗戦の土着意識でもってすれば、容易に納得はできない。
確かに隼人の独立的な領土は成立しなかったが、その交戦謂は南九州の各地に残されている。
ことごとく激戦・苦闘のそこまでで伝承は終結し、その後すべてが王権色で塗りつぶされるといった展開である。
中央政庁の政治的脚色とでも言えるようだが、しかし隼人に関わる祭祀行事は、その一部であったとしても根づよく残されている。
いま、三社に伝わる「弥五郎どん祭り」も、この事例と言わなければならない。
例えば、霧島六所権現の思想を位置づけた性空上人が、つい昨日の人のように親しみをこめ「性空さん」と呼ばれるように、「弥五郎どん」も意識の昇華現象の中で、親しく「弥五郎どん」として生きつづけているのである。

画像 霧島六所権現の思想を実現した性空上人石像(宮崎県高原町蒲牟田)

統率力があり、それなりの頷民に対する信頼がなければ、郷土意識の中では再生でき褐ない。でなければ「弥五郎どん」も南九州の信仰対象の人形として語り継がれることもなかったのである。
そして、「弥五郎どん」の背丈も「一丈二尺余」にまでは、成長しなかったのである。

二 巨石信仰と「弥五郎どん」
いま一つ考えてみたいことは、自然信仰との関わりである。初原的に人々は、奇岩(石体神)とか巨石等に対しては、常ならぬ心情を働かせる。
ここでは「巨石信仰」について、二、三の事例を挙けてみたい。
• 投谷八幡(曽於市大隅町)・・・御石体(重ね石)大隅正八幡(国分八幡)を勧請したという、同社境内の左手上方に大石二つかある。
『三国名勝図会』(巻之三十六)には「当社より申の方、二十間余の巌壁に、大ひなる石三つあり、是を石躰といふ。」とある。
現在は「石体神社」として祀られており、三つあったという一つの巨石の跡は、大きな窪地となっている。

画像 曽於市大隅町大谷(『三国名勝図会』)

•天狗岩(えびの市西川北)・・・田の神祭り・山神祭り
天狗岩と称し巨巌・巨石を信仰対象としているところは、牧挙にいとまないほどである。これは、その事例の一つ。

•端山寺跡(えびの市大河平)・・・狗留孫仏
栄西禅師を開祖と伝え、狗留孫権現(羽山積神社)の別当寺で里坊を持ち、かつては女人禁制であった。
ここでは、直立した巨石を石率都婆(観音石)と称し、これを拝む者は無始の罪障を消滅し、仏果を得るといわれる。
かつては六〇余州納経の地として知られ、修行者が跡を絶つことがなかった。狗留孫霊場は行場としても知られ、種々の儀礼を伝えている。
まさしくこの霊場の信仰のシンボルが巨石であり、これを仰ぐことにはじまる原始感覚にあることを注目しておきたい。

画像 巨石信仰:狗留孫の石率都婆(えびの市大河平)

•母智丘神社(都城市横市町)・・・石無礼・石峯
古くは石苓稲荷明神と称し、豊受昆売神・大年神を祀る。
「頂上には巨大なる岩石多数累列せるに依り、一に石無膿又は石客の名に呼ばれた」(『宮崎県史跡調査書』)
とあり、五穀成就ことに家畜守護の神として信仰されてきた。                                                   94
『日向国神祗史料』には「豊受大神を奉祀して、母智丘大明神と称す(中略)丘上稲荷石と称する二個の大石あり、一は周囲十丈一尺にして、他ハ五丈七尺四寸、磁石性を帯ぶ」ともある。

•鵜戸神宮(日南市宮浦)・・・岩座・大石窟
神武天皇(若御毛沼命)の父、鵜葺草不合命を主祭神として祀るが、社殿そのものが岩座の洞窟内に鎮座。眼下数丈の絶壁には太平洋の怒濤が打ち寄せ、御船岩・ニ柱岩・夫婦岩といった奇岩がそそりたつ。中でも黒潮洗う霊石の亀石は、豊玉姫(海神)との結婚諏を伝える神石として語られる。
つまり亀石は海彼憧憬のつなぎ役として、社殿眼下に在る信仰石なのである。

画像 多くの巨岩の伝承がある鵜戸神宮(日南市宮浦)

いずれにしても巨大なるものは、それがたとえ自然石であったとしても、始源的には人々の心理に働きかける霊性をもち、物語りを派生させる。
巨大であることは、それだけで霊威を発揮し、創造を太らせる。アニミズム的な感覚でもって環境を理解し、そこに霊性(仏性)を見出すのである。
その対象が動くものであれば、その心理的な働きかけ(呪力性)は一層増大する。これに人間の形状を与えるならば、さらにその霊力は強靱に発揮され、迫真力を身につけることになる。
環境-自然的・歴史的-民俗社会的-に巨人伝説か生まれ、鬼八だの弥五郎だの大王どんなどといった、一面では英雄の面影をとどめながら、地域社会に登場し、在地色を強める。
大きいもの、長大なるものあるいは雄大なるもの、そういった「大」の原質をもつ対象は威光を帯ぴ、一方では畏怖の念を抱かせる。
その本体となるものがいかなる事由を帯びて顕現してきたのか。そうして、祭られる対象となったのか。
「弥五郎どん」を仲介として、考え合わせると中央政庁の施策的な統治意識と対峙する地域民俗社会のせめぎあいもあった筈である。
いわは同調と抵抗のより合わせが「弥五郎どん祭り」を維持させてきたとも言えるであろう。

三 王面が「弥五郎どん」を巨人化させたか
心理・心情的な巨人化もさることながら、いますこし巨体化について考えてみる必要もある。事例をあげてみる。
生目神社(宮崎市生目)は、生目八幡宮といい、天喜年間(一〇五三-五七)には宇佐八幡宮領浮田荘が開発されて、宇佐神を勧請した。(『宇佐大鏡』)同社の「社伝」によると熊製征討の途次、景行天皇は父君の命日にたまたまここで慰霊祭を営まれ、これを土地の人々が歓迎し聖地と定め、奉斎するようになったとある。
生目神社には、宝治二年(一二四八)の大面(王面)と、同じく天文五年(一五三六)の神面を伝えている。                             95
これには、ともに紐孔がなく、奉納した守護面であろう。両面ともに墨書銘があり寄進者名も明らかである。

画像 生目八幡の王面(宮崎市生目)

王面と称されるものは、霧島山麓を中心に相当数残されている。
まず、「弥五郎面」と称する勝栗神社(姶良郡湧水町)蔵の王面は永正十四年(一五一七)の墨書銘をもつ。

画像 勝栗神社の弥五郎面(鹿児島県勇水町)

以下王面の類について簡略に示すと、

•菅原神社(えびの市西川北)・・・阿吽二面、ともに文明十一年(一四七九)の墨書銘をもつ。
さらに同社には、これも守護面であろうか、明和四年(一七九六)の刻書銘をもつ阿吽の一対がある。

画像 阿吽の守護面(えびの市西川北:菅原神社蔵)

•輿玉神社(都城市安久)・・・阿吽一対、ともに天文十年(一五四一)の墨書銘をもつ。

画像 阿吽の王面(都城市安久:輿玉神社蔵)

これらのほか
•澤田神社(曽於市財部町)・・・阿叫一対(永正十年) 、別に阿面のみの銘入りもある。

•蒲生八幡(錦江市蒲生町)・・・阿面(明応二年)また、阿吽一対(明応六年) も同社蔵

•若宮神社(志布志市志布志町)・・・阿吽一対(天文十五年)

•安良神社(霧島市横川町)・・・吽面(貞和五年)。

•止上神社(霧島市国分重久)・・・吽面(明応四年)と阿吽一対も蔵し、阿面(慶長十四年)・吽面(元和六年)の奉納である。

挙けていくときりかないか、王面と称するものには阿叫一対の面か多い。着色面が多く、またそうでないものもある。「弥五郎どん祭り」に出座する三社の「弥五郎面」もこの類とされている。
王面については、『日向古美術展図録』(宮崎県総合博物館)にもかなりの数か収められており、紹介されていないものを含めると、相当数にのぼる。
それらの王面は、士地の仏師や修験者による彫作が多く、守護面(柱面)として奉納され、魔除け等の祈願をこめたもののようである。平安時代の末頃から流布した「王の舞」が南九州域にも伝播していた。
全国各地の芸能等の分布や様態をみると、それかどのような寺社との関わりで取り込まれたのか詳細はつかみにくいにしても、一般的には「王の舞」と称する芸能は、赤い鼻高面を着け、鉾を採り物にして反閑のしぐさをみせる。
おそらく外来系の芸能であろうが、これもまた祭礼の先導役をつとめ、祓い浄める役を担っている。鉾を杖にした、「弥五郎どん」の姿とはよく似ている。
そこで、王面か動き出すとどうなるのか。神道側から言えば、「神幸面」となり、仏道側から言えは「行道面」となり、神仏混交の両側から言えば「神王面」となろう。
これに眼孔を開け、鼻孔を開けて人か着面するとなれば、人間そのものか着面を通して「依りまし」となる。(神楽などはこれである。)
仮面を大面旗のように棒状のものに懸けて、祭礼に加わるとなれは「依り代」となる。どちらも現今の祭礼においては、見かける神幸形態である。
王面の形状は比較的に大きく、眼孔・鼻孔・耳孔のないものもあり、これを祭礼の中で動かすには、面を支える導引役(脇役)が必要となる。                96
的野正八幡宮の「弥五郎面」をみると、伝来の赤面の形状は、
五五・五センチx四二・五センチ
次に用いられた白面は、
六七・五センチ×四五・〇センチ
現在用いている赤面は、
六〇・〇センチX四一・五吐センチ
田ノ上八幡・岩川八幡のそれはさらに大きい。

画像 的野弥五郎どん赤面:旧面(弥五郎どんの館蔵)

画像 的野弥五郎どん白面(弥五郎どんの館蔵)

これを神性(仏性)の依ります形状に仕立て、浜下りさせるには、仮面(王面)に合わせて体躯も巨大に造作しなければならない。
巨大化すれば、それはまたそれだけの信仰上の威力を発現させることにもなる。
「弥五郎どん」面は、いずれもいかめしい面相である。隼人を意識させるために威厳を持たせる、一方では土地に親しい人間の姿で、出座させなけれはならない。
これについては歴史的・民俗的側面から「弥五郎人形」を創出した英知こそ、ふるさとを愛した人々の立つ位置であったと理解したい。
八幡系の神社に伝承されるこれらの祭祀行事に、八幡神がその信仰圏を拡大しつつ地方に進出してきて、その地域の神々を伴神化しようとしたこと、ある意味では政治的・宗教的な行為も理解できるが、そこに「弥五郎どん」といったいわば郷土意識の心象が結晶した偶像を仕立てたことに深い意味あいがあろう。
それは、熊襲・隼人の居住地であった事実を、こよなく重くみた庶民の知恵であったともいえるであろう。

四 説話の「弥五郎どん」と祭りの「弥五郎どん」
弥五郎塚(児湯郡新富町)は新田原古墳群の中でも最大のもので、主軸の長さが九五メートルもある前方後円墳である。

画像 新田原古墳群:弥五郎塚(宮崎県新富町)

ここの弥五郎塚が、固有の伝承をもっている訳ではない。ただ古墳群中では最大であるということで、命名されたようである。
このあたりは円墳・横穴墓・地下式横穴墓の共存する地帯で、特に南九州の墳墓を特色づける地下式横穴墓(隼人の墓制)からは、蓋つきの須恵器・耳環刀子などが出土(蔵薗第二遺跡)しており、ここも隼人文化圏にあったと考えられる。
それに「大人弥五郎伝説」はここらあたりが北限であり、それらとの相関は別として、弥五郎と称する巨人伝説は大隅半島に色濃く語られている。
強いていえは、隼人の本貫地を核にして、その周圏に伝承されているということである。
熊襲・隼人の暮らしと関わっているのかは別として、「弥五郎伝説」は神話に類する随分と古い話のようで、これと習合して放生人形「弥五郎どん」が巨大化したことも考えられないことはない。
ただ、大人弥五郎の伝説が宇佐八幡や石清水八幡の影響から生じた物語りではないことは確かである。
つまり八幡信仰の中には、弥五郎は不在である。そうすれば、弥五郎は地主神的な性格を帯びて、往時の暮らしを反映した巨人像として捉えなければならない。
弥五郎は南九州専属の人物像ではないけれども、集中的に大隅半島を中心として分布していることには注目してよい。                          97
仮に物語りが先行していても、祭祀行事が先行していたとしても、あたかも漸近線のように接点を求めつづけてきたのか、該当地に居住する人々の思いであろう。(大人弥五郎については、柳田説・折口説もあるので後述する)
次に「弥五郎伝説」について、その事例をいくつか示してみよう。
ただ、それらは民話風に地言葉(方言)で語り継がれているので、ここでは話の骨子(要点)のみにとどめる。

◆七股弥五郎(児湯郡川南町付近)・・・弥五郎どんは南の方の人で、その人の足跡が川南の通浜と都農の新田に残っている。
日向灘を七股で歩くほどの大男で、尾鈴山に座ると、一方の足か飫肥にとどいたという。

◆木原弥五郎(宮崎郡清武町付近)・・・今泉には、弥五郎どんの力持ち石の岩が残っている。
近くの農家の人が土堤か崩れて困っていたので、丸目山の頂上から大石を運んで来て、溝の土堤を修復した。ある時、延岡方而からの帰途草鞘の緒か切れた。
飫肥の殿様か急用で戻れということで、困った弥五郎どんは、村人に生藁で草娃を作って貰って助かった。生藁が木原という地名になった。

◆鰐塚弥五郎(宮崎市田野町付近)・・・鰐塚山に登って、雷様をかきまぜた弥五郎どんは井倉に足をのばして、台地に窪地をつくった。井倉にはその足跡が残っている。

◆三跨弥五郎(霧鳥山麓.都城盆地)・・・弥五郎どんは、霧島山に三歩で登ると豪語した。狭野権現社と皇子原を踏んまえで跳んで登るということであった。
近くの人たちが罰があたるというので、権現さまがさし止めた。

画像 狭野から雪のすだれる霧島山を望む(高原町)

画像 狭野権現:狭野神社(高原町蒲牟田)

◆一畚弥五郎(都城市山之口町近在)・・・弥五郎どんが一畚で、運んできて土をひっくり返すと、一畝がかりも二畝がかりにもなる塚ができた。
そこらへんの人たちが一畚運んできても何の役にも立たないが、弥五郎どんの一畚はたいしたものだった。(畚とは持籠の音便であるが、隼人文化圏では藁製のふごなどではなく、竹製で二本の丸竹を両脇に差し通して、土乗せを竹の皮で編む形式が多い。)

◆挿棒弥五郎(志布志市有明町付近)・・・担い棒で弥五郎どんが土を運んでいたら、棒か折れてしまい土の山ができた。天秤運びなので、一方の土こほれか丸岡とか、他方か中之丸岡だとか。
また、立腹した弥五郎どんか挿棒を投け捨てたところが丸岡の井水谷とか、岩屋の野神谷とかの話も伝えている。
さらに、弥五郎どんが霧島山と高隅山を山おこ(担い棒)で担ごうと踏んはった跡が、丸岡の足跡で、輝北町の市成にもこの話がある。
その時、折れた担い棒を捨てたところが、岩屋の谷と野神の谷になったとか。                                           98

他にもかなりの「弥五郎伝説」があるが、共通している話の内容は大男であること、
怪力の持主であること、住民のために力を尽くすこと、たまには無謀なこともするが愛される男であること、それらのうちで「足跡をつける」ことこそ、弥五郎どんの役目である。
これが、民話風に伝えられた話から理解できる弥五郎像である。
ところで、話の共通性を結んでいくと、自然と関わり合う山神的な性格も読み取れるし、卑近な地名の伝承にもなっている。
こういったところからすれば、「弥五郎どん」の本源的な姿に「開拓祖神」のイメージが濃厚に浮きたつ。
しかも、その「足跡をつける」という意味あいを吟味してみると、単なる大男のいたずらではなく、農地を開墾し、水利をよくするといった働きの具体的伝承のようにも享受できる。
暮らしの本拠地を獲得するために躍動する「弥五郎どん」こそ、身近に実感できる存在であったに違いない。
「足跡をつけた」場所がやがて開墾すれば、田畑になる可能性をもつ士地のようでもあり、山神・水神・農神といった広範な霊性も伝説の中に汲みとられる。
おそらくこれらのことどもが民衆の知恵によって物語化され、語り継がれてきたのであろう。弥五郎どんの話には、単なる昔話といった性格は、どちらかといえば希薄である。
「弥五郎伝説」か隼人文化圏に集中的に伝えられていることは、それなりに巨人化する理由を秘めていたのであったろう。
そこで、南九州の農耕文化を支えた初発の「開拓祖神」として、再考してみることも大事な作業であろう。
隼人の首長弥五郎・開拓祖神としての弥五郎、どちらも巨人化する要因をはらんで今日にまで伝えられてきた。
把握法の一つとして、その展開過程を伝承的・歴史的・民俗的な側面から結び合わせてみると、納得できるようである。
「弥五郎どん祭り」を話閣にするとき、つきもののように、「弥五郎伝説」が語られてきた。
それは単に「大きさ」の加減だけではなく、ともに意識のうちに先導した者たちに対する、畏敬の念が働きつづけてきたからであろう。畏敬の念こそ巨人化の大因子だった。

第七節 宇佐八幡宮の放生会
一 放生会はどのように行われたか
宇佐八幡宮の祭事の中では、放生会と万燈会とは特に重要であり、『八幡宇佐宮御神領大鏡』等によれば、荘園領主は各荘・別符に毎年負担を課している。
特に放生会料については量にこそ差はあるが、例えはその年その年によっても異なり、一例を示せば、日向国からの献上物には、班慢・上筵・長筵・絹・紙等に加えて相撲(二十七名).駒引馬(十匹)等が記録されている。
放生会の行事においては、相撲が欠かせないものであったようだ。これらのことについては、別章の歴史面からの記述にゆずるが、『宮崎県史』(通史編・古代2) に詳しい。

画像 宇佐神宮本殿:八幡造:国宝(大分県宇佐市)

『日向国図田帳』等によってみても、八幡信仰の浸透は頗る強大で、八幡神か勧請され荘園領主等の意図のもとに、荘園の鎮守となった経緯もある。
それとともに、宇佐神宮別当の弥勒寺荘園も宮崎平野を中心にあちこちに広がっている。
瓜生野八幡(宮崎市)では、放生会も行われている。

画像 瓜生野八幡祭式の図:宮崎市瓜生野(『宮崎県史』史料編中世I)

浜下り(浜出)には三つの神輿を伴っての神幸があり、流鏑馬・相撲も行われていた。                99
浜下りには六十六人が出仕し、先導は「王面」(王の検教)と「猿田彦面」(天狗面)か棒杖につけられ(行道面)て、いわば大面旗となって神幸を導いている。
供僧は、竹篠山(王楽寺)の本坊・支坊の僧があたる。(日高浩一郎家文書)

画像 王楽寺(宮崎市瓜生野)

当然なから八幡系の神社においては放生会か営まれ、奈古八幡(宮崎市)をはじめ、今山八幡(延岡市)等々大々的に催行されていた。
ただ、弥勒寺領については、「領家八幡別当」などといわれるように、十一世紀の前半頃には実質的に宇佐八幡宮をはなれて、弥勒寺の管理権も石清水八幡宮に統括されて、同社の別当の所轄するところとなったようである。
従って、その勧請関係をはじめ、支配のありようも入りくんだものになるが、南九州においては大隅八幡(国分八幡)との関わりが最も大きい。
それはそれとして、宇佐八幡宮の放生会はどのような祭式をとっていたか。
応永二十七年(一四二〇) の「宇佐宮寺御造営井御神事法会御再興日記目録」(宇佐風土記の丘歴史民俗資料館刊『八幡大菩薩の世界』)・中野幡能著『宇佐八幡宮放生会と法蓮』参照)によると、

•八月朔日 細男試楽を始め、浜本立神事を執行する。
放生会の旅所は、豊前・豊後の国境にある和間浜に祭祀場を設営し、宇佐宮境内では細男舞を奉納する。舞か終わると、弥勒寺から隼人の凶墳塚(百体社)に参ずる。
同じことを十二日まで繰りかえし行なう。舞は隼人の霊を鎮めるためで、百体社で舞い納める。

•八月七日 屋形賦り。和間浜に下向し、頓宮を清める。

•八月十一日 相撲内取。惣検校らか相撲の手番を書き、大宮司以下祠官か着座し、伶人が楽を奏し、相撲を行う。

•八月十三日 蜷饗。祝大夫らが蜷を薦につつみ、蜷塚に納め、のちに浮殿まで蜷を負い、同殿の下に置く。(十五日早朝、神職一同が出仕し祭典を営む。)           100

•八月十四日 大宮司以下祠官が酒飯をとり、社僧か杞間棧敷に参着する。国術役人が出仕し、豊前採銅所より官幣御正鉢を持参し、上宮御殿から御験を神輿に遷す。
三所の神輿を中心にして行列を組み出立する。僧侶による和間での御迎講が執り行われ、頓宮への神輿入れとなる。
御迎講を営むのは、別当弥勒寺の僧であり、他寺の僧も供僧役をつとめ、楽人・舞人ともども浮殿の鳥居下に参向させる。細男舞・神楽もあり、供僧の阿弥陀経の読誦もある。
ちなみに、中野幡能は「御迎講」の意味あいについて、「更に浮殿渡御により、大隅・日向への渡御によるカオスを象徴し、ここに最も厳しい戦場の息づまる緊張空間の表現のために龍頭・鷁首により、更に傀儡劇により、戦を収め、それによって戦争被害の人々の御霊に仏法金光明最勝王経流水品の法力、”大慈悲に由りて一切を救護し、勤修苦行して、方に能く参上菩薩を證獲せん” とする。これができるように放生供養によりコスモスに導くための前駆の法要儀礼」と解説している。
そして御迎講で大宮司が着座すると、隼人の精霊の憑り代たる細男は舞をする。これは隼人霊とともに、供養のため旅所に臨んでいるのであろう。続いて、宮方から神楽をあげる。

・八月十五日
相撲場を調え、相撲十番を行う。日向相撲は、頓宮の坤の方角(西北)から出る。
次には、大宮と若宮が和間頼宮から浮殿に臨幸する。本宮・若宮を浮殿に奉安した後、宮司以下僧侶が着座。すると龍頭・鷁首の船二艘が漕ぎ出し、船上では楽を奏する。
周辺を三回まわって、浮殿の北脇に漕ぎ寄せる。そうして、女官の指示によって傀儡子船二艘を招く。応えて古表船二艘か出て、海上で傀儡子舞を奉納する。
導師が放生陀羅尼を咒するなかで、蜷を放つ。
浮殿に移る儀礼は大隅に行幸する八幡神を象徴しているともいい、一方、傀儡子相撲は往時の激戦の様子をあらわしているともいう。
隼人の霊は仏法の儀礼を受け、『金光明最勝王経』(流水長者子品)の功徳と放生供養によって成仏する。おそらく初期の導師は、隼人征討軍に加わって、下向した法蓮が勤めたのであったろう。
こうして蜷まきの放生が終わると、神輿は頓宮に戻り、舞楽奉納の後に宇佐八幡本宮に還御する。
実に、仏教色の濃い隼人霊の鎮送法である。隼人の霊が農作物に害を与える蜷となって災いしたので、隼人の霊たる蛯を放つ。
こういった儀式が核心の法会となっていることに、とりわけ強い呪術性を見出すのである。

画像 宇佐八幡宮放生会:蜷まき神事(宇佐風土記の丘歴史民俗資料館『八幡大菩薩の世界』)

二 傀儡子人形と「弥五郎どん」
いまひとつ、注目しておきたいのは、傀儡子舞のことである。傀儡子人形は南九州に派生したとの説もあり、人形劇の祖型だとされる。
傀儡子人形が放生会において奉納されるようになった契機は、隼人領域への進攻の時に傀儡子舞により隼人軍を誘い出すためであったとか、あるいは傀儡子回しによって、隼人の心を惑わすための策略であったとか、その関わりを伝えている。
政府軍の陣営は八幡神をおしたて、辛嶋勝代豆女や法蓮らも加わっていたので、神道的な呪法や仏法を用いての方術を駆使した。
戦いの折り、海の精霊は龍頭と化し、地上においては獅子・狛犬となり、大空からは鷁となって神通力を顕わした。                              101
隼人軍が驚異しているところに、千手観音の随神となった傀儡子人形か現われて、ついに隼人七ヶ城は落ちたとも伝えている。
放生会においての諸芸の奉納は、こういった戦場の様子を再現したとも解されよう。ちなみに、一説に、放生会は戦勝の座に始ったともあり、頷けるところもある。
こういったことは、「細男舞・神相撲の縁起」(『八幡古表神社略記』)にも記されており、「隼人降伏の時、戦場に伎楽を奏す。」などともある。
『大分県史料』に収める「北和介文書」には、次のようにも記録している。

於和間浜、自頓宮行幸浮殿一之時者、学彼両困責給時之風情_
依レ之出現之龍頭・鵠首、獅子・駒犬、傀儡子等、自レ船参袖□前\
現糧々曲芸菩薩舞等、皆表王古之形態\ 就レ中隼人之生類者、以ニ
見在之賄恥竺浮殿之潮皇々
(画像の方が良い?)

と。また、同様の記録は
「宇佐放生会之事(宇佐小山田文書」)にもあり、「陣所に至り敵軍を見るに、七ヶ所に城を構え、(中略)廿八部衆化現して傀儡子の曲をなし給えば、[隼人か勢とも此興宴に乗じて敵心を忘れ、皆城中より出て是を見物するの時、据手より攻かけ皆悉討亡し、大将百人か頭を取る云々」と記している。
放生会の祭祀行事も杜絶したり、あるいは再興したりしているが、姉妹関係であったという古表神社(福岡県築上郡吉富町)・古要神社(中津市伊藤田)両社の傀儡子人形奉仕の活動にも、中絶・変遷の歩みがあったようである。

画像 傀儡子:神相撲(古表神社:福岡県築上郡吉富町)

傀儡師たちは傀儡船二艘を出して、海上において隼人との戦況などを演ずるのが役目であった。
元来、放生会は採銅所(福岡県田川郡)にあった元八幡から、銅鏡を宇佐八幡宮に奉納する儀礼が事始めのようである。
これに、古表・古要両社から船に傀儡子を乗せ細男舞といった舞楽を奉仕する儀礼が加わり、さらに、隼人の塚を祭祀する儀礼が加わって一体となった。
これらの祭祀行事の歩みをたどってみると、隼人征討の由緒といった伝承は、どうも後に付加されたもののようにも考えられる。
前にも少し触れたか、戦勝祈願とその成就を核にしていたのが本態の儀礼で、やがて仏教色を強めた僧侶・僧徒の意図を反映した、神仏習合形態の放生会か営まれるようになったのであろう。
宇佐八幡宮を惣廟とする社領は、たとえば日向国内においても田代の総数の四分の一の、合計一、九一三町にも及んだ。
弥勒寺領においても、その荘園領主は九州各地に百三十九か所を掌握していたようで、強大な勢力を誇っていた。(『宮崎県史』通史編・中世)
いま、それぞれに賦課される種々の貢納物、本社と末社、本寺と末寺それらの関わりから、賦役のための人的交流のことを模索してみる。
宇佐への道は陸路・海路とも通じていたし、それは自ら信仰の道・交易の道ともなっている。宇佐八幡宮の放生会に参じた祠官(神職)・社僧ら、多々あったであろうことは想像するに難くない。
近世期に入るとそういった人物たちの記録も多々見出せるが、それ以前の具体的人物の見聞録等は、なかなか目にふれることがない。
そこで、放生会の主人公ともなった「弥五郎どん」を、往時に押し戻して置いてみる。供養行事としては、宇佐側・隼人側両者ともに、慰霊の儀礼である目的・真意を汲むことかできたであろう。 102
仏教における放生の教義に、人間を殺傷しての罪滅の意味あいかあったのかどうか疑問もあるが、ともかく傀儡子人形による場面の展開は、激戦の再現ともいえる姿で打ち出され、結局は隼人軍の敗戦を物語る仕かけになっていたことになる。
だが、幾星霜を過去に流してから、それを観る人々の感覚は、隼人への思いをよびさますことはあっても、風化し希薄となっていた。
神事・法会の一幕として知覚するといったことになり、むしろ伝統の芸能を観るといった感覚で捉えただろう。
しかし、そこに熊嬰・隼人を祖と仰ぐ末裔が参じていたならば、どうであろうか。殺した側・殺された側の合同の祭祀行事である。
「隼人族」であることを誇りにする土壌、それは今でも残照しており、歴史上の出来事がより働きかけている時代であれば、心理は複雑というものであろう。
戦勝側主体の行事を敗戦側も交えて、事実上支えていることにもなる。
傀儡子の呪力でもって戦意をそがれた隼人軍、そういった懐柔策によって、七ヶ城は落され千四百余名の死傷者・捕縛者を出した。
そのうち、百の首は宇佐へ持ち去られ、凶墳塚となり、やがて百体社に祀られた。それを慈悲行の一っとして行ったのが放生会なのである。
隼人側から言えば、自らのふるさと、隼人社会を護り得なかった、その為に犠牲になった者たちを祭るのが放生会である。
隼人領域から参座した人々の深層の心理から求めるとすれば、例えば傀儡子相撲で活躍する「おんくろうの神」がその姿・かたちから「弥五郎どん」に転化する可能性はあるし、
巨人化するヒントにもなってしまう。

画像 傀儡子・おんくろうの神(古要神社:大分県中津市三保区伊藤田)

深層心理においての反発が小を大にした「弥五郎どん」の造像へと結びついていく。
そういった知恵者が旧隼人領のどこかにいたのかも知れない。それに幸いして政府側(宇佐側)からすれは、「弥五郎どん」はつかみどころのない偶像でしかなかったのだ。
どのようにして「弥五郎どん」が生まれたのか。追悼・追福.慰霊・鎮送の祭祀ならば、霊魂石と見倣して、巨石を祀ってもよかっただろう。
「弥五郎伝説」のように山神・水神・開拓神になぞらえて、民俗神あるいは神髄(仏髄)を調えて、祀ってもよかったろう。
さらには王面のように守護面として祭祀してもよかったろうし、行道面に魂入れして祀ってもよかったろう。
それにしてもそれらの総体の集合といったかたちで、「弥五郎どん」は誕生した。それはたとえば「弥五郎大明神」として、御霊社に祀るには余りに身近かな祖先神であった。
「弥五郎どん」は、守護的神性(仏性)を帯びた、南九州隼人域の象徴的な人形であったと述べておきたい。

第八節 的野正八幡宮と放生会
一 放生会の儀礼を理解するために
放生会について、「辞典類」ではどのように解説されているか、少々長くなるが二、三点を引用し、整理しておきたい。

■放生会11仏教の不殺生戒により、魚鳥などの生き物が捕われているのを山野池沼に放って供養する儀式。
中国では南北朝時代頃より行われ、唐代の粛宗は天下に命じて放生池八十一か所を置かせたという。
日本にもこの風か伝わり、大乗戒の代表的な教典『梵網経』や『金光明経』には放生の業を作善(善行)の一つとしている。                     103
五七八年、六斎日にあたり殺生を禁じたことが『扶桑略記』や『聖徳太子伝暦』に記され、これが放生の初めといわれている。
両書ともに放生の詞は使用していないが、『元亨釈書』ではそれを放生にあてている。
『日本書紀』六七六年(天武天皇五)八月、勅による官放生と、私人による私家放生が記される。
仏教が広まるにつれ殺生禁断と放生の思想が普及し、各地の神社仏閣で放生会が行われるようになった。
『扶桑略記』六によると、宇佐八幡宮では七二〇年(養老四年)、大隅・日向の隼人の乱逆平定後、宇佐大神の託宣により放生が始まり、それが諸国放生会の濫腸という。
宇佐八幡宮は早くから仏教と密接な関係があったため、儀式としての宇佐放生会がおこり、勅祭となった。
(中略)放生会は日本独自の信仰基盤の上に、仏教思想の伝播の結果行われた。
(『日本民俗宗教辞典』)

■放生会=肉食を禁じた仏教思想に基づき、仁愛を示すものとして国家の主導のもとに魚や鳥を解き放って生を全うさせる仏教儀礼。殺生禁断と同義的な意味をもつ。
河川や神社・仏寺の放生池で、六斎日、国家法会、天皇の病気平癒.葬送・忌日法会などに際して実施され、のちには民間でも河川や神社・仏寺で行われた。
(中略)特に八幡信仰と習合して、七二〇年(養老四)宇佐大神の託宣により放生が行われ、山城国の石清水八幡宮では八六三年(貞観五)より毎年八月十五日に行われ、九四八年(天暦二)勅祭となり、九七四年(天延二)に節会に準じた。
(『日本民俗大辞典』下)

画像 宇佐神宮境内:放生池(大分県宇佐市)

画像 宇佐八幡宮境内:菱形池と能舞台(大分県宇佐市)

■放生会=生類を放つ為に行ふ儀。仏教に謂はゆる殺生戒とて、生類を殺す事を諌むる主意により修するもので、魚鳥等を山林・池沼・河川に放つをいふ。
わが国にて初めてこれを行うたは敏達天皇の御代である。その八幡宮放生会と称して盛に行はるるに至ったのは、養老四年九月を始めとする。
宇佐八幡大神、朝命に逆ふ隼人を討伐するを冥助して、人命を殞ふこと少なくなかったのを、のちの大神これを悔い給ひて、生類を放たしめ給うたといふ。
石清水八幡宮においては貞観五年八月十五日、始めて行はる。
(中略)鶴岡八幡宮にては、文治三年八月、始めて行はる。これ石清水八幡宮より移したるものである。
競馬・流鏑馬・相撲等がある。明治維新に至りて八幡宮の放生会は廃止せられ、明治元年七月十九日、これを中秋祭と改称した。
国幣中社海神神社にて行はるる古式浜殿放生祭は、この法会とは類を異にするものであるといふが、同じく放生の式を行うて、甚だ珍しいものであるから左に掲ぐ。
〔浜殿放生祭〕陰暦八月五日に行はる。前日本社において夕御館奉仕。古例による神楽・舞楽の演奏あり。                             104
当日、定刻、宮司以下神職及び旧社人(鳥居・島屋・鳥井・扇・青柳・岩佐氏等)・命婦(巫女)伶人(鉾舞司)・楽人等奉仕、御輿に遷座式を行ひ、神事の上浜殿著御、螺鰤小貝献備、祭詞を奏し、後、主典、螺蝉小貝を捧持し前行して御前浜に到り、宮司、螺鰤を取り、海中に放ち、顧みずして直に本所に復す。
駐輩凡そ一時間の後、還幸の途に就く。この祭儀の起原、詳ならずといへども、神功皇后、新羅を征伐し給ひ、対馬島に還御ありし時、武内大臣に詔して、宣く新羅王の非法を正さんとして多数の首級を得たり。宣しく今その霊を祭り鎮めよと。
(中略)螺鰤を以って諸軍討取の首級を算へ掲げ、終って本の如く海浜に放生し、しかして、後、神祭を行はせ給うたに基づくと云ふ。(『神道大辞典』)

これらによると、放生会は中国や日本でも古くから行われ、簡明にではあるがその歴史的な流れをたどり、根拠となる教典などを整理し、特に注目したいのは、「浜殿放生会」の記事である。
海神神社(対馬市豊玉町)はもと八幡宮と号し、わが国の八幡宮創始の地との伝承もあり、神功皇后が新羅出征の帰途の折に、幡八流を祀らせたという。
祭神は彦火火出見尊・豊玉姫命・鵜茅葺不合尊でこれを八幡三所と称し、例大祭には神楽・鉾舞が奉納される。
また、五輩の神輿が海辺まで神幸する、文字通りの「浜殿下り」が行われ、これを放生会という。五輩であるから神功皇后と応神天皇の二基の神輿が加わっているのである。
放生会の実体は、新羅軍勢の多くの首を討ちとったので、神功皇后が武内宿祢に命じて、討ちとった首の数だけ螺鰤を海辺に放生した。
こういった霊を鎮める手筈であったことも興味深い。

画像 八幡三神:応神天皇・比売大神・神功皇后座像(複製)大分県奈多宮蔵(宇佐風土記の丘歴史民俗資料館『八幡大菩薩の世界』展示から)

対馬から対馬海峡を経て長崎・玄海灘を経て福岡の海辺には、筈崎宮(福岡市東区)をはじめ八幡系の神社が多く、今は仲秋祭となっているが、放生会(ホウジョウヤ)が行われる。
宇美八幡宮(粕屋郡宇美町)は神功皇后の伝説地でもあって、『日本書紀』には応神天皇の生誕地とも記し、比咋神(玉依姫)も祀られている。

画像 玉依姫坐像奈良県吉野水分神社蔵:国宝(『神仏修合と修験』新潮社)

挙げていくと際限かないが、八幡神に限らず神社神道の普及には、政権の関与によって著しく共通の祭神か数多祀られる。
したがって、類似の祭祀行事も各地に顕著にみられる。

画像 筥崎八幡宮(福岡市東区)

二 的野正八幡宮式・放生会法則と「弥五郎どん」
そこで、的野正八幡宮の例大祭(放生会)はどうであろうか。『古今山之□記録』に「的野八幡宮式・放生会法則」なる記録が「法用」として記載されている。
これは宣命風の偈(祭文)で、神仏混交のかなりの長文である。 
(原漢文)留目すべきところを摘記してみると、まず大乗仏教観にもとづく仏陀の二身(法身・報身・応身)により、永遠不変の真理をたずねることを誓約する。    105
そうして、衆生救済のためにあらわれる仏果を願い、行を積み功徳が得られるよう仏教の教主である仏陀に祈りをささげる。
さらには仏土(国土)と俗土(現世)とが、同体であることを悟りたいと言上する。これが、祈りのはじめである。

画像 誉田別尊座像長野県鳩ヶ嶺八幡宮蔵:重文(『神仏修合と修験』新潮社)

転じて、八幡大菩薩はわが国ではならびなき霊神であることを讃え、ここはお祭りする第三の壮麗な権現社である。
こここそは、仏・菩薩が衆生済度のために顧われたところで、廟社の古いところから王政の昔をしのぶよすがとする。
九州落城(南九州鎮圧)の時に、応神天皇が十善の徳と万乗の富の位を得た国主となって姿をあらわされた。
それは、衆生利益のために順逆の縁に和光し、逼照する仏体である。今の八幡大菩薩こそは、これである。
その第一は、豊前宇佐への垂迩、その第二は大隅国正八幡宮云々とあって、鎮護の誓いを入念になされた。
孝謙天皇の御代に袈裟を保持して、男山の石清水あたりに分社し、世間にあまねく神徳を広められた。これで慈悲と仏の冥加がゆきわたり、国の果てまでも、利益(仏果)をいたらしめた。
以下、わが国は神国であることを説き、神威でもって世の中を治め、霊社に祈りをささけ、加護を願い続けてきた。
この世に住む人々は、八幡大菩薩の神徳を仰ぎ、今では六百あまりの霊神の垂迩地を数える。隅州(大隅国)においては、隼人の霊賊を降伏させるために霊社を建立させた。
ここに「霊賊」と記しているか、「賊」とは叛逆を企てる者、悪事をなす者といった意味あいであり、原文には「隼人之霊賊」とも記されている。
また、八幡大菩薩は「隼人之異敵」をふせぎ、鎮護国家を実現するため、百王を擁護すべく垂迩されたともある。
三神(八幡大神・神功皇后・武内宿祢の三寵神)を当分の間「隼人之異敵」をふせぐために降らせた。
「百王」とは、代々の王または百代の王という義であるが、ここでは鎮護国家の盟主すなわち国の統治者といった意味あいであろう。
「隼人之異敵」の「異敵」は「夷秋」(野蛮な異民族)の意であろうが、「隼人」にソウジンとルビを付したりしている意図も容易には分明しがたい。
「異敵」の文字を用したのは、単なる音通上の当て字なのか、あるいは意図的に換字したのか、これも判断しかねる。                               106
「霊賊」といい、「異敵」といい、これか王権則の圧制的思いであり、かつ表記であろうことは間違いなかろう。

画像 『古今山之口記録』(的野正八幡宮蔵)

さらに「放生会法則」には、三万三千三百三十三に及ぶ生き物(常套的表記で多大といった意)を殺生させたので、五畿七道(全国)の荘園では大菩薩を尊崇し、放生会の仏事を営まないところはない。
それ故、先頃正八幡第三社の使令を受け、あらかじめ使僧に対して受諾したことを申し伝えた。使僧はこの日、三俣院内の的野村に一泊された。
折しもこのとき、的野の社地に赤烏帽子の御験が降り下った。これは、「八流の旗(幡)」などと同じく、八幡神の影向を意味する。
烏帽子は普通黒塗りであり、ここでは赤烏帽子によって並々ならぬ変事 ―神の降臨- を表象させた。このこと以来、この地に社殿を構え御神体を安置した。

画像 赤烏帽子の御験が降り下った霊地:的野正八幡宮

その後、毎年十月二十五日を祭式の日と定め、放生会を催行し、いくらかの生き物を放つ済度の法会とした。これは古い慣行とはいうものの、実は新しい儀礼である。
時代の隆盛を願うこういった儀礼はめずらしく、当国はむろん隣国までもこの正法を守るため神々が集まり、本家・領家・将軍家(全土の統治者)のきわまりない安寧(永遠の聖寿)を祈願する。
当社(的野八幡)並びに諸社の霊験あらたかな神々は、よろこびに沸き、荘内のよく治まること、院内(三俣院)の復興のため豊かに作物がみのるよう神事を営んだ。
これらのことは、放生会の「国家鎮護」を目的とする地域への浸透の道筋をよく伝えており、院内豊作を祈願した往時の祭式をも合わせ伝えている。
この院内安泰の豊作祈願が民衆に普及し、在来の収穫祭と習合して「豊祭」の習俗を生んだのであろう。
こういった祭式はすでに恒例不変の勤行であり、詳細をたずねることは叶わすとも、仰ぎ願うところは、三宝(仏・法・僧)の境地に帰依して、三所大菩薩の仏カ・神力を頼みとし加護を願うことが肝要である。こういった神仏習合の願文を、まず冒頭に収めている。
次には、「呪願」(祈りの言葉を唱え、仏・菩薩の加護を願う)のことはを、四字の仏語で示し、次には、「放生会」において解(偈) 文を読誦すること、これには書きつけの別紙があることを記し、次が「発願」(神仏に願をたてる)で、これも顧文を四字の熟語で示している。
次には「四弘」(総願)の誓願文を示している。
これは仏・菩薩がおこす四つの誓願のことで、

一つには「衆生無辺誓願度」(衆生を悟りの彼岸に渡そうという誓願)、
二つには「煩悩無数誓願断」(尽きない煩悩を滅しようという誓願)、
三つには「法門無尽誓顧知」(はかり知ることのできない、仏法の深遠な教えを学びとろうという誓願)、
四つには「無生菩提誓顧証」(無上の悟りを成就したいという誓願)

がそれで、以下には念誦経文を加えている。
次には、沙弥(未だ未熟な修行途中の僧・剃髪の在家僧)が守るべき決まりの「十戒」(十条)を示している。

一、不殺生戒
二、不倫盗戒
三、不姪欲戒
四、不妄語戒
五、不飲酒戒
六、不他説過戒
七、自讃毀他戒
八、不樫貧戒
九、不喫忘戒
十、不謗三宝戒

の各戒で、いわばこれは臨時の教戒であり、正式の僧位を得るための階梯である。以下、六種回向の供養文等を示している。
これらか、的野八幡別当弥勒寺僧が主体となって、営んだ放生会の概略である。                                              107
原文はすべて漢文で記述されており、後に手を入れた形跡なども認められるが、「放生会祭式」がどのような内容の法会であったか、一応の運びの過程はわかる。
ただ、偈文や読誦文(祭文)等について書き出しているだけで、その要領を知りうるのみである。
こういった儀式(祭式)を終えた後に、供養の巨人型人形「弥五郎どん」が「浜殿下り」に出立したのであろう。
水辺の放生行事の記録にわずかばかりの生き物を放ち、引導を渡す放生会の儀礼を営んだともみえる。
『山之口名勝志』には「浜殿下り」の途中柴立の儀礼を行って、春日社まで下ったという旧地は水辺に近く、現在の池之尾社も浮島(中島)であり、湧水が堪えないところである。
水辺において蜷等による放生儀礼を行うとすれば容易である。
そのことも含めて「弥五郎どん」が一生の生類のいわば代替となって、「浜殿下り」する放生人形ともなったのであったろう。
しかも、それは同時に隼人の霊魂を一身に背負って鎮送されるのであり、ここ先祖の霊の昇華した「隼人神」への深い思いを託されているといった仰慕の精神をうかがうことができる。
弥五郎三兄弟説による比定はともかくとして、その根本を支えている「人形送り」の思いは祭祀を支えてきた人々にとって、同じであったろう。
先に述べたように、「的野八幡宮式」は上地の状況をとり込みつつも、王権側の意図か明瞭にみられる記録であった。

画像 的野正八幡の地理的環境(「大淀川の歴史」編集委員会提供)

勧請の関わりからみると、当然のことであり、放生会が国家的行事であれはやむを得ないことであった。
だが、「弥五郎どん」に先陣をつとめさせたところに、隼人社会の思いの深さを託しているように察するのはうがちすぎであろうか。
とりもなおさず、八幡信仰の地方的展開の核となったのは、中央政庁(王権)の政治的宗教施策を受容しながらも、隼人領民としての愛着を捨てきれなかった心にあった。
放生会に通例の猿田彦命の配役を借りて、みごとに「弥五郎どん」を割り込ませ、先頭に立たせたというこころにあろう。
「放生会法則」は仏道における儀礼を連ぶためのもので、「放生御会」といった表記によっても「弥五郎どん」は、供養されつづけているのであって、隼人領の人々か後世に伝えるための「供養人形」とも理解される。これが放生会と関わる「弥五郎どん」の真の姿であろう。
王権側の人物・武内宿弥では、納得しがたいのであった。

第九節 隼人の山・霧島信仰と弥五郎どん
一 霧島山と「弥五郎どん」
大隅正八幡宮(国分八幡)をはじめ、「弥五郎どん祭り」を催行する三社(岩川八幡• 田ノ上八幡・的野八幡)は、霧島山信仰圏内に位置する。
つまり、熊襲・隼人文化圏と霧島山信仰文化圏とは、ほぼ重なるのである。                                                  108
岩川八幡の近隣集落久木山には、高千穂峰を望む小丘に石祠かあり、「霧島さあ」と呼はれている。
霧烏講も結ばれ、恒吉や川路山の集落では、霧島へ集落の代表が参詣する代参も盛んで、霧島神宮(西御在所権現)のお礼を受け帰着すると、サカムケ(坂迎え・酒迎え)を行なう習俗もあった。
投谷八幡(大隅町大谷宮ヶ原)の春祭りには、狭野神社(西諸県郡高原町)や香取神社(えびの市)と同じ「打植え祭」(カギ引き)も行なわれ、霧島文化の周圏を特色づけている。
田ノ上八幡(日南市)の祭礼では、「弥五郎どん祭り」の宵宮祭に神楽と獅子舞か奉納されるが、近隣の神楽は「霧島の舞」(鉾舞)の番付をもつ。
こういった番付では、
「高千穂の峰と申すは、八百万の神たち、五穀の種をは播き始め給いしによって、今に高千穂の峰とは申すなり。」
などと唱教する。下板敷神楽(同市)では、霧島神に守護を願って「子ども神楽」を奉納する。
的野正八幡においても、霧島山信仰に関わる芸能等を奉納するなど、基盤を同じくしている。
霧島山(高千穂峰)は、神籠もる山である。亡きひとの帰りゆく鎮まりどころであり、祖霊となって籠もるという霊山である。豊穣をもたらす、霧に浮きたつ分水の山でもある。噴火しては鎮まり、また再生する山でもある。
なんとしても、南九州を代表する「ふるさとの山」である。高千穂峰は標高において韓国岳につぐ山なのだが、その山の秀麗さが人々の心をひきつけ、天孫降臨の伝承地ともなった。
都城盆地から眺望する山容は、あたかも鳳凰が羽をひろげたような形にみえるし、国分平野からみても、その姿は左右均衡していて、ことに上之原遺跡(縄文の森)から眺望すると、その山容は、「本嶽」と称するにふさわしい。

画像 国分から霊峰高千穂峰を望む

いわば、大隅隼人の山である。その呼称も
大嶽.矛峯・霊嶽・霧島峯.製峯・高原峯•最初峯・ニ神峯(二上峯).毘遮耀峯.禅定嶽.東峰・蘇峯・御山 などと多彩であり、地形からきたもの、山容からきたもの、神髄山とみるもの、仏髄山とみるもの、山麓・平地に住む人々との親和関係がどれほど深い山であったかか知られるのである。
的野正八幡宮の弥五郎どん「浜殿下り」では、本殿と池之尾社を結ぶほぼ直線の平坦な神幸の道をすすむ。
つまり子どもたちに曳かれ、守護されながら下る「弥五郎どん」は、霧島山(高千穂峰)をめざし、見据えてゆっくりと先導の役をつとめる。                    109

画像 的野弥五郎の里から隼人の山:霧島山を望む(都城市山之口町富吉)

ふるさとの山に還りゆく安堵を得て、また再生し、年改まれば八幡社殿に鎮まるのである。
「弥五郎どん」は、人々に愛着があるが故に戻りくる神となるのである。
一種の「人形送り」のかげをみるのであるが、忘れがたい祖先神(仏)であるからこそ、人々は送りっぱなしにしなかった。
それが放生会の目的-滅罪・鎮送-の実践に出発していたとしても、ついにはふるさとの守護神(仏)となり、「年中行事」として定着したのである。
放生会の意義を超越させ、招福的な性格を獲得させたのは祭祀を営む側(村びとたち)の知恵である。
その根底には、意識するしないに関わらず、霧島山への信仰心が重複し現象した。
それが隼人の山である高千穂峰をはじめ、霧鳥連山がもつ存在感であり、浜殿下りの「弥五郎どん」が語りかけてくる祭祀行事の意味あいともなった。

画像 「大人」人形行事の所在と主要社位置図

人々は朝夕霧島山を遥拝し、日常の仕事の手割りを決めてきた。
高千穂峰へ降臨した神が稲穂にゆかりの神名を持つように、古来から農業を守護する山として、人々はあつい信仰をよせてきた。
『三国名勝図会』(巻之三十三)には神話・伝説とも関連づけて、稲・陸稲のことについても述べ「此嶽の周廻諸邑土地肥沃にして、水田潤沢五穀豊登り、特に米穀の品位最勝」とも記している。
つまり原初的には高千穂峰が農業守護の山(農神)として、山麓の人々の信仰をあつめてきたことがわかる。
高千穂峰への登頂をめざすとき、人々は稲穂を携えて分け入る習俗があったという。

画像 天之逆鉾(高原町蒲牟田1番地)

高城町穂満坊には「霧島どん」と称する遥拝所があったし、同町有水には、霧島四十八池の一っ霧島池跡もある。
「弥五郎どん祭り」の本拠地山之口町富吉の王子原には祠堂があって、地元では「おしどん」といい、大事に祀ってきた。
霧島山の哨火で、この地に避難してきた霧島の神々(王子神)を祀り、神体は焼け石である。
同じく同町の花木集落には上・下の王子神社があり、東霧島神社の焼け石を持ち来たり、神体として祀ったという。
しかも熊野神社(同町飛松)には熊四の飛来伝承があって、その熊限が御幣をくわえてきたのを熊野大権現とあがめて祀った。
同社は、東霧鳥神社(都城市高崎町)のゆかりの社と伝えている。旧暦九月二十九日が祭礼で造酒一対を供え、五穀の豊穣に感謝する。
ちなみに、霧島神社ゆかりの社や祠堂の祭りは、旧暦九月二十九日である。
光り物の伝承とか霊應の飛来伝承とかは、霧島修験との関係を濃密に語っており、的野八幡宮の支坊の僧たちも霧島山を強く意識して祭祀を営んできたであろう。
つまり霧島六所権現の思想は広く深く浸透して、俗にいう「牛馬講」なども霧島の六観音(馬頭観音)信仰に由来している。

画像 霧島六観音信仰:馬頭観音まつり(えびの市鞍掛)

祭の主人公は「弥五郎どん」、こういった信仰基盤をもつ霧島山を背景において詮索してみると、霧島神の祭り日からも、その祭祀が豊穂祭と結びついてくるのは必然的でもある。     110
放生会と豊穣祭とは、本来別のことであって豊穣祭は今でいう新嘗祭に当たる。(このことについては、後述する)
『古今山之口記録』にある的野正八幡(「御祭年二拾八ヶ度之事)」の条をみると、二月初卯日が春祭りで祈念祭に当たっているし、これに対応した秋祭りが、十一月初卯日で新嘗祭に当たり、豊穣祭(豊饒祭・豊祭・方祭)に該当するようである。
それは放生・豊穣の語呂合わせといった語感の上からではなく、本来、庶民生活においては春の豊作祈願祭、秋の豊作感謝祭の対応関係で、それぞれに祭りが営まれてきた経緯がある。
むしろそこに新たに放生会の国家的祭祀行事が、加わってきたとするのが当を得ていよう。
「弥五郎どん」は、そういった庶民生活の中で、たとえは「虫送り」「虫供養」といった、民間信仰の対象として新たな呪力を託され、稲作を守護する性格を賦与されきたのである。
霧島信仰との関わりにおいては、ただそれだけのことではない。韓国岳は霧島連峰のうちでは、最高峰(標高一、七〇〇メートル)で『延喜式』(神名帳)には「曽於郡三座」の一つとしている。
山麓の二〇キロメートル離れたところに、韓国宇豆峯神社(霧島市国分上井)が鎮座している。
『続日本紀』(和銅七年三月)にみえる、豊前国から隼人教導のために移住させられた二〇〇戸の居住地とされ、同社は辛嶋氏系一族が移祭したというのか専らの説である。
『神社名鑑』には「祭神五十猛命は造林航海の道を始め給し神にて、父神須佐男之命と共に八十木種を持、韓国(外国の意)に往来し筑紫島より始めて大八洲国に悉く播殖せられた」とあり、
「祈年祭当日(三月十六日)農耕籾種子播きの儀有り。」などと記す。
同社には「子あずけ」の伝統習俗を伝え、生まれながらに体の弱い子(病弱の児)を「神の子」としてあずけると、健康に育っという。
また、田ノ上八幡の宮司が祭主をつとめる霧島神社(日南市板敷)の「作神楽」は、元来眺望のきく乱杭野から「霧島遥拝神楽」として舞い、霧島神に奉納した。

画像 霧島遥拝神楽:作神楽(日南市飫肥)

元宮はさらに奥の山頂に鎮座していたといい、日南地方では山の上に祀られている霧島神を、子どもの守護神だと伝えている。
神楽は作祈祷を兼ねて、子どもたちの守護を祈願するので、春神楽の分布圏では最も遅い、五月五日(子どもの日)に催行することにしたという。
霧島神に祈願して神預けとし、当該の家ではその子を「貰い子」として育てる。家でも霧島神を祀り、縁日や大祭日には必ず参拝し、御札を受け、感謝する習わしである。
的野正八幡の「弥五郎どん」は霊峰・高千穂峰を眼交にして、母神を祀る池之尾社の中島(浮殿)をめざし、浜殿下りする。
「弥五郎どん」の装束に触れると、厄が祓われて子どもたちは健やかに育つという。
その根底にある信仰は、武人「弥石郎どん」の霊威を語る民間の信仰であると同時に、子ども守護の霧鳥神が共和し、「隼人の神」たる位相におしあげた憑依信仰にあろう。
ちなみに、岩川八幡の「弥五郎どん」の大草娃に触れると、健脚にして丈夫になるともいう。

画像 岩川弥五郎と大草蛙・大下駄

どの「弥五郎どん」もそうであるが、実に強靱な信仰性を秘めており、それゆえの「弥五郎再生」といわなければならない。                               111

二 「弥五郎どん」の鉾(槍)の意味するもの
『古今山之口記録』(「弥五郎殿支度之事」)に「鋒鑓壱本後ニ負ひ鈴附」とある。
『山之口名勝志』にも「後ニ三俣大鋒鑓ヲ負フ」とある。「鋒鑓」とは、ほこさきの鋭い鎗のことである。
一時は一本鋒鑓になったり、時世を反映して「赤塗大面」が「白塗大面」をつけるといった着面上の変遷もあったが、現在は古文献に徴して往年の姿に復している。
三俣(三刃)大鋒鑓を負い、仏性の依り代となる梵天を鋒鑓にかけ、神性のこれまた依り代となる真榊をともに負っている。鈴は神霊・仏霊を呼ぶ祭祀具。
大鋒鑓は武人の表象であると同時に、霧島神の象徴である。

画像 採り物は三俣の鉾・・鉾舞(日南市・・酒谷神楽)

画像 鉾は霧島神の象徴・・鉾舞(高原町・・狭野神舞)

なぜに鉾が霧島神の象徴なのか。
古くから伝承され来たった神楽(宮崎県域)・神舞(鹿児島県域)をみてみると、霧島山の山麓に分布する神楽・神舞では勿論のこと、霧島信仰周圏では、霧島神を表現する採り物に鉾を用いる。
それに時代がやや下ってくると、高千穂峰頂上(西諸県郡高原町蒲牟田一番地)の天之逆鉾」と呼応させて舞うようになっている。
番付(演目)においても周圏の神楽・神舞には共通のものが多く、次に、鉾を採り物とする数例を演目名によって、例示してみる。                             112
まず鹿児島県域の「神舞」から、
○霧島(止上神舞=霧島市国分)
○霧島神体舞(蓬原神舞=志布志市明明町)
○鉾舞〔霧島舞〕(湯之尾神舞=伊佐郡菱刈町)
○霧島の舞(曽木神舞=大口市曽木)
○鉾住吉舞〔霧烏舞〕(万八千神舞=鹿屋市串良町)

次に、宮崎県域の「神楽」から事例を示す。
○霧島之舞(脇本神楽=南那珂郡南郷町)
○御鉾舞(潮嶽神楽=同郡北郷町)
○鉾舞〔霧島舞〕(酒谷神楽=日南市酒谷)
○八鉾舞(吾田神楽=同市吾田)
○矛舞(野島神楽=宮崎市野島)
○矛舞(青島神楽=同市青島
など、列挙すると際限がないほどである。

画像 霧島神舞の周圏(町名は平成の市町村合併以前)

これらは、鉾によって霧鳥信仰の深遠さを表現する演目(番付)であって、他の伝統芸能を加えて検討するならば、「霧島芸能文化圏」も成立する。
「霧島神舞」はいわば、その本体といえるが、現在伝承している夜神楽にも「鉾舞」をそなえていて、
•狭野神舞(狭野神社=狭野大権現・別当神徳院(廃寺)=西諸県郡高原町蒲牟田)
•祓川神舞(霧島東神社=霧烏東御在所両所権現・別当錫杖院(廃寺)=前同)
の両社で、その本源と考えられる。そうして、祓川神舞の「鉾舞」では道歌と称し、

霧島の峯より奥の霧晴れて現われ出ずる襲の峯の守と歌う。狭野神舞においても同じく「鉾舞」の時に、
霧島の峯より上の霧晴れてあらたに拝む天の逆鉾と歌う。他の神舞においても、例えば、
わが鉾はあらたなる鉾空ゆけば雲さえなびく龍のはやさや(止上神舞)

と歌い、霧島山の分水嶺に思いをはせる。

霧島の磯辺の霧を吹き払い神火ほのおと現われぞする(蓬原神舞)

と神火信仰を歌い、また、霧島の位相や山容を歌った、

霧島はいづれの神の親なれば頭は白く腰はふた重に(湯之尾神舞)

といった神歌もある。
宮崎県域の春神楽においても、島之内八幡神楽では「霧島の峯より奥の霧晴れて」と全く同じ神歌を誦じ、新名瓜八幡神楽(宮崎市)においても「霧島の峯より崎の霧晴れて」と歌い、潮嶽神楽(南那珂郡北郷町)では「霧島の峯より奥の霧晴れて」と歌う。
すべて近世調の神歌であるが、類歌をあげていくと際限がない。
すべて霧島信仰(奇火信仰・分水神信仰・祖霊信仰等々)を心に秘めて、霧島山(高千穂峰)を遥拝する心情を託している。
如何に霧烏山か「熊襲・隼人の山」として人々に重厚な存在感を抱かせていたか、納得のいくところであろう。
ここでは、鉾の意味するところを、霧島信仰圏の神楽を座軸としてみてきたが、的野八幡の「弥五郎どん」の鉾(大鋒鑓)は実に庶民の願いをこめたもので、単なる武将の飾りものではなかった。

画像 霧島の神歌を歌いながら、三俣鉾を採り物にして舞う:御鉾舞(北郷町:潮嶽神楽)

霧島神そのものの象徴であった。                                                              113
ちなみに、田ノ上弥五郎も岩川弥五郎も、同趣の意味あいを含めて、鉾(直槍)を手携えている。

三 的野正八幡「弥五郎どん」と芸能
『山之口名勝志』の的野正八幡の記事に「四季之御祭有之候、例日より外十七度御祭二は造酒壱対相備神楽有之候」とある。
宇佐八幡宮の放生会や石清水八幡宮の放生会等を参照すると、祭神の神輿(三所の神輿)のほかに獅子舞・相撲・神楽等はつきものであり、そのほかに流鏑馬もそうである。
神幸には八幡神の化身とされる、神使いの「鳩」が神旗(幡)となって加わる。
八幡の神紋はもと「肥」であったともされるが、仏教思想の影響を受けて神使いは「鳩」とされるようになった。
『八幡愚童訓』には、源頼朝が平家征討を八幡神に祈願した時に、天から白旗が降り来り、山鳩が天空を飛んだなどの記事もみえ、祈願成就の御験として神使いの「鳩」が出現、八幡宮の神紋となったといわれ、八幡社の「八」の字は、「鳩」によって描かれている。
的野八幡宮も神旗も「鳩」であり、「浜殿下り」にも同伴する。

画像 神旗は二羽の鳩:八幡信仰の神使い(的野正八幡)

それはそれとして、的野八幡宮の「弥五郎どん祭り」には、現在も三つの御輿を旅所の斎庭に奉安して、その神前で神楽や他の芸能を奉納する。

画像 三神の神輿を奉安して、芸能を奉納する(的野正八幡)

いったい当初の祭りでは、どのような神楽が奉納されていたのか不明であるが、月並祭の折には宮神楽として「祓え」の神楽が舞われていたのであろう。
おそらく霧島修験の流れを汲む「太刀舞」(剣舞)「長刀舞」等であり、現在のそれとほぼ同様であったとも考えられる。
唯一都城盆地に伝承している郡元稲荷神社(都城市郡元町)の神楽をみると、「手力男舞・双剣舞・片剣舞・宮毘舞・田の神舞・薙刀舞」であり、的野正八幡においても相互の伝習関係を持つことから、都城盆地の神楽の主流はこういった演目であったのであろう。

画像 稲荷神舞:双剣舞(都城市郡元町:島津稲荷神社)

画像 田の神舞の奉納(的野弥五郎どんの庭)

『庄内地理志』に「神家・司僧・社役・銘々御神楽差上云々」などとあり、郡元稲荷神社の別当和光寺の社僧も加わっての、神仏混交の祭事であったことが知られる。
神歌に「深山には霰降るらし外山なる真拆の葛色づきにけり」(原漢文)などとあるが、これは『古今集』(神遊歌) に載せる著名な歌であり、これを換用して「深山」を「霧島山」と意識させたのであろう。
霧島神舞とその周圏神楽には、実に太刀(剣)を採り物とする「荒舞」が多い。                  114
これは修験者(山伏)の験力を顕現させるための舞で、その思想的背景を知らせてくれる。

画像 的野正八幡神楽:双剣舞(的野弥五郎どんの庭)

画像 霧島神舞は修験流神舞:十二人剣:祓川神舞(西都原古墳祭にて)

「荒舞」(アクロバティックな舞)には、修験者の意向か力強く主張されており、刀剣を採り物とする演舞には北斗信仰(北辰信仰)か色濃くとどめられている。
八幡系の神社においては北辰殿を造営するなど、北辰信仰の取り入れは大きい。
「的野弥五郎どん」の本拠地富吉集落にも「鉗大明神社」かあり「冨吉村正近方限馬場薗門之内」(『山之口名勝志』)などとあって、北辰信仰・妙見信仰の浸透か知られる。
いま一つ、注目しておきたいのは、神楽の採り物「鈴」である。普通には「神楽鈴」の握り手に、五色の布を切りさげにした小賀玉風の鈴を用いるか、的野正八幡宮のそれは「チャリン棒」と称するもので、握り手にはいわば梵天風のものを結びつける。
霧島神舞の「鈴」がいわゆる輪鈴と称されるもので比較的に小型であり、その鈴音はぴしゃっと決まる。
銭鈴ともいわれ、切りさげも短いことから真剣を用いて舞っても障りがない。
的野正八幡の「チャリン棒」もこれと同しで、山伏の錫杖を模したものであり、霧島修験神楽の特色を示す祭具の―つでもある。
ちなみに、雛守六所権現・別当宝光院(小林市)は性空上人が来錫して霊跡を探り、六座の神々を雛守嶽に勧請、別当寺は慈覚大師の開基と伝え、唐から帰朝の際ここに引杖し、景行天皇ゆかりの地として錫杖を執り供養したと伝えている。
いうまでもく錫杖は僧の御身用でもあり、読経の際にも用いることなどから、錫杖そのものが独特の霊力をもつものと信じられた。的野正八幡の神楽は、霧島修験の譜に連なるものである。

画像 小林市夷守(『三国名勝図会』)

四 ふるさとの山に還りゆく「弥五郎どん」
霧島山(高千穂峰)を遥拝できるところには、華立場(霧島神祠)を設けて、人々は霧鳥への信仰を持ち続けてきた。おそらく「弥五郎どん」の精霊か、戻りゆく山とも観じていたであろう。
柳田国男は「日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰か、おそらくは世の始めから少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている。」(『先祖の話』)などと記している。
「亡くなるとオタコさん(霧島山)へ戻る」といった観念は、山麓一帯に語り伝えられており、葬法の一つに、死棺は霧島山に向けて正対するようにして送った、というようなことも灰聞した。   115
霧島山は全体的にみると、観音信仰の霊山である。
廃仏毀釈以前の山中・山麓の寺院をさぐると、慈覚大師の開基と伝える宝光院(廃寺)を除けば、多く聖観音・千手観音・十一面観音を本尊としている。
山上には両界曼荼羅の世界が想定されていたようで、金胎両部の本尊大日如来か、一切衆生の苦を救済するために高千穂峰の頂に安置されていた。
そこには仏光か輝き、煩悩を消去し、仏性を得させる無辺の境地が展開され、安堵の心を誘う世界かあった。
これが、すなわち秀峰・高千穂峰に「霧島禅定嶽」の別名を与えた所以でもあろう。

画像 霧島山信仰のすがた

画像 大日如来像(尾形森衛『仏画習作』)

もう一つは山麓に広がる浄上世界で、その中心は阿弥陀信仰である。
『三国名勝図会』(巻之五十八)の「霧島山大曼陀羅院西生寺(都城市梅北町)」の記事に同寺の由来記として、「当寺は、小松内府平重盛の開拮なり、重盛嘗て重病に染む、一夜夢らく、西国の霊山、霧島嶽の下に浄土あり、其地に寺を建べしと、因て重盛祈願を凝されけれは、其病頓に癒ゆ云々」とある。
西生寺は重盛の夢告によって開基したと伝える天台宗の寺で、はじめ高千穂峰の東麓狭野(高原町)にあり、六支院、四十二の支坊を置いた大寺であった。
その後尋誉上人か住寺のとき、一夜神童が訪れて噴火を予告したので、本尊並びに鎮守山王等を奉じて、現在の都城市梅北町益貫に移転した。

画像 都城市梅北町:廃寺(『三国名勝図会』)

この真偽はともかくとして、こういった信仰地盤があったことは確かであろう。
また、一向宗弾圧による既成教団から外れ、浄土真宗を依りどころとする念仏集団の「かくれ念仏」、霧島修験と民俗信仰とか習合した「萱壁教」、ことに後者は霧烏山を浄土とする思想で一貫している。
阿弥陀信仰と霧島信仰とか融合して独特の民俗宗教を生んだのであるか、その信仰は現在までも受け継かれている。
そもそも修験道の中核の思想に、霊山を「母の胎内」とみて、入山修行し再生するといった考え方がある。
つまりこれが「生まれ清まる」ための実践である。敷衍していえは、入峰して苦業を積み人間を鍛える「擬死再生」の行である。                       116
そこで『古今山之口記録』に「的野山正八幡宮別当真言宗花蔵院弥勒寺」とあり、「本尊弥勒菩薩御長壱尺五寸座像薄磨作者不相知候」とある。
また「的野八幡宝殿舞殿造替棟札」に「本地ハ則弥勒菩薩ナリ因テ別当ヲ号ス弥勒寺卜」ともある。
宇佐八幡宮の弥勒神宮寺の開創の思想には、仏教側にも神々を仏法によって救い得るといった論理がある。
そうして神道・仏道互いに矛盾しない関係を築きあげたのが神仏習合であり、しかも八幡神が仏教教義の「放生」の思想と合一化した。
従って、八幡神を勧請すれは同時に別当寺を設営することが普通で、的野八幡宮の弥勒寺についても「和銅三年八幡一同二為相建由申伝候」と記録されている。
弥勒信仰とは、未来再生を期する信仰で、弥勒浄土(兜卒天)から五十六億七千万年の後に、汚れた現世に下生し、民衆を救済するといった信仰である。
王朝社会では功徳を積んで、弥勒仏のいる兜卒天に住生することを願う上生信仰があった。
弥勒菩薩はその信仰対象で、仏教上の救世主と考えられており、諸国において戦乱が起こると、この現世に弥勒仏か下生して民衆を救って欲しいという「弥勒下生」の信仰が盛んとなった。

画像 弥勒菩薩(尾形森衛『仏画習作』)

これは、弘法大師への信仰と結びつくなどして、真言宗系の修験者へ大きな影響を及ぱした。
霧島山の寺院もはじめ天台宗であったが、文明年間(一四六九-一四八七)以降島津家の政治的な権力も関与して、そのほとんどが真言宗へ宗旨かえした。
よって、霧島山には、天台・性空上人と真言・弘法大師の伝承をともに語り伝えている。
弥勒信仰は、中国や朝鮮半島では至福千年運動といったかたちで流布したようで、わか国では特に豊作をもたらす民俗信仰としても展開した。
例えば、海の彼方から弥勒の舟が米俵を積んで、訪れてくるといった信仰である。
それはすなわち釈尊が救い得なかった衆生を弥勒菩薩か救済するという、未来仏への信仰である。
このような信仰的環境を素地において「弥五郎どん」をみてみると、国家主導のもとに行われた殺生禁断の仏教儀礼が隼人社会において催行されるとき、その思想・かたちがそこに住む人々によって、変容されてしまった。そうしなければならない隼人系類の意識が働いた。
宇佐八幡宮においても、石清水八幡宮においても、大人の人形が先導するといった事例はない。
そこには、放生会の発端となった隼人の統括者「弥五郎どん」か主人公として、偶像化されざるを得ない、強い「ふるさと意識」からの問いかけがあったからだと考えざるを得ない。
ふるさとびとにとって、鎮送の儀礼の後には、その魂を再生させなければならないのである。
簡明に言えば、「弥五郎どん祭り」は放生からの再生儀礼とも解せられるのである。
「弥五郎どん」の戻りゆくところは、ふるさとの山(霧島の山・隼人の山)である。
霧島山は、大日如来をいただく両界曼荼羅の世界、慈悲の光が輝き、煩悩を除去し、仏性を得て即身成仏の仏果に安住できるところである。
修験道においての信仰の中心には大日如来かあるか、「弥五郎どん」の戻りゆく山はそんな山である。
そうして「弥五郎どんの祭り」も「魂まつり」であって、一方また、霧島山に送るということは、観音菩薩の主導によって苦悩を脱し、それに現世的利益を含めて種々の仏果が得られる。
霧島山は観音の霊場でもあったのだ。
修験道では、聖観音・十一面観音・千手観音の三種が特に重視され、霧島山の本尊はいわばこれであった。                               117
霧島山には四方門があって、入峰道も残されており、山中苦行によって、胎内蘇生をはかるそんな山でもあった。
「弥五郎どん」は、そういう信仰の山に年に一度は戻りゆくわけだが、しかもその山麓には浄土が広がり、「弥五郎どん」の御幸の道(浜殿下りのみち)は、古来の神幸行列の道を含めて、その東端に当っている。

画像 都城市山之口町山之口(『三国名勝図会』)

「弥五郎どん」の里からは、西方に阿弥陀世界に往生できる霧島山麓の浄士を望むことかできるし、「弥五郎どん」の浜殿下りに発つ地点は、いわば弥勒菩薩を未来仏として祀る、弥勒下生の信仰に支えられたところである。
かつて、山之口郷には的野正八幡-別当弥勒寺・走湯権現宮-別当修善寺をはじめいくつかの寺院があった。
十輪寺・福王寺・瑞応寺など廃仏毀釈で失われ、今は寺跡をとどめるのみであるか、いま的野神宮寺・弥勒寺社僧名を挙げてみる。
円継・実友・良誉・光有・有賢・覚脊・盛円・盛宥ら、その履歴は不詳だけれども、信仰土壌を支え「放生会」に関与した人たちであったろう。
今では、この里近き山(霧島山)に入山して行を積んだという記録は発見できないものの、霧島信仰の大概は身近かに認知していたであろう。
それほど、信仰的巨大さ・広範さを包み込んでいる霧島山であり、一般庶民にとっても身近かな山であり、それは昔も今も変わりない。
もし霧鳥山が南九州を代表する信仰の山でなかったならば、つまり「隼人の山」でなかったならば、「弥五郎どん」が永遠の「神幸人形」として動き出すことはなかったのではあるまいか。
大人人形の浜下りは、永禄十年(一五六七)の創建と伝える日置八幡(日置市日吉町)にも「大王殿」の呼び名で伝わる。
『三国名勝図会』(巻之九)には、他の三所の「弥五郎行事」と同じ趣旨を掲げており、大人人形は武内宿祢をあらわすといった伝承も、また同様である。
九月十五日を正祭とすれば放生会の行事であったろうが、現在はお田植祭に出座するようになって、いわば稲作守護の人形とされている。
「大王殿」については、別稿にゆずることとする。

画像 大人人形:大王殿(日匹市日吉町:日置八幡)

五 「弥五郎どん」三兄弟説
ここでの結びに「的野弥五郎・岩川弥五郎・田ノ上弥五郎」の三兄弟説に触れておきたい。
この兄弟は霧島信仰圏の足下にいる「弥五郎どん」で、三兄弟説が、いつの頃から言われるようになったのかは不明である。
的野八幡宮の祠官家に連なる亀沢左近(明治十九年五月生まれ)の談話か、『文化大観』(郷土の礎)に収録されている。                         118

弥五郎どんな、弥五郎・弥次郎・弥太郎って三人兄弟の人じゃったげな。
三人兄弟で、ここん人(的野弥五郎)が一番、ま、兄さんで、

画像 長兄:的野弥五郎どんの浜殿下り(都城市山之口町)

あそこん、志布志さね行く所ん、何とかいうところじゃが、あっき弥太郎がいや弥次郎(岩川弥五郎)ちいう人がおりゃんさる。

画像 次兄: 岩川弥五郎どん起こしの後に(曽於市大隅町)

すと一人や飫肥の方(田ノ上弥五郎)じゃげなど。

画像 三兄弟:ふたりの田ノ上弥五郎どんが並ぶ(日南市板敷)

わしも行っちゃみらんと。ま、そういう話は聞いちょっただけじゃ。
志布志さね行く所ん、あん岩川じゃ。岩川に二番目ん人がおりやったちゃろ。
すと飫肥に一人おりやっち話は聞いちょったとよ。
昔の人が、あん、博打いうな、銭のなにゃ、賭金しよったわな、博打たろうて言いよった。
ここん人かな、博打たろでな、銭ぬすっぽ、もう使きってな、銭の一つも持たん人じゃったちいうわ。
そして冬の十一月三日が弥五郎どんの出やる日じゃかんな、衣装もそん布の衣装を着て出よりゃったんです。なんも着るもんがなかったげな。
そしてほかん飫肥の人たちゃ絹の衣装を着ちょりゃっちということじゃった。
ここん人が、まあ一番金を使きってな、まあ貧乏じゃったっちゃろ。そっで、冬の寒い時も布ん衣裳を着ちょりゃった。

すでにこういった話は、一00年以前の明治期に語られていて、これはいわば零落した「弥五郎どん」の姿である。
ここで留意したいことは、民衆化した「弥五郎どん」の身近かさである。
地域の祭りにおいて賭事(賭博)をするといったことは、よく行われたようで、語りぐさを残している風習である。
それを祭りの楽しみとすることは、集落においては公認であり「胴ぶるい」(賭事で所持金を失ってしまうこと)などとも言った。
ところで、この三兄弟説は仲問意識のうちに生まれた身近かな「弥五郎どん」への愛着を示している証と思われる。
決して隼人の長の落ちぶれた姿に焦点かあるのではなく、親しい存在として再生していたことを意味する。
いわば、隼人族の首長への愛着である。
三兄弟説は、必ずしも根拠がないものではなく、既に指摘があるように「弥五郎どん」祭りを継承している、三社の創建に関わっているものであろう。
即ち、
的野八幡宮=和銅三年(七一〇)
岩川八幡=万寿二年(一〇二五)
田ノ上八幡=天永元年(一一一〇)
の各社創建年代によっている。

第十節 的野正八幡宮の年間を通じての弥五郎どん祭り
一 春祈念祭と「弥五郎どん」の庭
的野正八幡宮の年間の祭りは、十八度に及んで執り行われた。

画像 賑わう的野弥五郎どんの庭(都城市山之口町)

このことは前述したので詳細は省略に従うか、現行の同社の祭りは、次のような位置づけで催行されている。    119

○大祭 ・例祭(御神幸祭・弥五郎どん祭り・十一月三日)
・春祭(新年祭・春祈念・旧二月初卯日)
・秋祭薪嘗祭・収穫感謝・十一月二十三日)

○中祭 ・元旦祭(歳旦祭・招福祈願・一月一日
・除夜祭(年間感謝・恵方祈願・十二月三十一日)
・夏祭(六月燈・さのぼり・七月二十五日)

○小祭 ・七五三祭(七草祝い・成長祈顧)(一月七日)
・厄年祓祭(年厄祓い)・健康祈願(一月七日)

これらのうち、二月初卯日に行われた予祝祈顧の芸能等は、現在は例大祭「弥五郎どん祭り」に執り行われる。
『山之口名勝志』には、「二月初卯日御祭ニはたフノ木葉を以御守と相成社人申請候。此日御田鍬初之由緒ニて竹細工之牛相調、田地打起之形井木刀踊有之候。花木村冨吉村勝岡之内餅原村蓼池村より右之踊仕来申候。何年間より相始候訳相知不申候。」とある。
これは、現在でいう「打植え祭」についての記事である。
当日はたぶの木葉を御守として奉納する習俗があり、社人(祝子)がこれを申し請けたという。
常緑の葉(本榊・椿など)を供えて、あるいは竹串に常緑の葉々を刺して祈願する習俗は宮崎県域にも各地にあり、ここではたぶの木葉を用いたのであろう。
『古今山之口記録』にも「二月初卯日春之御祭と云、たぶの葉御守有」とも記している。
たぶの木は一名をイヌグスともいい、暖地に産する常緑高木で葉は互生し楕円形状をなしている。
たとえば『万葉集』(巻十九)の大伴家持の歌に「渋谿の場を過ぎて巌の上の樹を見る歌一首、樹の名はつまま」の前詞をおき、「磯の上のつままを見れば根を延べて年深からし神さびにけり」と詠んだ一首の「都萬麻」か、たぶの木のこと。
古くは、葉を粉にして麦粉に混ぜて食用としたり、葉を粉末として線香をつくる糊料としたという。
「つまま」の語源は、枝葉が多く繁茂し、それを利用して雨を防ぎ、仕事場としたということから、母屋の他の居間という意という。
ともかく常緑の葉によって、豊穣を祈願し集落の安泰を願ったのであろう。
的野正八幡宮にはかつては神田があって、田鍬初めの田遊び系の芸能を奉納し、豊作・家畜の安全を祈顧した。
『三国名勝図会』(巻之五十七)には、『此ノ日には田鍬初の謂れとして、牛の形を造り、懇田の状をなし、及び木刀躍りあり」と記している。
いわゆる「ベブどん」とか「太郎踊り」と呼ばれるもので、地言葉で牛を主人公にして演ずる農村の狂言劇である。

画像 地元:中原集落から太郎踊りを奉納(的野正八幡)

南九州地域には、同類の芸能か「カキ引き」を含め、相当数分布している。
詳細は別項にゆずるか、的野正八幡宮への奉納で注目しておきたいのは、牛耕中のさなか、疲弊しきったベブ(牛)が動けなくなる。                    120
「これは何とかしなけれはいけない」ということで、的野正八幡宮に回復を田人たちが祈顧したならばご加護があって、牛が元気を取り戻すといったストーリーである。
中原集落からの奉納で「中原太郎踊り」というが、踊りというよりは農事狂言劇といった方が当を得ている。
これは実は稲作始めの神事芸能というべきもので、一連の田植えまでの過程を演じ、お互いにアドリブで応答するなど機知にあふれている。
これは同時に、農村の暮らしを後世に伝える貴重な「暮らしの芸能」でもある。
もう一つ留意したいことは、「竹細工之牛相調」とあることで、他所では比較的小型の木彫りの牛や、あるいは牛の面をつけた牛役が登場するのに対し、的野正八幡宮のそれは竹皮を編みこみ、牛面をつけさせ、その中に演者(ふたり)が入っており、竹細工の高度な技を発揮している。
隼人の伝統的な技として「弥五郎どん」の本体もそうだが、緻密な竹細工には心をとめておきたい。従って、ここの田鍬初めの牛は、ほぼ等身大の秀れた作りものといってよい。
さらに『山之口名勝志』には、近隣の各集落から「木刀踊り」を奉納したともみえる。
「木剣踊り」でなく、「木刀踊り」とあるのをみると、今でいう「棒踊り」のことであろう。

画像 地元:正近集落から棒踊りを奉納(的野正八幡)

これも南九州地域には多く分布する風流芸能で、普通には六尺棒や三尺棒を打ち合わせる組踊りであり、「おせろが山で、前は大川」などといった出端の詞章がある。
旧薩摩藩領域では、示現流の剣法を舞踊化したものとも伝えている。
狭野神社(西諸県郡高原町)の祭礼では、豊作を祈願して奉納する「御田植踊り」ともいい、同社の特殊神事のうちに入れてある。
的野正八幡宮では地元正近集落から「棒踊り」を奉納するが、「棒踊り」につきものが「奴踊り」である。
「奴踊り」は『山之口名勝志』には見えないけれども、御田祭や水神祭に奉納される風流芸能である。
飫肥の「泰平踊り」(日南市)などでは男性が奴姿で踊るが、棒踊りの「あと山」としての位置づけの場合は、区割りがはっきりしている。
「早馬祭・じゃんかん馬」(北諸県郡三股町)の場合もそうだが、豪快で迫力のある青年男子の「棒踊り」に対し、青年女子の「奴踊り」は、手踊りで列をなして踊る。
的野正八幡宮へは、桑原集落から「奴踊り」を奉納する。

画像 地元:桑原集落から奴踊りを奉納(的野正八幡)

神楽については先に触れたので、奉納相撲について少し述べておきたい。
『日本紀』(巻二十九)天武天皇十一年七月の条に「大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷にて相撲をとる。大隅の隼人勝ちぬ。」などとある。
ことに南九州は相撲の盛んに行われた地域で、十五夜の綱引きの後に、簗綱をとぐろの形(竜神)に地面にはわせ円形にして土俵にみたて、相撲を行うところがある。
これは水神に感謝するのが本儀で、四股を踏み地霊をさまし、水田の作物の実入りを願う儀礼でもある。
水神の脊属であるガラッパ(河童どん)か次から次から出て相撲が行われるのも水との関わりを示している。
また、春祈念や収穫祭に奉納することも多く、的野正八幡宮の場合も若者たちの祭儀相撲で、土俵入りの型を取り入れるなどした顔みせてあって、実際に取り組みをして、勝負を決するわけではない。従って、「相撲踊り」と称してはいるが相撲甚句などによるものではない。
締め込み(褌)に注連綱を巻き、それぞれ思い思いの四股名を前だれとしてかけ、力づよく演ずるのである。
桑原集落を主体にして、掛け声による統一的な動きをみせ、的野八幡神のご加護を願う。

画像 地元:桑原集落を中心にした青年層からの相撲踊りを奉納(的野正八幡)

二 春耕と秋収
この「春祈念」(春祭り)に応ずるのが、年間サイクルでは「新嘗祭」(秋祭り)である。
春の祈念祭の後に一旦は去って行った農の神々を、刈り上けの日に再ひ迎えて、ねきらいの祭り-感謝祭-を行う。
作神は去来神の性格をもち、田の神や大黒などは、その顕著な例である。
初穂そのもの、あるいは新穀を用いての菜・餅・赤飯などを神前に供え、秋の稔りに感謝し、氏子・住民の繁栄を祈願する。
これは春耕に対する秋収の祭りで、農作感謝祭といえばわかりやすい。
つまり、この祭りこそか豊穣祭(豊饒祭)で、南九州でいう農祭なのである。
この春祭り・秋祭りの中間にあるのが夏祭りの「六月燈」で、七月に入ると都城盆地でも神社・寺院でほとんど毎晩のように行われる。
的野正八幡宮では、この「六月燈」を中祭と位置つけている。
由緒は島津光久(島津家第十九代藩主)か上山寺新照院(鹿児島市)の観音堂造立の折、多くの灯籠を献納させたのか始まりとされ、今日では旧薩摩藩領の夏の風物詩となっている。

画像 都城盆地の六月燈:センツロ(都城市高城町桜木:南方神社)

この時期は、普通作の稲を植え終えての「さのほり」とも重なり、やがて稲の花も咲く時節となる。
田植作業で疲れた牛馬の病気祓いや、稲に発生する病虫害駆除を祈り、夜明かしの灯を献じて、無病息災を祈願する習俗となった。
ちなみに、都城盆地の「六月燈」は秋葉神社(都城市平江町)に始まって、兼喜神社(同都島町)で終わる。
山之口町域では的野正八幡・南方神社・熊野神社・走湯神社・保食神社などて行われ、自作の灯籠と武者絵等か灯明りに浮き、小集落の和合・固めの楽しい行事となっている。
春祭(祈念祭)-夏祭(六月燈)-秋祭(収穫祭)のサイクルで、「食」を基底に置いた集落行事か、各々の住民の和をつないでいる。
こうみてくると、これら各集落行事の「和」の上に例大祭の「御神幸祭」(弥五郎どん祭り)か行われ、今では山之口町全域の年中行事となっている。
祭りの変遷をみると、元来は旧二月初卯日に奉納されていた「打植え祭」の行事か、例大祭の「放生会」への行事となって移行している。
それには、廃仏毀釈や国家神道化の影響もあろう。
再度確認するが、文政七年(一八二四)の調査記録である『山之口名勝志』には、的野正八幡創建と同時に建立されたという弥勒神宮寺を残し、そのほか支坊(脇坊)は、この時代においても既に坊跡をとどめるのみであった。
おそらく文化初年(一八〇四)以前に、廃絶していたのであろう。                                                  122
別当弥勒寺そのものも慶応三年(一八六七)廃寺となって、諸行事の継承も難しくなったのであろう。
いつの時代に「春祈念祭」の行事を例大祭に統合したのか不明であるが、的野正八幡宮歴代の祠官(亀沢家)の尽力によって、とにもかくにもその精髄は維持されてきた。
春祭に奉納していた「太郎踊り」をはじめとする神事芸能が、例大祭の「神幸行事」(浜殿下り)の日に取りこまれたのである。
的野正八幡宮の祭祀を強力に支えてきた人々に、「八幡講」の講中がある。
宮座的な性格の濃い組織で、いつの時代に結ばれたのか不詳であるが、的野正八幡馬場周辺の住民を主座にして、代々の祠官家も加わっている。
構成員は『八幡子(講)人名簿』を見ると原則は男性であったようであるが、現在は講中家の女性も混じり、運営は話し合いによって、順次年順の座元を決める慣例になっている。
年二回(三月・九月)に寄り合い、八幡神に御神酒(焼酎)と御神飯(白飯)を供え、年間の豊作と安寧を祈願する。
直会用は各戸の分担手持ちでまかない、講運営のための如何ほどかの金銭も集める。
例大祭「弥五郎どん祭り」では講中の人々、それに的野正八幡宮周辺の人々が主役となって参拝客の「接待」準備をする。
祭礼用の庄連の準備、榊の採取など、さらには弥五郎どんの装束など神幸準備に協力し、当日は参拝の観衆に煮染めや甘酒をふるまう。

画像 的野の八幡講(山之口生涯学習課提供)

画像 的野弥五郎どん祭りでは甘酒をふるまう(弥五郎どんの庭)

いま一つ、加筆しておきたいことは、ここの八幡神に対しては、赤不浄・黒不浄の二つの禁忌があると伝えられており、例えば、野辺送り(葬式)の際は参道(八幡馬場)を通ることは許されず、裏道を通るといったことか決まりで、講中の人々が厳しく守るように訓している。
こういったことで「八幡講中」の構成員は、的野正八幡の膝元にあって祭りを支え、その振興のために力を注ぎ、大きな役目を果たしてきている。

三 放生会とホゼ祭りの関わりは
先にも触れたが、春耕・秋収の関わりからみると、春祭りと秋祭りとが対応の祭りとなる。
生産過程で捉えるならは、豊作祈念と豊作感謝の対応関係となり、確かに収穫時のホゼは秋の祭りである。
ホゼといったことばが派生したことについては、「方祭・豊祭・豊穣祭・豊饒祭」などの文字を当てて考えられている。
「方祭」を除けば意味の上からは「収穫祭」に集約できる。
「方祭」については、例えば「冨吉村正近方限」などと記されているように、旧薩摩藩領における小集落単位の呼称であるが、必ずしもホゼの派生説として当を得ていないとは言えまい。
ホゼについては「放生会」の音が訛ったもので、八幡系神社の旧八月十五日の放生会が秋の収穫祭に転化合一したものとするのが専らの説である。
確かに八幡神が諸国に対して放生するように託宣したのは、既述のように随分と古い時代のことである。
ホゼとは、家々のあるいは小集落の収穫を祝う素朴な農神に対する感謝の習俗であり、収穫を同じ時期に行う集落の人々が、                        123
コンニャクや時節の団子など、あるいは新穀によって甘酒をつくり、神仏・農神に供えて会食し、感謝するといった信仰習俗が元来、本来の姿であった。
それは十五夜の祭りに青刈りの焼米を供え、ヨイノシタタメ(一夜漉しのどぶろく)を神仏と共飲するといった習俗にも見られる。
こういった下地(素地)があって、小集団のホゼ祭りが執り行われるようになった。とすれば、ホゼとは報賽・報祭の薩摩語と考えるのが妥当するかも知れない。
八幡信仰が浸透した時代は、確かに往昔のことである。
八幡信仰のみならず、神道の諸国への流布は古く、新嘗は『日本書紀』では新嘗とせず大嘗としているが、『万葉集』の東歌には新嘗といい、「葛飾早稲を饗す」などともみえる。
また、早稲の飯(焼米)を供え、常世国から来た祖先神(まれびと)に供応する新嘗の家を新室といったともあり、共食する習俗もあったようである。

画像 早稲の飯:焼米(串間市大平:十五夜)

全国各社において国家神道色か強まり、統一体で新嘗祭か行われるようになったのは、確かに明治初年以降のことであるが、秋の収穫時にはさまざまなかたちで祭りか行われていた。
新穂・海菜・野菜などを集落の鎮守や祠に供え、感謝する素朴な祈りにみちた古習俗の世界があった。
従ってそういった、例えば稲魂に感謝する庶民的な信仰儀礼の土壌の上に、国家的な放生会の祭式かはいってきて、連携した行事になったとは言い得ても、それがすぐに放生会神輿の「浜下り」の行事に結びついたことがあったかどうか。
「ホゼ」と「ホゼ祭り」は性格が異なり、呼び分けることができるとの指摘もあるが、一年サイクルの祭事暦・農事暦を対比して捉えると、どうしても放生会即ホゼ祭りとは考えられない。
ホゼ祭りと軌を一にして、矛盾なく同一体となるのは、むしろ本儀からして「新嘗祭」である。
「放生」の読みが訛化して「ホゼ」になったことは納得しても、「放生会」が「ホゼエ」(豊饒会)になったという事例は見当らない。
語音の上から「放生会」が「ホゼ」の二音になったというのもまた理解しがたい。「豊祭」を「ホゼ」というのは、家庭的・小集落的な収穫祭の意味あいを含めて、最も妥当性が高いようである。
本来的には「放生会」は国家的な営みの行事であり、時代は新しくなるが、『古今山之口記録』等の「放生会」の記録及び関連の記事には、ここでいう「ホゼ」・「ホゼ祭り」の関わりは「法生会法則」の中の「豊饒事ヲ致ス」という以外には見出せない。おそらくこれは豊作祈願祭であろうか。
『同書』によれば天文四年(一五三五)、座主覚宥のときの放生会の記事があって、すてに「弥五郎とん」か出座しているが、この大人人形は八幡宗廟の命によるものではなく、隼人族の末裔たちが創りあげた先人の偶像である。
三つの神輿の神幸(浜殿下り)は宗廟の祭式に倣ったものであるが、「弥五郎どん」に導きの猿田彦命のかげを見るにしても、それは強い独創性を押し出した隼人族の偶像である。  124
三つの神輿を導く猿田彦命は、実は弥五郎どんの後列に登場するのであり、いわば第二行列の先払いである。
もともとは個別の行事であったものが、「弥五郎どん」という隼人たちの隠れ名において、何らの宗廟の抵抗もなく、先導役として動きはじめたとするのが妥当性が高いようである。
かつて大隅八幡宮の石体社に、八幡神が垂迹したということを聞き知った宇佐八幡の神官が疑念を抱き、三使を派遣して、その真偽を調査させた。

画像 大隅正八幡宮境内:石体社(霧島市隼人町)

こういった念のいれようでもあった。
祭神の先頭にたつ「弥五郎どん」が、たとえ放生会の主人公であったとしても、猿田彦命役と同等の位置を占めて先導していることは、宇佐宮(王権) 側からすれば、憤慨せざるを得なかったであろう。
ほとけ事とはいえ、敵対の将「弥五郎どん」の亡魂が、宗廟の主祭神の先頭に立つわけである。仮にしっかりとした名を与えるとすれば、「隼人弥五郎殿」である。
もともと八幡神が放生の託宣を下さなくても、隼人域には慰霊の真心は去来していたであろう。
人々は隼人族共同体としての「弥五郎殿」の名を与え、あたかも東北や北陸の「ショウキ(鍾埴)人形神」「カシマ(鹿島)人形神」と同じように、道祖神や集落の守護身の霊力をも見出して「大人人形」として仕立ててしまった。しかも、その本体は隼人の霊魂を象徴するものであった。

画像 ショウキさま:鍾馗人形(「あるくみるきく」一四四)(新潟県東蒲原郡阿賀町)

画像 カシマさま:鹿島人形(「あるくみるきく」一四四)(秋田県湯沢市岩崎)

「弥五郎どん」は、隼人の神霊・仏性の総体の偶像であって、その悲劇的歴史への思いを秘めさせつつ、やがてその上に民俗神としての種々の機能を与えられ、今日まで生きつづけてきた。
中央政権(王権) 側が仕立てた人形ではなく、隼人の領民が新たに創造して「放生会」における主役人形となったのである。
祭りの行列を見ても、「弥五郎どん」の先導役と祭りの主体である三神(三つの神輿)の行列とは、一連の統一隊列ではなく、そこに二つの御神幸行列の合体の姿を見るのである。
本来別々の祭祀方式を合体させたのは、隼人族の伝統をあらゆる暮らしの面で、保持しつづけた領民の知恵であった。
いわば、国家側の思惑と隼人側の思慮を折衷させた、ふるさとびとによる祭りの洟出となった。
年間の頂点にたつ「弥五郎どん祭り」こそは、年来の思いを託し得る結束の場となり、一方では楽しみな「弥五郎どん」蘇生の行事として、定着してきたのだった。

画像 第二行列:三基の神輿の浜殿下り(的野正八幡)

第十一節 大人弥五郎についての説
一 柳田国男は「弥五郎どん」をどうみていたか
民俗研究や伝承研究の側面からは「大人弥五郎」をどのようにみていたであろうか。ここでは柳田説と折口説を両軸としてみておきたい。                    125
まず、柳田国男の『全集』をみると随所で触れているが、まとまったものは「妖怪談義」の章におさめる「大人弥五郎」(『全集』第四巻)と、「一目小僧その他」の章におさめる「大人弥五郎まで」(『全集』第五巻)の二項である。

画像 柳田国男:昭和36年12月(『柳田国男写真集』岩崎美術社)

まず、前者においては『三国名勝図会』をひいて「ずっと懸離れた日向大隅あたりで、やはり大人弥五郎の様々の昔をば伝えている。」と記し、二子塚(鹿屋市輝北町市成)の畚話などを紹介し、関東各地方の「だいだ坊」との山移し謂に比べて、最も著しい相違点について指摘している。
そうして、海南二洲の大人に在っては、さらに重要な後日靡が付随し、大人が必ずしも非凡な強力のみで名を轟かしたのではないとも述べている。
その事由として、『三国名勝図会』(巻之三十一)から大人弥五郎が殺害された国分平野地方の伝承、弥五郎の四肢を斬って埋めて祀ったという枝の宮、鼻を埋めたという鼻面川、弓を埋めたという東国分の福島、さらに土人(土地の人々)の話として「昔大人隼人という夜叉の如き者あって、此処に於て皇軍に誅伐せられた」といった伝承を書きつぎ、『大人隼人記』から「大人弥五郎殿は上小川の拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり、其時舞躍して手拍子を取りしよりこの名あり云々」の箇所をひく。
枝の宮・鼻面川・福島・拍子橋(上小川・拍子川)は、現在は霧島市国分の域で、ともに半径三キロメートルにおさまる近隣の地である。

画像 伝弥五郎どん終焉の地(霧島市国分上小川)

そして「大人弥五郎を隼人という武士みたいな名にしたのは、多分は八幡愚童訓などの八幡王子が隼人を誅散せられたという記事に合わせたものであろう」と記し、日本武尊ならぬ八幡王子が隼人を討ち取る場面を『同書下』から引用している。
これらの口碑は大隅正八幡宮(霧島市隼人町)の祭りと因縁があるものであるとし、的野正八幡(都城市山之口町)の「弥五郎どん祭り」・岩川八幡(曽於市大隅町)の「弥五郎どん祭り」等を事例として挙げ、
この二者については、大人弥五郎は武内宿祢のことだとの説もあると紹介している。
柳田は全国的な視野から大人弥五郎と称する人形の祭りは、奥州津軽その他のいわゆる倭武太流しと如何にもよく似ているといい、「旧日本両極端の地ではあるがこれは偶合ではあるまいと思う。」と見解を述べる。
以下、各地の弥五郎という名称をもつ人物や祭りを比較検討し、津島系の神社に祀る弥五郎や祭神を武内大臣(宿称)としている社に触れ、地主神との関連も説いている。

画像 歌川国芳筆:武内宿祢 大阪・浅井コレクション(『日本の神々の事典』学習研究社)

さらには御霊会と牛頭天王との関係を説き、諸社が御霊化していく過程を論じ「御霊に対する世人の畏怖は増しても減ずることがなかった故に、古い御霊が高い地位に昇ると共に第二第三の御霊が祭られた」とも指摘している。                 126
御霊とは「みたま」であり、太古以来の国魂郡魂も同じことで、本意は現人神即ち実在した人の霊を祀るに過ぎなかったものが、平安初期の御霊は特に寃柱を以て死んだ人々をのみ祭るような信仰に変化したと解説する。
しかも「八幡はそれ自身が祗園と共に最古の御霊祭場から発達した神である。それ故に九州などでは八幡社の末社に御霊が多い」ことを述べ、柳田説のこの項における結びは「権五郎の権も弥五郎の弥もどういうはずみに付着したかは知らぬが、御霊即ち人間の亡霊の是非とも慰撫し且つ送却せられねばならぬことを固く信じていた人々の、やさしい心持を今日に遺しているものに他ならぬ。
しかしてその弥五郎の御霊という思想中に、国魂即ち先住民の代表者ともいうべき大人に対する追懐もしくは同情を包合していた例がありとすれば、愈々以て我邦民間におけるこの種信仰の由来古いものなることが察せられる。」というのだ。
実に、示唆に富んだ御霊についての見解である。
まさしく柳田のこの項における結論は、現在の「弥五郎どん祭り」をみるとき、びったりと合致し、年中行事化した慰撫の人形送り(浜殿下り)こそ、人々のやさしい慈悲の心を今日に伝えていよう。
祭りを実見すれば、ふるさとの先住民隼人の代表者たる「弥五郎どん」への追慕の念を、今日まで伝え伝えて来た人々の深い思いを知ることができるのである。
次に後者「大人弥五郎まで」の項についてみてみよう。
その前に的野正八幡宮近隣に伝わる御霊信仰ということで景清伝説に触れておかなければならないが、今は省略に従うこととする。
ただ、生目神社(宮崎市生目)は旧称を活目八幡といい、三百町の所領をもち「観音利生謂」を伝えるなど、日向における景清伝承の本拠地のようになっている。

画像 文弥節人形:出世景清(山之口麓)

眼病平癒を祈る八幡は勿論豊後にもあるし、岩川八幡の近くにもある。信仰の地盤からすれば、これらも御霊信仰であり留目しておいてよい。
さて、柳田は「弥五郎は中古に最も普通であった武家の若党家来の通り名で、それだけからでも神の従者であったことか想像せられる。
しこうして大人弥五郎の主人は八幡様であった。
大隅国分の正八幡から、分派したろうと思う附近多くの同社では、その祭りの日に必す巨大なる人形を作ってこれを大人弥五郎と名づけ、神前に送り来たって後に破却し、または焼き棄てること、あたかも津軽地方の倭武多などと一様であった。
そうしてその行事の中来として、八幡宮の大人征服の昔語を伝えているのである。あるいはその大人の名を大人隼人などと説いたのも明白なる理由があった。
すなわち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く参与せられ、その記念として今日の正八幡があるのだという在来の歴史と、こうすれば確かにやや一致してくるからである。」という。
少々引用が長くなったが、和銅六年(七一三)の日向国の肝坪・贈於・大隅・姶𧟌の四郡をさいて大隅国を設置した時代から、養老五年(七二一)の隼人征圧の副将軍らが帰還する、ほぼ十年間の隼人社会の動きを考え合わせると、隼人の譜線に連なる末裔の立場からすれば、腑におちないところもあろう。
隼人のうち政府側への帰順を誓ったものならはいざ知らず、養老四年(七二〇) から一年有半の抗戦では、隼人軍からの斬首獲虜された者実に千四百余人に及んだのであった。    127
まさしく悲劇的な結末に終わったのであった。たとえば、弥五郎が隼人を屈服させるため政府軍におもねて適案内をしたという話もないではないが、もっとも根強くいわば血統的ほどに伝えられているのは、「弥五郎どん」こそ抵抗軍隼人族の首長であったということである。
こういった隼人意識上の解釈が成り立つとすれば、「大人弥五郎どん」は隼人神の従者ではあっても、主人が八幡様であったとはどうも得心が行かない。
「弥五郎どん」は、八幡神(八幡軍)と戦い敗残したのである。殺害されたのである。
放生会は、確かに王権側(宇佐八幡)の託宣によって行われはじめ諸国に普及したが、その容像をつくり八幡神の従者として仕立てたという構図は考えにくい。
「弥五郎どん」の立場としては、結果的に巻属神にならざるを得なかったのであり、そこには敗軍の御霊となるしか道はなかった。
これを放生会として、仏事を行うことによって鎮める、いわばこれが双方の精神的な拠り所となったのだ。
そこで、隼人意識によって案出されたのが、異形の「大人弥五郎どん」であった。
柳田は、次に『大人隼人記』について触れ、「弥五郎どん」の遺骸の処理などの口碑について記し、「一方においては大人はなお霊であって、足跡もあれば山作りの物語も依然として承継せられるので、それほどすぐれた神を何ゆえに兇戝とし、屠って後また祭らねばならなかったかの疑いは、実はまだ少しも解釈せられてはいなかった。」と述べ、ニ子塚の畚話などを書きとめている。

画像 僧形八幡神像:最古の神像奈良県:薬師寺(『日本その心とかたち』2:平凡社)

また、田ノ上八幡の「弥五郎どん」を取りあげ、「全然他の村々の浜殿下りの儀式、隼人征討の故事というものと一つである。」と記している。
ここで注目したいのは、いわゆる「山作り」などの大人弥五郎伝承と、八幡社の「浜殿下り」にあらわれる「大人弥五郎どん」を同一の譜線にある人物像として捉えていることである。
柳田も全国の事例に示しているように前者への伝承説話は「尾鈴山に腰かけて日向灘で顔を洗った」といった類で、これの類は「ダイダラ坊・ダイダラボッチ」の話などをはじめ、相当数紹介されている。
後者の祭りの弥五郎どんは津島系の神社や各地の御霊社に伝わる伝承と重なるところはあっても、かつての隼人領域に伝わる八幡社の「大人弥五郎どん」とは、いささか異なっており、戦陣謂を背負っているところに後者の特殊性がある。つまり後者は、歴史的背景-王権と隼人の抗争-のうちに生まれた「弥五郎どん」であって、いわば悲愴性を抱えた人物像である。
前者が祭り人形の大人化(巨人化)に影響を与えたことは十分考えられるにしても、果たして同一譜線上に位置づけられるのか、多少の疑義もないではない。

画像 柳田国男の柳田為正宛絵葉書 昭和11年11月25日(『柳田国男の絵葉書』晶文社)

さらに柳田は、各地の事例、肥前島原における味噌五郎・築豊・長門においての塵輪などをはじめ、遠く奥羽各地の悪路王・大武丸などを挙げ「ほとんど明神の御威徳を立証するために、この世に出てあはれたかとも思われる多くの悪者などは、実は後代の神戦の物語に、若干の現実味を鍍金するの必要から出たもの」ときわめて重要な指摘をしている。   128(画像合ってる??)
それに物部守屋や平将門をあけ「死後にかえって大いに顕われたことく、本来はそれほど純然たる兇賊ではなかったかも知れぬ。」と付言している。
確かに後世において彩色され、語られる危険性かあるというか、付帯性があるかも知れない。
だか、「隼人弥五郎」の場合、隼人領域にそういった兇族の類かいたのかも知れないが、「浜殿下り」にあらわれる「弥五郎どん」は御霊であっても、ふるさとびとにとっては祟りをなす悪霊ではない。
例えば中央政庁の戸籍作成といった政冶権力に抵抗して、落命した人々の代表であって、ふるさとを守る意図からすれは、多大の死者を出す結果に終わったとしても、兇賊であったとは言えまい。
これが、ふるさとひとの意識にたつ「弥五郎どん」であったろう。
そうして、柳田はいう。
「少なくとも弥五郎だけは忠実なる神僕であった証拠がある。しこうしてそれが殺戯せられて神になったのは、また別の理由かあったのである。」と。

画像 弥五郎説話を伝える尾鈴山(宮崎県都農町川北)

柳田は、結論として「巨人伝説」を次のように分析する。その一つは、「夙に当初の信仰と手を分ち、単なる古英雄説話の形をもって、諸国の移住地に農民の伴侶として入り来り、彼等が楕火の側において、児女とともに成長した。」(山づくりや足跡等の話)と。
もう一つは、「因縁深くして、春秋の神を祭る日ごとに必ず思い出しまた語られたけれども、ここでも信仰が世とともに進化して、神話ばかりが旧い型を固守しているということは難しかった。
すなわち神主等は高祖以来の伝承を無視するかわりに、それを第二位第三位の小神に付与しておいて、さらに優越した統御者を、その上に塑像しはじめたのである。」(祭られる大人弥五郎など)と。
続けてこういった型の話の消長について述べ、語りの現場を想像している。
こういった視座を参照すると、大人弥五郎の主人か八幡様であれは、せめて南九州隼人領域の八幡系の摂社や末社に「弥五郎どん」が祀られてもよさそうであるが、蒲生八幡(姶良郡蒲生町)や久満崎神社(霧島市国分)のように隼人神を祀ってはいても個名として「弥五郎どん」を祀っている社はない。
「弥五郎どん」も隼人神だといえば、それまでのことであるが、隼人と関連して多く祀られているのは「隼(早)風社」である。
そこで『八幡愚童訓』に「隼人打取給御鉾ヲ号シテ隼風鉾卜名ヅク」とあり、『三国名勝図会』(巻之三十一)にも同趣のことを記している。
小野重朗によれば、「隼」は隼人の意であり、「風」は祟り風の意であるといい、その祟りを恐れて鎮めるために鉾を祀ったという。
(「隼人文化」創刊号)隼風宮・早風社を末社として祀っているところは、大隅正八幡(霧島市隼人町).止上神社(霧島市重久)・蒲生八幡(姶良郡蒲生町)・若宮八幡社(姶良郡湧水町).香取神社(えびの市今西)などである。

二 折口信夫は「弥五郎どん」をどうみていたか
折口信夫は、「大人弥五郎」をどのようにみていたであろうか。関連の記事は「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」の項(『全集』第三巻古代研究(民俗学篇2) に収められている。
まず、「八幡神の伴神」の見出しで、次のように述べている。                                          129(画像合ってる??)
これも、少々長くなるが引用する。
「祭礼に人形を持ち出す社は、今でも諸地方にある。殊に、八幡系統の神社に著しい。八幡神は疑ひもなく、奈良朝に流行した新来の神である。
私は日本の仏教家の陰陽道か、将来した神ではないかと考へてゐる。
醤へば、すさのをの命を、牛頭天皇と言うたり、武塔天神と言うたりする様に、八幡神も、多分に陰陽道式のものを持ってゐる。仏教式に合理化せられ、習合せられた新来神と言へさうだ。」
と、捉えている。
折口は、八幡神を新たに渡来した神で、日本仏教と中国伝来の陰陽道が生み出した新しい神格ではないかと考えている。
そして、その中心をなす思想は多分に陰陽(五行)説であるとした。
陰陽説は、仏教伝来と前後して百済から伝来したと伝えており、のちに自然現象と人問社会の異変とを結びつけるなど呪術宗教化した。
地方では、星辰信仰など密教系の信仰とも結びつき、種々の民俗信仰を生んだ。
修験者や社僧らが、修行的な活動を行ったのはよく知られているところでもある。
従って、折口説には「八幡神」の考え方について大きな示唆を与えられる。

画像 折口信夫:昭和24年春(『釈逗空集』筑磨書房)

つづけて、折口は「此神(八幡神)が、兇暴な神である様に見られたのは、八幡神自身が兇暴と言ふよりも、西から上って来る途中、其土地々々の、兇悪な土地神を征服して、
此を部下にして行った、其為だと思はれる。此征服の結果は、最初は、部下にしたのだが、後には若宮として、父子の関係で示される様になった。」ともいう。
宇佐に発生した八幡信仰は、鉱山の神・鍛冶の神・あるいは仏教の守護神・戦神と崇められ、天平十九年(七四七)には聖武天皇が東大寺大仏鋳造のために八幡神の助力を乞う。
国家の宇佐八幡宮への篤い信頼は、五畿七道にまで影響を与え、全国に八幡神の分霊が勧請された。
実に四万余に及ぶ八幡社ができ、「八幡大菩薩の世界」が津々浦々に展開された。
本地垂迩説により、八幡神を釈迦如来、阿弥陀如来とすることもあったようであって、宇佐八幡の本地は釈迦如来・石清水八幡は阿弥陀如来を本地としているともいう。(『八幡愚童訓』)
また、八幡宮の三所神は、応神天皇(誉田別尊)・比畔大神(比売大神)・神功皇后(息長帯姫尊)とするが、像容は八幡神が菩薩であることから、僧形で表現されることもある。(もちろん衣冠束帯型の神像もある。)
のちには、諏訪信仰などと同じように「農耕神」として祀られるなど、実に幅広い信仰をあつめている。
こういった信仰地盤の拡大現象について、これを征服、被征服の関係で略述したのが右の折口の文章であろうが、確かに国策的宗教政策(国家神道)の繁栄からすればことごとく頷けるところである。
その流布の目安として、若宮八幡・若御子社などと称して、かなりの神社があることも事実である。
しかし、それは八幡神の強大な浸透力を示すと同時に、複雑な信仰背景を語っているようにも思われる。
話は飛躍するが、宇佐の軍神をはじめとした政府(王権) 側に抵抗し、敗北した隼人軍もその強靱な宗教政策に服さざるを得なかった。
たとえば、そこには養老四年(七二〇) の戦いに死力を尽くし、空しく果てた隼人の武人たちの承服しがたい思いも、残照していたであろう。                  130
長い歴史を経ることによって、そうした思いも自然のうちに淘汰されて、影を薄くしていった。
けれども、一大残照として「弥五郎どん」だけは生き残った。
そこで、折口は大人人形をどのように見ていたであろうか。
「八幡神の信仰が、宣伝せられて行く中に、地方々々の神々を含んで行った。それらの神々は、巨人の形をとって、其土地の八幡神の信仰を受け持つことになった。
八幡神側から言へば、臣従を誓はせる事によって -父子の形はとっても- 土地の害悪を押さへたのである。此部下は人形の形をとった。巨人の像で示されたのである。
譬へば、日向岩川八幡の大人弥五郎の様なものが出来た。さうして、此が八幡神の行列には必、伴神として加はった。
日本の巨人伝説には、此行列の印象から生まれた、と考へられるものがある。證拠は段々とある。」と述べている。

画像 岩川弥五郎どん(曽於市大隅町:岩川八幡)

八幡信仰が地域に浸潤していくうちに、種々の民俗信仰を習合して成長していったことは事実であろう。
事実、「弥五郎どん」も民衆的な多機能の信仰を背負っている。巨人の姿となって、その土地の八幡信仰を受持ち深めていること、これもまた確かである。
折口の解釈による八幡神側からの大人人形は、土地の害悪を屈服させるために、少し踏みこんで言えば、八幡神に従う神が巨人であればあるほど、その霊力を示し得るというのである。
そして、折口は「父神が八幡神、子神が八幡信仰を具現する巨大人形であったとしても」と補完する。
神威発顧の為に巨人化した、それはそうであろう。
これは、八幡信仰が国家色を帯びつつ、浸透していく様相をよく説明している。
ここに登場させられる神が宇佐三所神や武内宿弥ならは、まさしく疑いをはさむ余地はない。
(「弥五郎どんの祭り」のあるところ、並んで必ず武内宿弥が語られる。少々の思い込みか許されるならば、祀られた武内宿弥が弥五郎どんになり変わった、またその逆の関係になったという説もないではない。このことは後述する。)
つまり八幡神の部下なればこそ巨人像で示され、八幡神の行列に加わり、伴神役をつとめるという。
また一方、行列(「浜殿下り」)の印象から「大人伝説」が生まれたとも考えられると指摘している。
すなわち「大人伝説」の派生に先立ったのは、八幡神の浜下り行列と考えている。

画像 浜殿下りに出発する的野弥五郎どん(二の鳥居右側:八幡馬場)

それに岩川八幡の大人弥五郎も含めて「八幡神の伴神」としており、とも神・つれ神と位置づけている。
今に伝わる三社の「弥五郎どん祭り」を見ると、子神が先導し八幡三所の神々が続くことになるが、「弥五郎どん」が八幡神の分霊であったり、子神であるとの伝承もなけれは記録もない。
「弥五郎どん」は、やはり放生会の祭式過程における鎮送人形にほかならない。隼人の霊神の形象でしかあり得ない。
しかも、隼人たちのいわば愛惜の念を一身に体した人形で、それゆえに憧憬の気持ちを託して巨人となり得たとも言い得る。
隼人領域の住民の感覚からすれば、弥五郎どんは八幡神の忠実な神僕では納まらない。
幾多の星霜を経て、和霊化しているとみるならば、伴神・子神の位置づけでも頷ける。
的野八幡や田ノ上八幡の弥五郎どんは、特に前者においてはいかめしい鬼面風の王面で進行するのであり、しかも隼人の色たる赤面、その風貌は神僕というには、相応しくないし、行列にあっても独立独尊の先陣をきる勇猛な武者姿なのである。                   131
さらに、折口は「らしょなりずむに囚はれた人類学・考古学の連衆は、無反省に、先住民族を持ち出すが、勘くとも、日本巨人伝説を考へるには、此行列のある事を忘れてはならない。」
と叱正し、以下、いくつかの事例をあけ、論を進めている。そして、折口はこの項の結びに、次のように述べている。
「八幡神の伴神でも、まだ御子神としての考への出ない前のものが、即、才の男である。伴神が二つに分れて、既に服従したものと、尚、服従の途中にあるものとに分れた。
才の男に、からかひかける態のあるのは、あまのじゃくと称する伝説上の怪物・里神楽のひょっとこなどゝ同じやうに、尚服従の途中にある事を示してゐるのである。
巨人の方は、既に服従したものである。だから行列に於いて、前立となるのである。」という。
折口はさらに、「才の男・細男・青農」「くゞつと人形との関係」の項を設定し、詳しい持論を展開している。
才の男とは、普通には平安時代の御霊会や諸国の寺社の祭祀行事などで、舞を奉納した舞人や愧儡子人形師を指すか、折口も宮廷のみかぐらしかのしま御神楽や宇佐八幡と関係の深い、筑前志賀島の祭りにおける人形の役割や、その意味あいについて述べている。
宇佐八幡の放生会における愧儡子人形や、才の男(細男舞)については、先に触れたので省筆するか、通説では細男舞は清めや祓えの機能をもつとされている。
八幡神の伴神のうちでも、子神といった考え方か生まれていない以前のものが才の男で、古さから言えは確かにそうであろう。
いくつかの事由をあげて、折口は才の男について八幡神への服従過程にあるとする。それに、たとえば隼人との戦いの模様を演じさせたりすれば当然である。
そこで、巨人化した人形、例えば「弥五郎どん」、それは愧儡子の数倍にも及ぶし、人よりもはるかに巨大である。
それがどうして服従した証拠になり得るのか。巨人化によって、行列の前に立つと理由づけする。
隼人意識を持ち出せば、隼人を代表する人形には、既述の通り巨人化する筋道を引くことは可能であるか、即服従人形の方程式は成立しがたい。
和平鎮定人形でないゆえに弥五郎(御霊)人形なのであり、だからまた毎年鎮送の儀礼を営まなければならなかった。
服従人形ならば、八幡神(三所の神輿)の後についても怪異のことではない。
このことは、服従させかたい隼人領域の住民意識が先導させたと解するのが順当のようにも思われてくる。
いまだに「弥五郎どん」は王朝(政庁側)に抵抗した武人の姿を失わない。推量すれば、それが隼人領民の先祖に対する思いではなかったろうか。
やはり「弥五郎とん」は、先頭に立つべき宿命を背負っていたのである。
国分平野にたち、隼人の眠るという霧島山麓の止上の隼人塚(霧島市重久)に件ち、隼人供養のためと伝える隼人塚(霧島市隼人町)に歩み寄り、「弥五郎どん」終焉の地とも伝える上小川(同市国分)に到ると、往昔のこととはいえ、その悲劇的な事歴を思わざるを得ない。                       132

画像 霧島市国分重久(『三国名勝図会』)

曽於市岩川から山畑越しに眺める「隼人の山」(霧島山) 、同じく都城盆地山之口町から眼交に見る高千穂峰、日南山塊から望む高千穂峰とその連山、かつてそこには隼人意識を貫き王朝に抗戦した歴史があった。
強いて言えば、事件の発端の善悪はともかく、そこに隼人の古代史はあった。
それをよきこととして、ふるさとの暮らしを守るために献身し、隼人たちの思いを体得した人物があった。
それが「弥五郎どん」であった。
そうして、その隼人の生きざまは長い年月のうちに消去されていったが、ただ、「弥五郎どん」はその名を後世にまでとどめることとなった。
時代が時代の皮をはいでいって、現代においての「弥五郎どん」は、いわば福神的な性格を顆現させ、集落社会の守護神として祭られるようになった。

三 武内宿称と「弥五郎どん」
さらにもう一件、触れておきたいことがある。
「弥五郎どん祭り」を盛大に催行している三社(岩川八幡・田ノ上八幡・的野正八幡)には、大人を武内宿称とすることが付随している。
実際、大隈正八幡には境内に摂社武内神社があり、日向(宮崎県)においての主要な八幡神社およそ二十社のうち、いくつかが武内宿称を祭神に加えている。
同じく薩隅(鹿児島県)の重要な八幡神社二十余社においても同様である。(『八幡神社の研究』資料篇参照)

画像 大隅正八幡境内の武内神社(霧島市隼人町内)

ちなみに、霧鳥山麓の神社には玉依姫命を祭神としている社が多く、海神信仰の濃密さをうかがわせるが、いまは触れない。
そこで、高崎正秀は「神功皇后紀輪講・解題」(「国学院雑誌」第六十九巻第二号)に「八幡神の第一の陪従は、歴史的には武内宿称ということになっているが、一方では大多良男・大多良畔の二神、高良玉垂神こそ八幡神第一の伴神といわれ、それは巨人だいだらぼっちの信仰に繋かることは、既に柳田先生の明らかにされたところである。」
と記している。
これは、いわゆる弥五郎どんの大人ぶりを伝える「山作り・香型」の伝説と同じく、巨人伝承の主人公である。
たとえば『平家物語』(巻第八・緒環)に、緒方維義の祖先が蛇身と交わったという神婚説話を伝えている。
日向・豊後境の姥嶽での話で、その生まれた子を輝(あかぎれ)大太と称し、のちに臼杵高千穂地方の統治者となった。
三輪山型伝承など広く流布した説話であったろうが、「大太」は「だいだらばう・だいだらばっち」の名の原型ともされる。
高良玉垂命神社(柳川市蒲生)は武内宿称と同一神とする説もあり、第一の伴神というのは首肯されよう。
つまり、伝説上の巨人や武内宿称を八幡神の第一の伴神と位置づける捉え方である。
ともかく「弥五郎どん」も同一の土俵に立たせ、八幡神につき従う第一の、いわば供奉の神としているわけだが、柳田・折ロ・高崎の所見はほぼ同一の位置づけである。
武内宿称は『古事記』では成務・仲哀・応神・仁徳の四代の天皇に仕え、『日本書紀』ではさらに長期にわたり景行・仲哀・神功・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたとある。
「宿称」というのは古代の姓の一つであるが、臣下ほどの意味あいであり、おそらくは朝廷に仕えた数人の人物が、同一人物のように書かれたものであろうか。
ちなみに、『因幡国風土記』(逸文)には三百六十余歳で亡くなったとある。長寿を保ったことは、間違いないところであろう。                        133
景行天皇の御代に北方を視察したことや、神功皇后の朝鮮半島への出兵に同道したり、あるいは、応神天皇誕生後の忍熊王の反乱の鎮圧など実に物語が多い人物である。
武内宿称は息の長い人物で、特に熊襲・隼人の平定に関しては、シャーマンとしての能力を発揮し、仲哀天皇崩御の後は、神功皇后の新羅進攻に当たって、軍事能力をもって補佐したという。
話題性に富み、ある時は神憑りして「皇后の御子か業を果たす」との託宣を得て、傍らで琴を弾く役目などをつとめている。
時代はその託宣のように動き、神功皇后・応神天皇母子による国家統一がすすむ。
既に記したように応神天皇は八幡神として示現、わか国に強大な信仰地盤を築く。
こういったことから武内宿称か八幡神の第一の倍従と呼はれることは、また当然の帰結でもある。
国家神としての位相を高めた八幡信仰か、中央政庁の権威を知らしめるために武内宿称を抑し立てたことは、事を運ぶに及んで無理かない。
つまり国家神道では、武内宿称を祀ることこそ本意であった。

画像 佐々木尚文筆:神功皇后と応神天皇を抱く武内宿祢(歴史詳像シリーズ67・『古事記』学習研究社)

しかし、ふるさとびとたちは武内宿称の名を残しつつも「弥五郎どん」を先行させた。
以前、大阪御常筋パレードに鹿児島県の代表として「岩川弥五郎どん」が参加したか、その報告を山田勇か書いている。(「南九州文化」第三十号)
それには、「弥五郎どんのお膝元で育ち、弥五郎どんを崇拝して止まない私は、俗説の武内宿称などには針の先ほども同意できない。
何故ならば彼は幼主と後家を擁して、正当な継承者に反逆して不当な権力の纂奪の成功者であり、隼人族と無関係であると見るからである。
弥五郎どんは明らかに熊襲族の首長であろう。
私が弥五郎どんを好きなのは産土神であるばかりではなく、われわれ祖先の国熊襲国を不当に侵略したヤマト王朝軍に対し、激しい抵抗戦を展開して郷土の民衆を護ろうとしたからであり、民衆のために文字通り生命をかけたからである。」と。
用語には不適切な表現もみられるが、これが「弥五郎どん」への思いを受けついできた「ふるさとびと」の総意であろう。
どうしても戦陣に果てた「弥五郎どん」を登場させ、祭祀行事の中心に置き、しかも先頭に立たせてきたのか、「ふるさとびと」の心意の継承であった。
すでに指摘されているように、武内宿称か強く浮き上ってきたのは、神仏分離の影響が関わっていよう。
南九州の多くの神社と寺院は、神仏習合で信仰地盤を固めてきたが、江戸時代には儒教の合理主義を導入し、神道と仏教を分離する運動が起こった。

画像 神仏習合:阿弥陀仏に神楽を奉納(川中神社例大祭:宮崎県綾町南俣)

例えば、寛文六年(一六六六)に及んで、会津藩・水戸藩・岡山藩などは領内の寺院の半数を破棄している。
これは全国各地に波及し、明治元年(一八六八)に明治政府が行った分離政策により、全国の寺院のほほ三分の二が破却されたといわれる。
国家神道政策が強力に抑し進められ、廃仏毀釈運動へと展開した。
明治五年(一八七二)には修験道を廃止し、民俗宗教の担い手でもあった山伏も還俗させられるなどして、神道一色への転化をはかった。                     134
南九州最大の修験の山であった霧島連山の別当寺もすべて廃絶した。
ことに明治政府の中枢にあった薩摩藩や土佐藩などはすさまじく、寺院の破壊から仏像・経典までも焼却されて、石仏等も打ちこわされた。
薩摩藩においては寺請制度がなく、寺院と庶民との関わりか希薄であったことなどもあり、庶民までもが寺院の破却に手を借すことさえあった。
薩摩藩・島津家が仏教から離脱し、葬送さえも神式で行うように布達するなど、その激しさを物語っている。

画像 廃仏毀釈のすさまじさ:瀬多尾権現社跡(宮崎県高原町)

だが、明治九年(一八七六)信仰の自由令が出され、仏教各派への信仰がとり戻された。
的野正八幡宮の別当弥勒寺は、既に廃されていたが、廃仏毀釈によって寺門を固めていた仁王像も仁王門も跡形もなく、打ちこわされた。
伝来の弥五郎面が破損したのも、あるいはこの時のことかも知れない。
的野正八幡の弥五郎面は、鬼人風の黒髭面(赤面)-翁面風の白髯面(白面)-伝来面による復元面-の三面であるが、まず伝来の面は神霊(仏性)をたたえた武人風で威厳がある。
赤色は隼人を代表する生命表現の色ともいわれ、体に赤土を塗る習俗もあったという。
ちなみに、神楽(神舞)での鬼人面は通常赤面で、強い呪力を発揮し、威圧する霊力を秘めている。
荒神面は一般的には白面が多く、荒々しいが教化性や欣求性をもつといわれる。
したがって伝来の面こそ、活力に満ちた「弥五郎どん」を表象するにふさわしい。
そこで、明治三十九年(一九〇六)の『円野神社神官定極帳簿』に「的野神社弥五郎弥五郎ハ大臣武内宿寝ニシテ身ノ長高ク衣服数反ヲ要ス」とある。
的野正八幡の社号が円野神社に変わっているか、これも神仏分離策によるもので、神仏習合色の濃い八幡社を廃止、または社号名を改称させた。
さらに別当寺をはずして、尊像の観音・薬師・阿弥陀など仏教色をやめ、御幣・神鏡などにとり換え、寄進された寺領地等があれば、これも没収した。
「社伝」によると、的野正八幡は明治四年(一八七一)郷社に列せられ、円野神社と改称、神饌幣帛料供進の社に指定された。現在は、元の的野正八幡に復している。
こういったいわは宗教政策によって、武内宿称が登場するのであり、明治・大正・昭和にかけて用いられていた、翁風面の長寿髯をたくわえた白面は、武内宿称の容貌を模したのであったろう。
思えば「弥五郎どん」が即武内宿称に変化することを許さず、現在の「浜殿下り」には、伝来の赤面を模した王面「隼人面」を用いることに復した。
岩川八幡の弥五郎面は白面ながら、鬼人風のいかめしさをもち黒髭をたたえている。
同社にはかなりの弥五郎面(奉納面)を蔵しているが、その詳細な面歴はたどり得ない。
田ノ上八幡の弥五郎面は盗難にあい、伝来のそれではないが元面を忠実に複製したもので、眼光鋭い赤面で、白髯をたくわえ、慄然としている。
また、背丈が浜下りの際電線にかかるので、やや低い「弥五郎どん」をいま一体仕立て、面は本体を模したものである。

画像 田ノ上弥五郎どんの本体は社前鳥居下に立ち、分身の弥五郎どんが浜下りする(日南市板敷)

異なるところがあるとすれは、装束に伊東家の家紋を新たにあしらっていることである。                                         135
ともかく三社各様王面に「弥五郎どん」の風貌を託しているが、いくつかの記録にみえる武内宿称の一件が、影をおとしていると言えなくもない。
しかし、「浜殿下り」に出で発つ巨人「弥五郎どん」の魂は、隼人の思いを総身に包みこんで眼前に現われるのである。
「弥五郎どん」とか「弥五郎さあ」と神幸の道々でかかる参拝者(観衆)の声が、「隼人・弥五郎どん」でなければならないことをよく証明している。
観衆は放生会の本義は忘れていても、「ふるさとびと」の守護神格として、今でも敬愛の念を熱くしているのである。

第十二節 本稿記述の座軸
一 「弥五郎どん」本貫の地
南九州の「大人弥五郎人形行事」の検証にあたって、その軸足をいずこに置いたらよかろうか。
それには自ずと「生活暦」(暮らしの歩み)を重ねて観るほかはない。
従って、往古の歴史的背景を交えながら、ここでは民俗的背景をさぐってみることに主眼をおいた。
この手法は、恣意的に過ぎるとの批判をまねくことになるかも知れない。
しかし、「弥五郎どん祭り」が今日まで継承されてきた本意をさぐってみると、隼人の末裔を自認してきた人々の「ふるさと意識」か浮かび上がってくる。
いきなり例示するには、語弊もあるが「薩摩隼人の血がさわぐ」などというのは、その一つの証でもある。
ところで、筆者の先祖の旧居地は、向花(霧島市国分)である。
眼交には岩肌もあらわな隼人ゆかりの比売乃城(同市隼人町)つまり姫城城跡と伝える山が望まれ、至近のところには石城城跡(同市国分)が迫まり、ここはのちの舞鶴城で今では城山という。
往古、朝廷軍が隼人を攻めたてたか、ともに地の利を得た山城で、この二つの城はなかなか落ちなかったと伝えている。

画像 隼人奮戦の地:石城城跡を望む(霧島市国分)

城山のすぐ下に、地名に名残りをとどめる大隅国国分寺跡かあって、高校時代はここで余暇を楽しんだのだった。

画像 大隅国分寺跡(霧島市国分中央)

ここには、康治元年(一一四二)の銘のある六重塔や石像等が残っていた。
近来、付近の側溝から発見された石碑には、衰微しつつある国分寺の現状を歎き、復興を祈念した天正十一年(一五八三)の僧による願文もみられる。
ここも廃仏毀釈により慶応二年(一五九七)廃絶し、かつての大寺院は痛々しい姿をとどめるのみである。
そうして、ここから程よい距離には、「王の御幸」の祭りを伝えていたという止上神社(霧島市国分重久)が鎮座しており、
そこから西南におよそ六〇〇メートル離れたところに「隼人の首塚」といわれる小丘があって、隼人塚(隼人の墳墓)という。
そうしてまた、大隅正八幡(鹿児島神宮)にもよく行った。                                                       136
初詣は、霧島神宮(西御在所権現)か国分八幡(鹿児島神宮)かであった。
とりわけ国分八幡の初午祭(旧正月十八日)は「十八日の馬」といって、毎年欠かすことなく出かけた。
途中の隼人塚(霧島市隼人町内山田) に立ち寄ることもあり、その頃熊襲や隼人族の慰霊の塚(供養の塔)だと聞いていた。筆者の父祖の墓地は、上井城下の安骨山徳寺庵である。

画像 隼人塚(霧島市隼人町)

戦国時代島津義久の家臣だった上井覚兼の生まれたところで、覚兼はのちに宮崎城(宮崎市池内町)の城主となった。
徳寺庵の墓域には、義久(島津氏第十六代)の駒型の墓碑を残し、後に藩庁の政策によって神葬祭を営み、新たに建立された義久の神号名による墓碑がある。
ここも廃仏毀釈にあい、埋められた仁王像かのちに堀り出され、往時の寺門付近に再建されている。
『三国名勝図会』(巻之三十一)に「大人の隼人といへるもの(中略)一族数千人を集め、隼人城と上井城に拠て一に王命に随はず云々」とあるが、
上井城跡は見上げる位置、隼人城跡も至近の距離にある。
大人弥五郎どんが最期をとげたという上小川・拍子橋も指呼の間にあり今は豊かな水田地帯が広がっている。
また、『宇佐記』に「欽明天皇三十二年(五七一)二月、豊前国宇佐郡菱形池の上、小椋山に祭られたるを当地宇豆峯の山頂に遷座」とある、その韓国宇豆峯神社も山下りしているというが、これまた至近の距離に鎮座している。
「隼人神」を祀るという久満崎神社も同じく山下りしており、すぐそこにある。
この地域は、錦江湾(鹿児島湾)岸北部のほぼ中央部に位置し、天降川(新川)下流の沖積地に古くからの集落を発達させた。
天降川左岸が国分域、右岸か隼人域て、古代から明治中期までは左岸が噌吸郡に、右岸は桑原郡に所属していた。
種々の熊襲・隼人の事蹟や伝承を多くもつ国分地方こそ、生粋の「隼人族」の本貫の地であったろう。

画像 霧島山麓下より、弥五郎どん本貫の地国分方面を望む:正面は桜島(霧島市国分)

つまり、筆者はかつての隼人族生活圏の一隅どころか、その中心部生まれたのだった。幼少の頃弱音を吐くと「隼人じゃろが」と叱咤さにれたものてあった。
あるいはまた、「西郷どんのようになれ」と激励されたのでもあった。
「西郷どん」とは、西郷隆盛のことであって、郷中教育の伝統でもあり、「熟血漢たれ」と勇気を鼓舞されたのであった。
それは、合わせて「天下万民のために尽くす人材になれ」といった、意味あいを含んでいた。
この青年前期の時代は、ただ周囲の事蹟や雰囲気からおほろげに隼人の存在を知り得るのみであって、郷土のために働いた先住民ほどのイメージしかなく、朝廷重に対抗した養老年間の出来事かあったことすら知らなかった。
八幡神社の鎮座地の二、三は、運動会の応援歌「八幡神社に願かけて」のフレーズで覚えてはいたか、「放生会」のことなどは皆目知らなかった。             137
ただ、出来秋にホゼ(ここでは豊年の意)を祝う習慣があって、各戸ばらばらではあったか、コンニャクをつくり、また、蕎麦打ちしてソバキリをつくり、それらを来客にふるまうのだが、欠かせないのが甘酒であった。
これは春の「丘登り」(花見)などと違って、集落全戸が集うようなことはなく、作物の「取り入れ祭り」のようであった。
子どもたちにとっては、楽しい農村の習俗であった。今思えば、こういった家毎の単体の行事が、果たして「放生会」と結びついたものなのか、あらためて考えてみる必要にもせまられた。

二 的野正八幡宮の「弥五郎どん」に出会う
大学を終えて、まさに奇縁というべきか、北諸県郡山之口村(都城市山之口町)に住みつくこととなった。これもまた奇遇というべきか、ここで初めて、「大人弥五郎どん」にめぐりあった。
とてつもない大きな偶人が、なぜここの祭りにあらわれるのか。真実不思議な思いにかられたが、この長大な姿は「隼人の形代」だという。
なぜにこんなにも大きいのか、しかもいかめしい武人の姿をしているのか。
この人形は、富吉集落の村鎮守・円野神社(的野正八幡)から三つの神輿を従えて、離れた池の社(池之尾社)まで「浜下り」する。
筆者の生まれた所で敗北し、落命した隼人の将「大人弥五郎」の模像であることもここで知らされた。しかも、八幡系の神社に伝える「放生会」の人形であるという。
こういったことでいよいよ関心が深くなり、山之口町を離れてからも幾度か「弥五郎どん」の祭りに参じた。
同様の祭りが、岩川八幡(曽於市)にも伝えられており、現在は山之口町と同日の催行でもあるので、早朝暗いうちに訪ね「弥五郎どん起こし」に参じたりもした。
また、田ノ上八幡(日南市)も「弥五郎どん」(土地では「弥五郎さま」ともいう)の祭りを催行しており、機会をみては足を運んだ。
のちに『宮崎県史』編さんの専門員となり、民俗部門を担当し、八年間に及んで宮崎県域の祭りをはじめ、関連する祭りをたずね歩いた。
機会をみては、この八幡三社の「弥五郎どん」の祭りに寄せてもらったが、年々盛大に行われるようになり感嘆した。

画像 成初年の的野弥五郎どん祭り年々盛況の度を増している(都城市山之口町)

「弥五郎人形」の淵源が「放生会」にあることを聞き知ってはきたが、その始源はともかく、時代を経るに従って、色々の機能を身につけていくゆえに盛大になって行く。
それが、祭りを支えている民衆の心というものであろう。
こういった筆者の思い入れを含め、「ふるさと意識」を貫いて本稿を作成したが、この思いは祭りを支えている集落社会の人々もおそらく同じであろう。
再度いうが「弥五郎どん」こそ、ふるさとを往き来するいわば愛着の旅人である。
なお、現代の祭式-祭りの編成・行列の順序・参列の員数等々-をはじめ、「弥五郎どん祭り」の現状、保存会の現況等については、別章にあるのであえて省略することにした。
願わくば一層多勢の方々がこの由緒ある祭りに参加していただき、「祭りの心」を体感して欲しい。親しく「弥五郎どん」を介して、和の心を結ばれんことを願うばかりである。
秋天好日、未来を担う子どもたちよ、いざ「弥五郎どん」を押せ、そしてこの由緒ある伝統の祭りを後世に伝えよう。                          138

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第四章 山之口弥五郎どん祭りの現況
第一節 民俗文化財の保存・継承に向けた地域住民と行政の取組
和銅三年(七一〇) の創建と伝わる上富吉地域に位置する的野正八幡宮では、養老四年(七二〇) の大和朝廷による隼人征伐の故事により「放生会」か行われ、後に大人人形「弥五郎どん祭り」として今に伝えられ、毎年十一月三日、同八幡宮の例大祭で古式豊かな一大絵巻として執り行われている。
また、山之口町は素晴らしい自然と豊かな風土に恵まれ古くから都城、北諸県地方の文化の中心地であった。
永い時の流れのなかで受け継がれてきた文化は、上富吉地域住民により古くから伝承されている大人(おおひと)信仰の「山之口弥五郎どん祭り(平成元年二月二十七日に文化庁より日向の弥五郎人形行事として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択。)」や麓地域に伝わる「麓文弥節人形浄瑠璃(平成七年十二月二十六日に国の重要無形民俗文化財指定) 」、花木地域の「あげ馬祭り(平成六年二月二十五日に宮崎県の無形民俗文化財に指定)」をはじめ、数多くの郷土芸能を生み史跡や有形、無形の文化財を各地域に数多く残している。

画像 山之口弥五郎どん祭りの浜殿下り

画像 麓文弥節人形浄瑠璃定期公演(山之口町麓人形の館)

画像 花木あげ馬祭り(山之口町花木南方神社)

さらに、宮崎県の神話や伝説といった民俗芸能、自然や歴史・史跡などの名所を県北から県南まで結ぶ二十一世紀紀の新しい魅力あふれる広域観光ルート「ひむか神話街道(高千穂町から高原町に至る十四市町村を結ぶ街道) 」の拠点の一つとして、的野正八幡宮の例大祭「山之口弥五郎どん祭り」か位置付けされている。
時を同じくして、平成十五年春には山之口町の伝統文化を後世に残すため、県営中山間地域整備事業(農村水産省所管) により民俗芸能の伝承館「弥五郎どん交流活性化センター(弥五郎どんの館)」が的野正八幡宮の参道に面して整備され、竹で組み合わされた大人人形の弥五郎どん本体はもとより、祭りに関わる諸道具や数多くの貴重な古文督等か堅実に保存できるようになり、来館者に展示公開されている。

画像 弥五郎どんの館(山之口町上富吉)

なお、山之口町は平成十三年十一月に当町出身の宮崎県民俗学会理事で作詞・作曲家並びに弥五郎どん祭りの保存会の協力により、「ふるさと山之口のうた」のCDを制作した。   140
このCDは「山之口」の歴史、風土、人情あふれる町民の姿を歌にして、ぬくもりのある「故郷」をイメージしている。
なかでも「山之口弥五郎どん音頭」は、弥五郎どんの浜殿下り(御神幸行列)の一連の流れを詩句にしており、本町出身の歌手が唄い、踊りも町内の正統派若柳流市販により振付され、機会あるごとに市民に披露され好評を得ている。

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歌 上原 敏郎
お囃子 井桜三央佳/千代美
作詞・作曲 高橋 政秋
編曲 前田 美保(MU工房)
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第二節 的野正八幡宮を取り巻く祭事
一 的野正八幡宮〔都城市山之口町富吉一四一二番地〕

祭神 息長足姫命(おきながたらひめのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
祭祀 例大祭(御神幸祭)十一月三日
春祭 (祈念祭)三月初卯の日
秋祭 (新嘗祭)十一月二十三日

例大祭(御神幸祭=山之口弥五郎どん祭り)が執り行われる「的野正八幡宮」は上富吉地区の富吉小学校東方に位置し、和銅三年(七一〇) 元明天皇の奈良朝時代創建と伝えられており、祭神は息長足姫命・誉田別命・玉依姫命。
天文年間(一五三二-五五)の兵乱の中において、領主島津忠相が戦勝祈願したところ霊験あらたかであったので、それ以降山之口郷花木・高城郷桜木などの土地を神田として的野正八幡宮に寄進している。
また祭米一斗七升五合宛を祭料として供進するなど、歴代藩主から尊びあがめられてきた。
なお、三俣院(現在の都城市山之口町、同市高城町、北諸県郡三股町、都城市街地の一部)の総鎮守の社でもあった。

画像 三俣院の総鎮守の杜であった的野正八幡宮

明治四年(一八七一)七月郷社(県社と村社の間)に列せられたときに、的野八幡宮から園野神社と改名し、同六年に神殿を改築、同十九年は台風により倒壊したので改築、大正元年(一九一三)にまたもや台風で破損、同三年(一九一四)二月二十八日修復、昭和四年(一九二九)神殿屋根を銅板葺きとなしている。
平成十四年さらに改築し、再び的野正八幡宮と改名している。
〔『山之口町史』的野正八幡宮の項 山之口町による〕

二 池之尾神社〔都城市山之口町富吉一六九〇番地〕
祭神 息長足姫命(神功皇后)
例年十一月三日に執り行われる山之口弥五郎どん祭りの浜殿下りでは、台車に乗った大人人形弥五郎どんが祭り会場に隣接する富吉小学校の子どもたちに引かれて、行列の先導役を務め三墓の神輿を守りながら御手洗池のほとりにある「池之尾神社」まで下る。
池之尾神社は、的野正八幡宮の神様「応神天皇」の母親「神功皇后」が祀られている。
祭りでは、池之尾神社前の八幡馬場(射場)と呼ばれる広場に仮殿が設けられ土地の人たちは浦安の舞や神楽舞、さらに中原太郎踊り、桑原奴踊り、乗平矢旗踊り、正近棒踊り、下富吉そば切り踊りなど各地域に伝わる民俗芸能を奉納する。

画像 御手洗池に鎮座する池之尾神社

三 的野正八幡宮の祭事                                                                     142
的野正八幡宮を取り巻く伝統行事は、なんといっても例大祭・御神幸祭の「山之口弥五郎どん祭り」であり、昔は御神幸祭・例大祭をはじめ年間十七回の祭事が行われていた。
今では歳旦祭、七草祭、祈年祭(春祭り)、夏祭り(六月灯)、例大祭・御神幸祭、新嘗祭、除夜祭の祭祀が的野正八幡宮で奉納されている。

①歳旦祭は、一月一日元旦の朝日を寿賀奉り御氏子、崇敬者の繁栄と受け持つ職業の栄え、一年間の幸福を祈る。
②七草祭は、数えで七歳の子どもたちの成長、安全、幸福を祈る。
③祈年祭(春祭り)は、御氏子、崇敬者等が農業に労き励むときに稲をはじめ、諸々の作る物が荒き風、水、虫の災い無く秋の御祭を厳しく美しく仕え奉り、また工業、商業、その他の産業の繁栄を祈る。
④夏祭り(六月灯)は、田植え、その他の作物の植え付けも終わり、一年の中休みで人々の労をねぎらい、諸々の作物の稔りと諸人等の幸せと栄えを祈る。
⑤例大祭・御神幸祭は、一年中で最も大事な祭りであり祖皇神の霊を慰め、皇大神の御神徳の恵みに感謝し、御氏子、崇敬者をはじめ諸人等の幸福と世の繁栄、家内安全、産業の栄え、諸人等が受け持いそつ仕事に勤しみ励みて末永く家内安全、家門が立ち栄えゆく事を祈る。
⑥新嘗祭は、秋の稔りと恵みを祝い、皇大神に収穫の物を捧げ奉り感謝して、今後も大神の恵みをいただいて、諸人等が睦び和みつつ仕事に勤しみ励みて家内もいや遠長に立ち栄えと祈る。
⑦除夜祭は、皇大神が守り恵んでいただいた事に感謝し、来る新しい年が美しい年、吉年であり幸福を恵みたもう事を祈る。

第三節 弥五郎どん祭りの実際
一 弥五郎どん祭りの形態「浜殿下り(御神幸行列)」
悪霊よけの人形として知られる身の丈四討余りの「大人人形弥五郎どん」が主人公を務める的野正八幡宮の例大祭「山之口弥五郎どん祭り」の歴史はきわめて古く、以前は旧暦十月二十五日に行われていたが、現在は十一月三日に同八幡宮周辺を会場に執り行われる。
例大祭当日は、古来の形を崩さないでゆるやかに的野参道を練り歩く「浜殿下り(御神幸行列)」を言日見ようと大勢の参観人で賑わう。
庶民に親しまれている弥五郎どんは、幹竹で組み合わされ麻の薄い着物しか着ていない素朴な御神体であるが、「弥五郎どんゆかりのものに触れると、家内安全をもたらし一年中病気をせず元気で暮らせる。」という言い伝えがあり、祭り当日は、的野参道に詰めかけた大勢の参観人たちが弥五郎どんを取り囲み競って着物などに触れる。

画像 弥五郎どんの着物などに触れる参観人(的野正八幡宮参道)

また、弥五郎どん祭りは的野正八幡宮の神様(応神天皇)が同八幡宮分社の池之尾神社に祀られている神功皇后(応神天皇の母親)と年に一回面会し、一緒に浦安の舞や神楽舞などを終日楽しむという伝説に由来している。                                               143
弥五郎どん祭り当日は午前十時三十分頃、的野正八幡宮の神殿で神事かおごそかに執り行われ、祭り保存会員が参拝を終えると浜殿下り行列隊形が整えられ、四人の馬子が歌う「ここを立つ立つ、この調で立てば、先も栄える、いよ後も茂る・・・・・・」の御神馬馬方節を合図に的野正八幡宮から約六〇〇メートル離れた同八幡宮の分社である池之尾神社まで浜殿下りか始まる。
九番からなる馬方節に合わせて獅子舞か先陣にたち、行列を先導する弥五郎どんの周囲を回りなから参道に集まった村人や参観人たちの中に入る。
その後に御神馬、猿田彦、稚児に囲まれた三基の神輿、そして浦安の舞を奉納する巫女と続き、行列の最後尾に祭り保存会員や一般参列者が加わる。
総勢百二十人の長蛇の行列は的野参道に繰り広げられる古式豊かな一大絵巻で、素朴さに特徴があり昔とほとんど変わらない。
祭りの見どころは、なにといっても子どもとともに浜殿下りする威風堂々の弥五郎どんである。
行列を先導する弥五郎どんは四輪の台車に乗り、宮崎県の文化財愛護少年団に登録されている富吉小学校子ども芸能保存会の児童が引いて下る。

画像 威風堂々と浜殿下りを先導する弥五郎どんを引く富吉小学校の児童(的野正八幡宮参道)

先人から大切に守り継がれてきた地域の伝統文化、民俗芸能を引き継ぎ、堂々とその役割を果たす子どもたちの真摯な姿は、町内外から訪れる大勢の参観人から歓声が上がるなど感動を与えている。
参観人は年々増え続けており、地域の活性化と文化による都市と農村の交流につながっている。
静かな山あいの集落が、この日ばかりは帰省客もまじって一日中賑わいを見せる。
浜殿下りについて、『三国名勝図会』四巻七六六ページには次のように記されている。

的野正八幡宮は、和銅三年勧請す。往古三俣院の宗廟にして、大社なりしといへり。
正祭十月二十五日、此祭日、嘗社より申酉方四町餘、路傍御手洗池の側に假殿を設け、三ッの神輿を守り下る。是を濱殿下りといふ。
中の神輿を第一と定め、儀衛藷式(ぎょうれつきゅうしき)あり。
且大人駕五郎と呼で、朱面を被ふり、刀大小を侃きたる、一丈餘の偶人(にんぎょう)を作り、四ッ輪の車に乗せ、十二、三歳の童子、衆多の人数にて、行列の先きに推す。
上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり。・・・・・・・・・」

二 弥五郎どんの御神体
※身の丈四メートル余り(台車を含む) ・胴回り二メートル・首回り一・四メートル.腕回り一・四メートル・両裄丈二メートル

画像 浜殿下り(御神幸行列)を先導する弥五郎どん

弥五郎どんの館に大切に所蔵されている、大人人形の弥五郎どんの御神体は、的野正八幡宮の氏子たちによって祭りの二日前(十一月一日)に一年ぶりに姿を見せ例大祭(弥五郎どん祭り)当日を待つ。144
御神体は幹竹(からたけ)で組み合わされ、着物は麻布一重で色は梅染めで出来ている。ひけを蓄えた木彫りの朱面はいかめしい形相をし、背には三つ又の鉾を立てて御幣か付けられ、腰には三メートルほどの大小の太刀を差し、足には直径五十センチもある薬草履を履いている。
祭り当日は、同八幡宮に近い富吉小学校の子ども芸能保存会が引く木製の四輪の台車に乗り、同八幡宮第二の鳥居から浜殿下り(御神幸行列)の到着地である御手洗池ほとりの池之尾神社(神功皇后か祀られている分社)まで、両手を広げ威風堂々の風格で行列を先導する。

画像 (描写協力~大久保泰男氏)
画像 現在の祭りで使用されている山之口弥五郎どんの朱面(弥五郎どん祭り保存会員が製作)

画像 (描写協力~大久保泰男氏)
画像 明治・大正・昭和の時代に使用された弥五郎どんの白面
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146~150P上部まで画像

三 祭りの工程
〇祭り当日
①10時30分~的野正八幡宮の神殿においておごそかに神事が執り行われ、浜殿下りに参加する関係者全員か神殿で参拝する。
②11時40分~御手洗池に鎮座する池之尾神社(御旅所)に向かって弥五郎どんを先頭に浜殿下りが始まる。
③12時10分~浜殿下りが池之尾神社に到着すると再び神事か執り行われる。
④12時30分~祭りの主会場となる池之尾神社に隣接する八幡馬場(射場)において最初に浦安の舞を、続いて神楽舞か奉納される。
⑤13時00分~祭り会場となる地元富古小学校児童の郷上芸能保存会による棒踊りや俵踊り、さらに数多くの地域の民俗芸能が奉納される。
⑥14時30分~舞や奉納踊りが終わると神事が執り行われる。
⑦14時40分~八幡馬場(射場)において祭事のすべてか終わると、浜殿下りと同じ隊列が整えられ、再び弥五郎どんを先頭に御神幸行列か池之尾神社を後にして的野正八幡宮に帰っていく。
⑧14時50分~的野正八幡宮に着くと例大祭最後の神事か執り行われ、一日中賑わいを見せた弥五郎どん祭りか幕を閉じる。

〇浜殿下りの隊列
①厄払いの獅子舞〔一頭〕                                                                  150
青井岳地域保存会から推薦された二人使いの獅子舞か、浜殿下りの道中に行列を先導する弥五郎どんの周囲を舞いながら、的野参道に詰めかけた参観人たちの中へ入る。
大きな口をあけ、親御に抱えられた小さな子どもの手や頭などを優しくかんで、健やかな成長祈顧と厄払いをしながら、弥五郎どんと参観人たちの仲を取り持ってくれる。
朋黄色の獅子覆と裁着袴をまとい、いかめしい形相をした獅子舞であるが、参観人の群衆にとけ込むと大きな口の中に御賽銭を入れ、五穀豊穣・無病息災・家内安全を祈願する人か多く見られる。

画像 子どもの健やかな成長祈願と厄払いをする獅子舞

②お賽銭箱〔富吉小学校児童二名〕
祭り年の前年に的野正八幡宮の七草祝いで成長・安全・幸福を祈願した宣吉小学校の子ども二人が烏帽子を被り、白装束を身にまとい参道沿いで待ち受ける参観人の中に入り、「弥五郎どんが下ってくるよ」と声をかけながらお賽銭箱を担いで回る。
参観人たちは、かわいいその光景に顔をほころばせながら快くお賽銭を入れ、手を合わせなから無病息災や家内安全を祈願する。

画像 お賽銭箱を担ぐ子ども

③大麻〔神官一名〕
浜殿下りの先導役である弥五郎どんの前で烏帽子を被り、白装束を身にまとった神官が大麻(おおぬさ)で祓いをしながらおごそかに進む。

④弥五郎どんの御神体〔富吉小学校の児童か引く〕
祭りの主役を務めながら的野正八幡宮の神様を導く弥五郎どんは、射場で棒踊りを奉納する富吉小学校の子ども芸能保存会の男子児童二十名ほどか引く四輪の台車に乗り、的野参道に詰めかけた参観人たちの注目を浴びなから威風堂々の風格で浜殿下りを先導する。
弥五郎どんの後方には、俵踊りを奉納する同小子ども芸能保存会の女子児童が弥五郎どんの背中を押すかのように続く。

画像 弥五郎どんを引く富吉小学校の男子児童
画像 富吉小学校の女子児童が後方から弥五郎どんを押す

⑤御神馬と馬方節(浜殿下り唄)〔馬一頭・馬子(馬方)四名〕御神馬は昔、荷駄といい古文書『山之口名勝志』には小荷駄と書いてある。
絣の衣装を身にまといバッチョ笠(竹を骨組みにして、竹の皮で編んだ笠)を被り、黒足袋と藁草履を履いた四人の馬子(馬方)たちが旅道具を鞍にした御神馬の周りに付く。
浜殿下りは、的野正八幡宮で関係者が神事と参拝を終え、境内で馬子が馬方節(浜殿下り唄)の一節を唄い終わると、馬子は御神馬の手綱を引きながら九番からなる馬方節を交互に唄いながら行列の進行役を務める。
行列は御手洗池のほとりに祀られている池之尾神社「浜殿(仮殿)」に向かって古式豊かに練り歩く。
行列が池之尾神社に着くと三基の神輿が安置され、再び馬方節の一節が唄われると浜殿下りが終わりとなり、神事が執り行われ、浦安の舞や神楽舞、民俗芸能の奉納へと祭りは流れていく。

♪的野正八幡宮御神馬馬方節♪
一 ここを立つ立つ、この調で立てば、先も栄える、いよ後も茂る。
二 神のおいせの、お払い箱よ、見ればその日の、いよ人となる。
三 吉野山道や尋ねていけば、顔にゃもみじが、いよ散りかかる。
四 さてもみごとの、八幡のばばよ、鳥居にゃとばとが、いよ巣をかける。
五 うれしゅ目出たの、若松さまよ、枝も栄える、いよ葉も茂る。
六 立てばしゃくやく、すわればぼたん、歩むすがたは、いよゆりの花。
七 竹の白雪や朝日でとける、おごが島田は、いよねてとける。
八 揃た、揃たよ、人足揃た、稲の出穂よりゃ、いよ又揃た。
九 今朝出た馬子が、今こそもどる、いさみの声きて、茶わかしなされ。

画像 御神馬の手綱を引き馬方節を唄う馬子(馬方)

⑥神榊〔巫女二名〕
下富吉地域から推薦され白装束を身にまとった巫女二名が神榊を手に持っておごそかに下る。

⑦的野正八幡宮氏子総代長・都城市長(名誉会長)・祭り保存会長が祭りの法被を身にまとい浜殿下りに参列する。

画像 浜殿下りに参列する的野正八幡宮氏子総代長・都城市長(名営会長)・祭り保存会長(左から)

⑧浜殿下りの道案内役を務める猿田彦〔二名〕
猿田彦は、悪鬼邪霊を怖けさせ打ち払って露払いをしてくれると言われている。
永野地域公民館から推薦された二人の猿田彦は華麗な朋黄地青海波の袴に金襴地の狩衣を身にまとっている。
顔にはいかめしい朱色の天狗面と毛頭を、頭部には烏兜を着け、右手には手鉾を持ち、足には白木の足下駄を履いて三基の御神輿をお守りしながら神様たちの道案内をする。

画像 神様たちの道案内をする猿田彦

⑨御神旗〔一名〕                                                                    152
御神旗は二羽の向かい鳩と的野正八幡宮の名が記され、八幡宮の御印旗である。
この御神旗は、下富吉地域公民館から推祇された一名が白張の上着と袴を着け烏帽子を被り、三基の御神輿を先導する。

画像 三基の御神輿を導く御神旗

⑩笛〔宮司一名〕
⑪太鼓〔担ぎ手二名・神官〕
笛、太鼓は神職(宮司)が道楽(みちがく)の笛を吹き、神官が太鼓を打ち嗚らし三基の御神輿を導く。

画像 道楽の笛を吹く宮司

画像 太鼓を打ち鳴らす神官

⑫神楽保存会〔六名〕
神楽保存会は御旅所に三基の神輿を納め、神事の後に八幡宮の神々の霊を慰め、鎮めまた、氏子、崇敬者をはじめ諸人等の幸福と無病息災、家内安全、産業の繁栄、農耕安全、五穀豊穣、福徳円満を祈願して舞う者として、白衣、白袴を身に着けて御神旗とともに御神輿を先導する。

画像 御神興を先導する神楽保存会員

⑬浦安の舞を奉納する巫女〔山之口中学校女子生徒四名〕
優雅な「浦安の舞」を奉納する四人の巫女は、町内の各地域公民館長から推薦された山之口中学校の女子生徒で、緋袴に千草の舞衣をまとい、頭部には花かんざしを、手には檜扇を持った華麗な容姿は浜殿下りに花を添える。

画像 華麗な容姿で浜殿下りに花を添える巫女

⑭三基の御神輿と稚児
第一御神輿(応神天皇)、第二御神輿(玉依姫命)、第三御神輿(神功皇后)の担ぎ手は、町内の各地域公民館長から推薦され、白張の上着、袴を身にまとい烏帽子を被り四人で一基を担ぐ。
富吉小学校、山之口小学校、麓小学校三校の女子児童十二人の稚児が紫の袴と狩衣を身に着け、三基の御神輿を囲みなから浜殿下りに参加する。

画像 三基の御神輿を囲む稚児

⑮神官〔一名〕                                                                      153

⑯氏子総代(奉賛会)〔九名〕
的野正八幡宮の氏子総代(四名)や町内各神社の氏子総代(五名)が神官とともに浜殿下りに参加する。

⑰弥五郎どん祭り保存会員祭りに携わる運営委員や実行委員など約五十名の保存会員か祭りの法被を着用して浜殿下りに参加する。

画像 行列に参加する運営委員や実行委員

⑱一般参列者
的野参道の地域住民や町内外から訪れた参観人が浜殿下りの後に続く。

○終日祭事を楽しまれる弥五郎どん
浜殿下りが池之尾神社に到着し、御手洗池のほとりの仮殿に三埜の神輿が安置されると「馬方節(浜殿下り唄)」の一節が唄われ、その後再び神事が執り行われる。
神事が終わると弥五郎どんは、池之尾神社の隣で神功皇后とともに奉納される「浦安の舞」や「神楽舞」、「地域の民俗芸能」を終日楽しまれる。

画像 池之尾神社で神功皇后とともに終日祭事を楽しまれる弥五郎どん

○祭事を終え的野正八幡宮へ帰る弥五郎どんの行列
午後三時が近づき、陽がようやく西に傾きかけると、舞や民俗芸能など奉納行事すべてが終わる。
終わりを告げるように馬方節が流れると浜殿下りと同じ隊列が組まれ、弥五郎どんの御神体は的野参道の地域住民に見守られる中、参観人との別れを惜しみながら的野正八幡宮に帰っていく。
行列の一行が同正八幡宮に到着すると最後の神事が執り行われ、一日中賑わいを見せた「山之口弥五郎どん祭り」が幕を閉じる。

画像 地域住民に見守られて的野八幡宮に帰っていく弥五郎どん

第四節 弥五郎どん祭りを取り巻く地域社会
一 弥五郎どんが住むふるさと
山之口町上富吉地域の的野正八幡宮境内から、おっとりした馬方節の唄か聞こえてくると、人々の心はさらに高ぶる。
十一月三日、山之口町では恒例の「弥五郎どん祭り」が幕を開ける。
馬方節を合図に同八幡宮の鳥居前に、高さ四認ほどもある「大人人形弥五郎どん」が仁王立ちして、普段着の暮らしの気持ちが、どこかに吹き飛んで祭りの心が爆発する。
日常の暮らしの中には見られない異様に大きい人形の姿に、人々の心に豊かなふるさとが鮮明によみがえってくる。                          154
巨人の弥五郎どんを乗せた台車には綱が取り付けられていて、浴衣で着飾った富吉小学校の子どもたちが綱を引き、弥五郎どんがしずしずと動き出す。
これも日常のくらしでは着ることがなくなった絣風の祭り着に子どもたちは正装して、きりっと白い鉢巻きを額に締めこんで、祭りの日は子どもたちの心も別人になる。どこか誇らしげな表情に見える。
さらに弥五郎どんのあとには、あざやかな朱色の荷物を背負った御神馬や神々に扮した大人の行列や巫女、神輿、稚児行列が続く。
参道沿いには大勢の見物客が詰めかけて、おどけた獅子舞の襲撃に悲鳴が上がり見物客の波がうねる。
”弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず、一年中元気に過ごせる“という言い伝えがあることから、参道に詰め掛けた観衆は子どもも大人も競って弥五郎どんを囲み、麻の着物などゆかりのものに触れて一年の健康を祈願する。
(「Mモーション」(ふるさとのまつり紀行”弥五郎どん祭りのころ“より))

二 弥五郎どん祭りを受け継ぐ子ともたち
弥五郎どん祭りには、地元の子どもたちが郷土の民俗芸能を奉納して参加する。
的野正八幡宮に近い富吉小学校では、四年生以上が六月から十一月にかけて、隔週金曜日の夜に棒踊り保存会と俵踊り保存会の指導で弥五郎どん祭りに向けた厳しい踊りの練習か行われる。
祭り当日は、大人にまじり次世代を担う子どもたちが真剣に奉納する姿は祭りを沸かせ参観人に感動を与えている。伝統芸能を引き継ぐのは次世代を担う子どもたちである。
児童数七十人余りの富吉小学校は、平成十四年・十五年度に文部科学省の「地域と連携した道徳教育」の研究推進校に指定され、平成十五年十一月三十日の記念式典では、弥五郎どん祭りに奉納する華麗な女児の俵踊りと勇壮な男児の棒踊りが披露され、民俗芸能の取組の成果が発表された。
弥五郎どん祭りは、大人と子どもの協働による手づくりの祭りである。
地域はもとより多くの町民や団体、小中学校が誇りを持ってこの祭りに関わり、祭りを支え、子どもたちの健やかな成長を育む環境づくりに大きく寄与している。

三 弥五郎とん祭りを取り巻く町民や地域の協力体制と保存会の組織
弥五郎どん祭り保存会は先人たちから幾世代に渡って受け継かれてきた伝統文化を享受し、活発な活動を続けている。
町内の各地域公民館(六地域)の深い理解と協力により町内全戸による「山之口弥五郎どん祭り保存会」が組織され、会員が一致協力の下、歴史的価値の高いこの祭りの保存・伝承に情熱を燃やしている。
古老から青壮年、そして子どもたちへと地域の人々が心を一つにして、先祖代々引き継がれてきた貴重な伝統文化を誇りを持って守り受け継いでいく姿は素晴らしいものである。   155

画像 的野正八幡宮の第一の鳥居に飾られる特大のしめ縄(保存会員が1か月かけて作ったもの・材料の餅わらは保存会員が寄贈)

このような郷土魂をもち、永い歴史の中で先人たちが築いたかけかえのない伝統文化を大切に守る態度や奉仕と協力の精神が育つことは、これからの地域社会づくりにとって最も大事なことであり、心豊かな明日のまちづくり・人づくりの基礎となり地域の絆となることを祭り保存会では確信している。
祭り保存会は、毎年十一月三日の祭り開催に向けて九月下旬に理事会を、十月上旬には合同役員会(運営委員会・実行委員会)を数回開催し、それぞれの担当役員が祭りの準備に本格的に動き出す。
特に祭り会場となる上富吉地域の自治公民館で組織する運営委員は早速祭り会場の清掃や町内の幹線道路沿い、的野参道、集会所等にノボリ旗を立て祭り当日に備える。

画像 的野参道にノボリ旗を立てる祭り保存会員

いよいよ祭りの二日前になると、祭り保存会員や的野正八幡宮の氏子たちにより幹竹を組み合わせて製作される。

画像 祭りの2日前(11月1日)に弥五郎どんの御神体を組み立てる的野正八幡宮の氏子たち

身の丈四メートルほどの弥五郎どんは、頭上には三つの鉾を着け、顔には木彫りのいかめしい朱面を被り、御神体には一重の麻蚊帳をまとい、腰には大小二本の太刀を差して、的野正八幡宮の第二の鳥居から浜殿下りの到着地である御手洗池(池之尾神社)の方向を威風堂々の風格で眺め、祭り当日を待つ。
弥五郎どん祭りの当日は、浜殿下り行列をはじめ山之口中学校の女子生徒による浦安の舞や神楽保存会による神楽舞、地域の古老や青壮年、婦人層による郷土芸能などが数多く奉納される。
さらに、町の地域婦人会による甘酒や弥五郎どん力餅が振る舞われるなど、祭り保存会はもとより地域や各種民主団体、小中学校との協働作業により祭りが運営されている。
このように地域の中で生きている祭りは、年々隆盛の一途をたどっている。
特に、毎年浦安の舞を奉納している山之口中学校女子生徒は、本町の貴重な伝統文化を学びながら保存・継承に貢献するなど「文化によるまちづくり」の一役を担っている。
祭り当日、町内外から訪れる大勢の参観人は優雅な舞いを魅了するなど、熱心に見入り盛んな拍手と歓声を上げ感銘を受けている。
地域にとって弥五郎どん祭りは、継承すべき伝統行事であると同時に子どものころから親しみ生活に密着した伝統芸能である。
祭りは事前の会場設営から当日の運営、撤去、清掃に至るまで、すべて祭り保存会員が協力しながら実施し、祭りの運営を通じて地域のリーダーとなる人材が育ち、地域の活性化につながっている。
このように貴重な伝統文化である弥五郎どん祭りは、昔の姿を大切にしながら変容しないよう今後も地域の宝として、心のふるさととして、地域を語り継ぎなから子や孫の世代に大事に守り継がれていく。156

①山之口弥五郎どん祭り保存会規約 (平成十八年十一月三日現在)
(名称及び事務局)
第一条 本会は、山之口弥五郎どん祭り保存会と称し、事務局を都城市教育委員会山之口生涯学習課に置く。

(組織)
第二条 本会は、都城市民及びこれに賛同する者をもって組織する。

(目的)
第三条 本会は、祖先が残した伝統の郷土芸能「山之口弥五郎どん祭り」を正しく継承し、都城市民みんなの貴重な文化的財産として、豊かな心と連帯感を培いなから、これを長く後世に伝え、大切に保存伝承していくことを目的とする。

(事業)
第四条 本会は、前条の目的を達成するため次の事業を行う。
(1)郷土芸能の調査研究
(2)正しい指導及び後継者の育成
(3)諸用具の調度、整備、保存
(4)祭りの公開
(5)その他目的達成に必要な事項

(役員の任期)
第五条 本会に次の役員をおく。但し、役員の任期は三年とし再任を妨げない。尚、補欠役員の任期は、前任者の残任期間とする。
会長一名 副会長四名 書記会計一名 監査二名 理事十名 顧問若干名 名誉会長一名

(役員の任務)
第六条 役員の任務は、次のとおりとする。
(1)会長は本会を代表し、会務を統括する。
(2)副会長は会長を補佐し、会長事故あるときはその職務を代行する。
(3)理事は会務を処理し、事業の執行に当たる。
(4)運営委員は会の運営、事業について検討し会長に具申を行う。
(5)書記会計は本会の庶務会計をする。
(6)監査は本会を監査し、結果を総会において報告する。

(役員の選出)
第七条 本会の役員は理事会において選出する。
2 副会長及び監査は、各地域公民館長をもって充てる。
3 各地域の保存会長は、地域公民館長をもって充てる。
4 各地域の保存会副会長、理事及び運営委員は地域公民館長の推薦による。
5 祭りを円滑に運営するため、実行委員会を組織し各部ごとに部長、副部長、部員を置く。

(会議)
第八条 会議は次のとおりとする。
(1)理事会
(2)運営委員会
(3)実行委員会

(経費)
第九条 本会の運営に要する経費は、保存会費、寄付金、補助金及びその他の収入をもってこれに充てる。                            157

(予算及び決算)
第十条 本会の予算及び決算は理事会において承認を得なければならない。

(会計年度)
第十一条 本会の会計年度は四月一日に始まり翌年の三月三十一日に終わる。

画像 実行委員会主催による浜殿下り行列参列者の説明会(弥五郎どんの館)

②祭り保存会の組織(平成十八年十一月三日現在)
◆名誉会長
長峯誠都城市長

◆顧問
中元エ證元保存会長
下徳実雄前保存会長

◆会長
永徳節男

◆副会長
原口成昌上富吉地域公民館長
蔵屋二郎花木地域公民館長
小山稔麓地域公民館長
北園紘美下富吉地域公民館長

◆書記会計
上田弘伸

◆監査
後藤茂青井岳地域公民館長
出水正盛水野地域公民館長

◆理事及び運営委員
◎青井岳地域 後藤茂・坂元保弘・岡内環
◎永野地域 永野栄蔵・大杉初義・出水正盛
◎麓地域 小山稔・尾上秀ニ・武内功
◎花木地域 稲田朋信・中原弘務・蔵屋三郎・尾上昭五・児玉徹
◎下富吉地域 北園紘美・軸見照男・木上保・別府伸一
◎上富吉地域 原口成昌• 山下博惟・旦高弘之・乗峯和昭・上徳正男・中原博一・中元照視・岩崎幸博・上田弘伸・蓬原達則・山下保郎・道久和博・永野勝己・西久保誠一・山口和彦・上徳憲一

◆実行委員
◎総務部 軸見照男部長以下六名
◎広報部 中原弘務部長以下五名
◎浜殿下り部 山下博惟部長以下五名
◎御神馬馬方部 山下安公部長以下七名
◎浦安の舞部 蓬原龍子部長以下四名
◎神楽舞部 日高弘之部長以下六名
◎民俗芸能部 上徳憲一部長以下四名
◎展示鉢物部 児玉徹・川添大陸部長以下四名
◎野菜卸売部 下徳幹夫部長以下二十名
◎接待サービス部 上田弘伸部長以下五名
◎会場設営部 原口成昌部長以下六名

四 弥五郎どんと子どもとの結び付き
浜殿下り行列の中心は、なんといっても行列の先頭を子どもとともに行く弥五郎どんである。
山之口の人々とこの弥五郎どんの結びつきは深く、「ここん弥五郎どんが長男で、次男か岩川、三男が飫肥においやいげな」、「ここん弥五郎どんな遊(あすっ)か好っで貧乏じゃったから、冬も一重ん着物(きもん)ぬ着ちょいやいけな」と言い、相変わらず麻布で作った着物を着せられている。
また、社の前にある小さな丘や古墳などは「弥五郎どんの一香(ひともっこ)」でできたと言う。                                         158
なお、古くから「弥五郎どんの草履(じょい) 」を掲げて奉納されている「木刀踊り」などはここ的野の習わしである。
貧乏人だったからこそ人々に親しその弥五郎まれてきたに違いない。どんと子どもたちの結びつきは、『三国名勝図会』「的野正八幡式之図」の車に乗った弥五郎どんと子どもたちの姿により表されている。
そこにいかめしさなど全く感じられない。
「外面は強剛下位魁偉であっても、心は明朗闊達の巨人として古くから弥五郎どんの愛称で親しまれ、隼人のシンボルとなって伝説の中に生きている。
祭りとなると富吉の的野では蚊帳で作った衣を着せた弥五郎人形に寄りすかって押すのは子どもたちである。
子どもたちの目に隼人哀史のかけらもないが、来る年ごとのホゼ祭りの中に隼人の巨魁は退しくもほのぱのとよみがえる。」
〔『もろかた(諸県)』第二三号山之口的野八幡~(園野神社)由緒書より〕

画像 弥五郎どんと子ともたち(的野正八幡宮)

第五節 弥五郎どん祭りに関わる衣装や諸道具
一 コミュニティー推進事業の活用
弥五郎どん祭りか執り行われる上富吉地区は、伝統芸能を核とした地域づくりが高く評価されて、昭和五十八年から六十二年までの五年間、自治省(現総務省)から「コミュニティー推進地区」の指定を受けた。
当地区民は、一人が二人、二人が三人と、「何でも仲良く、みんなで・・・・・・」を合い言葉にコミュニティーの場か広がっていった。
さらに地区内の自治公民館をはじめ民主団体、種々のグループすべてがコミュニティー推進協議会の組繊に加盟し、「心豊かで、明るく、住みよい地域づくり」をスローガンに掲げ、横のつながりを大切にしながら実践活動を推進した。
指定を受けた五年間は助成金が交付され、この助成金の一部を活用して老朽化して傷んでいた弥五郎どん祭りに関わる衣装や諸道具を新調した。

画像 祭りに備え衣装や諸道具を確認する保存会員

二 祭りに関わる衣装や諸道具(弥五郎どんの館に保管されている)                                                 159

画像

160~165P画像

第六節 食による弥五郎どん祭りの伝承活動
一 伝承されてきた八幡講の習わし
大人人形弥五郎どんが祀られている的野正八幡宮参道周辺(一の鳥居から二の鳥居の間)の民家十三戸には「八幡講」という風習が昔から大切に受け継がれている。
この習わしは当八幡宮周辺住民か米一合と焼酎一合を持ち寄って、飯を炊いて荼碗に盛り焼酎を添えて八幡の神様に供える。
自分たちの賄いは焼酎一、二合と一戸当たり米二合五酌を持ち寄り直会をする。
言い伝えによると、八幡様には赤不浄(婦人の産後~月経・出産などのけがれ)と黒不浄(葬式行事~死のけがれ)という二つの禁物があると言われ、これを破ると災いがあり不幸を招くと言われている。
今でも過ちを起こさないようにと、この言い伝えを守り残していくために講が続けられている。
昔からの言い伝えで、的野参道や神域を汚すことのないよう現在でも葬式行事は同参道の裏道を利用しており、先人から引き継がれている習わしを厳しく大切に守り続けている。
戦中、戦後の苦難な時にも途絶えたことのないこの八幡講は、世代交代はしたものの参道周辺の十三戸か先祖の残した講を守り継承し、毎年三月と九月に集まり世間話をする。
講の当日は、婦人が昼間からそれぞれ自宅で作った野菜(乾燥大根やゼンマイ、タケノコの塩潰けなど、昔から受け継がれてきた田舎特有の手作り野菜)を持ち寄ったニシメ料理(昔から地域に伝わる田舎料理)で賄いをする。
日が暮れて全員が揃うと昔話に花が咲き、時間か経つのを忘れ、夜更けまで語らい楽しいひとときを過ごしている。この語らいが八幡講の絆を深め絶やすことなく今日まで受け継がれている。

画像 夜更けまで楽しいひとときを過ごす八幡講(八幡講の座元)

画像 八幡講の賄い料理を作る婦人たち(八幡講の座元)

八幡講の記帳は座元か行い次回の会場へ順次回し、地域のもっている独特の伝統、歴史風土を残している。
〔講=信仰や社会的扶助協力を目的とした社会集団、同じ信仰で結ばれた団体。神社や寺へ参拝すること。(日本語大辞典・講談社出版)〕

二 地域婦人会や農協女性部による弥五郎どん祭りのもてなし
弥五郎どん祭り当日は、地域婦人会や農協女性部が数日前から準備した「弥五郎とん力餅」や最近家庭で作ることのなくなった「甘酒」を無料で振る舞い、祭りを盛り上げる。
また、地元の農家が生産した新鮮で安い野菜が即売され、地域が工夫した手作りのもてなしに行列ができるなど参観人からは喜びと感謝の声か聞こえる。

三 的野正八幡宮参道周辺住民によるもてなし
一日中賑わいを見せた弥五郎どん祭りが終わると、的野正八幡宮参道周辺の住民は、焼酎を振る舞い、手づくりのニシメ料理で参観人を賄うなど、昔ながらの歴史風上(伝統の食文化)を今に残しながら弥五郎どん祭りの保存・伝承に大きく貢献している。               166
このような心のこもった伝統の食文化による「お接待(もてなし)」は独特の地域づくりであり、地域の誇りでもある。

画像 地域婦人会や農協女性部によるもてなし(山之口弥五郎どん祭り)

第七節 民俗芸能の保存と継承への取組
一 弥五郎どん祭りの保存振興活動と都城市教育委員会の支援活動
弥五郎どん祭りは、「日向の弥五郎人形行事は記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として、平成元年二月二十七日に文化庁から選択を、また翌年の平成二年三月二十七日には宮崎県より無形民俗文化財の指定を受けた。
このように、先人から祭りをこれまで保存・継承してきた地域保存会員の熱心な活動が高く評価されたことで、平成元年に町内全域の各地域公民館(六地域)による保存会組織が結成された。
これを契機に町民すべてが祭り保存会員となり知恵と汗を流しながら各地域公民館より会費を出し合って、祭りの企画・運営に取り組んでいる。
古老から壮年、青年、そして子どもたちへと地域住民か誇りを持って、受け継がれた伝統文化の保存・伝承に努力している姿は素晴らしいものである。
さらに、地域の伝統文化を教育活動に取り入れている町内の各小中学校や各地域の郷土芸能保存団体もこれを支援し、行政も都城市教育委員会山之口生涯学習課が保存会の事務局となり、保存会の活動を見守りながら毎年補助金により助成を行い祭りの振興に努めている。
伝統文化の保存には、行政の後方支援も必要であるが、伝承する保存会やそれを取り巻く地域住民一人ひとりの熱意が大きな力となる。

二 民俗芸能の伝承館「弥五郎どん交流活性化センター(弥五郎どんの館)」を核とした民俗文化財の保存・伝承
平成十二年度、県営中山間地域総合整備事業(農林水産省所管)の弥五郎地区活性化構想に基づき、山之口町の弥五郎どん祭り保存会さらに地域住民が一丸となり、『「自然と文化があふれる弥五郎どんの郷づくり」あつまれ仲間とともに新しいおらの村づくり』を掲げ、民俗芸能の伝承館整備に取り組んだ。
このことにより、郷土の文化・歴史に対する理解と伝統文化を活性化させ、絶やすことなく次世代に継承していきたいという願いが深まり、平成十五年春に「弥五郎どん交流活性化センター(弥五郎どんの館)」が的野正八幡宮参道沿いに整備された。
この「弥五郎どんの館」の中央にある郷土文化財展示ホールの構成は、弥五郎どん祭りに因んだ歴史や地域文化の移り変わりを後世に伝えるため、弥五郎どん祭り保存会が中心となり上富吉地区自治公民館や文化財保護審議委員と協働で企画した。
同ホールは祭りの様子や由来をビデオ映像システムで流すとともにパネルや写真で展示している。
また浜殿下り風景が一目で分かるようにレプリカによって紹介するなど、地域の古老の指導、助言を受けながら試行錯誤を重ね企画、立案した。
このように弥五郎どんの伝承館が整備されたことで弥五郎どん本体はもとより、祭りに関わる大切な諸道具が堅実に保存できるようになった。                 167

画像 弥五郎どんの館の展示ホール

また、地域住民の協力により祭りに関わる貴重な古文書等の歴史資料が展不公開できるようになったことで、弥五郎どん祭りの歴史的背景か明らかになり、地域住民一人ひとりかこれまで先祖から幾世代にわたって大切に保存・伝承されてきた自分たちの周りの貴重な伝統文化の価値観を再認識している。
館内には、百年以上も昔使われていた弥五郎どんの朱面も展示してある。その横に明治、大正、昭和時代に使われていた白面もかざってある。
古老によると弥五郎とんが奉納されている的野正八幡宮は、仏教と神道信仰が合体した神仏習合の八幡信仰の神社(郷社)であったことから、明治二年の廃仏毀釈により、寺が壊されて弥五郎どんの朱面も白面に替わった歴史があるのだという。
地域のシンボルでもある弥五郎どんの館(民俗芸能の伝承館)は、子どもたちのための施設でもあり、小中学校の郷士理解学習にも活用されている。
こうした動きをきっかけに祭り保存会では「貴重な宝である伝統芸能を後世に」と情熱を燃やし、後継者育成にも力を注ぐなど、地域に根ざした祭りの継承へ新たなる一歩を踏み出した。
館内では、木彫りの朱面を着け三メートル近い大小二本の太刀を腰に差し、麻布一枚の着物で御神体をまとった実物大(身の丈四メートル)の弥五郎どんか展示ホールの中心から、勇壮な姿で来訪者を迎えてくれる。

画像 勇壮な姿で来訪者を迎える弥五郎どん(弥五郎どんの館)

◎弥五郎どんの館の概要
①施設の所在地
宮崎県都城市山之口町富吉一七〇二番地

②工事施工年度
平成十三年度~敷地造成工事
平成十四年度~施設本体建築工事及び駐車場整備工事

③施設規模
木造平屋建て 六三五平方メートル
敷地面積 四、四五〇平方メートル

④施設の内容
◆郷土文化財展不ホール 一三三平方メートル
◆郷土芸能体験室 五八平方メートル
◆地域伝統農耕具展示室 四五平方メートル
◆御神輿展示室 二三平方メートル
◆弥五郎どん本体収蔵庫 一一平方メートル
◆調理加工研究室 三二平方メートル
◆交流研修室 七六平方メートル
◆生活改善食品加工室 一五九平方メートル
◆その他 九八平方メートル

〔参考文献〕
『三国名勝図会』第四巻 青潮社 昭和五十七年八月一日                                                  168

第五章 弥五郎どん祭りと奉賛芸能
第一節 祭りと奉賛芸能との関係
美しい自然環境と古くから伝承されてきた民俗色豊かな伝統芸能や価値の高い文化財は、他人を思いやる心や人間らしい感性を醸成する。
また、生活に根ざした文化財は人をつくり、心のふるさととして日常生活に安らぎと潤いを与えてくれる。
弥五郎どん祭りの浜殿下りで的野正八幡宮の神様の先導役を務める弥五郎どんは、南九州に残る大人(おおひと)信仰の一つである。
弥五郎どん祭り「日向の弥五郎人形行事」は、「八幡系の神社の秋祭りに登場するものである、我が国にあまねく伝播している八幡信仰の地方的展開を解明する上で、欠くことのできない習俗であるため、記録作成するものである。」とし、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として文化庁から選択を受けている。
近年、生活環境や生活様式が急激に変化し、全国的に伝統文化を取り巻く状況が大きく変容している中、山之口町には永い歴史と豊かな自然に培われてきた民俗芸能や古墳をはじめとする史跡、天然記念物など数々の文化財が残されている。

画像 町指定史跡の田島かくれ念仏洞(山之口町上富吉)

その多くは先人が大切に守り、自然の恵みを活用して形成されてきた伝統文化か、代々受け継かれ今日に至っているものである。
しかし、中には永い歴史の中で蓄積されてきた有形・無形の価値ある文化財か守る人もなく、朽ち果て、消戚の危機にさらされるという誠に残念な状況や結果を見ることも少なくない。
身近にある文化財は私たちの祖先か残してくれた貴重な文化遺産で、その当時の生活や文化を今に伝えてくれる大切なかけがえのない財産である。
現代社会の激しい生活の変化の中で、私たちは今一度祖先が残してくれた大切な文化遺産の価値を再認識し、ともすれば忘れ去られ、衰退の危機にある伝統文化を今のうちに活性化させ、次の世代へ守り伝えていく責任と義務がある。
このような中、山之口町内には先人から数多くの伝統芸能などの文化遺産が残されており、これまでも地域や町をあけて小学生による文化財伝承活動を推進し、伝統ある民俗芸能の保存・振興に努めている。
毎年十一月三日に執り行われている弥五郎どん祭りでは、山之口中学校女子生徒による「浦安の舞」や神楽保存会の「神楽舞」をはじめ、富吉小学校の児童による「棒踊りと俵踊り」のほか各地域に伝わる「中原太郎踊り」「正近棒踊り」「桑原奴踊り」「乗平矢旗踊り」「下富吉そば切り踊り」など地域特有の歴史の中で伝承されてきた民俗芸能が奉納される。

第二節 祭りへ奉賛される芸能
一 奉納される「浦安の舞」の取組と歴史
◎演技者(構成員)
毎年、町内各地域公民館(四地域)から推薦された山之口中学校の女子生徒四名が弥五郎どん祭りで浦安の舞を奉納する。                          169
奉納舞は、「扇の舞」と「鈴の舞」の二部構成で、参観人から温かく見守られながら優雅に舞い、的野正八幡宮の神々に奉納する習慣(ならわし)である。
十一月三日の祭りが近づくと四名の舞い手は、祭り保存会の厳しい指導の下で数週間の練習に励む。

画像 浦安の舞の練習に取組む山之口中学校の女子生徒(山之口地区公民館)

◎衣装
千早(舞衣)と緋袴を着用し、頭上には花かんざしとのし紙、垂髪を着け、手には鉾先舞鈴と桧扇を交互に持ちながら筵(むしろ)の上で優雅に舞う。

◎楽器
神前神楽(浦安の舞)CD

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている的野正八幡宮の分社(池之尾神社)まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われると浦安の舞が最初に奉納される。

◎演技
檜扇で静かにゆったりと天、地の神に祈るがごとく舞い、鈴で朝なぎの波のごとく、静かに清らかに祈るがごとく舞う。

◎歌詞
天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

◎由来
浦安の舞は、昭和天皇が詠まれた歌をもとにした舞で、毎年、弥五郎どん祭りにおいて最初に奉納される舞である。
昭和八年の昭和天皇御製をもとに、昭和十五年、皇紀二六〇〇年を奉祝して時の宮内省楽長・多忠朝(おおのただとも) 氏により作曲、振り付けされたものが「浦安の舞」である。
昭和十五年十一月十日午前十時に全国の神社で一斉に奉納されてから六十五年を迎えんとする今日でも、神前神楽の代表的な一つとして多くの神社で盛んに舞われている。
浦安とは、「こころやすらか」という意味で、古く我が国が浦安の国と呼ばれたのは風土が美しく平和な国であったからである。                       170
この舞は正式には十二単を身にまとった四人の神舞姫(みこ)が扇と鈴とを手に舞う物で、前半の扇舞は祝いの象徴である檜扇の、要(かなめ)を中心に曲豆かに開け行く中心の世界を表現している。
後半の鈴舞は、三種の神器を象った鈴を手に舞い、その清らかな音色が万物を浄め、美しい響きが神と人との心のふれあい、喜びを意味している。
龍宮住吉本宮では天長祭(てんちょうさい)や新嘗祭(にいなめさい)、また月初め感謝祭などの祭典に奉納されている。
〔宗教法人「生長の家」総本山より〕

画像 華麗な容姿で浦安の舞を奉納する山之口中学校の女子生徒(的野正八幡宮八幡馬場)

二 奉納される的野正八幡宮「神楽舞」の取組と歴史
◎組織(保存会の歴史と構成員)
圓野神社(現的野正八幡宮)神楽は、古来から舞われていて明治、大正の時代に途絶えようとしていたらしく、このことを懸念して、「大正十二年二月八日に都城市郡元町の稲荷神社神職二人が圓野神社の社務所において、六日間かけて田の神舞をはじめとする神舞の稽古をした。」と神舞標本に記されている。
また大正十二年に圓野神社社務所において、稲荷神社舞人の指導を受けて踊神歌、神文の手書きの練習書が残されている。
このように稲荷神社の舞手から指導を受けながら、昭和十四年頃まで舞われていたらしいが、その後は途絶えてしまった。
その後、昭和五十八年から五十九年にかけて的野正八幡宮宮司たちが調査、研究を重ね、四十九年ぶりに再起復活を願って同八幡宮宮司を代表に神楽舞保存会を結成した。
さらに昭和六十年には再び都城市郡冗町の稲荷神社舞手二名を中原公民館に招き、指導を受け練習風景をビデオに収めるなど熱心に練習を菫ねてきた。
結果、ついに保存会の有志― ――名は「手力の舞」と「双刀の舞」を復活させ、その年の秋の例大祭・神幸祭(弥五郎どん祭り)で初めて舞を奉納する。
さらに、保存会では神楽が継承されている各方面に視察に出向き研究を重ね、「片刀の舞」、「田の神舞」、「宮毘の舞」、「薙刀の舞」の四番に挑み、合わせて六番の舞を復活することに成功し、平成七年の弥五郎どん祭りでは六番すべての舞を奉納し、現在に至っている。
毎年、十一月三日の弥五郎どん祭りか近づくと、神楽舞保存会の舞手たちは数か月前から自らを律し身を清め、神々の奉仕者として心身ともにその境地に入ると言われている。
神楽舞保存会では神楽の古式を重んじ、今後さらに舞手をはじめ会員を増員するとともに、研究と練習を重ね釣鐘を入れた舞にも励んていきたいと意気込みを見せている。
なお、弥五郎どん祭りに奉納する優美、勇壮、荘厳な神楽舞は、的野正八幡宮宮司自らか舞い、保存会の中心となって神秘的な伝統神楽の保存・継承に努力している。
祭り当日、鑑賞する参観人は近くで見ることのない神秘的な神楽舞を魅了しながら、伝統文化に接している。

画像 的野正八幡宮で神楽舞を練習する保存会員

◎由来
文政七年(一八二四)六月の古文書によると、「例大祭前日十月二十四日から翌日までの両日にかけて造酒などを供えて神楽舞を踊った。」と記されている。
こうしたことから、相当前から神楽は舞われていたことがうかがえる。                                               171

(一)双剣の舞(もろつるぎのまい)〔両刀の舞〕
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣・白差袴
・赤タスキ
・白鉢巻き
・足袋

◎道具
・大刀二本(二ふり)

◎楽器
・笛
・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、正座の形で右手の親指を立て、剣を握り「五印」を結び五方位の順で踏み、跳躍を交えて剣を正面にして舞う。
つぎに剣の中刀を持って舞い、それは剣の切つ先へと移っていく。
最後に剣の柄を取り左右に切り払って舞い、悪魔払いをして神の霊を鎮め無病息災・家内安全・福徳円満を祈願して舞うと言われている。

画像 双剣の舞(的野正八幡宮八幡馬場)

(二)田の神舞(たのかんめ)
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣
・たっつけ袴(裁着袴)
・狩衣
・赤タスキ
・足袋

◎道具
・神楽面
・神楽鈴
・メシゲ(しゃもじ)
・扇子
・編笠
・竹御幣二本

◎楽器
.笛
・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、大きな鼻と口を開いた「阿形(あぎょう)」の面を着け、舞は田植えの時の姿そのままに前かがみで腰を折り、腰に幣竹(ひらたけ)を二本差し、股(もも)を高く上げて田んぼから引き抜き、足先から前に踏み込んでリズムよく踊っていく。
手には鈴、めしけ(しゃもじ) 、扇を持ち、「稲穂の長さ一尺八寸ブラフラュラュラ・・・・・・」を唱えなから軽快に舞い、神の恵みによってできる米の尊さを述べなから飛び跳ねる。
舞の身振り手振りは活動的で、無病息災、五穀豊穣、農耕安全を祈願する。                                                172

画像 田の神舞(的野正八幡宮八幡馬場)

(三)手力の舞(たじからのまい)
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣
・ 松葉袴
・狩衣
・足袋

◎道具
・神楽面
・扇子
・竹棒(一五〇センチ~一六〇センチ)

◎楽器
.笛・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、鬼神舞(きじんめ)とも言われ、扇と約五十芸くらいの弊竹を手に持ち周囲をまわりながら数回激しく足踏みを繰り返して、邪気を祓い鎮め幣竹にて左・右に丸く祓い清めて舞い納める。

画像 手力の舞(的野正八幡宮八幡馬場)

(四)片刀の舞(かたとうのまい)
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣
・白差袴
・赤タスキ
・白鉢巻き
・足袋

◎道具
・ 太刀一本(一ふり)
・チャリン棒

◎楽器
.笛
・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、修験に扮した舞手か鈴を右手に持ち、剣を正眼の構えから剣中刀を握り、次に剣先へと握りか移り舞を踊っていく。
最後に剣の柄を取り左右に切り払って神の霊を鎮め、悪魔払いをして人々の無病息災を祈願する舞である。                                173

画像 片刀の舞(的野正八幡宮八幡馬場)

(五)宮毘の舞(みやびのまい)
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣
.緋袴
・水干
・足袋

◎道具
・神楽面
・毛頭(黒髪)
・天冠
・扇
・榊(六十センチ~七十センチ) 二本

◎楽器
.笛
・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、優美、風靡な舞であり、両手に約五十戌の幣付榊を持って神楽舞と呪文を唱えながら、左回りに三回、次に右回りに三回、まわり方ははじめは小さく、あとは大きくまわる。
その次に右手に扇、左手には二本の榊を持って同じように神楽歌を唱えながら左、右に三回まわりながら延命長寿・福徳円満・家内安全を祈願して舞う。

画像 宮毘の舞(的野正八幡宮八幡馬場)

(六)薙刀の舞(なぎなたのまい)
◎演技者(構成員)
神楽舞保存会員

◎衣装
・半襦袢
・白衣
・白差袴
・赤タスキ
・白鉢巻き
・足袋

◎道具
.薙刀

◎楽器
.笛
・太鼓

◎演技(舞の振付)
この舞は、薙刀を持って地をたたき鎮め天空を切り払い、五方位を祓い清め、あたりの悪魔を退散させ、鎮魂除災を祈師して舞うと言われている。

画像 薙刀の舞(的野正八幡宮八幡馬場)

三 奉納される「地域の郷土芸能」の取組と歴史
山之口弥五郎どん祭りは、千年を超える歴史の中で昔から庶民に親しまれ伝承されてきた町内で最も賑やかな文化の祭典である。                        174
かつて、村祭りなどで舞われていた郷土芸能は数多くあったか久しく途絶えていた。
終戦から高度成長・所得倍増など経済優先の時代へと物質文明の異常な発展と物さえあれば人は豊かだと錯覚して、人間本来の心を見失いがちだったと言われている。
このことは私ども山之口町でも同様であった。昔から祭りや伝統文化かなくなるときは「ムラの崩壊を意味する。」と言われている。
さらに「人々が汗して働く中に人としての心を取り戻すのは祭りであった」と言われている。
永い歴史と自然条件、歴史的条件によって、地域ごとに特色のある伝統文化が醸成され、その伝統文化の豊かさの中で人々は育まれてきたのである。
地域住民たちはこの伝統文化を代表する郷土芸能には、先祖の祈りや願いか込められている極めて文化価値の高いものであることを認識し、郷土の宝としてこれらを堀り起こすとともに復興伝承に努め、農かな心や地域の連帯感づくりを目指して再生復活を図った。
そこで、伝統文化の復活を通して生まれてくる郷土愛、誇り、連帯感、協力、盛り上かりといったものか地域発展へのエネルギーの韮礎となり、まちづくりの起点となることを確信し、昭和五十六年度、上富吉地区自治公民館の努力目標に「無形民俗文化財の振興を図ること」を掲げ、公民館役員と地域住民、文化財専門委員などが協働して取り組むこととなった。
弥五郎どん祭りの会場となる上富吉地域には、かつて民俗芸能が数多くあったが「中原太郎踊り、正近棒踊り、桑原相撲踊り、桑原奴踊り、乗平矢旗踊り」などの保存・継承には盛衰があった。
戦中・戦後に一時期途絶え、長いものは五十年ぶり、短いものでも二十七年ぶり、十五年ぶりの再生復活であった。
郷土芸能の復活は、並大抵なことではなく大変な苦労であった。一度途絶えるとそれを復活するには多くのエネルギーと資材か必要となる。
古老の指導の下、地域のみんなか工夫した手作りの道具、経験者(古老)から新人(青壮年)へと、世代を超えた一心不乱の熟のこもった厳しい稽古か連日なされた。
資金はなく(お重箱に手作り料理を入れ、焼酎を下けて陣中見舞いにやってくる地域の人々)集落みんなか協力し合い地域住民一丸となって取り組んだ結果、伝承の危機に陥っていた郷上芸能を古老から習得し、見事再生復活した。
このことは、地域住民の大きな誇りと自信につなかった。
毎年十一月三日の弥五郎どん祭りでは、これらの民俗芸能全てか奉納され賑わいをみせ、参観人から地方文化か見直され高い評価を受けている。
民俗芸能を効果的に確実に復興させるために、次のとおり年次別に計画を立てて重点的に取り組んだ。                                     175

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このように、地域住民の熱心な支援と協力により復活への気運が盛り上がり、衰退の危機にあった民俗芸能が見事再生復活され、町民の間から郷土芸能愛が生まれてきたことは大きな収穫であった。
現在、毎年十一月三日の弥五郎どん祭りの日、仮殿の設けられた祭り会場では各地域から推鷹された山之口中学校の女子生徒四名による「浦安の舞」や神楽保存会による「神楽舞」、そして見事復活された多彩な郷土色豊かな芸能が数多く奉納され、優雅と勇壮な踊りは参観人に感動を与えている。
再生復活された伝統芸能は地域の財産と誇りであり、いつまでも郷上を愛する心をもって脈々と受け継がれる。
民俗郷土芸能が再生復活した当時から、次のように各種の伝統芸能大会などに出演するなど対外活動を積極的に行ってきている。

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これら再生復活された郷土芸能は、それぞれで保存会組織を立ち上け各集落の自治公民館全ての住民が保存会員となり、会費を出し合ってその保存・伝承に情熱を燃やしている。
古老から壮年・青年・そして次世代を担う子どもたちへと地区住民みんなが強い絆で気持ちを一つにして、誇りをもって保存・継承に一生懸命努力している姿は素晴らしいものである。
このような機会を通して歴史と伝統を大切に守る姿勢や奉仕と協力の精神を育てることは、これからの地域づくりにとって最も大切なことであり、人間性豊かな明日のまちづくりの購盤づくりでもある。

(一)奉納される「正近棒踊り」の取組と歴史及び富吉小学校子ども芸能保存会(男子児童による棒踊り)の育成
◎演技者(構成員と名称)
面組十七名
・三尺棒八名
・六尺棒四名
・歌組三名
・旗持二名

◎衣装
白地に紺色の碁盤目模様の浴衣(三尺棒・六尺棒) 、紺色の袴(六尺棒)、青・黄・ピンク色のタスキ、白色鉢巻きを着用し、足には黒足袋、わら草履を履く。          176

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り(御神幸行列)に参列して御手洗池に祀られている的野正八幡宮の池之尾神社まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われ浦安の舞や神楽舞か奉納された後、午後一時頃から富吉小学校の男子児童と正近棒踊り保存会による棒踊りが奉納される。
歌は古老が生で唄い、踊りは六尺棒と三尺棒を歌に合わせ両方から激しく打ち下ろし勇壮に踊る。
棒踊りを「おせろ」とも呼ぶように、唄は「おせろがやま」が唄われる。この歌は、霧島六所権現などのお田植え祭りで咀われた「田唄」であると言う。

◎演技(踊りの振り付け)
○出(入り)~入場は二列縦隊、踊るときは観客席に横並びになる。踊り子は六人一組で二組である。
歌組の「おせろオーオー」の掛け声に合わせて、踊り手が「サァーサァー」と声を掛け、六尺は左手を腰に棒は右肩に担ぐ。
三尺は右手を腰に左手で刀を腰に当て右足から出る。

画像 入場の隊形

○中息れ(みそつき)
※六尺棒~歌組の「ななはたーアーアー」に合わせて、かかとを上下しながら、右手の棒をトントンと上け下げする。
※三尺棒~六尺棒と同じ歌に合わせて、刀を左腰に差して右手を腰に当てて、かかとを上げリズムをとりなから腰をまわす。

○棒踊り
※六尺棒~歌組の「今こーホーホー」の歌に合わせて、右手に棒を持ち、右足を上げて同時に棒を上下に振る。
次に左半回転し①、②はそのままの状態で「エイエイ」の掛け声に合わせて、棒と棒をお互いに四回打ち合わせる。
つぎに、②は棒を差し出し①と入れ替わり三回交互に向きを変える。

※三尺棒~六尺棒と同じ歌に合わせて、手踊りを交えながら刀を抜きざま半回転し、下で「ヒンヤサ」の掛け声で②と刀を打ち合う。
つぎに、①、②とも足を引いて刀を上に上げて一呼吸おいて、クロスに打ち合いなから態勢体勢か入れ替わる。
その後、左膝をついて①、②が上段で刀をクロスさせ、そこを「ハレアイサ」の掛け声で六尺棒が払う。
同時に三尺の①と②は立ち上がり六尺が半回転して、左膝をついて両手で棒を頭上に上げて、それを三尺が「ヒンヤサ」の掛け声で打ち込む。
以後、これまでの踊りを二回繰り返しなから元の位置に帰る。

画像 6尺棒 3尺刀 ※6尺棒で3尺刀を下から払い上げる

○中息れ(みそつき)~②中息れ(みそつき)と同じ踊り

○棒踊り~③、④棒踊りと同じ踊り                                                                   177

○帰り(出)~歌の「やけのーほのほ」の合図で全員が回れ右をして、三尺は刀を腰から抜き下にさげ、右手を腰に当てて帰る。六尺は出(入り)と同じ隊形で退場する。
※踊りの所要時間は十五分

◎歌詞
♪○出(入り) 「後ろが山で前は大川」
おせろオーオーほ ほわはや さァ山でエンヤレ
おせろが山ャーで やァー それはヨホーホー
ほれさなァー さまァー うんだァー
山へは ヨホヒンエー へのようだァ

○中息れ(みそつき)「七旗たてておさのめかず」
ななはたーアーアー はたァー立て
さァー立てた エンヤレ ななはたアー立てた
やアーそれはヨーホーホ ほれさなーさおーほ
うんもうほ やのさの ヨホヒンエーヘ
へのりようーめ うんめェー 目のオー かず

○棒踊り「いまこそ通る神にものめり」
今こーホーホー ほそオーオーと さアーとおる
やアーそれはヨーホーホー ほされなーサーカ
うんかアーアー やかめに ヨホヒンエーヘ
へのようもオーほ うんもうほ ほのおめりー

○棒踊り「しめめはたたず嫁の名がたつ」
しのめエーは立たず さアー立たず
エンヤレ しの目は立たず
やアそれは ヨホーホ ほれさなァ さよオーほ
うんようオーホ やめよの ヨホヒンエーへ
えのようだアー うんだアーア
名がアーア あー立つ

○帰り(出)「やけのの雉(きじ)は岡の背にすむ」
やけのーほのほ ほのほきイー
さアーキジはエンヤレ
やけののキジは やアーそれは ヨホーホ
ほされさアー さおほうんもうほ
やおかのヨホヒンエーへ
へのようせーうんせーへ
ヘにイーイー住む

◎ 組織(保存会の歴史と構成員)
昭和二十九年に途絶えたが有志によって二十七年ぶりに復活し、山之口町の総鎮守的野正八幡宮例大祭日(弥五郎どん祭り)に力強い踊りを奉納している。            178

画像 正近棒踊りの奉納(的野正八幡宮八幡馬場)

正近自治公民館の全世帯が保存会員(百十六名)である正近棒踊り保存会では、先祖代々受け継がれてきた郷土芸能の保存と後継者育成、更には保護者を含めた異世代間交流を図ることを目的として「富吉小学校子ども芸能保存会」の男子児童(四年生から六年生)に深い愛情と熱意をもって棒踊りを指導している。
子ども芸能保存会「棒踊り」は、弥五郎どん祭りの奉納はもとより同小学校の運動会や町の生涯学習大会、PTA研究大会、鹿児島県曽於市「小弥五郎塾」との弥五郎サミット交流会、さらには同小学校で開催された平成十七年度文化財愛護少年団地域間交流事業で、都城市内の訪問参加者(教職員、市教育委員会職員、文化財愛護少年団など八十名)の前で勇壮な踊りを堂々と披露するなど、正近棒踊り保存会の指導の成果を幅広く発表すると同時に伝統芸能の普及、啓発活動を行っている。

画像 元気よく棒踊りを奉納する富吉小学校の男子児童(的野正八幡宮八幡馬場)

◎由来
その昔、島津藩主が士気を鼓舞するため棒術を踊りにしくんで、棒踊りが始まったと言い伝えられている。地区のにせ(青年)が代表の踊り手となって心身を鍛練し、天地におわす諸々の神のみいつ(威光)を我が身に踊わんと一心不乱に踊ったと言われている。
踊りは激しく棒を打ち合わせ、また棒と小太刀を気合い鋭く打ち合わせることによって、悪気邪霊・悪魔.疫病を退散させるのだと言われている。

(二)奉納される「富吉小学校郷土芸能保存会(俵踊り) 」の取組
◎演技者(構成員と名称)
.踊り手十二名
・三味線二名
・太鼓一名

◎衣装
青色法被、黒色短パンを着用し、背中にうちわを差し、手には小さな米俵(直径十六センチ、長さ三十六センチ)をかざし、足には白足袋、わら草履を履く。

◎道具
踊り子全員、それぞれ小俵一つを持つ。その大きさは直径十六センチ、長さ三十六センチ、外にうちわ一本

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前八時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一四十分に浜殿下り(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている的野正八幡宮の池之尾神社まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われ浦安の舞や神楽舞が奉納された後、午後一時三十分頃から富吉小学校の女子児童が俵を担いで力強く踊を奉納する。
踊り子は、三味線と太鼓の道楽に合わせて俵を右手で上に向けて縦に持ち、左肩に担いで、二列縦隊で正面に向かい、前から二人一組ずつ踊り進む。
テンポの良いリズムにのって、腰を低く構え、俵を前後左右に、或いは体の前で大きく回しながら踊る。

◎演技(踊りの振り付け)
○出端

三味線(二上り)、太鼓のリズムに合わせて踊りながら、六人ずつ二列で入場(まっすぐ出てくる)


俵積み
各自の俵を先頭の方へ投げながら順次送り、一番は一か所に積み上げる。(ソーレとかけ声)

○中踊り

歌・・・・・・ハヤシ(一節)
コトシャ ヨカヨデ
六人ずつ並んだまま、「うちわ」を使ってリズムに合わせて踊る。(二回踊る)二節


イと同じ
六人並んだまま、マメシボリのタオルを使い鉢巻きにして踊る。
オキノ タイセン・・・・・・・(一節)
最後に掛け声
アアードッコイ、ドッコイ、ドッコイニセ
二回目
オキノ タイセン・・・・・・・(二節)
アアードッコイ、ドッコイ、ドッコイニセ


俵もどしの踊り
積んだ俵をといて、一番から次々に後の方に投げながら次の踊りに移る。送り終わった踊り子は後向きになる。(出端の口に対応)

○ひっこん端(入端)
リズムに合わせて、踊りながら六番から順に退場する(出端のイに対応)
※踊りの所要時間は十五分

◎歌詞
♪○中踊り(1)
今年や良か世で 穂に穂がさいた。
ギッチョンチョン ギッチョンチョン
桝にやいらずに 箕で計ろう
イツヨ ヤレコノドスコイ ドスコイ
ヨーイヤナ ギッチョンチョン
ギッチョンチョン
「くりかえし」

○中踊り(2)
沖の大船にや 磯がたり
三十チリリン 三反の帆を巻きあげて
潮風 波風 ふきおろし                                                                180
むこうの島から 女郎衆が出て来て
招くやら 見るより船頭さん
帆を立てて いかりをジャンプと港入り
ア ヨカアナ ア ヨカヨカヨカニセ

◎組織(保存会の歴史と構成員)
以前は、地域公民館等の落成式や各家庭の上棟祝いなどに呼ばれ踊られていたが、踊り手の高齢化が進み、昭和五十七年、富吉小学校の校区住民(古老・青壮年・婦人)や父母、学校教職員との話し合いにより、郷土に伝わる民俗芸能を体験・習得・育成し、それを通じて心農かな、たくましい身体をもって郷土愛と勉学の一助にとの一念から「男子児童による棒踊り」とともに富吉小学校子ども芸能保存会(会員七十七名)「女子児童による俵踊り」が組織された。
現在では総合学習の教育活動に取り入れられ次世代を担う子どもたちに受け継がれている。
毎年、同小学校の四年生から六年生までの女子児童は、俵踊り保存会の指導で弥五郎どん祭りで華麗に奉納するほか、男子児童の棒踊りと同様、機会あるごとに幅広く練習の成果を披露するなど、地域の支えはもとより小学校の協力により確実に保存・伝承に努めている。

画像 力強く俵踊りを奉納する富吉小学校の女子児童(的野正八幡宮八幡馬場)

◎由来
起源は戦後で新しい。昭和二十四年十二月、隣町の三股町新馬場地区にある広済寺の梵鐘と桜門が建立された時に、門徒でもある田上地区の青年たちがこれを祝ってこの俵踊りを奉納し、山之口町富吉地区では昭和――十五年春祈念に奉納のため、田上地区の踊りを桑原集落の婦人会の方々が習ったのが始まりである。
踊りは、古くからある「結い(共同作業)」の相互扶助の心を表し、農作業の素朴な労働の仕組みなど、特に盟作を予祝する「田遊」神事で演じる所作を舞踊化したものである。
〔『三股の民俗芸能』田上の俵踊りの項 三股町による〕

(三)
奉納される「桑原奴踊り」の取組と歴史
◎演技者(構成員と名称)
.踊り手十五名

◎衣装
白色浴衣、黒色ヘコ帯、赤色タスキ、右角立の白色鉢巻、青色手甲を着用し、日の丸扇子二本を手に持ち、足には白足袋に青色脚絆、わら草履を履く。
顔に化粧を施して鼻にはおしろいで濃く鼻筋を引く。

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている。
的野正八幡宮の池之尾神社まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われ浦安の舞や神楽舞が奉納された後、午後一時四十五分頃から桑原地域の娘さん(よかおごじょ)が中心となり三味線、太鼓に合わせて両手を広げ軽やかなテンポでリズムをとりながら奴踊りが奉納される。
奴踊りは棒踊りのアトヤマに踊ると言われており、棒踊りより年代はおくれている。
踊りは、「出端」・「中踊」・「入端」と三つに分かれている。
出端は三味線道楽に合わせて踊り、神の庭入りであると言われ、神を迎えるための踊りである。

◎演技(踊りの振り付け)
○出端~太鼓・拍子木の伴奏に合わせ、踊り子は両手に日の丸の扇子を持ち、二列に並び「アードッコイ」の掛け声とともに腰を低くした姿勢で踊り始め下手から上手へと進む。
最後の踊り子が踊り始めるまで踊り続け「中踊り」の体制を作る。

画像 〔演技(踊り)の体型〕

○中踊り~二列の正面向きで踊る
「アードッコイ」の掛け声を合図に「月日の立つのは早いもの」の歌に合わせて、扇子を左右に大きくまわし、その手を胸の前で交差し上下に、前後に、左右にと大きな振りで舞い、飛び跳ねながら体全体で踊る。
①番歌の最後「桜もさそおと目を覚ます」に合わせて、両手に持つ扇子を胸の前で斜め上下に重ね合わせると同時に、片足でピョン、ピョン、ピョン、と三回軽やかに飛び跳ね「ソイヤ」の元気な掛け声でしめる。
同じ動作を②番歌でも繰り返して踊る。

○入端~中踊りが終わると上手へ後ずさりし、二列で出端で出て来た方向にテコ(太鼓)、シャンセン(三味線)の伴奏に合わせて踊る。
腰を低くし両手の扇子を足元で力強く風を仰ぐように小刻みに交差しながら、両足を踏み込み飛び跳ねて踊る。
両手に持つ扇子を胸元で右・左へとまわし同じ動作で自分の周りをまわって次に前へ突き進む。
両手、両足、ひざ、腰と体全体を使い、前後、左右、回転と大きな動作で楽しく踊り続ける。
同じ動作を繰り返しながら、最後の踊り手が終わるまで踊り下手へと引き込む。
※踊りの所要時間は十五分

◎歌詞
♪○アドーコイ
月日の立つのは早いもの もはや花咲く花の節
梅もだんだん花が咲き ウグイシャホケキョと鳴きは始め
霞かからぬ山はなし 桜もさそおと目を覚ます
ソイヤ

○アドーコイ
あの山越えて丘越えて 丘の向こうを眺むれば
向こうのお山で獅子が鳴く なんと鳴くかと尋ぬれば                                                       182
明日はこの山め狩がくる 助けてたもれよお神様
ソイヤ

◎組織(保存会の歴史と構成員)
昭和四十三年までは桑原集落住民か一体となって上富吉地区の行事や地域の十五夜祭りなと、様々な会場で郷土芸能の誇りとして活発に踊られていた。
しかし、それか昭和四十四年から五十七年までは、桑原地域で踊られることはあったか衰退の状況にあった。
そこで、上富吉地区の公民館活動の働きかけや助成で昭和五十八年度、十五年ぶりに以前のように再生復活して、桑原自治公民館を中心に桑原奴踊り保存会(会員百二一名)が組織され、毎年十一月三日の弥五郎どん祭りで奉納されている。

画像 桑原奴踊りの奉納(的野正八幡宮八幡馬場)

◎由来
昔は棒踊りの「あと山」と考えられ、古老の話では棒踊りに続いて踊っており、先祖の霊を慰め田に災いする疫病虫を鎖圧し、水神を祀るために舞われていたと言われている。
「おどいしゃんなら品よくやれ、品のよい娘を嫁にとる。」の唄のとおり、踊り上手も「よかおごじょ」の条件の一つで踊り場は嫁の品定めの場もあったと伝えられている。
「奴踊りと我家ん木戸口を知らんもんはおらん。」と言われるように、この地方における成人への通過儀礼の一つでもあったようである。
この奴踊りを見て都城か生んだ上原元帥か「薩摩体操」と名付けたともいう。

(四)納される「乗平矢旗踊り」の取組と歴史
◎演技者(構成員と名称)
.踊り手(太鼓担ぎ)八名
・本鉦一名
・入鉦二名
・歌四~五名
・旗持若干名

◎衣装
踊り手は頭に蘭笠(いかさ)を被り、手には紫色の手甲を着け、着衣は浴衣姿に白いもも引きで白足袋わらじを履き、胸には太鼓を抱えて打ち嗚らす。

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り行列(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている的野正八幡宮の池之尾神社まで下る。
御旅所で再び神事か執り行われ浦安の舞や神楽舞か奉納された後、午後一時頃から歌と鉦に合わせて踊り手自ら太鼓を両手で叩きながらリズムに合わせて元気よく踊る。     183
この踊りは大・中・小三個の鉦(かね)を打ち鳴らす三人を囲む形で輪になり、腹部に大太鼓、背には三メートル程の矢旗(柄模様の布五枚からなる)を立て、唄と鉦に合わせて太鼓を打ち勇壮に踊る。
激しく踊る様は田に害する稲虫退散、五穀豊穣を祈り地区の総鎮守的野正八幡宮の神々の鎮霊慰送の儀礼である。

◎演技(踊りの振り付け)
○道楽(庭入り前)~入鉦、本鉦、太鼓がリズム良く鳴り響く。

○出端(庭入り・道行き太鼓)~庭入りしながら中入り組(本鉦・唄)を囲む形で太鼓組が円形をつくる。

画像

○打ち切り(挨拶儀礼・庭の神、観客への挨拶)~円形が出来たら、次のリズムを先ず本鉦が奏する。はじめはゆっくりと、次第にだんだん早くなり乱打が終わったら同礼。
本鉦の「ヨー」の合図で入鉦、太鼓も加わって最初のリズムを再度繰り返す。終了と同時に一礼し、全員「サァ」の掛け声で本踊一、二番に移る。

○本踊(一、二番)
※振り一番・・・・・・●右へゆれる ●左へゆれる ●右へゆれる
●左へゆれる ●右へ四歩進んでステップ
●左へ四歩もどる

※振り二番・・・・・・●右足円心へ踏みだし
●五、六、七、八で円心へ進む
●円心へ向かってもう一度繰り返す
●元にもどる四呼間

※振り一番・・・・・・●上記を繰り返す

※振り二番・・・・・・●右足をだまし踏みで右へ四歩進み(一、二、三、四)
●左足から左へまわり外側を向く(五、六、七、八)
●左足から左へまわり外側を向いて円心を向く

※振り一、二番・・・・・・●二拍ずつで大振りで右回り
●左足から左まわりながらはじめの円周上にもどる

○道行き太鼓(円形から次の体型に移る)~
●中入り組(鉦・唄)は、右へ移動する。
●演奏は四回とする。以下も同じ。

○ずえ(添え)~道行き太鼓演奏(隊形作り終了)のあと、本鉦の「サァ」の合図で、太鼓組の演示がはじまる。演示は、次のリズムを三回繰り返して行う。
※振り一番・・・・・・二人組が向き合い、二拍ずつ「のこぎり足」で前進し( 一、二、三、四、五、六、七、八)そのまま歩く。(八呼間)これをもう一度繰り返す(十六呼間)

※振り二番・・・・・・二人組が向き合い(一、二)でかたむき(三、四)で左揆で二回ずつたたき合う。                                   184

※振り三番・・・・・・全員右を向き八歩あるく。前に倒れるように矢旗持ち振る。次の八呼間でうしろ向きのままもとにもどり矢幡を振る。(計十六呼間)

※振り四番・・・・・・八呼間で右に進み八で足をそろえる。同じように左にもどる。(計十六呼間)

※振り五番・・・・・・向かい合ったまま進みお互いの右側を通ってまたもどる。(計十六呼間)

※振り六番・・・・・・二人組で向かい合い揆をたたき合う。(振り二番と同じ動作である)

○道行き太鼓(出端口)~はじめの円形にもどる。演奏は四回とする。中入り組は円心に移動する。

画像

○本踊(三、四番)
※振り三番・・・・・・左揆を水平に持ち右足から右へ進む。(視線を揆の先端に向ける)右揆を水平に持ち左足から左へ進む。

※振り四番・・・・・・円心に外向きに集まった状態で三番の振りを繰り返す。右揆を水平に持ち左足から左へ進む。

※振り三番・・・・・・一、二で右足を右へ出し、三、四で左足を右足の前に出し、左揆を大きく頭上にかざし右揆を後ろに振る。(反対を繰り返す)左の八呼間をもう一度繰り返す。

※振り三、四番・・・・・・右足から右まわりで足をそろえる(四呼間)。左足から左まわり(四呼間)左の八呼間を繰り返し円心に集まる。外向きの輪となる。

画像

○道行き太鼓~出端を奏しながら乱舞の形で円形をこわし、再ぴ円形にもどる。演奏は四回とする。

○本踊(五、六番)
※振り五番・・・・・・右へゆれる 右へゆれる 右へゆれる 左へゆれる 右へゆれる 左へもどる。

※振り六番・・・・・・右足を円心へ踏みだし五、六、七、八で円心に進む。もとにもどる(四呼間)。同じ動作を繰り返す。

※振り五番・・・・・・右へゆれる 右へゆれる 右へゆれる 左へゆれる 右へゆれる 左へもどる。

※振り六番・・・・・・右足をだまし踏みで右へ四歩進む(一、二、三、四)。左足から左へまわり外側を向く(五、六、七、八)。同じ動作をもう一度繰り返して円心を向く。

○道行き太鼓~出端を奏しながら乱舞の形の道行きをする。⑨と同じ演示を行う。中入り組は右法に移動する。                         185

○あとづえ(後添え)~駆け足に近い早さで進みながら、本鉦の「サァ」の合図で太鼓組の円示が始まる。
※振り一番・・・・・・円周上を右へ右足からスキップで八呼間駈けて行き、七で足をそろえ高く飛び上がる。同じくもう一度同じ方向に繰り返す。(十六呼間)

※振り二番・・・・・・逆の方向へ(左の方向)へ「振り一番」の動作を繰り返す。(十六呼間)

※振り三番・・・・・・円心を向き図示の「T字踏み」を行う。
◎一、三、五、七拍で両揆で太鼓をたたく。
◎二回繰り返す。※矢旗か充分に揺れるように激しく動く。(十六呼間)

画像

※振り四番・・・・・・右半分の四人と左半分の四人で小さな円形となる。「振り一番」と同じくスキップで右回りに十六呼間。七、八では同じく足をそろえ高く飛び上がる。(十六呼間)

※振り五番・・・・・・「T字踏み」~「振り三番」を二回繰り返す。(十六呼間)

※振り六番・・・・・・両手の揆を腰の所に水平に持ち、右の方へ体を揺りながら三歩進み四で足をそろえる。同じように左へ繰り返す。(八呼間)これを二回繰り返す。

※振り七番・・・・・・四人組の円心にスキップで集まり、七、八で飛び上がる。反対に広がり九、八で飛び上かる。

※振り八番・・・・・・「振り七番」を繰り返す。一回目の七、八で外側を向き、(飛び上がり)、次の八呼間ではじめの大きな円となり外側を向き止まる。(十六呼間)

※振り九番・・・・・・「T字踏み」~「振り三番」を二回繰り返す。(十六呼間)

※振り十番・・・・・・「かざし打ち」を行う。一、二で両手(揆)をかざし、右揆で左揆をたたき、右足を右に踏みだす。三、四で右足を引き両揆で太鼓をたたく。同じく左を行う。(八呼間)これを二回繰り返す。

○むす(挨拶儀礼・庭の神、観客へのお礼)~入鉦、本鉦、中心リズム、太鼓を四回奏する。二回目の終わり(七、八)で外側ヘ一礼し、四回目の終わり(七、八)で内側に一礼。
ひきつづき、場内に余韻を残すようにゆるやかに左右に揺る。静かに止まる。

○道楽(引き庭) ー三拍子のステップで退く。
※踊りの所要時間は二十分                                                                 186

◎歌詞
♪①耳の悪いときゃ たずねておじゃんせ 穴ほげ石の薬師殿 薬師殿
ハア ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャドン ソレ
ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンドン

②薬師殿でも 治せんもんがござんさァ 好いた二人の恋いやまい 恋いやまい
ハア ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャドン ソレ
ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンドン

③赤田の峠は ヨホーホー 血染めの峠(ヘーイヘイ ヘイヘイ ヘイヘイヘイ)
雨が降っても 雨が降っても また染まる また染まる
ヘーイヘイ ヘイヘイヘイヘイヘイ
ヘーイヘイ ヘイヘイヘイヘイヘイ

④惚れちゃなるまい ヨホーホー 他国の男に(ヘーイヘイ ヘイヘイ ヘイヘイヘイ)
松がうたうは 松がうたうは うらみ節 うらみ節
ハア ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャドン ソレ
ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンドン

⑤おまんさ 見やんしたか 穴ん口の奥にゃ 宿なし六部殿のかくれ穴 かくれ穴
ハア ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャドン ソレ
ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンドン

⑥お礼の米袋 開いてみれば コリャまた 不思議ぞ 小判づめ 小判づめ
ハア ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャドン ソレ
ドンドンヒッキャ ドンドンヒッキャ ドンドンドン

◎組織(保存会の歴史と構成員)
上富吉地区は昭和五十八年度に自治省(現総務省)のコミュニティー推進地区として指定を受け、この年から乗平集落において矢旗踊りの復活の気運が高まってきたが、なにしろ半世紀の間大部分が失われており暗中模索の状態であった。
いつの時代に、どこから、どのような経路をたどってきたものか、またどのように踊られていたものか、皆目見当がつかずただただ、残されている古い旗、足袋、菅笠だけが在りし日の踊りを思い偲ばせていた。
私たちの先祖たちが、勇壮に舞い踊り、矢旗が美しく乱舞していたのを思い浮かべるたびに、永遠に消え去るであろう私共の郷土芸能の美しい姿が惜しまれてならず、また消えゆくのをみすみす見過ごしている身の責任も日々感じていたのである。
このような中、昭和五十九年度に宮崎県から助成があり、上富吉地区自治公民館の役員と乗平集落の熱意で鉦、太鼓、矢旗等の備品が整い体制(組織)か備わった。
ここで、困ったことは歌、鉦、踊り等のむかしの演出の姿であった。
これらの打開策として、上富吉地区役員(特に教養部長)が中心となって地域の古老や青壮年と連携し、演出の指導を山之口町出身で宮崎在住の教師に依頼した。
教師は歌づくりから表現、演出までの指導を誠心誠意御尽力され、踊り手も期待に応える技能を身に付け、五十年ぶりの保存会(会員三十五名)復活に至ったものである。
教師は、私どもか古老から聞き伝えてきた伝説の地に何回となく踏査を重ねられて、詩を書き上げていただいた時の私どもの喜びは、まことに九死に一生を得た思いであった。
曲と詩、振りか復活され、公民館で教師が踊っていただいたのであるか、その振り太鼓の音、鉦の音か改めて私どもの初心を呼び起こし、夢にまで見てきた幻の姿か現実として浮かび上がったのである。
そして、昭和五十九年十一月三日の弥五郎どん祭りの郷士芸能発表では見事に乗平矢旗踊りか奉納され、町内外の参観者から大好評を得た。
平成五年十一月七日には、乗平矢旗踊り復活十周年の祝賀式か町を挙けて盛大に執り行われた。

画像 乗平矢旗踊りの奉納(的野正八幡宮八幡馬場)

◎由来
踊りの起源は明らかでないか五穀豊穣の祈願、お礼として踊っていたと言われる。
昭和十年頃までは奉納していたようだか、若者が徴兵で出兵し途絶えてしまった。
昭和五十九年に復活が話題となるが当時の者は戦死、また地元に残っている高齢者には誰も当時を語る者がいないため、前述したように当町出身の教師に相談し、乗平地区に語られている由来を取り入れて作詞、作曲、振付をお願いした。
旗は子どものころの見覚えのある人から聞き、それぞれ知恵を出し合いながら創作。太鼓は購入、旗布は昔から保存されていた物を使っている。
今では見られない昔の生地で百年以上の物であろうと言われている。
昭和六十年に五十年ぶりにすべて完成、復活して、その後毎年十一月三日の弥五郎どん祭りで奉納している。

(五)奉納される「中原太郎踊り」の取組と歴史
◎演技者(構成員と出場順番)
①カマバレ(鎌払い二人)②鍬(二人)③アンジョ(スロムスコ=長男)④ベブ(牛)⑤ジナンボ(鋤を掛ける次男)⑥テチョ(父親)⑦火ゴテ(煙草に火をつける役)⑧チョンチョコベ(大勢の踊り子)⑨太鼓(一名)⑩拍子木(一名)
以上の順番に登場し、太鼓、拍子木に合わせて歌と踊りで賑やかに披露する。
歌は全員で合唱し、ベブを中心に円陣をつくりながら舞い踊る。ベブはコチ(雄牛)で元気よく飛び跳ねたり走り回ったりして派手をとる。

◎衣装
○テチョはタンゼン(綿入れ)を身にまとい、腰には五十センチほどの煙管(きせる)を下げ、顔全体に白ひけをたくわえ、頭にはバッチョ笠を被り手には笹竹を持ち特大のわら草履を履く。 188

○アンジョは花柄のタスキを掛け、昔ながらの農作業の服装にカタギン(チョッキ)を身につけ〔以下、チョンチョコベ(踊り子)全員同じ服装〕、右手にはヨキ(斧)を持ち、頭には烏帽子を被り、顔一面に白化粧と墨でロヒゲを書き、腰には尻すけを着け、わら草履を履く。

○ジナンボは、アンジョと同じ衣装で右手にヨキを持ち左肩に鋤を担ぐ。

○火ゴテは古い麦わら帽子を被り、六十センチあまりのわら製の火ゴテ(火をつける道具)を手に持つ。

○鍬は古い麦わら帽子を被り、木製の鍬を持つ。

○カマバレは古い麦わら帽子を被り、木製の鎌を手に持つ。

○ベブは本物の牛のように等身大に作られたレプリカを二人使いで操る。

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り行列(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている的野正八幡宮の池之尾神社まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われ浦安の舞や神楽舞が奉納された後、午後二時十五分頃から歌と太鼓、拍子木に合わせてユーモラスに踊る。
農作業中にベプ(牛)が倒れてしまい的野正八幡宮に誓顧したところ、病も良くなり「うれしゅめでたの・・・・・・」を歌い「願成就」の踊りをしながら元気になったベブを引いて退場する素朴な流れであるが、「牛馬は作の神」と言われるように牛を大切にする姿が表現されている。
豊年を祝う農民の素朴で情緒的な踊りであるが「笑い」があり、実りと繁栄に繋がる古くからの祈りの一つでもある。

画像 中原太郎踊りの奉納(的野正八幡宮八幡馬場)

◎演技(踊りの振り付け)
○田に見たてた踊り場をオケサやーコラッ、コラッの掛け声を合図にカマバレ(二人)が鎌を大きく振りかざしながらチョンチョコベの踊り連を先導して登場する。

○チョンチョコベの踊り連の中にいた鍬が大きく振りかざしながら田を耕し始め、田の土手に大きな穴が三つあることをテチョに報告する。

○アンジョが踊りながらをベブ引いて踊り場の中心に向かって進み、その後方にはジナンボが右手に持ったヨキを頭上で振りまわし、左肩には鋤を担ぎ踊りながら続く。

○テチョがジナンボに鋤を掛けるよう指示する。しかし、ベブが急に暴れ出してなかなか鋤を掛けることが出来きず、
やっとの思いで掛けるがうまく鋤くことが出来ず、鋤はテチョに引き渡されテチョ自らが引くか、笹竹でベブを激しく打ったりして過酷に扱うためにベブか耐えきれず病に倒れてしまう。

○病に倒れ死にかけているベブをアンジョが気遣い、テチョに対しベブが元気になるように八幡様(的野正八幡宮)に誓願を上げたらどうかと持ち掛ける。

○テチョはそれは良いことだとアンジョに言い、チョンチョコベ全員に今から八幡様に誓願を上げるから決して私の真似をしてはならないと注意しながら二回続けて誓願を上げる。
しかし、チョンチョコベは言うことを聞かず真似をしながら、ふざけて勢いよくテチョを後ろから押す。
結局、テチョとチョンチョコベは疲れ果ててしまい全員座り込んでしまう。

○休憩しているテチョはたばこを吸いたくなり、煙管を取り出しながら火ゴテにたばこの火を持ってくるよう指示する。
火ゴテはベブの周りをわらで作られた直径二十センチ、長さ六十センチほどの火付け道具を頭上で振りまわし踊りながらテチョに近づき、煙管たばこに火をつける。

○テチョはアンジョにベブの脈をとるように指示する。アンジョは大きな動作でベブの全身を触りながら脈をとり、鼓動がしっかりしていることをテチョに伝える。

○アンジョはテチョに対しベブが元気になるように、今度は八幡様へ誓願の踊りをしてみたらどうかと持ちかける。

○するとテチョはそれは良いことだと賛成し、チョンチョコベ全員に対し曲がって、真っ直ぐ並びなさいと意味不明な指示を出す。
チョンチョコベ全員が立ち上がり、ベブを中心に円陣をつくると太鼓が連打され、歌と太鼓、拍子木に合わせてユーモラスな踊りが二曲続けて踊られる。

画像

○踊りが二曲目になるとベブが元気を取り戻し立ち上がると、皆んなで喜び合いベブの周りを「うれしゅ めでたのー」の歌
※踊りの所要時間二十分

◎歌詞とせりふ
♪○オケサ(娘)やーコラッ コラッ
オケサ働け でねん(来年)の春は
殿上 もたせる よかにせ(美少年)を
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ

○花の松原よ
枝も栄える葉も茂る
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ

○高城 山之口 後家入りしたら
おごけ(桶)ふんくかえ こじゅん がらった
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ

○ここの向ん山めかしつ取らおらんか
まむしゃおらむか あぶのはねーか
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ                                                                      190

○おまいと はっちこや てこしゃんせん(太鼓三味線)かるて
先の難儀は易ござる
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ

○牧のはる通っときゃ だだんこがおらぶ
だだんこがおらぶな しもならぬ
オイソウジャナイナイ ナイノナイノナイナイ
オッオ セガドイ ♪

〔せりふ〕
クワ
(上下に大きく鍬を操りながら)
一節、二節、三節
テチョ テチョ 八幡様ん 下ん田んほん 三斗五升(しゅう)
まきゅ ぺら ぺら とんちゃん ちゃん やったがお

テチョ
えー じゃったかよー

クワ
田んぼん 土手ん 三つ
こしこばっかいの穴が(手で大きさを示す)ほげちょったがおー

テチョ
じゃったかよー そるふてだかよー

クワ
おが足しゅ入れっみたらなー おまいがちがっついじゃったがおー

テチョ
てげなこりにゃ わっどんも 鋤きゅ かけんかよ

ベブ
(ここで急に暴れ出してなかなか鋤を掛けられない)

ジナンボ
(やっとのことで鋤を掛ける)
テチョ テチョ  ベブがあばれっ 鋤の床尻が上がっおいじゃ すきゃならんがおー

テチョ
わっだ まだとんじゃっかねわい おりやっの
(テチョが鋤を取って笹竹の棒を振りかざしながら)
かっじゃまん(梶山)方よ たかじょん(高城)方よ みやこんじょ(都城)方よ

ベブ
(テチョの過酷な扱いに耐えきれず足を曲げて座り込む)

アンジョ
テチョ テチョ

テチョ
よー

アンジョ
(テチョに近寄りながら)
ベブがけ死んだがおー

テチョ
そらどすかわら

アンジョ
テチョ テチョー 八幡さめ誓願の一っどま上げっみたらどげんじゃろかおー                                           191

テチョ
そいも よっぽどよかろう
チョンチョコベー チョンチョコベー よんごひんご
真っ直ぐ並べー
おいが真似を決してすんなねー

チョンチョコベー
(踊り道具をベブに立てかけた後テチョに背を向け全員声を揃えて)せんせん 決してせん

テチョ
(両手を腰に当てなから)おー八幡様 八幡様

チョンチョコベー
全員一同(テチョを後ろから勢いよく押しながら)
おー八幡様 八幡様
(この動作を二回繰り返して牛を中心にして座り込む)

テチョ
(座りながら) おっちゃら負けた(このセリフの後に続いてチョンチョコベーも「おっちゃら負けた」と言いながら座る)
煙草ん火どんもっこんかよー

火ゴテ
(火ゴテを振り回し股に挟んで逆(尻)の方からテチョに差し出しながら)
テチョ テチョ 煙草ん火をもっきたどー

テチョ
わがた尻の方じゃがねー

火ゴテ
テチョはわけとっかい(若いときから))尻の方がすっじゃったがなー
(当たり前に火を差し出す)

テチョ
アンジョ アンジョ ベブン脈っどんとっみらんかよー

アンジョ
(動作を大きくしながら両手で牛の角に触る)
テチョ テチョー おんのせんがめじょんいたとっのごっづくりん づくりんすいが おー
八幡さめ 踊いのひとっどまあげっみたら どげんじゃろかおー

テチョ
(座ったまま)
そいもよっぽどよかろー
チョンチョコベー チョンチョコベー よんごひんご並ベー
(チョンチョコベー全員が立ち上がり唄を歌いながら踊る)
あすはかんとに よこべいさっ
いけっえの どんがめの あらまたくるべい
これやれさて ずぼんぼえ ワッハッハッハー
(二回繰り返す)

アンジョ
テチョ テチョー まあ一っどま上げっみたら どげんじゃろかおー

テチョ
ま一っどま上げっみらんかよー
(再びチョンチョコベー全員が歌を唄いながら踊る)                                                     192
田んほの中には お寺があるやら
耳のないこづどんが 出たり 引っ込んだり するわいな
よんべも さんべも やったげなー ワッハッハッハー
(二回繰り返す)
〔この歌の半はでテチョが立ち上がる。一方、元気を取り戻したベブがもずもずしながら起きあがると全員で喜び合い踊りながら帰って行く。〕
〔チョンチョコベー全員か踊り用具をそれぞれ手に持つ〕

♪うれしゅ めでたのー 若松さまよー
枝も栄える 葉も茂る
オイソジャ ナイナイ
ナイノ ナイノ ナイナイ
オッオ セガドイ ♪
〔最後に元気になったベブをアンジョが引きなから退場する。〕

◎組織(保存会の歴史と構成員)
昭和十年頃まで地域の人たちで踊られていたが、半世紀余り途絶えていた。
昭和五十七年に保存会を結成し、経験者(古老)七~八名からの指導を受け、中原自治公民館挙けての支援を受けながらその復興に努力を重ねてきた。
保存会員(八十名)は中原自治公民館全戸が加入し、弥五郎どん祭りの奉納はもとより地域の十五夜祭りや都城市の郷土芸能文化祭りなど機会あるごとに披露している。

◎由来
この踊りは古くから「ベブ踊り」と呼ばれ、『三国名勝図会〔天保十四年(一八四三)〕』に「的野正八幡宮は和銅三年(七一〇) に勧請し二月初卯の日祭あり、(中略)この日には田鍬初の謂われをして牛の形を造り墾田の状をなし」と記されており相当昔から踊られている。
なお、地区を上けて行う豊作祈願の踊りであり、春祭りに的野正八幡宮に奉納して牛馬の無病息災・農耕の安全・五穀農穣を祈願し、地区住民の安全息災と繁栄を願った大事な農耕行事である。
歌と踊りは昔の農村の一家族による日頃の農耕予祝行事の様子を舞踏化したものである。

(六)奉納される「下富吉地区そば切り踊り」の取組と歴史
◎演技者(構成員)
①そば打ち係(二名)②三味線(三名)③太鼓(一名)④拍子木(一名)⑤客「そばを食べる役」(四名)

◎衣装
踊り手は初めに顔全体を白く薄化粧し、頬紅を付け□元にも紅をさす。装束は白足袋を履き、下は赤の腰巻き、上は女性のかすりの着物を腰までつぶり上げて半巾帯を締める。
赤のタスキで袖をつぶる。腰には赤の前垂れ、頭は手ぬぐいを姉さんかぶりにする。
男性が化粧し、女装して演じるのはそば切り踊りの特徴の一つである。

◎道具
●〔演じる前に舞台に置く道具〕                                                            193
①はがま ②なべ ③丸おけ ④そば切り包丁 ⑤火おこし(火吹き竹) ⑥ヒシャク ⑦水切り網 ⑧延ばし棒 ⑨薪 ⑩座布団 ⑪お膳 ⑫どんぶり(出来上がったそはの入った物)
⑬割り箸(五人分) ⑭サシ(タンゴの担ぎ棒) ⑮ショケ(ザル) ⑯敷き(客受け用ゴザ) ⑰ケジャクシ(おたま) ⑱醤油瓶(一升瓶) ⑲のぼり旗(二本) ⑳かきまぜ棒

●〔舞台右袖に置く道具〕
①銭棚(そば打ちに使うまな板用②そば粉入り袋) ③水タンゴ(三樽)と担ぎ棒 ④薪 ⑤ショケ(ザル) ⑥ゴザ(客が座る敷物)

◎演技の大要
十一月三日の例大祭当日は午前十時三十分に的野正八幡宮に集合し、神事を終えた後、午前十一時四十分に浜殿下り行列(御神幸行列)を先導する弥五郎どんの後に続き、御手洗池に祀られている的野正八幡宮の分社(池之尾神社)まで下る。
御旅所で再び神事が執り行われ浦安の舞や神楽舞か奉納された後、午後二時十五分頃から三味線と太鼓、拍子木に合わせて観客を巻き込みながら、「そはを打つ動作」をユーモラスに踊る。

画像 下富吉地区そば切り踊りの奉納(的野正八幡宮八幡馬場)

◎演技(踊りの振り付け)
〔そばを打つ演技者二人をA男、B男とし、客係(そば食べ役)四名をC女、D女、E女、F女と表現する。
演技者全員のセリフはアドリブ方言(都城弁)で、手振り身振りは面白おかしく表現し笑いを誘いながら踊る。〕
三味線と太鼓による演奏か始まり幕が開くと、A男は銭棚を両手で上に上げ曲に合わせ左右に振りながら進む。
この時の足の運びは一の二の三トン・一の二の三トン(トンは足先で床をたたくタイミングと動作)と早足で歩きながら舞台の中央からそば打ちの道具が置いてある奥へ進み、次に前に出て歩きなから簡単な挨拶をし、舞台を一周してそは打ちの準備に取りかかる。
B男はA男の後方約二メートルからそば袋を肩に担ぎ、体を左右に振り(歩き方はA男と同じ動作)ながら舞台の中央で挨拶をし、舞台を一周しながら「そは粉を持ってきた。」と、言ってそば袋をA男に渡す。
次にB男は「水を持ってくる。」とA男に告げたあと、舞台右袖に置いてある水タンゴを取りに行き、水タンゴニ樽を担ぎ棒で担いで舞台中央に備えてある「なベ・はがま」のところへ運び、なベ・はがまに水タンゴの水をヒシャクで入れるしぐさをする。
次にB男はA男に「薪を持ってくる。」と告げ、舞台右袖に置いてある薪を肩に担いで舞台中央にトコトン・トコトンとリズムに合わせて運び、「火吹き竹」で火をおこし薪を燃やすしぐさをする。
次にB男はA男に「ショケ(ざる)を持ってくる。」と告げ、舞台右袖に置いてあるショケを両手で頭上に持ち上げ、左右横に振りながら舞台中央にいるA男に手渡す。
次にB男は鍋のふたを開け「ケジャクシ(おたま)」でかきまぜ、味かげんを見ながら、「少し味が薄いと言い」ながら、醤油一升瓶を持ち直接なべに入れ、ケジャクシでかき混ぜるしぐさをし、再び味かげんを見る。
今度は、最高のだし汁が出来たことをA男に告げながら、A男の口元に出し汁の入ったケジャクシを持って行き味見をさせる。
するとA男は最高の出来であることをしぐさでBに告げる。
次にB男は舞台右袖に置いてあるゴザを取りに行き、担いで踊りながら舞台を一周したあと、右側に敷きゴザに座ってそばが出来上がるのを待つ。
一方、A男は丸おけに袋から取り出したそば粉を入れ、水タンゴの水をヒシャクで汲み丸おけに入れ、かき混ぜ、銭棚の上でそは粉を練り、延はし棒で仕上げるしぐさを大きい動作でする。
次に包丁でそばを切り(大きい動作)、かきまぜ棒でかき混ぜながら釜でゆでる。そはが湯であがると試しに食べてみる。
良く出来上がったことを確認すると水切り網で釜からそばをすくい上げ「ショケ(ザル)」に入れながら、「そばが出来上がったので客を呼んで来なさい。」とB男に告げる。
ばが出来上がるのを楽しみに待っていたB男は早速立ち上がり、舞台の下に降りて観客に「そばが出来上がったので、食べる人は居ないか」尋ねながら探し回る。
あらかじめ待C女に試食をお願いすると、C女は喜んで「ご馳走になります」と言い、踊りながら(踊りはそれぞれ自己流) 舞台の左側から上かり、舞台の前を右に進み靴を脱いでゴザに座る。
次にD女、E女、F女、B男の順番に同様に踊りながら舞台に上がりゴザに座る。(座る位置は演技の都合上C女は一番右側に、B男は一番左側に座る。)

画像

次に、A男は客が全員ゴザに座ったことを確認したら、あらかじめ用意してあったそば入りお椀をお膳にのせ、挨拶しながら客全員のひざ元に配る。
客は配られたそばを肩を揺らしながら楽しく美味しそうに食べ始める。(C 女はお代わりしたり、B男はそばがのどに詰まったりとハプニングをアトリブで演技する。)
そばを客全員が食べ終わると、B男は客に「後片付けをしてくれないか。」と頼むと、客は「ご馳走になったのだから片付けぐらいはしますよ。」と言いながら立ち上がる。
後片付けは、初めにB男がそぱ打ち道具(なべや釜など)を一品ずつ持ち運びだすと、A男が銭棚を頭上で左右に振りなから舞台を一周し楽屋へ帰る。
続いてD女が適当に踊りながら舞台を一周し、左袖楽屋へ退場する。続いてE女、F女、C女の順にD女と同様に楽屋へ退場する。
最後に、B男は一番軽いケジャクシ(おたま)を持って踊りなから、「お客さんには重い物を持たせ、私は軽い物を持つんですよ。」と言いながら舞台を一周し楽屋へ退場する。
ここで三味線の演奏が終わり幕が閉まる。
※踊りの所要時間十五分

◎組織(保存会の歴史と構成員)                                                                   195
昔から踊られていたが一時期途絶えてしまい、昭和五十六年九月十五日の下富吉地区体育館落成式の折に保存会(三百六十九世帯)が復活し、現在では弥五郎どん祭りを初め都城盆地祭り、山之口商工会祭りなど機会あるごとに披露している。

◎由来と特徴
この踊りは、起源は明らかでないが下富吉地区のみに古くから伝承されている貴重な伝統芸能である。この地域では昔から「そば」が沢山作られ祝い事には必ず「そば切り」を食べていた。
この踊りの特徴は男性の踊り手二名か一組となって化粧を施し、赤い腰巻きに紺の衣装で女装し、実際にそはを打つときのしぐさを表現する。
踊りは祝い事や観音講に踊られていた女の踊りで、旦那様が化粧をしていつも育児や家事、野良仕事などと多忙な母親や妻の苦労をねぎらって、そは切りの料理で接待するという役割逆転の一日の行事そのものを、面白おかしく叩興で演じる。

四 弥五郎どんを通じた子ども交流会(弥五郎サミット)
十数年前から弥五郎どん祭り会場に隣接する富吉小学校の児童と鹿児島県曽於市大隅町の子弥五郎塾生は、毎年、会場を交互にして子どもたちによる文化交流に取り組んでいる。
山之口町では弥五郎どんの館と富吉小学校を会場に、曽於市大隅町では弥五郎の里を会場にして、それぞれの地域性や特長を生かした交流活動を続けている。
数年前には大隅町の弥五郎どん祭りの前夜祭において、富吉小学校男子児童の棒踊り、女子児童の俵踊りか招待され、同町の文化会館において数千人の観衆の前で伸び伸びと練習の成果を披露した。

画像 弥五郎サミットによる子とも交流会(鹿児島県曽於市大隅町弥五郎どん伝説の里)

〈参考文献〉
宗教法人「生長の家」総本山平成十九年二月七日
山之口町史編さん委員会『山之口町史』山之口町 平成十七年十二月二十日
「Mモーション」(ふるさとのまつり紀行) JA宮崎経済連 平成十五年十一月一日
三股町民俗芸能誌編さん委員会『三股の民俗芸能』三股町 平成三年十二月一日
『三国名勝図会』第四巻 青潮社 昭和五十七年八月一日                                                         196

第六章 日南市田ノ上八幡神社の弥五郎さま祭り
第一節 日南市の地勢
宮崎県の南部に位置する。東は日向灘に面し、南は南那珂郡南郷町、
南西は男鈴山(七八三・四メートル)を境に串間市、西は牛の峠(九一八メートル)を境に都城市、北西は北諸県郡三股町、北は小松山(九八八・八メートル)を境に南那珂郡北郷町、また市域北部の鵜戸地区で宮崎市に接する。
明治以前東川とよはれた広渡川は北郷町から南下して市内に入り、東郷地区を経て梅ヶ浜で日向灘に流れ込む。
一方、西部の酒谷の赤石を水源とする酒谷川(明治以前西川といった)か旧飫肥城下を経て油津港の北、梅ヶ浜から約ニキロほど上流の地で広渡川に合流する。
海岸沿いに国道ニ二〇号が縦断し、同道から西へ分岐する国道ニニニ号はおおむね酒谷川に沿って市域を横断し、都城市に至る。また、JR日南線が通り、海岸部は日南海岸国定公園に指定される。
市名は日向国の南部の意で「日南安国之新居」(島隠漁唱)、「日南油浦之梅浜」(日下一木集)など、文芸「漢詩」の世界では中世以来、当地一体を日南と称していた。

〔『宮崎県の地名』日南の項(日本歴史地名大系46) 平凡社刊による〕

第二節 日南市弥五郎さまの歴史的背景
一 田ノ上八幡神社と弥五郎さま祭り
日南市立飫肥中学校の東、字十文字に位置する。
江戸時代には飫肥城城郭の東部にあった。彦火火出見命・神功皇后・応神天皇・天児屋根命・経津主命・武甕槌命・万幡比畔命・田心比畔命・天押雲命ほか七柱を祀り、旧村社。
『日向地誌』は祭神を彦火火出見命・豊玉姫・応神天皇の三柱とする。初めは田ノ上八幡と称して楠原の八幡原に社殿を創建したが、諸事不便であったため三年後の天永元年(一一一〇)
に現在地に移転、延徳二年(一四九〇) 島津忠広が父の崇敬していた当社を再興したと伝える。
天文二二年(一五五三)消失したが、同二四年に忠広の養嫡子忠親が社壇を造営するなど、飫肥城主豊州島津家から代々崇敬されていたという『日州神社考』。
江戸時代にも飫肥藩主伊東氏歴代から尊崇され、領内聘社四座の一に数えられていた。(日向地誌)
元和元年(一六一五)・慶安元年(一六四八)・元禄元年(一六八八)と藩主による修築造営が行われ、正徳四年(一七一四)頃の飫肥藩人給帳によると、江戸時代の社禄は寛文三年(一六六三)の竿増七斗九升二合を合わせて五四石八斗、うち三六石一斗は地方、残りは物成。
明治五年(一八七二)板敷神社と改称し、飫肥城下今町の広木田大明神、十文字加茂馬場の加茂大明神、板敷村飛ヶ峯の春日大明神、同村中島田の紅大明神、同村願成就寺原の大将軍を合祀、明治二四年現社名となった『宮崎神社誌』。
当社神主の高山信濃弘孝は、享和元年(一八〇一) に一一代藩主伊東祐民が学問所を造り教授四人を任命したときの一人であった『日南地誌』。
境内にはかつて西隣にあった金剛院の開山朝遍の逆修塔(永禄一〇年一〇月建立)か残る。
江戸時代の例祭は一〇月二五日、当日は流鏑馬神事が行われ、藩主の桟敷が田ノ上八幡下の八幡馬場川崎氏屋敷の往来側に造られたという(日向簗記)。
現在は流鏑馬は行われなくなったが、大人弥五郎の偶人形が練歩く神賑行事(県指定無形民俗文化財)が続けられている。                            197
竹籠を編んだ弥五郎人形は身の丈七メートル余り。白衣の上に紫色の素襖、赤袴をつけ、烏帽子をかぶり、長さ五訳ほどの太刀を携え、槍を持つ。
人々は鳥居前に立つ人形の股を年の数だけくぐり、厄を祓う。
この行事は社伝によれば大隅国桑原郡の稲津(あるいは稲積ともいわれる)弥五郎という者が、同国正八幡(現鹿児鳥県隼人町鹿児島神宮)の身体を背負ってきて楠原に祭祀したのがその由緒であるといい、稲津弥五郎は修験者であったとも伝える。
また、弥五郎は三兄弟という説があり、山之口町円野神社の円野弥五郎か長男、次男が鹿児島県大隅町岩川八幡神社の岩川弥五郎、そして三男が当社の田ノ上弥五郎という。
〔『宮崎県の地名』田ノ上八幡神社の項(日本歴史地名大系46) 平凡社刊による〕
『日向地誌』によると彦火々出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。
大隅国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その他の一宮正八幡の身体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年庚寅十月二十五日創建すると伝える。
島津氏か飫肥を領した時代にも大いに崇敬したが、伊東氏の飫肥初藩主伊東佑兵(報恩公)が楠原八幡原にあったのを現在地に遍座したものといわれる。(天正十六年、「日南市史」による)
伊東氏が領主となってからも、領内尊社四座の一つとして社禄五十四石八斗を寄付し、尊崇が篤かった。
明治四年、寄付禄も廃止されたが、同五年鳶か峯西麓の春日大明神、今町の北にあった広木田大明神、加茂東隅の加茂大明神、中島田麓の紅大明神、顧成就寺原の北の大将軍の五座を合祀し、板敷神社となった。(中略)
明治二十四年に、再び田ノ上八幡神社と改称され、同四十年二月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。
明治五年までの十月二十五日の例祭には、流鏑馬二頭が祭りを盛り上げ、長人弥五郎の偶人形が町内を練り歩いた。
流鏑馬はいつしかすたれたが、竹籠を編んだ一丈半以上の巨人の人形か衣袴を付け、長刀を帯び、右手に長鎗をつかせ四輪車で子供たちが引く弥五郎の新賑行事は、町の電線に触れるなどで中絶されたこともあるか、いまなお続けられている。
この弥五郎は、鹿児島県の岩川八幡などで同様な行事か行われている。
『日向地誌』は「弥五郎は、稲積弥五郎の縁故なり」といい、寛政年間の薩摩の白尾国柱の著書で、武内宿祢とか、川上梟師をかたどったものとかの言い伝えがあることを紹介、みな八幡神社の神興渡御の先駆をしている点から武内宿祢を擬したものではないかとしている。
〔『宮崎県神社誌』田上八幡神社の項宮崎県神社庁刊による〕                                                       198

画像 日南市田ノ上八幡神社周辺

第三節 弥五郎さま祭りの現況
一 日南市板敷の弥五郎さま祭り(浜下り)の形態
田ノ上八幡神社は、日南市板敷に鎮座、「弥五郎さま」の出座は十一月二十三日。
社伝によれば大隅国正八幡の神体を背負ってきて祭祀したのがそもそもの由緒であるという。
一説には、稲積弥五郎は修験山伏であったとも伝えられている。同社は飫肥藩初代藩主伊東佑兵が鬼門の守護として、旧地楠原から現在地に移したという。
明治五年(一八七二)までの秋の例大祭には、流鏑馬と弥五郎渡御か祭りを盛りあげた。

画像 田ノ上八幡神社の鳥居前で勇壮に立ちはだかる弥五郎さまと獅子舞の奉納

「弥五郎さま」が別格の稲津という姓を与えれているのは地名との関連もあろうが、豊作をもたらす作神的性格をもつからでもあろう。
もともと八幡信仰の普及の核には、八幡神の利生を説くことのため、荒ぶる神や偉容の神々を登場させる必要があったのであろう。
身の長七メートル余り、白衣の上に紫色の素襖、赤袴をはき烏帽子をかぶり、長さ五訳ほどの太刀を侃き槍をもつ。
神事のあとの「浜下り」は午前九時から、やはり子どもの組にひかれて「弥五郎さま」は七十討ほど動く。
架線に邪魔されるので、本体をかたどった小型化の弥五郎さまが車で巡行する。
神幸の順路は一年ごとに変えるが、大人弥五郎さまは社殿下の鳥居前に終日立つ。人々は、年の数ほど股をくぐりして厄を祓う。
〔『宮崎県史』弥五郎祭りの項(資料編民俗2) 宮崎県刊による〕

画像 年の数ほど弥五郎さまの股をくぐる参拝者(田ノ上八幡神社)(日南市教育委員会生涯学習課提供)

田ノ上八幡神社の例祭(弥五郎さま祭り)は、板敷地区の氏子たちが主体になり毎年十一月二十三日に執り行われこれまで途絶えたことがなく、また、祭りの運営費も氏子自らの会費で賄っている。
以前の御神幸行列(浜下り)は、身の丈約七メートル、横幅約四メートルもある「弥五郎さま」を先頭に、総勢約百二十人の行列が六キロメートルの道のりを練り歩いた。
弥五郎さまは、朱面を被り、白いひげをたれ右手には長槍、左腰には太刀を差している。この例祭には、近郷近在から多くの人々かつめかけ、終日賑わったという。

画像 田ノ上八幡神社の境内で執り行われる剣道大会

しかし、現在の道路事情では弥五郎さまを引くことができず、例祭日は田ノ上八幡神社の境内に飾られて、多くの人々の崇拝を受け、境内では剣道大会と四半的大会が執り行われている。
最近、総代会の中に昔のように弥五郎さまを御神幸行列に加えたい、という意向もあると聞く。
例祭の前日は、神社総代長や宮司、氏子など関係者二十名が参加する「宵宮祭」が午後七時頃から神殿で執り行われる。                             199
宵宮祭は、神事から始まり拝殿正面の境内地に於いて神楽舞三番と二頭の獅子による舞を奉納する。獅子舞は戦前から舞われていると言う。
宵宮祭が終わると氏子など社人十数名により竹製の弥五郎さまの組立か翌朝の午前二時頃まで続く。(田ノ上八幡神社総代表松野重太郎氏よりの「聞き書き」による)
例祭当日は、午前八時に各地区の神社総代と氏子たちが集合し、午前九時から本祭りが始まる。このころになると、神殿には赤飯が供えられる。
午前十時になると神社鳥居前で勇壮に構える弥五郎さま(巨人人形が天狗面を付け、長刀を帯び、右手には長槍をついている。)の前で、一対の獅子舞か一回奉納する。
この儀式が終わると板敷地区飫肥小学校の児童約三十名が引く弥五郎さまを先頭に、雄雌二対の獅子舞、氏子の子どもか務める稚児十名、御神旗、弓矢、太鼓、神輿か連なる御神幸行列(浜下り)一行約五十メートルが市内を練り歩く。

画像 児童が弥五郎さまを引いて日南市内を練り歩く浜下り(日南市教育委員会生涯学習課提供)

順路の十字路にはしめ縄か張ってあり、十字路の真ん中で獅子舞二頭が清め祓い、家内安全や無病息災を祈顧して舞い始める。
また、祝儀をいただいた商店や新築の家の玄関先の庭先でも舞う。
途中で待ち受ける子どもやお年寄りたちは、獅子に頭をかんでもらう。(厄払いになるとか、頭が良くなるからという人もいる)
このほかに獅子舞は二頭おり別行動で氏子の家を回り厄払いをする。

画像 家内安全や無病息災を祈願して頭をかむ獅子舞(日南市内)(日南市教育委員会生涯学習課提供)

子供たちはお菓子をもらい、大人たちは神輿を公民館内に移す儀式の後、酒肴をいただく。
御神幸行列は今町公民館で休憩する。さらに山手の方に回り、下板敷研修センターで昼食を取る。神輿、獅子頭を正面に据えて修祓を行い昼食をとる。
この時の弁当の数が黒板に記してあったので、次に記す。

荒平地区十四・寺の尾十五・富上原十ニ・御仮谷十 ・中八重十三・刈星十七・観音八の計八十九、うち子ども三十六名(調査時)                        200

画像 〔御神幸の行列図〕

一時間ほど休憩した後、残りの板敷や集落内を巡回する。
御神幸行列か市内を練り歩くと全世帯のほとんどか沿道で出迎えるか、特に上板敷、下板敷の地域住民の参観者か多い。参観人の中には、家内安全、無病息災を祈願して御幣をもらいに来る人も多くいる。
市内各地区約六キロをまわり終えて田ノ上八幡神社に帰ってくるのは午後三時頃になる。
帰ってきた二頭の獅子舞は、神社鳥居前に据えてある弥五郎さまの前で子どもたちの頭をかみながら、健やかな成長、厄払い、無病息災を祈願したあと獅子舞を奉納する。
本祭りか終わると社人や氏子たちは、社務所に於いて直会に移り、お酒を酌み交わしながら祭り前夜からの疲れをほぐし、世間話をしながら夜遅くまで賑わう。
〔『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県民俗芸能緊急調査報告書)宮崎県教育委員会刊による〕
旧薩時代の妖肥の神社で祭礼の行われたのは八幡神社(十文字)、稲荷神社(吾田) 、春日神社(飛ヶ峰)、八幡神社(中島田)の四つの神社でした。
例祭日には一対の獅子舞が露払いに出て「ハマクダリ(御輿渡御)」があり、氏子はもちろん多くの供人があって沿道には御輿を拝し獅子舞を見る奉迎の人で大変にぎわいました。
とくに八幡神社の伝説の山車「弥五郎さま」が供奉し多くの子どもたちがこれを曳いて町内を練り歩きました。

画像 日南市内を巡行する弥五郎さま(日南市教育委員会生涯学習課提供)

むかしの弥五郎さまは、身の丈が屋根の高さ位もあって威風堂々と、あたりを圧し、人々はみな、これを礼拝しおさい銭の雨を降らしたものでした。
また、当日は「流鏑馬」が盛んに行われ、名射手が馬にのり、駈けなから的を射る風習かありました。別に「神馬」と名づけて、一頭の良馬を曳いて参拝するのか例でした。
六十五石以上の士族は皆一頭の馬を飼うことに定めていましたので、例年順番で神馬として一頭ずつ出していました。
現在は、四つの宮といえは「田ノ上八幡、愛宕、稲荷、山宮(或いは田ノ上八幡、愛宕、五百腰、山宮)」となっている。
「ハマクダリ」と獅子舞は続いていますが、流鏑馬と神馬の参拝は見られません。
〔『日南市史』(祭礼の項)日南市役所刊による〕

◎田ノ上八幡神社の祭神
○彦火火出見命
○神功天皇
○応神天皇

◎弥五郎様の御神体
○本体 高さ七メートル、横幅一・八五メートル
○面 長さ〇・七五メートル、幅〇・六五メートル
○台車 長さ一・七メートル、幅二・五メートル
○刀 長さ五メートル
○槍 長さ六・八メートル
○白衣 丈二・五メートル、肩幅二・一メートル
○素襖 丈二メートル、肩幅二・五メートル(紫色)
○袴 二・八メートル(赤)
○烏帽子 横幅一・七メートル、高さ一メートル                                                          201

◎ 伝承
弥五郎様の股を年の数ほど潜り抜けると病気や怪我をしないとの言い伝えかある。また、板敷富土原地区には、弥五郎様かこしかけた岩とか手形などの伝承かある。
「弥五郎さま祭り」の資料より

日南市飫肥田ノ上八幡の弥五郎さん祭りは、大東亜戦争中と戦後暫く中断されていたか、やがて復活して行われている。
日向地誌によると
「長人弥五郎トテ、長一丈有余ノ偶人二衣袴ヲ着セ、長刀ヲ帯ビ、右手二長槍ヲ杖ニッカシメ、之ヲ四輪車二載セ、群童二挽カシメテ街上ヲ巡ス、極メテ古俗ナリ、
然レトモ明治六年以来ハ、祭日モ一定セズ、流鏑馬モ廃、ソタリ唯偶人弥五郎ハ旧二例レリ。弥五郎ハ稲積弥五郎ノ縁故ナリト云伝フ」
とある。
大偶桑原郡の稲積弥五郎というものが国分八幡の神霊を背負って来て祀っている。
的野八幡の場合は田の神と結ひ、人形造りにし裏山に神送りしている。桑原郡といえば今の姶良郡に大方含まれる地域である。(以下略)
〔『南九州文化』(第30号)(日南市妖肥の田ノ上八幡の弥五郎さん祭りの項)南九州文化研究会刊による〕

二 宵宮祭の演目・芸態
宵宮祭の神楽は、ホシャ舞、おしで・鬼神の三番か舞われ、その後に獅子舞(藤舞)が行われる。
芸態は次のとおりである。
(一)ホシャ舞~二人舞、懐中烏帽子に紫の素襖を着用。鈴と日の丸の扇を持つ。鈴は白い房のついたもの。扇は舞の後半に開く。直面の舞としては動きの大きい方であろう。

(二)おしで(御幣)~二人舞。毛頭を冠り、桃色の素襖を着用。左手に白の御幣二本を持ち右手に鈴を持つ。これも大きな動きの舞でけるような独特の足さばきがある。

(三)鬼神~白い植毛の鬼神面を着用。白の腰幣―一本を差し千草と大口袴のいわゆる鬼神装束を着用。黒毛の毛頭に冠と米良神楽ではツマトリと呼ばれるものを頭につけ、鬼神棒をとる。
鬼神棒は棒全体を色紙で巻いてあり、両端と真ん中に、色紙の一房をつけてある。この棒は縁起物として見物人が持ち帰る。
また、この棒に御札をつけたものを、春の神楽祭で厄除けとして販売している。片足を出してペったりと座り込む所作かあるか、激しい舞である。

(四)子舞~神楽三番奉納の後に舞われている。獅子は雌雄一体で各二人立ち計四名で舞われる。奏楽は神楽の時と同じメンバーが行うか、秋祭りでは獅子舞と神楽舞手は別。
向かい合ったとき高く獅子頭を持ち上げ、花頭をつき合わせるのが藤舞の特徴という。上下の動きか激しい。
獅子の舞手は、裁着袴に白の上下、頭に社紋(対鳩)入りの紫の鉢巻を着用。白足袋にワラジ履き。

画像 田ノ上八幡神社の境内で奉納する獅子舞(日南市教育委員会生涯学習課提供)

田ノ上八幡神社の獅子は、あまり芸態が変化せずに伝わってきたといわれ、勇壮にして男性的な舞である。他には吉野方の山宮神社、東郷の大宮神社か藤舞を伝えているという。
雌雄の獅子か対称形に同じ舞を舞う。                                                              202
はじめに頭を左右に振り、次に上下動しながらカパッカパッとかむ。この時独特な足さばきがある。
向かい合いながら、カパッカパッと繰り返しながら一区切り舞うと、舞手が顔を出してから前後を入れ替わり、それまで後脚側だった人か頭を持つ。
なお、この後側の人は最初から顔を出していて、獅子の尾をつかんで胴体が持ち上がっているように見せる。
舞っていないときは手を頭の後ろに組んで歩く。どちらか一人は獅子頭を頭の上にのせて歩く。
この獅子頭の使い方は、左手で支えつり上けて少し引き込みながらかむ。慣れていないと二度かみ(顎かカパカパゆれてしまうこと)になるため。
きちんと一回でかめるようになるまでには、指(特に薬指)がこすれてしまうので、常にテーピングをしているとのことである。
〔『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県の民俗芸能緊急調査報告書)宮崎県教育委員会刊による〕

画像 大きな口を開け子どもたちの健やかな成長を祈る獅子舞(田ノ上八幡神社)

三 祭りに関わる設備・道具(神楽・獅子舞)
獅子舞は二組あり緑(雄)と朱色(雌)のものと、緑と白の頭で昭和五十六年に造られたものである。
重さ七~七・五キログラムぐらいの木製で、代々の獅子頭を複製したもので、一組の獅子にかかる費用は六十三万円ぐらいという。
神楽と獅子舞の両方に使われる囃子の楽器は、太鼓・笛.どびょうし(同拍子)である。太鼓は枠付きの大型の締め太鼓で、神幸の時には丸太を通して二人で担ぐ。
右側のみたたき・枠打ちも神楽の時に使うという。
銅は杉の木で樽(合わせ胴)型。皮は昔は馬製だったか今は牛皮を使っている。志布志(鹿児島県)に製作者がいるという。
外径七十センチメートル、胴径五十センチメートル、胴長五十二センチメートル。梓はカジの木(製紙材料)の皮をはいだものを用いる。長さ四十四センチメートル・径二センチメートルのまっすぐなもの。
笛は手作りの横笛(竹良氏か作る)で、シノメ竹をゆかいて乾かしたものを用いる。頚部に鉛を入れ指孔等は最初ナイフで穴を明け、ペーパーで磨くという。
磨きながら音を合わせていくか、十本に一本ぐらいの割合で鳴らないものができてしまうという。三日で一本作る。
釣り竿に巻くナイロン糸を孔と孔との間に巻く。全長三十九センチメートル、顔から吹口まで八センチメートル。
吹口から第一孔まで十三センチメートル、各孔の間隔は一・八から二センチメートルで六孔の横笛である。小さい方の笛で径一・六一センチメートルあったか、もう少し大きい方が良いという。
銅拍子は真ちゅう製のシンバル様なもので、外径十八センチメートル・内径十・五センチメートル。普段は右手ですり合わせるそうだか、獅子が舞う時の大きくかむ動作の時は両手で上下に大きく打ち鳴らす。
なお、神楽と獅子の笛は調子か違うという。
〔『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県の民俗芸能緊急調査報告書)宮崎県教育委員会刊による〕

四 神楽の歌詞「ママ」
獅子舞には歌詞はないので、秋の大祭の宵祭りの神楽の歌のみを記す。
(昭和二十七年度中尾金光記『神楽歌・句・舞式より』)
(一)一番舞
①きしおらうに己ゑもなをそう神かぐら
あか月がたの榊葉の聲
②抑神風伊盤之国百船度郡改内外虚伸乃鎮利玉布地登氏民而四季の祭禮怠らず垂仁雄略乃古より今の世に至る迄一人より下万人の神威を貴ぶと云古又無亦と可哉           203
③何哉哉ヨウ-日向なる朝倉山に
④よ越さむミとる榊葉におし霜は
白ゆふ花と人や見るらん
⑤抑人皇――十二代の御代に天照大神の御告により丹州真名井原より勢州山田の原に移し鎮め奉り瑣々杵尊を東の相殿とし天兒屋根命太玉命を西の相殿として御同殿にましまし豊受大明神と申奉る今の外宮之也
⑥哉哉ヨーヨーちとや山神代のませる

(二)鬼神
①あ可ほしゃのまいもそでのは風にはなひかぬ神も阿らしとぞおもう
②ゆう可げてほう屋しろの神可ぐら
な越阿さくらのおもしろきな

四 組織
獅子舞の保存会は、現在十八~ニ十名いるがメンバーか流動的であるので、名簿は作っていない。
神楽も獅子もほとんどの人か成人してから自発的に保存会に入会し習っている。
獅子舞は割合覚え易いらしいが、神楽の笛などは一人前になるまで二十五年くらいかかるといい、なかなか伝承が難しいらしい。
秋祭りの祭、笛役の竹良由光氏(六十歳)と太鼓の谷口忠平氏(七十六歳)は、荒木末八氏から伝習を受けたという。
また、神楽の神歌の後に「ひき歌」があったそうだか今は歌っていない。
なお、神楽はまず舞を覚えることから始めるそうで、ホシャメンやオシデなど、舞の型が全部入っているものから習い覚え、鬼神→すもう舞→地割などに進むという。
なお、御神幸に参加しているお稚児さんは、各集落から二名ずつ選ぶとのことで板敷と今町は五・六歳の子、大きくても七歳ぐらいまでの子供を選ぶという。
(本来なら七・五・ 三歳だが、小さいと親かついていても大変なので大抵七歳前後の子が選ばれる。)
五色の旗を持つのが子供たちで、小学校四年生以上で各地区からの希望者かなる。
〔『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県の民俗芸能緊急調査報告書)宮崎県教育委員会刊による〕

〔参考文献〕
『宮崎県の地名』(日本歴史地名体系 第四巻)平凡社 平成九年十一月十二日
『宮崎県神社誌』宮崎県神社庁 昭和六十三年九月三十日
『宮崎県史』(資料編 民俗2) 宮崎県 平成四年三月三十一日
『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県民俗芸能緊急凋査報告書)宮崎県教育委員会 平成六年三月三十一日
『日南市史』日南市役所昭和五十三年一月三十日
『南九州文化』(第30号)南九州文化研究会 昭和六十二年一月二十六日                                            204

第七章 鹿児島県曽於市大隅岩川八幡神社の弥五郎どん祭り
第一節 弥五郎どん祭りの歴史的背景
「弥五郎どん祭り」についての資料としては、寛政七年(一七九五)の『麑藩名勝考』が古く、次いで天保十四年(一八四三)の『三国名勝図会』、明治四年(一八七一)の『薩隅日地理纂考』、昭和十年(一九三五)の『神社誌』(ただし、緒言によれば、明和五~六年〈一七六八~六九)、鹿児島稲荷神社祠官本田親監が編輯筆写を主とし、『鹿児島神社考』と『薩隅日神社考』から補足、とあるので、これが資料として一番古いのかもしれない)などがある。
そこで、昭和十年『神社誌』から始めることにする。

一 昭和十年『神社誌』から
江戸時代には、岩川郷は存在せず(明治二年から)、曽於郡五十町村(末吉郷の中)であり、社名は「八旗八幡宮」となっている。
正確な読み方はわからないが、次に「八幡八幡」とあるので、「やはたはちまん宮」と読むのであろう。祠官は黒岩石見、大宮司は黒岩平右衛門、祭神は岩清水に同じ(応神天皇・神功皇后・比売神)とある。
祭祀は二月中卯、御供十七膳・神酒一双・押餅・山芋・柿・トコロ。
十月四日~五日、祭礼御供十七膳・神酒一双。祭司は暖(年寄)。祭米六斗は伊勢兵部殿から毎年出米。
伊勢兵部(少輔、貞昌元亀元年(一五七〇)~寛永十八年(一六四一))は慶長時代に名か見える本藩の家老である。
伊勢兵部の父が大隅出身だった関係から出米したのだろうか。神社勧請については、万寿二年(一〇二五)岩崎氏が勧請した。
古老の伝えでは、山川石清水八幡宮を岩崎・黒岩両家が正璽(神爾か?)・本地(仏)を負い下った。中古乱逆の時、強盗が神戸を破り本地・正鉢・宝器等悉く倫(ぬす)み取り、十二年後、当社の別当快宥ら三名で観化(勧化=寄付を募ること)を集め、延宝二年(一六七四)申寅の年(申でなく、甲の間違い)、上京、岩清水に参詣、京都で如来を彫刻し、正鉢四面を守り下り、開眼供養して崇め奉った。
このことは棟札にも記し置く、とある。当社の神事に「大人弥五郎」という強勢の首人(「ヒトコノカミ」と読んでいる)がいる。
その長さ(タケ)四尋(約六メートル)、車に乗せて川辺に出て、祭の式かある。
熊襲の裔孫である。委しくは敷根の剣大明神神社記に詳しい。弥五郎は帯・刀長さ九尺五寸(約二メートル八七センチ)、脇差長さ七尺五寸(約二メートル二二センチ)とある。
神社の創建、万寿二年はよく知られているが、勧請した神が、「山川石清水八幡宮」という、神宮である。
二度目の延宝二年(一六七四)、京都の岩清水八幡宮から「如来」と「正鉢を四面」を持ってきているが、「正肱四面」が弥五郎につなかる面であろうか。
しかし「正鉢」は、「懸け仏」のことであろうから、弥五郎と結びつけるのはよくないかもしれない。
弥五郎のことを「大人弥五郎」で首人( ヒトコノカミ)だ、と説明している。「ヒトコノカミ」は「ひとごのかみ」で、「上代における一群の人の長。首魁」と広辞苑にある。
ただし、『神社誌』では「武内宿弥」はまったく出てこない。「武内宿弥」は祭神であるからであろう。
熊襲の裔孫とあるが、これを信頼する根拠が、剣神社の社記のようだ。                                          205
剣神社は、曽於郡敷根郷(牧之原と福山への分岐点から一〇〇メートルほど行った海岸側)で惣鎮守韓国宇豆峯神社を勧請して、剣大明神とした。
熊襲退治の話がそのままあり、その後、熊襲の裔孫に「大人弥五郎」と言って強勢の首人(ヒトコノカミ)がいて、国民を悩ますので、鎮西八郎為朝が退治し、はらばらに切って埋め、霊神とする、となっている。

『神社誌下』P六四六原文
隅州曽於郡五十町村
八簱八幡宮 薩城ヨリ十六里 祠官 黒岩 石見
祭神 岩清水ニ同 大宮司 同姓 平右衛門
神躰
祭祀二月中卯御供十七膳神酒一双押餅山芋柿トコロ十月四日同
五日祭礼御供十七膳神酒一双司曖
一 祭米六斗伊勢兵部殿ヨリ毎年出米右神社ハ万寿二年岩崎氏勧請古老博日嘗社ハ山川石清水八幡宮ヲ万寿二年ニ勧請岩崎氏黒岩氏ノ両家正闊井本地負下干時中古乱逆ノ時
強盗ノ族神戸ヲ破本地正鉢宝器等悉楡取其後十二年嘗社ノ別嘗快宥三ヶ名観化ヲ集延宝二年申寅之年上京岩清水ニ参詣由意ヲ聞博至京師如来刻彫御正鉢四面守下開眼供養シテ奉崇云〃此事棟礼ニモ記置也

一 當社之神事ニ大人弥五郎トテ強勢ノ首人アリ其長四尋車ニ乗テ川辺ニ出テ祭ノ式アリ熊襲ノ裔孫ナリ委クハ敷根ノ剣大明神社記ニ詳也
弥五郎帯刀長九尺五寸脇差長七尺五寸

一 御殿四敷三間小板葺南向
上屋六敷四間 高二丈四尺 茅葺

一 舞殿四敷三間 茅葺

一 拝殿四敷三間 拝檀有 茅葺 天井有

一 随神社 二尺五寸方 小板葺

一 御供所四敷三間 茅葺

一 鳥居木高二丈三尺 向拝迫十八間階四十五

一 社地平地四方山寄竪横百間

以上の記述を見ると、昭和時代の記録とは明らかに違う。緒言でいうように、明和五~六年だと思ってよいのではなかろうか。

二 寛政七年『麑藩名勝考』から
『名勝考』では、八幡八幡宮末吉郷岩川といふにあり、とあり、「八簱八幡」ではない。十月五日の浜下りのとき、大竹籠を編んで大人の立像を作り、大人弥五郎殿という。
身の丈は一丈六尺七寸、胴回り九尺。顔面に「冠」を載せ、木綿十三反に梅染めの単衣を着せ、大小の刀、大きな巾着、手に矛を持って、村中を引く。
村人は「武内宿弥」と伝えている。案ずるに、大人弥五郎は隼人記によると、火闘降命の子孫である、とある。
明和五、六年から二五、六年経っているか、今回は「武内宿弥」が出てくる。大人弥五郎は「火闌降命」の子孫だという。
「火闌降命」は火照命で、記紀では隼人の祖となっているので、弥五郎を隼人の出自に結びつけたのだろう。                                 206
弥五郎どん人形の高さか一丈六尺七寸と、丈六に少し余りかあるか、これが『三国名勝図会』では一丈六尺(丈六)となり、この頃から、「大人弥五郎」と「武内宿弥」説は定着しているようだ。
つまり寛政の初めごろか、天明終わりごろ(一七八七~一七九二)の調査の報告の集大成か寛政七年『麑藩名勝考』となるので、「大人弥五郎」と「武内宿弥」説も、寛政初期には、弥五郎どん祭りに関心か高まり、考え方も定型化されてきたのであろう。
『麑藩名勝考』以後の著作である『三国名勝図会』や『薩隅日地理纂考』は、『麑藩名勝考』と似ていて、新しい知見を加える。
『薩隅日地理纂考』では、「天文年中、肝付氏再興セシトイフ棟札二天文四年檀越藤原重忠、富地頭伴兼豊造立トアリ」とあるが、これは神社の再興棟礼であって、弥五郎どんとは関係ない。『神社誌』では「車に乗せて川辺に出て、祭の式」がある。『麑藩名勝考』で「村中を引く」。
『三国名勝図会』では、弥五郎どんを「四輪車の上に立つ」とあるのでより具体的になり、「四輪車」に乗って、引いていることがわかる。
弥五郎どん人形については、『神社誌』では、大人弥五郎といい、高さ四尋(約六メートル) 、腰の刀は、九尺五寸(約二メートル八七センチ)と七尺五寸(約二メートル二七センチ)となっている。
『麑藩名勝考』では、大人弥五郎殿といい、大竹籠を編んだ立像で、高さ一丈六尺七寸(約四メートル八七センチ)、胴回り九尺(二メートル七三センチ)て、頭に冠を載せ、梅染め木綿十三反の単衣を着ている、と具体的である。だが、「冠」がどういうものかは、はっきりわからない。『三国名勝図会』では、大人の形を造って先払いとする。
高さ一丈六尺(約四メートル八五センチ)、梅染め単衣、刀大小である。
『大隅町誌』P62では、「南九州の放生会の時の八幡神の祭りの先払いとなったのが、隼人族長弥五郎どんであった」としているので、弥五郎は隼人族の首長という解釈である。
祭日については、『神社誌』では、十月四~五日に川辺に出て祭の式がある。『麑藩名勝考』では、十月五日、浜下りの時であり、『三国名勝図会』では、祭祀十月五日、鳥居から一町(約一〇九メートル)ばかり離れた所に浜下りの式がある、とほぼ同じ内容が書かれている。
現在地に遷宮する前、元八幡にあった時のことで、一〇〇メートルほど離れた川の二股の所へ浜下りしていた。
元八幡宮は小高い丘にあり(現在は住宅かある) 、そこを下って川辺まで大人人形を車に乗せて浜下りした。
ここは二つの川の合わさる場所なので、洪水が出た場合に不便だ、ということで、大正三年九月一日、現在地へ移った。

『麑藩名勝考』p124原文
○八幡八幡 末吉郷岩川といふにあり、此祭に、十月五日濱下の時、大竹籠を編て大人の立像を作り、大人弥五郎殿と称す、其長一丈六尺七寸、園九尺也、頭面に冠を着せ、木綿拾三反ニ而梅染の軍衣を製着す、又太刀大小を偏し、大なる荷包を提け、手に矛を持てる像にて、村中を晩行く、里俗武内宿弥と申博ふといふ、按に、大人弥五郎ハ隼人記に掠れハ、火闌降命の子孫なり、

大分県宇佐八幡宮での放生会は中野幡能『宇佐八幡宮放生会と法蓮』p12には「養老三年(七一九)大隅・日向の隼人等か叛乱したので、八幡神が(大隅・日向まで)出かけて降伏させよう」と神輿を造り、やって来て、仏法で隼人をこらしめた。
「海の精霊は龍頭となり、地上には獅子・狛犬となり、虚空から鷁(注、ゲキ=あおさぎ=水難よけとして、その形を船首の飾りに用いる〈広辞苑〉)となって神力を表したので隼人は驚き、・・・・・・降伏・・・・・・大神か帰宮してみると、隼人か蟹・蛯(にな=巻貝)・蛤(はまぐり)になっているので、神亀元年(七二四)放生会の託宣があり、二十一年後の天平十六年(七四四)和間浜・・・・・・神前にこぎ出し隼人の生類」の「蜷」を「放つ」ことか、下敷きとして入ってきているはずなので、弥五郎は当然隼人である、との認識はあったはずである。    207
それが、先払いならば、猿田彦の赤い鼻高面だけでよさそうだが、それか人形に変わるのは、大人弥五郎どん伝説が大隅・日向に広まっていたからであろう。

『三国名勝図会第三巻』p414原文(一九九二年、青潮社刊)
八幡宮地頭館より午の方、二里餘、中島村にあり、萬壽二年、城州岩清水八幡宮を、隅州岩川
岩川は、富邑馬場村・菅牟田村・飯田村・梶ヶ野村・土成村・田尻村・中島村・有持村の飽名なり、俗に馬場・菅牟田・飯田の三村を併て、五十町村と称じ、梶ヶ野・土成・田尻の三村を併て、中之山村と称じ、中烏・有持の二村を併て岩崎村と称す、へ勧請せしに、其後兵亂の時、當社の寶品等を賊徒に奪はれて、衰廢せしを、天文四年、檀越藤原重忠、當地頭伴兼豊、造立せるの棟札あり、祭祀十月五日、其日華表より一町許距れる慮に、濱下の式あり、大人の形を造て先彿とす、身の長け一丈六尺、梅染箪衣を著て、刀大小を楓ひ、四輪車の上に立つ、此人形は、土人個へて、大人彌五郎といひ、又武内宿禰なりといふ、

三 祭りの特色
昭和十年『神社誌』に、その長さ(タケ)四尋(約六メートル) 、車に乗せて川辺に出て、祭の式がある。
弥五郎は帯・刀長さ九尺五寸(約二メートル八七センチ)、脇差長さ七尺五寸(約二メートル二二センチ)とあるので、古くから、身の丈六メートル、刀の長さ二メートル八七センチと二メートル二二センチを腰に差した、現代に近い弥五郎どんで、車に乗せている。
ただ、身長が高すぎる。そして、川辺で祭式かある。
川辺とは、菱田川と前川の合流点で、旧浜下りの場所である。

画像 小字 元八幡に旧八幡神社はあった。(右奥の家の所)

画像 元八幡の時代の浜下りの場所(前川と菱田川の合流点)

これらから考えると、明和五~六年(一七六八~六九)より前の時代から現代に近い弥五郎どん祭りを行っていたようだ。
寛政七年(一七九五)の『麑藩名勝考』では「八幡八幡宮」と社名がわずか変わる。
「八簱八幡」ではない。                                                             208

画像 元八幡時代の浜下りの場所の説明柱

十月五日の浜下りのとき、大竹籠を編んで大人の立像を作り、大人弥五郎殿という、と弥五郎どんの作り方で、「竹籠を編んでいる」とくわしくなる。
「身の丈が一丈六尺七寸」は現在の一丈六尺(四メートル八五センチ)より七寸高く、五メートル六センチの高さになる、「胴回り九尺(二メートル七三センチ)」は現在の方か三メートル六〇センチほどと約一メートル大きくなっている。
「木綿十三反に梅染の単衣を着せ」は、現在二十五反使っているので、約半分であるから、ひょっとして、「単衣を着せ」は現在の袴を除いて、浴衣だけの着流しではなかったろうか。
現在の着物の寸法は丈三メートル一〇センチある。首の長さが八八センチあるので、着物を着ただけでは、足元は見え、つんつるてんである。
元は足元まで隠すぐらいの長さがあったであろう。山之口や飫肥の弥五郎が着流しであることから考えると、袴は後に着けられたのではなかろうか。
「大小の刀、大きな巾着、手に矛」は現在とほぼ同じで、「巾着(きんちゃく)」が現在では煙草入れや印籠に変わっている。
「村中を引く」はたった一〇〇ほどで、元八幡から一〇メートルほど下って、川っぷちを通るので、村中とは言いがたい。
その川べりに家並みがあったとしても、村中とは言いがたい。
その川べりに家並みがあったとしても、村中とは考えられないが、浜下りをした後、元のコースを帰らず、別道から村中を通ったのだろう。
明和五、六年から二十五、六年経っている時点で、変化しているのは、社名が「八簱八幡宮」から「八幡八幡宮」と読みは同じようだが、文字が変わった。
弥五郎どんの高さが一メートルほど低くなったことである。
寛政七年から約五十年の後の天保十四年(一八四三)の『三国名勝図会』では、祭りは十月五日と固定していて、「華表(鳥居)」から一町(一〇九メートル)離れた所に浜下りをし、大人の形を作り、「先払い」とする。身長一丈六尺、梅染めの単衣に刀大小・「四輪車」の上に立つ、とある。
「先払い」であること、くわしくなったのは、浜下りの場所が鳥居から一町、弥五郎どんは四輪車に乗せていることである。

第二節 弥五郎どん祭りの民俗的背景
一 祭りと民俗の時代的な背景
(一)弥五郎の先払い説
『三国名勝図会』に、弥五郎どんは「先払い」であるという記述がある。また、それを引き継いだ明治四年(一八七一)の『薩隅日地理纂考』も同じく「先払い」と書いている。
これは村田煕が言うように「先払いとして出るという以上、八幡神の伴神であることはいうまでもない」(『村田煕選集一』「弥五郎どん祭り」p二七四)と解釈した方がよいであろう。
村田の根拠は、国分地方の
「大人弥五郎が日本武尊に征伐された隼人の酋長であり、その霊かたたるので、国分八幡では八月十五日に放生会を行い、霊を慰めた」
「上井の韓国宇豆峯神社の社記(注剣神社記と同じ)に、大人弥五郎は日本武尊に討たれた川上果師の子孫で鎮西八郎為朝にうたれた。その時弥五郎の扁、四肢を切って国分の郷中所々に埋め霊神と守護した。」
「弥五郎という名が中世的で、しかも御霊信仰にもとづくものとすれば、むしろ、こちらの伝説が時代的には符号するようである。」
「国分市重久にある止上神社の縁起によると、一説として、元正天皇の時代、豊後守宇努首男というものが、神軍をひきいて、この地に来り、土地の八幡神を祈って、隼人を討伐したということが書いてある。
この話は古い時代から朝廷では八幡神の神威をかりて、南九州の統一を行っていたということを物語るとともに、この地に早くから八幡信仰が及んでいたということを示していると思う。
こうして、八幡神は隼人征伐を契機として国家権力と結びつきながら、地方土着の神を伴神化していったのであるが、まもなく討伐された隼人の霊を慰めるために放生会が行われるようになると、いろいろな形で伴神が祭礼の祭りに主要な役割を演ずるようになってくるのは当然のことである。たとえば、国分八幡にゆかりのある止上神社の記録を見ると、慶長のころまで行われていたという行事に『王の神幸』というものがあったということである。これも隼人の霊を慰めるためのものらしく、この時には『王の面』が行列の先に出ることになっていたということである。『王の面』が何を示すのか、はっきりわからないが、おそらく、それは隼人のシンボルでなかったかと私は思っている。次に、恒吉の投谷八幡は国分八幡の分社であるが、この社の正祭は八月十五日となっている。そして、この日に浜下りといって、神王面が出るということは、さきに見た止上神社の『王の神幸』と同じものであることはいうまでもない。」
「(略)以上の諸例を比較してみると、『王の神幸』が弥五郎どんの古形であり、大人形をつくって、それに面をかぶせ、大人弥五郎を具象化するようになったのは新しい変化であったということがわかる。」
「神面だけが出るというのは八月十五日を祭日とする神社で、大人形をつくって曳くのは、九月、十月、十一月の『ホゼ』祭系統の神社に限られているようである。」と述べている。
「『王の神幸』が弥五郎どんの古形だ」という村田説は説得力がある。
「大人形をつくって、それに面をかぶせ、大人弥五郎を具象化するようになったのは新しい変化であった」と想像すれば、人形弥五郎は伴神で「先払い」になっている、というのであろう
村田が重要視した止上神社のご神幸行列には面があるか、現在では先頭ではなく、二番手になっている。
先頭には、長刀持ちがいて、道の辻々に来ると長刀を振り回して、悪霊を切り伏せている。面は次の軽トラックに結んでいる。
これが「王の面」であったかは不明である。『国分郷土誌下』p五四四には、「神王面は三十九面」あって、古い銘は「永和二年(一三七八)」とある。
神幸祭の面は「六つ」あり、「一の王白色、二の王子赤色、三の王子白色、四の王子赤色、五の王子黒色、六の王子黄色」と白・赤・黒・黄色の四色の面があり、一面ずつ馬に乗って巡幸したらしい。
六つとも鼻高面である。
現在は三・四・五の面が残っており、長さは二二~二三・五センチ。幅一七~二〇センチど弥五郎の面からすれば、かなり小さい。写真で見ると四の面は天狗のように鼻が突き出ている。
七センチほどであろうか。三は鉤鼻、五は七センチほど突き出ているが先が二つに分かれているようだ。
解説に「隼人族の御霊がたたりをおこすので、これを鎮めるために行われたのが『王の御幸』である。
この祭りではこの神王面が巡幸することにより、悪霊を封じこめるのであるから、この面には御霊鎮めの霊力があると信じられていたようである。                  210
この祭りは、慶長のころに途絶えてしまったと止上神社に残っている『神書』に記録されているが、県内には、止上神社の王の祭りを防彿させる祭り(鹿屋市田崎神社の神王渡御祭り・大根占町旗山神社のシバ祭り・大隅町投谷八幡神社の王子御神幸など)か今も残っており、『王の御幸』の大体の様子は想像できる。」とあり、だいたい村田説を裏付ける解説である。ただ、慶長時代に途絶えた理由はわからない。
平成十八年十月十五日にあった投谷八幡の御神幸祭での王子面は現在では神様のように、布で隠されている。十本の矛の棒に結び付けられていて、十人の持ち手はどの家の人が持つか決まっている。
一~六王子には六つの門の家が持つので、門の神、ウッガンサアのような感じさえ持つ。そして、見せてくれない。
サービス精神のある人が一つの面、一つの鏡を見せてくれたが、面は持ち手の顔より一回り大きいぐらい。岩川弥五郎どんの面からすれば小さ過ぎる。
共通点は、角の先や中ほどに、兜巾のような形が付いていることである。
面や鏡・鈴を隠す布は古くなり、汚れてくると、はずして枕カバーなどに使った、という。それで、あざやかな布が垂れ下がっている。
この御神幸祭が大人(巨人)弥五郎に変化する過程は想像できなかった。巨人弥五郎伝説と結びつけば、大偶像となり得るであろうか。

(二)大人弥五郎は火蘭降命の子孫、熊襲の裔孫、武内宿禰説
「土地の人はこれを武内宿禰だといっているが、普通には大人弥五郎といっていたということは『地理纂考』にも見えているから、この人形は大人弥五郎なるものの姿をかたどったものと見てよいと思う」(村田説)
とあるので、「大人弥五郎」説に立っている。
『薩隅日地理纂考』より三十年ほど古い『三国名勝図会』、それより五十年ほと前の『麑藩名勝考』、おそらくもっと古い『神社誌』にも同じ記述があるのだから、明和五~六(一七六八~六九)の江戸時代中期から「大人弥五郎」という言い方があったのであろう。
『神社誌』には「大人弥五郎」を「熊襲の裔孫なり」としているが『麑藩名勝考』では「武内宿禰」と「火闌降命の子孫」の両説を出し、『三国名勝図会』からは「武内宿禰」説にしぼられてくる。
大隅・薩摩・日向には広く大人(巨人)伝説があり、弥五郎伝説は大隅・日向地帯、国分という小さな範囲には隼人が討たれた伝説、また熊襲伝説か濃厚であるが、弥五郎伝説は大隅・日向地帯の中から選び出された巨人イメージであろう。
しかも、気安く、親しまれたものであったろう。最終的に大人弥五郎だけが土地の人々の口に上ることになったのだろう。
それは祭りの巨人弥五郎どん祭りからのイメージであろう。
江戸中期から「大人弥五郎」は定着しているのだから、当然といえば当然で、「武内宿禰」や「火闌降命の子孫」は後々の縁起を立派に見せようとするもの、家系図をそれぞれ貴人に結び付けているのと同じではないかと思われる。
「火闌降命の子孫」の火闌降命は火照命のことであり、記紀では火照命は隼人の祖となっているから、火蘭降命の子孫としたのであろう。
ここでは隼人を強調している。地元では、隼人族の弥太郎・弥五郎・弥次郎三兄弟の一人だともいう。であれば、弥五郎は隼人とのつながりを強く意識していることになる。
「熊襲の裔孫」では日本武尊に討たれた熊襲だが、川上梟帥(たける)か隼人の後の言い方と見たのであろうか。                                211
日本武尊が強調されている感じである。
「武内宿禰」は祭神になっており、伝承上の人物で、巨人と結びつく何かがあったからであろう。
弥五郎どん人形ができる背景には、宇佐八幡宮の「隼人族への御霊鎮めの放生会」を取り入れ、巨人弥五郎伝説かからんで、先払いか巨大人形の弥五郎どんと変化したのだろう。
薩隅日の巨人伝説や巨人隼人伝説・日向地帯の弥五郎伝説をもう一度調査し直してみる必要もあるのではなかろうか。濃厚な地域が発祥地かもしれない。
分布かわかると、日向地帯に弥五郎どんか何故三か所あるのかが推測できるかもしれない。
いったい、一番先に、弥五郎どん人形を作ったのはどこであろう。山之口町か岩川か飫肥かがわかるかもしれない。

二 祭りを支える地域社会(鹿児島県の三大祭りの一つ)
鹿児島県の三大祭りとして、旧隼人町鹿児島神宮の初午祭りに旧志布志町宝満寺のお釈迦祭り、そして、岩川の弥五郎祭りである。
しかし、これは大隅半島のものであって、薩摩半島側では、三大行事として、妙円寺詣り・曽我どんの傘焼き・赤穂義土輪読会となる。
三大祭りになったのは、当然、弥五郎どんの巨大さと弥五郎どんという地域住民にはよく知られ、親しみやすい名称からであろう。そして、地域住民が守り育てたものであろう。
祭りを行うときの中堅になるのは、どこでも同じだが、青年である。青年を指導する大人かいる。昔流に言えば、三才とかオセと言われる人々である。
カ仕事は主に青年が受け持つ。胴や腕の組み合わせ、台車への取り付けなど。
細かい物や出来上かりを点検する、会計の仕事は大人の仕事となる。婦人は、衣装の縫い合わせや接待である。
衣装は四年に一度、閏年(オリンピックの年)に作りかえる。使った後の古い布切れは、大人や子供たちのハッピにする。
これを着ると弥五郎どんにあやかって健康で長寿を保つとか、子供は弥五郎どんのように大きく育つとかいう。                                  212
また、八幡神社のお守りの中に小さく切って入れたり、十迂角のものを妊婦の岩田帯に縫い付けたりする。
二十五反の布は、現在は呉服店の京屋さん(宮田氏)の寄贈に頼っている(昭和二十七年から寄贈、平成十六年度で十四回)。
布幅はふとんと同じ大幅である。それを、着物と大人と子供用ハッピは馬場集落、袴と台車を隠す布などは東馬場集落と分担して馬場公民館で縫う。
次回の四年後は着物と袴を反対にして受け持つ。糸・針・お荼菓子代はすべて神社側から出す。
年によって違うか、九月半ばから十月初めに着物の奉納をするまて、約一か月かかる。公民館で毎夜八~十一時ごろまで縫い上け、仕上げはミシン縫いである。
初め着物地(布地)の祓いを公民館で始め、「型紙」に従って断ち切り線をつけ、裁断をする。
布地お祓いから裁断まで一~二週間かかる、など、それぞれが役割を分担している。一回縫い上けてから、三年間は洗濯もせず長持ちのような大きな箱に入れて八幡神社に納めておく。

画像 衣服の作図や写真をまとめて

第三節 弥五郎どん祭りの現況
一 弥五郎どんの本体
弥五郎どんの本体は岩川でも竹籠で作られているのは他の所と同じである。
竹で作るのは、時代が古けれは古いほど、自分たちで簡単に作れたからであろう。現在でも竹籠を使っているか、岩川では四年置きである。
ただし現在では、自動車の車体を改良した鉄骨台車で出来上かっており、台車の上に立つ胴体や首から頭、腕・手などが竹ヘギで作られている。
ただし、胴体の中には鉄骨が入っている。                                                                 213
竹籠は、現在はバラ職人(竹細工職人)に頼む。
だんだん自分たちで作れなくなったので、初めは町内の職人、隣町の末吉町などと遠くなり、現在は十数キロ離れた福山町の職人に頼んでいる。
唐竹二十五本、孟宗竹一本を使い、九月上旬から始め、完成には一週間以上かかる。
六つ目の籠は、岩川が細かく、次か山之口、飫肥の篭か最も目か粗い。
材料が竹の場合は、数年置きに作り変えないといけない。乾燥すると痛みやすいからである。
それで現在は四年おきになっている。
商人の祭りでは、大きな山車は分解して収蔵庫に置き、祭りの直前に組み立てられるように木材を使っている。
弥五郎どんの場合は、農民の祭りのように、竹ヘギで人形を作らなければならない。
南九州の場合は、材料の竹が農富であり、簡単に手に入るからであり、経費もかからない、そして、簡単に人形の胴体を作れるからである、
南九州の作り物は、ほとんど竹が材料となっている。
祇園祭だけが商人の祭りで、木材を使い、分解・組み立てを行っているが、旧市来町七夕踊の鹿・虎・牛・鶴にしても竹を使い、一部を木材で補強している。
ちなみに、鹿児島県内での祇園祭は四か所であるが、幕末文化・文政時代から始まっている。
岩川でも古い時代では、毎年竹ヘギで作り、祭りが済めば、神社の裏山に捨て置いたのであろう。
村田煕は妖肥の稲積弥五郎どんの「稲積」から、田の神信仰とつなかりで、山に捨てるのではなく、山に帰す、つまり、山の神が春山を下り田の神となり、秋に任務を終えた田の神が、後、山の上へ帰るために(山の神となるために)、山へ置いたのであろうと、推察している。
だが、現在の岩川弥五郎どんでは、山の神だということは確かめられないので、祭りが済んだ後の処理のしかたが山に捨てたと見てよいのかもしれない。
現在は焼却処分である。                                                                         214
現在の弥五郎どんは、自動車改良の台車に、胴を支える鉄骨(肩の部分には丸い輪状の金網がある、それで人間一人が肩の上に乗ることができる) 、胴体鉄骨は台車部分とビスで取り付けるようになっているので、胴体部分は切り離して、台車の上に置き、収蔵庫の中に置かれている。
左右の腕は竹籠状であるが、手に当たる部分はヘギ十数本で、これを袖に通すのがむずかしい。
組み立てるには、台車に、胴体鉄骨をビスで固定し(鉄骨の周りには竹籠か付いている) 、竹籠の胸の脇へ腕を固定し、着物を着せる。
まず、右腕を右袖に通し、左腕のヘギを曲げて袖の中へ入れて、左袖に通す。先端を伸ばすには袖の幅が広くないと、曲げた手先を外に出せない。                  215
また、引き出すとき、撥ねて人を傷つけないように丁寧に外へ出す。
それから、着物の前で交差し、紐で結び、右と左の袖の中へ隠す。そこには鉾が来るので、最後には鉾と結びつける。
腰には約二十反の木綿の帯を二時間ばかりかけて巻き、大小の刀、煙草入れ(トンコツ)や印籠などを下げる。

画像 弥五郎どんの人形の竹からの成り立ち写真や作図まとめて

以前は、町を通るときには、肩の上に乗った青年かじゃまな電線を切り、九電の係は通り過ぎてからつないでゆく、ということをしていたが、現在は国道の鉄橋が途中にあり、電線を切るような具合にはいかないので、弥五郎どんと人一人を乗せたまま、後ろ斜めに倒してくぐってゆく。
それが、一つの見せ場になっている。
この仕掛けは、台車の前後にロープがついていて、弥五郎どんの胴の真ん中に結び、台車の外にいる係がハンドルを回すと、斜め後ろに倒れ、逆回しすると、直立する、というものである。
ちなみに台車の前には、自動車と同じようなハンドルがあって、左右に曲がるときは、運転手がハンドルを自動車のように回してカーブするようになっているし、ブレーキもあり、かなり現代的な弥五郎どんの台車である。子供たちが引くとスムーズに動くようになっている。
鉄骨か入っているので、かなりの重労働である。それで、青年が中心になって組み立て・解体をしなければならない力仕事である。
だが、だんだん青年の数が少なくなっていて、祭りの運営に影響か出てきている。以前は青年団だったか、現在は商工観光課の青年が主体である。
ブレーキは最初、神社から下る急坂八〇メートルほどを下るときなどに使用する。
神社の急斜面を下るときが最大の難所で、しかも三三メートル下った門主神の所で、九十度近く曲がらないといけない。
コンクリートの坂は上部二メートル二六センチ、下部ニメートル三四センチで、台車のタイヤ幅いっぱい。
弥五郎どんは固定したまま下ってゆく。だか、前かがみになっているようには見えない。威厳があって、結構姿がよい。

二 祭りの実際
岩川弥五郎どん祭りの特徴は、「弥五郎どん起こし」があることだ。
古くは、旧十月五日に行っていたが、いつのころからか月遅れの十一月五日に行ってきた。
昭和四十年後半ごろから十一月三日の文化の日に行うようになった。
稲刈りが済んで、ほっと一息ついた時期で、素朴な雰囲気があったが、平成に入ってから華やかになってきた。

画像 現在の岩川八幡神社、正面

十一月三日の日程
午前一時、神職一人が簡単な神事をして、触れ役か「ふれ太鼓」をたたき「弥五郎どんが起きっどー」と触れて回る。以前は午前二時からだった。
青年三人ずつ二組に分かれて「起こし太鼓」を打つ(二人か太鼓を担ぎ、一人がたたく。平成十八年では、四人一組か小中学生の一群を従えて「弥五郎どんが起きっど」とつけて叫ぶ)。
弥五郎どんを早く見たい人は、これを聞いて起き出し、神社に集まってくる。祭りの関係者は前夜から神社に詰めている。
巨大な弥五郎どんか横倒しになっているのを直立させるので、「起きる」と言っているのだろうが、弥五郎どんか眠っていたのを「起こす」とも、もっとうがった見方をすれは、弥五郎どんだけでなく、「隼人の御霊神を呼び起こしている」ともとれる。                  216
「起こし太鼓」が一時四十分ごろ帰ってくると社殿でもっと簡単な神事を始める。
この時、氏子(神社役員や氏子)と弥五郎どんを組み立てる人たちがお祓いを受ける。(十八年度では、組み立てる二十数名だけ)
午前二時過ぎ、竹籠の胴体は十月二十七日に拝殿内に運び込んでいる。おそらく、痛んでいるところの点検や補修のためであろう。
以下、平成十八年度の経過である。
衣装入れ箱(高さ一メートルほど、幅一メートル二十センチほど)の上に肩の部分を乗せ、腕の取り付けのために長さ五メートル・直径十センチほどの竹を左肩から肩の部分に押し込んで、右肩に突き出すことから始まる。
その前に、青年が一人、下の方から胴体にもぐりこみ、懐中電灯を頼りに、竹を通し、針金(番線と言っている)で固定する。
同時進行で、顔の部分にサラシを巻き始める。ゆっくり注意深く、丁寧に巻いてゆく。均等に緻がでないように。
十数枚巻いたとき、カマボコ型の二本を面の横に当たるように置いて、その上をまたサラシで巻いてゆく。
十八枚巻いて、面を乗せるために、神職二人が本殿から大事そうに面を出してくる。
すぐ面を乗せられるように頭上に机を二つ寄せて、その上に面を置く。初めて面をサラシの上に当ててみる。
そして、青年の指導者に、これでよいか尋ねると、もっとサラシを巻けという。本来なら宮仕(ミヤダチ)という指導者の指示によるはずだが、現在は青年たちだけで組み立ててゆく。
台車はいつ倉庫から引き出したのかはわからなかったが、本体ができる頃には、いつの間にか拝殿前に出されていた。
鉄骨入りの竹籠本体を取り付けるのは危険を伴う重労働である。
現在は、投光器の光があるとはいえ、周りは暗闇である。鉄骨のない竹籠時代では、籍火であったのであろうか。                                 217

画像 色々まとめて

現在は拝殿内で、人形の竹籠を仰向けにして、まず、灰色の下着を着せ、上着の梅染め色(今は化学染料)を着せる。
青年一人が竹籠の中に、股の隙間から潜り込んで、腕の取り付けや、頭の鳥・尾の固定を内側からする。
頭の部分は八八センチの長さがあり、手が届きにくいので、片手で、勘でしなければならない。
指導する人を「ミヤダチ(宮仕、宮達か宮立ちか)」といい、昔はその指導で青年が組立てていた。
「ミヤダチ」は家筋が決まっており、以前は十六戸だったが、現在は十戸になっている。神社の所用を勤め、弥五郎どんの組み立てもこの家の人たちが担当したという。
午前四時過ぎ、いよいよ「弥五郎どん起こし」になるが、拝殿から出すには、腕が引っかかるので、斜めにして入口を出す。
さらに、ニ本の柱をくぐらせるが、提灯をはずして、斜めにして引き出すが、タイミングが合わないと、柱にぶつかり、めりめり音がして壊れるのではないか、心配になる。子供の出産にも似ている。
やっと外に出て、台車の後ろに米た。ここからが「弥五郎どん起こし」である。
台車のサイドブレーキを引いたか、との確かめの後、胴体の部分を直立させるために、台車中央まで胴体を載せる。大人や子供らが大勢でロープを引っ張る。
後からは田んぼで使うェブリの長い柄で三人が押し上げる。掛け声と同時に、すぐさま直立した。
これに参加すると身体が強くなり、運がつく、という。また、「弥五郎どんに魂を入れる」という。
台車と胴体の鉄骨三本ともう一つを、ボルトのような太い釘のようなものを挿し通し、ピンで留めて終わる。前後にロープを張って固定か終わった。
台車を拝殿の左に移動して、足場を組み立て(建築で使うパイプ中心の) 、これから袴を前と後ろの二枚を合わせて着け、帯のサラシを巻きながら、左腰に小刀が先に、大刀をその後付ける。
右腰には、印篭と煙草入れを付ける。棒が見えないようにサラシを巻く。二時間ほどかかって胴体の部分は終わるが、まだ台車のカバーが残っている。
午前六時三十分頃、弥五郎どん本体は完成。
午前八時頃、台車のカバーもぐるっと国して終わり、ゾーリと高下駄一組ずつを台車の前面に飾って完成した。
午前八時頃、岩川小学校校庭での武道大会の準備が始まり、選手と付添いの指導者や家族がぞくぞくと集まってくる。柔道・剣道・空手など鹿児島・宮崎両県から来ている。
午前十時過ぎ、弥五郎太鼓の演奏が始まる(奉納太鼓)。
午前十一時過ぎ、神牟礼の太鼓踊りが始まる。
午後一時、「弥五郎どんの浜下り」の出発。子供たちの手によって市中を練り歩く。
弥五郎どんは、台車のスプリングを利用して、台車脇左右にいる青年が下に押してゆらゆら揺れるようにする。
青年が揺するようにしない場合は、頭上の人が左右にゆさゆさ揺すりながら動いてゆく。その方が肩をいからせて実際に歩いているように見えて、カッコいい。
現在では、「子弥五郎どん」「孫弥五郎どん」の人形を簡単な台車に乗せて幼稚園児・保育園児も数台出ていることもあるが、十八年度は、先導と後ろに弥五郎太鼓の人々が守っていた。
行列の順序は、昭和後半では、弥五郎どん→大傘・大幣を持った先導の神官→八幡神社社旗→笛・太鼓の楽→旗を付けた矛→弓と矢→織などの威儀物(イギブツ)→神輿(ミコシ)→宮司→稚児行列・氏子である(以上、真鍋隆彦論文などから)。
現在の順序は、弥五郎太鼓→弥五郎どん→ミヤダチ(宮仕のこと)→ ミコシ→その他関係者(特に決まっていない)という具合である。
十八年度の順路は、神社→中園(地名)→川原(地名)→役場前→鹿児島交通駐車場(折り返し)→中央公民館(お旅所、神事・休憩、数十分)→合同庁舎前→小学校校庭→神社となる。  219

画像 219Pの画像全部

午後二時ごろ、中央公民館の庭の「御旅所」で神輿(ミコシ)を休憩。神事を行う。この間、弥五郎どんはまだ通り過ぎて鹿児鳥交通駐車場まで進んでゆく。

画像 弥五郎どんが高架橋をくぐる時の写真

午後三時三十分頃、武道大会が終わって表彰式をしているガランとした校庭へ入り、神社へ登るための力を溜める休憩をする。
そして、一気に登ろうとしたが、脱輪したらしく、引き直して、登ってくる。子供たち五、六人が将棋倒しになったそうだ。ケガはなかったが。
朝と同じ位置に戻り、子供たちのハッピや鉢巻を回収して終わった。
弥五郎どんは五日夕方まで、境内の安置場所(屋根のある)に、大きなゾーリや大きな下駄を足元に置いて、展示する。
三日午前一時ごろから五日午後三時ごろまでが、弥五郎どんの祭日である。
三日間、さまざまな露店が並び、文化祭や武道大会、神楽(ときどき)、のど自慢大会・プロ演芸、ソョーなどが行われる。主催者発表では、十万人の人出である。         220
四年目に一回の日程は、
七月 製作についての打合せ会
八月 竹切り準備
九月 竹切り(山出し、運搬)、御身体製作(旧福山町の業者)、衣装縫い、打合せ会
十月 草履製作、祭り全体の打合せ会
十一月 三~五日(二日に前夜祭)祭り実施、片付け、反省会
現在の弥五郎どんの「巡行図」は図七の通り。

画像 図7 弥五郎どん巡行図(御旅所でお祭りをする)(大隅町提供)

現在は、祭り全体について、「弥五郎どん祭り保存会」が当たり、弥五郎とん本体の作成については八幡神社が受け持つことになっている。
以上は現在のことであって、伝説的巡行では市街地を行列し、八坂神社まで行っていたころは、電線を切っていた。その後、神社のすぐ下の岩川小学校校庭までとなった。
かなり長い間であったが、二十数年前から市街地までとなり、現在に続くようだ。
祭りが五、六日のころは五日に浜下りをして、町民の希望で公民館に一泊したこともある。
これは二十五年ぐらい前のことで、二年ほど続いたという。
弥五郎どんを引くのはもともと青年たちであったが、青年たちが少なくなったことから、十三年ほど前から子供たちに代わってきた。
子供たちが参加すると、無病息災に育つ、というので、希望者か多く、人選は小学校に任せている。
費用は、岩川町内の約二千戸から初穂料五百円(現在は六百円)と賽銭などで、年間百十万円の大半が祭り費用に当てられる(昭和六十一年現在)。
現在は、町の補助金四百五十万円、広告料二百十万円、寄付金・雑収入五十万円、合計七百十万円が運営資金となっている。                           221
また、弥五郎どん本体の四年に一度の製作費用は県からの補助金二十八万二千円、初穂料・寄付金二十八万三千円、合計五十六万五千円である。
元々、弥五郎どん祭りは集落を中心に行われていたが、人口減により運営がてきなくなり、商工会が中心になってきた。
最近は、観光協会か中心となり、「弥五郎どん祭り保存会」を平成十六年九月に作った。

画像 パレード関係の画像をまとめて

三 祭りにかかわる諸道具
(一)面
面は午前四時三十分ごろ着付けが終わったところで、社殿から宮司か面を持ってきて顔につける。
現在大きな弥五郎面は二面あるか、現在使っている而は、裏に「平成二年九月 塗替 上原孝二」とあるので、上原氏か面の塗り替えをしたことかわかる。

画像 現在使用の面(口を開けているので、阿を表わす)

画像 現在使用の面の裏の銘(平成二年九月 塗替 上原孝二)

材料は面は楠で耳は杉である、と面裏に書かれている。古い面も現在使っている面も上部に、兜巾(ときん)のようなものがある。
面の太さとは不釣合いで小さいが、これか兜巾だとすれば、修験道の姿を現していて、伴神や先払いのイメージからずれるのではなかろうか。
鼻は特別に高くもないので、天狗面とは考えられない。
古い面は口を結び、小さな牙が見えるが、現在使用の面は口を開け、大きな歯を見せているので、この二つの面が阿畔になっている。
古い面の裏の左下には、昭和五十二年八月十五日の記録「弥五郎どん神面修復記録」か白エナメルで書かれている。

面材 楠材
耳 杉材
弥五郎どん神面修復記録 昭和五十二年八月十五日
氏子説に依るには元八幡より当上馬場へ神社移鎮の頃(大正三年~四年)大津十七氏が児童東条久、最勝寺俊信等を助手として神面修復さる、然し昭和四十四年五月大阪万国博に民族学資料として模刻一体一式を出品(泉木工川上久雄)再に昭和五十二年三月大阪国立民族学博物館に一式一体を同川上久雄作納入す、この頃神面の胡粉辮柄の離剥盛しく原形不明の懸念に及ぶ。
依って昭和五十二年八月川上久雄修復
全面カシューウルシ仕上とす
鼻頭 耳接合部 欠損部はポリエステルパテ充填
注 「再に」は「更に」であろう。
「儘しく」は「激しく」か「はなはだしく」か                                                            222

この文を書いた人は、昭和五十二年八月十五日川上久雄修復とあるし、修復技術の専門の用語を使っているところから、修復した本人、川上久雄であろう。
また、鼻の上やあちこちに欠損部分があって、ポリエステルを詰めて修復したようだが、我々素人が見た分には充填部はまったくわからない。
かなりの技術を持った人である。ちなみに泉木工は八幡神社鳥居の斜め前に工場がある。
この面は、日露戦戦勝記念に作ったとの伝承かある。
これ以外に小さい面がいくつかあるが、社殿の奥に収納しているので、見ることはむずかしい。話では、銘があり、十八世紀ー十九世紀初期に奉納された面であるという。
これらが止上神社の神王面に当たるのかは、今後の調査で明らかになるであろう。

画像 古面(使われてない面、口を閉じているので、吽を表わす)

画像 古面の裏の銘(面材 楠材 耳 杉材などと補修のことがくわしく記されている)

(二)頭部に乗せるもの(冠?)
頭部には鳥が乗っている。雉なのか鶏なのか「あおさぎ」か、鳳凰かははっきりしない。
どちらかというと雉のようである。だが、「鳳凰の冠」ともいっているが、「大鳥」という言い方かふさわしいか、とも思われる。「冠」とは言いがたい。
面を竹籠に着けるときにはサラシを面の収まりがよいように巻いて調節して、最後に梅染めの布を回す。
面がびったり接するまでサラシを巻いたり解いたりして結びつける。
その前に頭には竹で編んだバラ(梅染の布で覆った)をかぶせ、その上に「鳥」を固定する。                                       223

画像 図八 頭上のバラ(直径59cmに鳥を固定し、サラシでおおう)

画像 面の上にかぶせ、鳥を固定する竹製のバラ

弥五郎展ホ館の方には、彩色された尾羽が四本見える。鉢巻も締め、後ろに長く垂らす。
「鳥」には「昭和五七」と彫り込んでいるので、昭和五十七年に作ったものであろう。昭和八年の黒白写真にも「鳥」が写っているので、昔から「鳥」は頭上に付けられていたことがわかる。

画像 鳥(頭上に固定する)

画像 図九 鳥(長さ1m32cm、これに尾羽4~5枚を後ろにつける)

画像 鳥の銘(昭和五七と彫り込んでいる)

(三)鉾
かなり長い鉾で、足元から顔の前までの長さ(三・一八メートル)である。
現在のものは鉄で作られていて、がんじょうであるが、昔は木であったろう。
長さは『旧岩川郷社八幡神社史』では一丈八尺(五メートル四五センチ)あり、現在の三・一八メートルからすると、あまりにも長すぎで、地面まであったのだろうか。

画像 矛の先(鉄製、固定する輪がある)

画像 (伝説の里の写真から、昔は木や竹でしているように見える)

(四)刀
大小二本を左腰に差す。鍔が付いている。写真では布で巻いているが、祭り日には布を取って差す。
『神社誌』では長さ九尺五寸(約二メートル八八センチ)と七尺五寸(約二メートル二七センチ)であるが、現在では長さは一丈四尺(四メートル二四センチ)と九尺四寸(二メートル八五センチ)で大刀はずいぶん長くなっている。                           224

画像 刀(布を巻いて保管している)

(五)巾着・煙草入れ・印籠など
『名勝図会』などの記録では、「巾着」とあるのだが、現在では巾着はないようだ。煙草入れ、普通「トンコッ」というものや印籠をさげている。
それらは個人で作って腰に下げてくれと望む人がいて、それらを下げていたこともあるようだ。
刀だけでは右側の腰がさびしいので、飾りとして着けられたもののようである。
『名勝図会』などに「巾着」とあるが、巾着は今ならば財布に当たるが、商人や旅に出るならは必要かもしれないが、先払いに巾着が必要な理由を見出せない。

画像 煙草入れ(各人が寄贈している。昭和59年、輝北町 丸山 甫)

画像 煙草入れ(曽於郡中央木炭組合の寄贈)

画像 印籠(奉納に丸に十の字入り。島津氏とは関係ないのだが)

画像 印籠の銘( 月野 永野 詮 昭和22年)

(六)
ゾーリ・下駄
大きなぞうりを足元に置くために藁ぞうりを作る。巨人にふさわしい履物として添えているのだろう。                                   225

画像 ワラすぐり(大きなゾウリ作り用)

画像 大きなゾウリと下駄(弥五郎どんを展示する時、足元に添える)

画像 図十 ゾウリ(長さ1m82cm、幅63cm、簡単に曲がらないように、中に竹が入っている)

画像 図十一 下駄(長1m70cm、幅47cm、昭和52年3月「国立民族博物館 弥五郎どん一式納入記念贈 昭和56年11月 泉木工」と銘がある)

そのために、藁すぐりを準備して、藁をすぐってから、ぞうり作りをする。
大きな下駄も足元や胴体のところに飾る。
大きなぞうりは、姶良郡から北、人吉市あたりの八月十五夜の綱引きのとき、引き終わった後、村境の頭上や道の脇のじゃまにならない場所へ置いたりする。
これを「道切り」といい、村境から悪いものが入らないようにとの祈りがこもっている。「お月様のぞうり」ともいう。
これは巨人か悪いものを防ぐ、という考えのようである。
弥五郎どんのぞうりは、巨人にふさわしいぞうりとして、見せているようだ。

四 祭りと食べ物を中心とした伝承活動(ホゼ料理)
弥五郎どん祭りの日は、ホゼの日である。放生会(ほうじょうえ)が縮まって「ホゼ」となった、とも言われる。
この日は、各家でコンニャクの剌身と甘酒は必ず作るものだった。
現在では、市販のもので済ます家か多くなってきた。
お客には、他にマンカンメシ(豆羹飯=赤飯のこと、この言い方は大隅東部から)・ソバ・煮しめ・鶏の刺身・ 干し魚を焼いたもの、吸物などを作る習わしであった。
煮しめは、大根・ゴホウ・椎茸などであった。吸物は卵に椎茸。
昔は、上産にコンニャクとマンカンメシを竹の皮に包んで持たせた。今はこういう風習も廃れた。
最近までは、神社境内でも、コンニャクの刺身と甘酒を出していたが、現在は廃れてきた。
ホゼか五日に行われていたころは、岩川の学校は朝から休みで、隣の岩川に近い末吉町では午後からか休みであった。                          226
そして、翌六日が小学校の運動会と決まっていて、ホゼ料理の残りを弁当・おかずにしていた、という。

五 祭りにかかわる展示館
○弥五郎記念館(弥五郎伝説の里)(展示品、映像、年表)
弥五郎どんの里は平成八年にできた。入場料は百円だか、複合の施設なので、入口が単独ではない。
展示室への入口ヘ一歩はいると、両方には弥五郎どん祭りの映像と音か自動で出てきて、祭りの雰囲気を盛り上げる。
すぐ丸い台が見え、台の中央には、弥五郎どんが原寸大で立ちはだかり、台の縁の方、入口近くには、説明版か二枚あって、概略がわかるようになっている。
次に「手回しカラクリ劇場」が七台あり、ハンドルをちょっと回すと、小さい窓に映像が映る。
「弥五郎太鼓」「弥五郎どんバルセロナヘ行く」「武道大会一・ニ」「大隅町の自然」「大隅町の特産品」「大隅町の観光の歴史」が説明される。
太鼓踊りの等身大の板人形(太鼓三・笛一・ニョウハチ一)五体がある。                                               227

画像 227Pの画像まとめて

「弥五郎どんシアター」は、弥五郎どんを作るところから、祭りまで短い時間て紹介している。弥五郎どん祭りの概要がわかる。
「弥五郎どん浜下り」のビデオでは、弥五郎どんが神社から下る場合、武道会や行列の場面が映し出される。
「シアター」と「浜下り」のビデオで、祭りの概要はつかめるようになっている。
それから、階段を十一段登り、なだらかな回廊を上って行くと、野口久夫氏の昭和五年から昭和三十五年までの弥五郎どんを中心とした黒白写真が二十二枚飾られており、弥五郎どんの流れを知ることができる。
それを上の方に登り、弥五郎どんの顔と真向かいになって観察することができる。ここでは巨人弥五郎どんをあちこちから見ることができ、堪能することができる。
また、弥五郎どんを映すテレビがあり、高さを調節すると、足元から顔までの高さまでビデオに映されて、細かい部分を見ることができる仕掛けがある。
館内の壁側には、露店が出ている。
わたあめ・とうもろこし・竹細エ・氷・たこ焼き・面・焼きいか・りんご飴売りなどが、板絵の大きなもので、店としている。
模型やビデオで弥五郎どんや祭りがわかるようにした、こじんまりとした資料館である。

画像 「弥五郎伝説の里」の館全景後ろに弥五郎どんの銅像

画像 シンボル弥五郎とん銅像-町を守っているようだ

六 町外での活動
平成四年(一九九二)七月 世界巨人博(スペイン・バルセロナ)
平成五年(一九九三)十月 大阪御堂筋パレード
平成六年(一九九四)十月 まつり博三重叫
平成九年(一九九七)四月 かごしま世界帆船まつり(鹿児島市)
平成十年(一九九八)十月 大阪御堂筋パレード
平成十二年(二〇〇〇)   日本の祭りふるさと・旭川二〇〇〇
平成十六年(二〇〇四)三月 九州新幹線開業イベント(鹿児島市)
平成十六年(二〇〇四)十月 大阪御堂筋パレード

第四節 弥五郎どん祭りと奉賛芸能
一 祭りと奉賛芸能との関係
「名勝図会」などの資料などには、弥五郎どん以外には、何も芸能はついていないようである。
時代が下って、特に現在に近づいてくると、いろいろな芸能が参加し、また、露店なども参加してきたのではなかろうか。                         228

画像 露店のにぎわい(三日間、種々の店が並ぶ)(大隅町提供)

二 祭りへ奉賛される芸能
『大隅町誌』(改訂版)p五九には、「奉納相撲・柔道・剣道・弓道・空手・バレー・野球、のど自慢大会などを岩川小学校校庭で行った」とある。
現在では、ときには行列に岩川小学校吹奏楽部とか自衛隊のブラスバンドなどか参加している。また、弥五郎太鼓(昭和五十七年結成)か行列のとき演奏している。
前夜祭または当日も神社境内で演奏する。町指定の「神牟礼太鼓踊り」も行列のときや境内で披露する。
平成十六年度には、町指定の「野町そば切り踊り」を前夜祭に披露している。

画像 神牟礼太鼓踊り(大隅町提供)

画像 野町そば切り踊り(大隅町提供)

このように、武道大会やのど自慢大会が中心だったのか、「神牟礼太鼓踊り」や「野町そば切り踊り」のような伝統芸能が参加するようになってきているのは最近であって、伝統芸能を披露する場を新たに作った、ともいえる。だが、まだ定着したとはいえないようだ。

参考文献
鹿児島県神職会『神社誌上・下巻』 昭和十年 一誠社
鹿児島県維新資料編さん所『鹿児島県史料 麑藩名勝考』 昭和五十七年 鹿児島県
五代秀尭・橋口兼柄『三國名勝圏會 第三巻』 昭和五十七年 青潮社
中野幡能『宇佐八幡宮放生会と法蓮』 一九九八年 岩田書院
村田煕『村田煕選集一 盲僧と民間信仰』 一九九四年 第一書房
大隅町誌編纂委員会『大隅町誌 改訂版』 平成二年 大隅町
国分郷土誌編纂委員会『国分郷土誌 下巻』 平成十年 国分市
国分郷土誌編纂委員会『国分郷土誌 資料編』 平成九年 国分市
教育委員会「弥五郎どん資料」 平成十八年 大隅市教育委員会                                                  229

第八章 南九州人形行事にかかわる王面類
第一節 日置八幡神社のデオドン(大王殿)
一 デオドン(大王殿)が登場する祭りの背景
祭りの沿革とデオドン(大王殿)お出ましの祭りの変更日置八幡神社の創建年代は不明であるか、正中元年(一三二四)の日置北郷下地中分の時に「庄内の八幡前の放生会馬場より以南を領家方、以北を弥勒寺領方とする」ことが定められている。
日置荘の本所である弥勒寺は農前国の宇佐八幡の別当寺であった。日置八幡の別当寺は安養院弥勒寺である。そうするとこれ以前から日置八幡は存在していたことになる。
何回か改築されているが古くは永禄十年(一五六七)の記録がある。文禄四年(一五九五)には日置島津三代常久が八幡神社を領内総鎮守と定めている。
日置島津氏は薩摩藩の私領、家格としては一所持である。
日置八幡神社の祭神は、天照大神、天津彦彦火覆々杵命、椛幡千々姫命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の六柱で、仲哀天皇以下の三柱は明冶四年、川内の新田神社より勧請した。
それでは、デオドン(大王殿)お出ましの歴史であるが、『三国名勝図会』巻之九〔註1〕には、次のように記されている。

九月十五日を正祭とし、竹偶人を作り、〈社殿に納むる所の大王面を着け、梅染の衣服に、大なる木刀を佩く〉四輪車に乗せ、里童をして前路を馳せしむ、又五月六日に祭りあり、土俗及び隣郷より踊を興行するを数隊なり、既にして、神輿を田原へ〈地名〉護り行くの旧式あり

これによると、正祭は九月十五日の放生会で、この時、大王面を着けた竹偶人かお出ましになっている。
一方、五月六日のお田植祭では、神輿が田原を護り行ったということが分かる。秋の放生会に大人形が登場するのは、岩川八幡や的野八幡、田上八幡の弥五郎殿行事と同じであった。
放生会では、流鏑馬が催されていた。永田氏の系図から寛永年間(一六二四~四四)には流鏑馬が行われていたことが分かる。〔註2〕
それでは、いつの頃から、五月六日のお田植祭が正祭となり、この時にデオドン(大王殿)が登場するようになったのであろうか。
詳細は不明であるが、『日吉町郷土史史跡編』〔註3〕には次のように記されている。

毎年二月初卯の日に打ち植え祭、五月六日田植え祭、九月十五日に大祭があった。
大祭には大王面一体、梅染の衣紋に三メートルの木刀を腰にさした大王殿を四っ車に乗せ、里童によって神社前の放生会馬場(八幡馬場)におでましになり神事の流鏑馬かあった。
(中略)明治四十一年から旧五月六日に田植祭が奉納されたが、祭典には神社井戸(野間家下)の泉水が供えられ。神輿が昔のままに田原までお下りになり祭典が行われている。
神輿行列は若者か白装束でかつぎ、神社ののほり、神傘を立て、神馬に氏子ののぼり・音頭しベ・踊り子とつづいた。
県下でも有名なせっぺとべは、白装束の若人か肩を組み、泥をつけあい水を飛はして、「せっぺとべとべ、白歯のうちに、白歯をそむれば飛びゃならぬ」と勇壮に飛びはねまわる。(後略)

これによると、九月十五日の放生会が大祭であったが、明治四十一年から旧五月六日に田植祭か奉納されたということである。                       230
旧五月六日に祭りがあったことは、前述のとおり『三国名勝図会』に記されているので、恐らく大祭か旧九月十五日からこの日、即ち旧五月六日に移ったということであろう。
この郷土史では、何故、テオドン(大王殿)か、旧九月十五日でなく旧五月六日にお出ましになるようになったかの説明はない。
しかし、この文章からすると、田植祭が正祭になったのが明治四十一年であったことが推察される。
放生会のとき行われていた流鏑馬が大正の始め頃まであった〔註4〕という。
そうすると、明治四十一年から大正の初めの頃、デオドン(大王殿)か旧九月十五日の放生会に代わって旧五月六日の田植祭に登場するようになったことか考えられる。

(二)デオメン(大王面)と巨大な竹偶人の性格
デオメン(大王面)の裏銘は次のようになっている。

寛永十八年辛巳当座主尊典大檀主籐原久慶地頭本田越中守 八月吉祥日 作者朝倉治左衛門尉

これによると、この大王面は寛永十八年(一六四一)日置鳥津家四代の久慶によって奉納されたことか分かる。
島津久慶は慶長四年(一五九九)に日置で誕生し、薩摩藩主、島津家十九代家久の三女を妻とした。
寛永十二年(一六三五)に薩摩藩の家老職につき、寛永十八年(一六四一)に家老を免ぜられてから宗門方係を任ぜられている。
慶安四年(一六五一)八月十五日に四十二歳で没するが、日置鳥津の系図からは除かれている。
その理由について『鹿児島県史』第二巻〔註5〕では次のように記している。

島津久慶は寛永十八年十一月家老を免ぜられて後、特に異国方・宗門方掛を預っていたのである。
然るに久慶は、慶安四年八月没して後、野心発覚して系図の面を削られた。
久慶の罪科の内には一向宗に帰依した事も入っている。彼は後に帖佐脇元で磔刑に処せられた一向宗の張本真純を近づけ、上方にも差登せ、六条殿に取入り、領内一向宗興起を企て、江戸に於いても大久保忠職等に取入り、光久を悪主の様に言ったと伝え、爾後、一向宗の取締は一層厳重を加へたといふ。

これによると、久慶は一向宗の科で系図から外されたことか分かる。又、一説には切支丹信仰が原因だともいわれている。
これは久慶の養子、久憲の実家である喜入家から切支丹信者か出て種子島へ配流になったという史実から推測されたものである〔註6〕。
彼が、一向宗門徒とか切支丹信者であったかどうかは別として、宗門方異国方の立場にあって一向宗や切支丹の信仰に寛容であったことは確かであろう。
大王面を日置八幡神社に奉納した背景には、阿弥陀如来やゼウス、イエス・キリストヘの崇敬の念が強かったからであるということが考えられる。
さらに、もう一つ注目すべきは、大王面を奉納した寛永十八年八月吉祥日の頃は、末吉郷の地頭を務めている。
その後、「前から患っていた病気が長引いてよくならないので目ら願い出て職を辞めた」〔註7〕という。
病気の理由で辞した年であることである。末吉郷は、弥五郎どんが登場する岩川八幡のあるところである。
このころ大人形の行事かあったかどうかは確証は出来ないが放生会で隼人の御霊を慰める行事があったことは確かであろう。
島津久慶は、この岩川八幡の巨大な竹偶人に暗示を得て、日懺八幡でも巨人の竹偶人を作り放生会に登場させようと意図したことか考えられる。                 231

二 現在の祭り
(一)祭りの概況
現在、御田植え祭は、明治六年から新暦の六月六日に開催されていたが、昭和四十六年から新暦六月の第一日曜日に行われている。
前夜祭は、前日の午後八時頃から始まる。御田植え祭の当日は、神社の階段から参道にかけて注連縄を張る。
それにカタシデ(片紙幣)と赤松の板を薄く削ったシベ(紙幣)を大体一メートル間隔に練り込む。シベはその先を赤く染めて束ねて作る。
神社では神事が行われるか、その間、拝殿の前で各集落のタウド(田人)組が踊りを奉納する。
神事には、八幡様を勧請したといわれる諏訪の日向家、宮下の臼井家、榎園の松下家の子孫か参加して開始されることになっていた。
各田人組のシベ竿を、神社に参る前、八幡馬場にさしかかる大川の橋の所で水に浸けて浄める。
その後、シベ竿を先頭に踊り子連が「ウーイ、ウーイ」と大きな声で叫びながら神社へ向かう。
シベ竿は長さ一七、八メートルぐらいの長さで根っこから切り取ったものである。シベは四本括りを二百束つける。
前夜祭で使った、ソベを全て取り替え、それは神官に祀ってもらって各家に配られる。一年間その家の守り神となるのである。
前夜祭では松明が先頭になる。境内での踊りは、階段を登り終わった鳥居の広場(今は鳥居はない)、拝殿正面、拝殿の向かって左横、拝殿の向かって右横で、計四回踊られる。
昭和三十二、三年頃までは、階段の登り口付近の神社の取り水井戸の所でも一回踊られていた。その間、境内に設けられた拝殿脇の水溜りでせっぺとべと呼ばれる青年達の集団での足踏みの所作が行われる。
各田人組のシベ竿(オンド竿)と旗竿(織)は八幡馬場を神社に向かう時は鳥居の所まで四、五人で担いで行く。
その鳥居を過ぎたら力自慢の青年が、それぞれシベ竿と旗竿を立てて拝殿の所まで運ぶ。片手で持ったり、肩に載せたりして曲芸のようにバランスを取りながら進む。
拝殿の神事が終わり、境内での踊りが一通り済むと神輿に納められた御神体が神田へお下りになる。
神輿の頂上には鳳凰がつけられ、それに稲の苗を二束〆状にして背負わせてある。屋根の四角には鳩が飾ってある。
荘園時代から日置・吉利両村は日置の庄として、その領主館か北区にあって総取締りをしていたので、北区の踊りが来ないうちは御下りの行列は出来ない決まりになっていた。
昔から、吉利からも日置八幡神社に田植え踊りが奉納されていた。吉利の鬼丸神社でも六月十日の例祭に田植え踊りがあった。
お返しの意味で鬼丸神社の祭りには八幡の踊りが参加していたが三年ぐらい前から行かなくなった。
浜下りでは、神官が先頭、続いて氏子代表が、ソベのついた竹竿を持って続く。次にデオドン(大王殿)が木製の台に乗せられて運はれる。
台には白装束にハッピ姿の四人の青年がそれぞれ白帯を台に括り付け、それを肩に襷掛けにして負う。
その後に神輿と長持が続く。神輿担ぎには八幡と諏訪が一年交替であたってある。
途中で神輿は分かれ神田の一角にあるコンクリートで作られた三坪ほどの広場の方へ進む。そして、神座の所に据えられる。
そして、御神酒や果物、米、昆布等が供えられ、神主による祭りが行われる。
神輿の置かれる場所は、耕地整理が行われる以前は、大川橋から近い所にあった。
デオドン(大王殿)は大川橋のたもとまで進み、川沿いを向かって左に十メートルぐらい進み神田の見晴らせる所に鎮座する。                         232
神座の所では、先ほど神社の境内で奉納された各田人組の踊りが奉納される。
同時に、青年たちは神田でせっぺとべを行うが、その前に、あるいは伴行して、各田人の各代表が長さ一七、八メートルぐらいのシベ竿、一三、四メートルぐらいの旗竿を田圃の端からもう一方の端へ、力自慢の一人の青年が、倒れないようにバランスをとりつつ曲芸のようにして運ぶ。
途中で倒れそうになると他の青年達が加勢にやる。見物人からも「危ない」とか「うまいぞ」という言葉がかけられる。
他の端へたどり着いたらそこにシベ竿と旗竿が立てられる。十数本の長い竿が並んで立てられている風景は実に壮観である。
せっペとべは、青年達が白襦袢に腰巻き姿で、五~十人で輪になって相互に肩を組む。そして歌をうたって田圃の中での跳び跳ねながらの足踏みが行われる。
その輪は、時に二十~三十人の大きな輪に成長したりして勇壮である。
昔は諏訪(庄ノ上)田人、八幡(庄ノ下)田人、中原田人、山田田人のほか帆ノ港、草原、麓(又田打ちと呼ばれる作男で構成)等多くの参加団体がいた。
大正時代から昭和時代はじめが全盛期で総勢数百人の多くを数えた。泥んこになって飛び跳ねるのは田圃を足で耕す足耕の名残であるといわれている。
新婚の若者はよく田圃につぶし込まれる(水中に押し込まれる)ものであったという。

せっぺとべで歌われる唄の歌詞
せっぺとべとベ 白歯のうちに お歯黒してから跳びゃならぬ
何の罰かよ 八幡馬場へ 七里隔てて 跳っけ戻る
おいやまちゃげ で儲けた金は 大門口で そっ払うて もう無かちゃんげ
親の意見となすびの花は 千にーつの徒(あだ)もない
いくら麓の御令嬢(ごゆさん)だっても 末は他人のもととなる
来んなら来て見ろ 相手が違う まさか違えば 生命(いのち)がけ
親が女房(うっかた)もたせん時は 夜は夜話 昼は昼寝
旧(もと) の白歯にするのは易いが 年の十八戻しゃならぬ
名残いじゃ名残いじゃ 今夜ずいの名残いじゃ 明日は鹿児島で苦労する
親も親じゃが もうあきうらめて そわせてやるのが 親じゃないか
親も親じゃが このよなとこいヘ 縁もゆかりもなかとこいヘ
山田山ん中け たんこやが出来た 女たんこやで 帯がしまらん
山田山と軽蔑するな 山田山ん中け 花が咲く

各田人組の踊りの奉納が終わったころを見計らってデオドン(大王殿)は、、八幡馬場を帰路につく。
行きと同様、神官を先頭に、次に、頂上にシベの付けた竹を持った氏子代表、その後にデオドン(大王殿)が続く。
八幡馬場から階段を登り境内に着き、境内の一角に据えられる。その後、神輿が運ばれてくる。
神輿は来た道は戻らないで、大川橋の近くの道路をまわって帰ってくる。それから、先ほど神田で奉納した各田人組の踊りが神社の境内で奉納される。

(二)奉納される踊り
昔は、八幡、諏訪、帆ノ港、中原(熊野神社の氏子である中原、榎園、日新を含む)、麓、山田、草原、吉利、扇尾等広い地域から田人組が参加していた。             233
しかし、田人組間のもめごと等があったりして現在は八幡、諏訪、日新、山田、吉利、扇尾の田人組の踊りが奉納される。
踊り手は、ニセ入り(青年団に加入すること)した十五歳以上の青年達だけであった。
ニセ入りしても人数が多いのでなかなか踊り手には選ばれず、踊りに参加出来るということは大変な名誉であったという。
現在は、過疎のために踊り手が少なくなり、小・中・高校生が中心となっている。
踊りは、八幡馬場の入り口付近を流れる大川(通称八幡川)で、シベ竿を浄め、ここで「清めの雨」の踊りを踊ってから、神社の境内へ向かう。
境内での各田人間の踊りの順序は一年交替である。
祭りで踊った後は、それぞれの田人組が各集落に帰り、家々をハナ〔註8〕を貰いながら夜遅くまで踊ってまわる。
踊りの後は、十五歳になった家では盛大な祝宴をし、踊組をはじめ集落の役員等を呼んで夜遅くまで宴で賑わっている。

①八幡田人組の虚無僧踊り
従米は、鎌踊りだけであったか、大正時代の中頃、鹿児島市の谷山から師匠を招き虚無僧踊りを習って奉納するようになった。

②八幡田人組の三尺棒踊り

③日新田人組の鎌踊り

④山田田人組の鎌踊り

⑤吉利田人組の鎌踊り

⑥諏訪田人組の笹踊り
日置領主島津常久が日置八幡神社を文禄四年(一五九五)に領内の総鎮守社としたころから奉納するようになったという伝承がある。

⑦扇尾田人組の虚無僧踊り
大正時代のはじめ、鹿児島市五ヶ別府町に伝わっていた虚無僧踊りを師匠を招いて習っている。その踊りを奉納している。

三 デオドン(大王殿)にまつわる民具(別添の図面参照)
①デオドン(大王殿)【図一】
高さ二・八六メートル(そのうち台の高さ二二センチ) 昔はもっと高かったが運びやすいように小さくしたという。

②デオメン(大王面)【図二】

③デオドンの身体(竹組)【図三】
現在のものは平成六年十二月吉日に扇尾集落の岩井田という竹細工人が三万五千円で製作したものである。
六つ目編み
中に杉材の骨格構造体がある。

④デオドンの台【図四】

⑤上衣【図五】

⑥袴【図六】

⑦帯【図七】

⑧長刀【図八】

〔組立方〕
①台を据える。

②台の上で、竹編身体の中の支えとなる杉材の骨組みを組み立てる。

③竹網を寝かせた状態で袴を足のほうから入れてはかせ、袴の紐を仮結びしておく。

④骨組みのほぞを台のほぞ穴に入れて袴を着せた状態で竹編身体を立てる。

⑤上衣を右手部分から入れ、その後、左手部分を通す。おくみを合わせる。

⑥上衣の裾の部分を袴の下に入れ袴の紐を結ぶ。                                                            234

⑦帯を結ぶ。

⑧面をつける。

⑨長刀を左腰の部分に、帯に挟ませてつける。

第二節 鹿児島神宮と弥五郎殿との関係
一 隼人滅亡に関する遺跡
(一)拍子川と拍子橋
このことについて『三国名勝図会』巻の三十一には次のように記されている。

(拍子川は)上小川村にあり、(中略)村民の伝へに、古へ景行天皇の御宇、大人の隼人といへるもの、其容貌夜叉の如く、大逆無道にして一族数千人を集め、隼人城と上井城に拠て、一に王命に臨はず、天皇行幸し給ひて、御子日本武尊を副将とし、線攻め給へども、官軍戦ふ毎に利を失ひしかば、天皇是を患ひ、諸神に祈り、此硝河にて、神楽を奏じ給ふ、其拍子絶妙にして、隼人悦楽に堪へず、居城を出て来たりしを、日本武尊終に是を誅し給ふ、此故事に因て、拍子川と号し、橋を拍子橋と名く、かくて其霊魂祟をなすこと甚しく、種々の祭りを以て霊気を宥らる、毎歳八月十五日、当邑正八幡宮にて放生会の祭は、其一なりといへり

これによれば、日本武尊か河碩で神楽を奏していたら、隼人が悦楽し出て来たところを征伐したということである。
その故事により、そこを流れる川を拍子川と称し、橋を拍子橋と名づけたということである。
ところが、隼人の霊魂が祟ったので、正八幡宮では八月十五日に放生会の祭りを行ったところ、その霊が宥められたという。
『日本書紀』によると、景行天皇十二年に熊襲かそむいたので天皇自ら征討を行い、のちにさらに日本武尊か征討を行ったとある。
また、『古事記』によると征討を行ったのは日本武尊だけとなっている。
この『三国名勝図会』の記事は『日本書紀』によってはいるが、熊襲と隼人が混同されている。
このとき征伐されたのは熊襲であって隼人ではない。
「熊襲は隼人の前身だとする説が有力である。」〔註9〕とされる。
しかし、熊襲と隼人を混同してはいるが、「大人の隼人」というものは「容貌夜叉の如く」であったことか分かる。隼人の長が大人であること、その容貌は夜叉のようであったという。
夜叉というのはインドの神話で森林にすむ神霊とされるが、日本では仏教にとりいれられ仏教護持の神となった。ここではその容貌が夜叉即ち、鬼のごとくであったことを示している。
そして大人の隼人が征伐されて怨霊となり祟った。
その霊を慰めるために、正八幡宮で放生会の祭りが行われるようになったという、祭りの縁起を説いている。
現在、霧島市上小川には拍子川も拍子橋もない。しかし、上小川の四方団地の一角に「拍子橋伝説の碑」か立てられている。

(二)枝之宮と弥五郎
このことについて、『三国名勝図会』巻の三十一には次のように記されている。

彼大人隼人記にいへる、弥五郎は、川上巣師取石鹿文を伝へしにや、野口村枝之宮は、隼人の四肢を埋めて祭り、或は大人弥五郎の四肢ともいへり、一説に四肢とは四肢を分ち埋めて、諸所神に崇む。235
其霊を宥る所と云、鼻面川は、其鼻を埋め、福島村は其弓を座し所など、云、今山之口邑的野八幡宮濱下に、大人弥五郎といへる人形を製し、行列の先に推し、是隼人征討の故事といひ伝へ、末吉邑八幡の濱下にも、大人弥五郎あり、白尾固柱巳、市成邑の双子聾、桜烏の竈等、皆弥五郎遺蹟の伝へありと、其大人隼人、或は大人弥五郎といへるもの、必す一人の隼人をいふには非ず、後の俗、養老中征討の隼賊と、互に混れしも知るへからず

「大人隼人記」は今は伝えられていない。ここでは、川上梟師か弥五郎であると言っている。
彼は『日本書紀』では取石鹿文(とろしかや)または川上暴師ともいい、『古事記』では熊製建(たける)とも記されている。
つねに大和朝廷に対して反抗的で、景行天皇やその皇子の日本武尊によって征討された。
『三国名勝図会』は「大人隼人記」を紹介して説明しているが、弥五郎は熊襲の長、川上梟師であるという立場をとっている。
しかし、山之口邑的野八幡や末吉邑八幡の濱下りでは、行列の先に大人弥五郎か登場するが大人弥五郎はただ一人の隼人をいうのではなく、また養老年中に征圧された隼人と混同しているのかもしれない、と述べている。
弥五郎は、熊襲の川上梟師なのか、養老四年に反乱した隼人族のことなのか分からないし、それは特定することは出来ないというのである。
養老中征討の隼賊というのは、養老四年(七二〇) に大隅国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害して一年数ヵ月にわたって抵抗した隼人をいっている。
この抗戦以後はおおむね朝廷の支配に従っている。
枝之宮は、隼人の四肢を埋めて祭ってある。あるいは大人弥五郎の四肢ともいう。
又、一説には四肢を諸々に分かち埋めて、その霊を宥めてあるところであるということである。
現在は、旧国分市(周辺の町と行政合併して現在は霧島市)野口町に枝宮大明神として祭られている。

(三)
福島村の神社
『三国名勝図会』巻の三十一には、「福鳥村はその弓を瘞し所などと云」とあるが、旧国分市福鳥町には福島鎮守神社か建てられており、『国分郷士誌』〔註10〕下巻には「日本武尊がクマソタケルを討ったとき、その四肢を埋めた所の一つという」と説明してある。
しかし、この神社名は『三国名勝図会』や『地理纂考』には出てこない。
おそらく『三国名勝図会』が編纂された天保十四年の頃、福島村にあった八龍権現社がその前身ではないかという。〔註11〕

二 国分八幡宮と弥五郎殿祭
国分八幡は旧国分市の内に鎮座している。国分八幡宮の境内には隼風宮〔国分八幡ではハヤチと仮名をつけてある〕があり、日本武尊か隼人を征伐したときの鉾か祀られている。
これは、「大隅国桑原郡鹿児島神社旧記」にも大人弥五郎を「討取玉ふ此鉾ヲ早風社卜云」とあるから正八幡宮ではこの思想が定着していたのであろう。
しかし隼風宮とか隼風神社は牛人のカゼ、即ち隼人の怨霊によってもたらされる悪霊や災厄神等を慰めるための神社であるから、日本武尊の使った鉾を祀るのはおかしい。
これは、園分八幡宮が鳥津氏の加護を受けるようになり、隼人を征圧した権力者日本武尊を崇めるために祭神が変化してきたものと思われる。
隼人を征圧したと伝えられる竹内宿彌を祀ってある武内宮もある。
彼は、大和朝廷の初期に活躍したと伝えられる伝説上の人物で記紀によれは孝元天皇の曾孫で景行・成務・仲哀・応神・仁徳の諸朝に二百四十四年にわたって仕えたというが史実とはほど遠い。 236
境内の入り口に門守神の一つとして火闌降命(ほすせりのみこと)を祀った小社かある。
火闌降命は火照命(ほでりのみこと)の別名で隼人の始祖と伝えられている。
隼人の始祖が門守神として祀られているということは、国分八幡宮が朝廷側、いわゆる権力者側の神社としての性格を早くから確立していたことを示すものである。
この神社には「大隅国桑原郡鹿児島神社旧記」という古文書か残されている。
製作年代は不明であるが、鹿児島神社という呼称から、神宮号を遷下された明治十三年より以前に書かれた文書であることは間違いないであろう。
郷土史家の間では藩政期に、あるいは『三国名勝図会』が編纂された天保十四年以前の記録であろうといわれている。
これには次のように記されている。

此大人世上ニ祟リ玉フ故日州隅州ノ間弥五郎殿祭夥、日州摩戸野八幡弥五郎殿也、元明帝ノ和銅元年二建立卜云、
又当宮ニテモ大人退治大祭トテ有令執行於野口、養老四年ノ隼人ノ祭当国ニテ其例ヲ不聞、上井城ニ大人住玉フ古城トテ岩屋有リ

この「旧記」も『三国名勝図会』と同様、景行天皇の時代に大人弥五郎か討ち取られた、と記している。即ち、隼人と熊襲を混同しているのである。
その大人弥五郎の霊を慰めるためにこの正八幡宮では野口で大人退治祭を催しているということである。野口は前述したように枝之宮があるところである。
このような祭りは日州、偶州で夥しいということであるがその例として山之口町の的野八幡の弥五郎殿祭をあげている。
この記録からすると大人弥五郎殿祭は大隅国、日向国には豚しく行われているのであるか巨大な竹偶人の大人が登場するのはあまり多くなかったということが推察される。
又養老四年に隼人が反乱した時に退治された、その時の御霊祭は当国、即ち大隅国ではその例を聞かないという。
ということは、この神宮では大人弥五郎は熊襲の時代の人であって隼人の時代の人ではないということを言っているのである。

三 戸上六所大権現社と大人弥五郎
戸上神社は現在、旧国分市の重久にある。
『三国名勝図会』巻之三十四によれば「景行天皇の御宇、日向の隼人叛きけるを、天皇親から征伐し給ふ、時に六所権現の零神大應と現し、擁護を加へしか、忽ち叛賊を平定し給へり、因て其神霊を崇め祭るといふ」と記されている
が、戸上八幡は隼人の霊を崇め祀っていたということである。六所権現、即ち、戸上六所大権現が景行天皇を擁護し隼人を征伐出来たと記している。
隼人の霊を慰めるために昔は行幸かあったが、そのことについて『三国名勝図会』は次のように記している。

又当社に中古までは、王の御幸といへる祭式あり、毎年正月七日神輿を守り下り、同月廿二日に至り、行廟にて、種々の神供を献じ、祭りをなす、是往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故、当時御幸の式を設け、彼か霊祟を鎮めし大祭なりし、慶長の中此までは、毎年執行して、絶ざりしが、其後廃せしとかや、

これによれば隼人の霊祟を鎮めるための御幸は正月七日に行われていたという。そしてその祭式は慶長の中頃まであったか、その後、絶えたということである。
即ち、正月行事としての鎮魂祭であったことが分かる。正月が盆と同様、祖霊祭としての性格を有することを示している。
この神社には御幸に使われたと思われる神王面が今も三つ残っている。〔註12〕
戸上神社文書である寛延二年(一七四九)の「御神書」には「六神王面ヲ右箱二納リテ御座候」とある。
右箱というのは、御幸に関係ある宝物を入れた箱のことである。                                                     237
「旧記」に記されているように大人弥五郎の鎮魂祭はこのような形で各神社で行われていたことが分かる。
但し、この時は神玉面が登場するのであって弥五郎面であったり巨大な竹偶人ではない。
しかし、このような御幸が、弥五郎どん祭りの原型になったことは推察出来るであろう。
又、戸上神社には隼風神社が祀られており、祭神は火闌降命である。隼人の先祖神とされる神を祀ってあるのだから、適切であると思われる。
むしろ鹿児島神宮では、火闌降命を祀ってある門守神が隼風神社であるべきであり、日本武尊が使った鉾を隼風神とするのは後代の変化した姿であろう。

第三節 勝栗神社と弥五郎殿との関係
一 北原氏の影響
この神社は、現在は、旧栗野町(現在は湧水町の一部)に鎮座している。勝栗神社と呼ぶようになったのは明治になってからで、それ以前は正若宮八幡社といわれていた。
建久八年(一一九七)の「建久図田帳」には「栗野院六十四丁正八幡領」とあるが、正宮は国分正八幡宮をさす。
正若八幡社は国分八幡の四方の正若宮のうち北の一つで別宮である。
境内には早風社があり、『三国名勝図会』巻之四十一には「天正十五年造営の棟礼あり」とある。祭神は風の神、級長戸辺命である。
又武内宮も鎮座しており、ここにも「天正十六年修理の棟礼を伝ふ」と記されている。
早は本来は隼の字であったのであろうが、早の字に変化している。祭神については記されていない。
又、「図会」には「往古領主北原氏信仰厚く、寄附の品も多し」とある。
北原氏は肝属氏の庶流で室町時代末期には伊東氏に接近し、西は栗野、横川、踊(牧園)日当山、東は紙屋、庄内、志和池付近まで勢力が拡張した。
古文書によると文明二年(一四七〇) には北原氏八代貴兼は正八幡宮を再興した。そして同六年には栗野城主であった。
このことから、大隅国・日向国の巨人伝説弥五郎殿も伝わってきたことが考えられる。

二 弥五郎殿に関する史料
(一)正若宮八幡大菩薩御宝箱十王之絵箱
現在、十王之絵は見あたらないが、箱の上蓋裏に貴重な記録がある。記録の中央部分には次のように記されている。

寔永正十二天乙宍仲春十五日十王講之結衆之事次第不同 本願弥五郎殿

これによると永正十二年(一五一五)に十王講を結衆したことが分かる。
「本願弥五郎殿」というのは、八幡神の脊属神としての弥五郎殿を通して本願するということである。
したがって、弥五郎殿というのは、十王講結衆が帰依している八幡神を守護する神ということになる。
結衆の人々の名前に六良三郎とか犬次郎、孫四郎、清五郎、七良五良等「郎」のつく名前が多いのが特色である。
永正年間の頃は、「郎」あるいは「良」のつく名前が多かったことを示す。

(二)弥五郎面【図九】
次に弥五郎面といわれているものは、鼻が高い牙のある面である。裏面には次のように記してある。                              238
正若宮八幡之神兵人之面再興之事、干時天文十九年八月時正日、右意趣天長地久院内大平万民安全之為也 願主 正祝 貞本各敬

この記録によると、弥五郎殿は八幡神の神兵人、即ち八幡神の守護神として位置づけられていたことが分かる。
奉納された年か天文十九年(一五五〇) であるが、前述の十王之図は永正十二年(一五一五)であるが、『薩隅地理纂考』全〔註13〕には「永禄年中二至リ北原又太郎兼親承襲シテ領主タリ」と記されている。
永禄年中というのは、一五五八~七〇年である。前述したように、古文書には文明六年(一四七四)には栗野城主であった。
そして、永禄年中(一五五八~七〇) には松尾城の領主となったとある。
松尾城は栗野城のことであるのでこれらの記録は矛盾するが、要するに室町時代末期はこの地方は北原氏の全盛期であったことは間違いない。
そうすると弥五郎殿という呼称であるが確かに国分八幡宮の影響もあると思われる。
しかし、日向国を広範囲に納めていた北原氏による大人弥五郎伝説の移入も十分考えられる。
あるいは、十王図を奉納した十王之結衆も弥五郎を寄進した正祝貞本も北原氏に影響を受けた人々であったことも推定出来る。

第四節 その他の八幡神社と大人弥五郎殿との関係
ここでは、国分正八幡宮の西の別宮である蒲生八幡と薩摩国一の宮である新田八幡の史料を検討してみよう。

一 蒲生八幡
現在、姶良郡蒲生町に鎮座している。藩政時代は大隅国蒲生郷にあり、正八幡宮と呼ばれていた。
末社に武内社と早風社がある。早風社は大人隼人を祀っている。

二 新田八幡
薩摩国の一の宮であるか、現在、薩摩川内市宮内町に鎮座している。
武内社と早風社があるが、隼人の神、火闌隆命ではなく、級長津彦神と級長津姫命を祀っている。又武内神社もあるか彦太忍信命か祀られている。
又、検校職の中に弥五郎検校の名が記されている。大人弥五郎殿との関係を窮わせる〔註14〕。

第五節 大人弥五郎伝説について
日置八幡神社のデオドン(大王殿)がなぜ弥五郎殿と呼はれないかを探るため、弥五郎伝説との関係を考察してみよう。

一 旧薩摩国
(一)ウドドン(大人殿) さつま町山崎
大昔、山崎のある所にウドドンという大層、大きな人かいた。
ある時、喉が渇いたので水を飲みたいと思ったが普通の井戸の水では足りないと思った。
そこで、川内川の倉野の渕の水を飲もうとして、先ず右足を須杭のクノ瀬の川岸に、左足を荒瀬の城山の頂上に置いて、牧之峯にどっかと腰を下ろし、股ぐらの間に頭を突っ込んでずーずーと一気に飲んだ。
すると渕の水はたちまち飲み干されてしまった。その時、川砂まで飲んでしまいぐっぐっペーと吐き出した。
その量があまりにも多かったので忽ち小山か出来、市比野(現、薩摩川内市)の丸山となった。
又、ウドドンか水を飲むとき大きな尻をすえた牧之峯の頂上は平になっている。                                             239
足を踏ん張った所は今でも足跡が凹んで残っている(『宮之城町史』より)

(二)丸山ともっこ 丘薩摩川内市市比野
塔之原と市比野のほぼ中ほどの所へおわんを伏せたような半円の美しい甲山がある。普通丸山と呼ばれている。この山はフトドン(太人殿)という大男が一晩で作った山である。
隣村の蘭牟田は田圃がないので用水池を作るためにフトドンが一晩のうちに深い池を掘った。フトドンは掘った土を樋脇の上原盆地に捨てた。
掘り出した土をもっこに山盛りにしてヨイショと一回で運んで捨てた所が丸山である。そしてそのすぐ近くにもっこをドシーンとうち払ってついていた土を落とした。それがもっこ丘である。
そしてフトドンがもっこを持って踏ん張った所がその足跡となって丸山の東側の谷に片方だけが今も残っている。
(『樋脇町史』上巻より)

(三)大人足跡 阿久根市波留
大石ヶ峰八幡神社ノ庭ニアリ、大キナル平石ノ面ニ足蹟アリ、其長二尺許ニテ五指分明ナリ、更ニ人工ニ非ス、神社創建ノ年月
詳ナラス(『薩偶地理纂考』全より)

この伝説について『阿久根の昔話』は次のように記されている。

大昔、波留の八幡が丘の森に天狗が住みついていた。
この天狗は飛ぶ術にたけていたので、村中を飛び回っては悪さをして村人を困らせていた。
これを止めようとした地神達は、お互いに相談のうえ、天狗に大島に一飛びさせ天狗の森から追い払おうとした。
挑戦を受けた天狗は早速、跳躍の支度を整えると森の頂上にある大岩の上に立ち、はるか西の大島を睨んだ。
「やーっ」と鋭い声を上げ大島目かけて跳んだ。しかし、天狗の跳術では大島は少々遠すぎた。
天狗は大股を広げたまま海に落ち、海の藻屑と消えてしまったという。
全身の力を振り絞って踏ん張った大岩にはその足跡が深さ数討残った。
村々ではその後、悪さをする天狗がいなくなり地神に感謝し、平穏に暮らせるようになった。
『日本の民話肥後・薩摩・大隅編』では、大島の手前の岩にも足跡がついていると記されている。

(四)
鳥神岡と高熊山 大口市鳥神岡
伊佐盆地に大きな男が住んでいた。ある日大変な量の土を二つのもっこに分けててんびん棒でかついできた。
鳥巣に来ると一つのもっこから、とろとろと土を振り落とした。すると同じ所に次第に土が積もっていったので、円錐形の美しい小山が出来た。
これが鳥神岡である。男はもう一つのもっこに手をかけた。
ところが、よろめいて膝をつき、もっこをひっくり返してしまった。土はいっぺんにどさりと落とされたので、裾野の広がった小山となった。
これが高熊山である。この男が膝をついた所は春村である。そこには、ひざつきという地名がある。
(有馬英子『かごしま・民話の世界』より)

(五)飯牟礼山 日置市伊集院町飯牟礼
昔、伊集院の飯牟礼に頭は雲まで届くという大鬼が住んでいた。体が大きいだけでなく非常に力持ちであった。
ある日、飯牟礼山と桜島とどちらが重いか俺が持ち上げてみよう、と思いついた。
大鬼は、大きな山ォコで、片方には飯牟礼山を、もう片方には桜島を担ごうとした。ところが、海に浮かぶ桜島は持ち上がったが、飯牟礼山はびくともしない。       240
何度やっても同じなので、怒った大鬼は、山オコで飯牟礼山の頭を叩いた。
すると山は二つに割れて、矢筈岳と諸正岳に分かれてしまった。この時、踏ん張った足跡に水かたまり、上池、下池という池になった。
大鬼は今度は矢筈岳と桜島をくらベようとした、ところが、桜島があまりに重すぎてうまくいかない。大鬼は、怒って桜島の頭を叩いた。
すると、桜島は、ドカーンと、ものすごい音を立てて爆発した。それ以来、桜島は噴煙を上げ続けているのだという。
(有馬英子『かごしま・民話の世界』より)

二 旧大隅国
(一)丸山(飯盛山)湧水町真幸(旧吉松町)
大昔、大男がいて、栗野のアバ(網の端っこ)をせき止めて池を作ったが、川内川の水が増えて水が溢れ、真幸谷がもとにかえってしまった。
東のほうに丸山(飯盛山)があるが、それは、大男が、栗野のアバが崩れたのを見て、気を落としもっこの土を捨てて出来た山である。
(『吉松郷土誌』(改訂版)より)

(二)巨人ウドドンの足跡 加治木町木田
木田集落新中の南岩の嶽麓の東に少し寄った田圃の中に一畝歩(一アール)ばかりへっこんだ所があった。
これは昔、加治木にいたというウドドンの足跡であった。一方の足跡は国分市辺りにあって、頭を桜島に当てて寝ていたという。
(『加治木中央郷土誌』より)

(三)御嶽蔵王権現社 鹿児島市桜島町横山
横山村神野にあり、所祀火闇降命なり(中略)大隅隼人記に日、隼人の足は、桜島に届き居れりと、是諺に手が届くといふか如く、其領知なりしをいへる欺、大隅隼人は、火蘭隆命の裔なり
(『三国名勝図会』巻之四十三より)

(四)弥五郎窪地 霧島市福山町牧之原
牧之原花立の弥五郎どんの足跡は「弥五郎窪地」と呼はれ一町二反の広さである。
(『大隅町誌』より)

(五)弥五郎畑 曽於市大隅町岩川
岩川別府の弥五郎どんの足跡は別府静夫氏の所有で二反ほどの広さがある。人々はこれを「弥五郎畑(ばっけ) 」と呼んでいる。
(『大隅町誌』より)

(六)弥五郎どん伝説 鹿屋市輝北町市成
市成八重山の双子塚には弥五郎どん伝説がある。平野に道を挟んで丸い岡が高低二つ並んでいる。
この北岡は高さ二十丈(六十メートル)ぐらい、周囲五町四十間(六二メートル)、他の南丘は高さ十一丈(三三メートル)、周囲二町(一〇八メートル)、北岡との距離は約一〇〇メートル、北岡の方は種々植生があるが南丘の方は樹木もなく芝生だけである。
この地方の俗伝によると、太古、大人弥五郎どんかもっこに土を盛って運んでいたら担い棒が折れて土がこぼれた。
その一方は半分を残して、半分は欲の深い人であったのでどこかに持っていかれたという。
(『大隅町誌』より)

(七)弥五郎どんと双子塚 鹿屋市輝北町市成
大昔、弥五郎という大きな男がいて、桜島の頂きに腰をかけ、噴火口にかけた釜に海水を入れて塩を作っていた。
ある日出来上がった塩をフゴに入れ、サシで担いで、霧島山から高隈山に飛び移ろうとした。                                    241
ところが、飛び損ねて片足をついてしまった。その弾みでサシが折れ、塩がこぼれて、それが後に双子塚という大小の丘になった。
(有馬英子『かごしま・民話の世界』二〇〇四年より〔原話市成郷土誌〕)

(八)弥五郎どんの足跡 曽於市末吉町岩北
末吉町岩北の弥五郎どんの左足の足跡の畑地が現在、宅地化している。右足は岩北の馬渡にあるらしい。
(『大隅町誌』より)

三 旧日向国
(一)丸岡 志布志市有明町野神
有明町野神の丸岡集落には丸岡、中の丸という丘がある。この二つは、弥五郎どんがイネサシ(担いさし)で土を担いできてイネサシが折れて土が落ちて出来た丘である。
イネサシが折れて怒った弥五郎どんはくそっと言って西と東に折れたイネサシを投げた。
そこで窪んだ谷を東の方は丸岡集落の「井水の谷」といい、西の方は「野神の谷」といい、現在野神の岩屋集落にある。
(『大隅町誌』より)

この話では次のような伝承もある。
昔、弥五郎どんか、志布志湾を埋め立てるために、フゴ(藁で編んだ容器)に土を入れてイネサシで担いで野神にやってきた。
ところがイネサシが折れて、西側に投げ込んだのが野神の田原川となり、東側に投げたのが蓬原と野井倉の間を流れる岸良川(猪之木谷ともいう)となった。
もっこの土はこぱれて前の方が上の丸岡となり、後ろの方が下の丸岡となった。上の丸岡には丸岡稲荷大明神を祀ってある。
昔は十月三十日はホゼ(方祭)で賑わった。
志布志の漁師は、上の丸岡を目当てにして地引網をはった。豊漁のときは稲荷大明神に魚を供えたという。
(原話 丸目南兵衛 昭和二年三月十日生)

(二)弥五郎どんのほげ 志布志権現島
志布志の権現鳥に「弥五郎どんのほげ」という岩穴がある。枇榔島の方に向かって相当深く入り込んでおり、戦時中は防空壕になった。
(『大隅町誌』より)

(三)大人足 志布志市柳と毛穴
志布志の柳と毛穴集落の間に大人足という集落がある。そこには弥五郎どんの足跡片足という二間ぐらいの窪地がある。
一方、志布志の安楽小学校の上の木下堀りという所で前述の片足のもう一方の片足跡があり、これも弥五郎どんの足跡といっている。
(『大隅町誌』より)

四 旧日向国、宮崎県の弥五郎伝説
(一)大人弥五郎 南那珂郡 飫肥の酒谷川

(二)稲積弥五郎 日南市 飫肥
昔、弥五郎という巨人の山伏が大隅加治木の里から、今の妖肥町田の田ノ上八幡の神体を背に負うて来た。
(以上17、18は鈴木健一郎『日向の伝説』より)

(三)弥五郎の一もっこ 生目大字浮田地方の田中の乞食塚(『宮崎県史蹟調査報告』第一輯)                                      242

(四)弥五郎塚 児湯郡
新田の古墳群の一つで前方後円墳である。新田原古墳群中最大のものである(『宮崎県史蹟調査報告』第四輯)

(五)弥五郎殿
昔、昔まだ神様たちがのびのびと動き回っておられた頃、宮崎県の南の方に弥五郎どんという人がいました。
それはそれは大きな人で、宮崎県で一番高い尾鈴山に腰掛けて、海で顔を洗ったというぐらいでした。
そんな大きな人ですから、弥五郎どんか歩くと、足跡が谷になったり、池になったりしました。
あるとき、大雨が降って川の土手が崩れてしまいました。
村の人たちが困っていますと、のっしのっしとやって来た弥五郎どんが、山の上から大きな岩をちょいとつまんできて、崩れた土手をふさいでくれました。(後略)(『山之口町史』より)
宮崎県には、その他多数の弥五郎伝説がある。

以上、二十余の大人や弥五郎等の巨人伝説を上げたが、旧薩摩国には巨人を弥五郎と呼ぶ伝承はない。
大隅国では、旧国分市から旧大隅町、旧輝北町、旧末吉町にかけて広がり、旧日向国である旧有明町、旧志布志町と続き、旧日向国である宮崎県へと続いている。
旧国分市付近や大隅国北部の旧栗野町や旧吉松町には弥五郎という呼称は聞けない。
しかし、『三国名勝図会』によると、旧国分市付近には「弥五郎」という呼称があったことが分かる。
その後、消失して大隅国の周辺部に周圏論的に残っていると考えてよい。
日置八幡では弥五郎どんという呼称はないが、周辺に巨人伝説はあってもウドドン(大人殿)とかフトドン(太人殿)、大男、大鬼の伝承が多い。
デオメン(大王面)を奉納した日置島津家の久慶は、弥五郎伝説の多い末吉郷の地頭を務めていたことから、弥五郎の呼称を取り入れたかも知れない。
しかし、巨人を弥五郎と呼称しない日置地方の人々にはなじまず、その呼称は消失したことが考えられる。
デオドン(大王殿)とは、デオメン(大王面)という大きな面をつけるほどの大きな人、即ちウドドン(大人殿)の意味を有すると思われる。

第六節 考察
以上の報告から次のようなことが言える。


日置八幡のデオドン(大王殿)といわれる巨大な竹人形は、岩川八幡や的野八幡、田ノ上八幡の弥五郎どん人形と同性格・同形態のものである。
この点に関して村田煕は
「(日置八幡では)九月十五日の正祭には社殿に納めてある大王面を着せ、梅染の衣服に大なる木刀を偏かせた竹偶人を四輪車にのせ、里童をして前路を馳せしめたということである。
この竹偶人は弥五郎とは呼んでいないが、形態的には岩川の弥五郎どんとそっくりである」〔註15〕
と述べている。
形態が岩川八幡の弥五郎どんと同じであるということは、何らかの形で岩川八幡の祭りを取り入れたということが強く推察されるのである。                      243
又、真鍋隆彦は
「地元では〈弥五郎殿〉と呼ぶ人もおり〈岩川の弥五郎どんに似ているからだろうか〉、岩川と同系のものと言える」〔註16〕
と述べている。
地元で弥五郎どんというのは、真鍋の勘違いであり誤りである。地元ではデオドンとしか呼ばない。
しかし、村田と同様、岩川と同系のものであると指摘していることは重要である。
筆者は、前述したように、日置島津家の久慶か末吉郷の地頭をしていたことを重視すべきであると思う。
巨大な竹偶人の行事を取り入れ九月十五日の放生会の祭りを催したのである。
八幡信仰と巨人伝説はよく結びついているが、御霊会の思想も八幡信仰とともに広がっている。
そのようなことから隼人の御霊を慰めるために久慶が取り入れたものであろう。
それに、島津久慶は、薩摩藩の宗門方・異国方を務めていて、一向宗門徒とか切支丹を取り締まる立場にあったか、逆に彼らには同情的で、理解を示していた。
それが原因で、彼は日置鳥津家の系図から、死後削除された。
信心深い彼は、薩摩藩の厳しい一向宗、切支丹の取締りと、弾圧のために犠牲になった人々の御霊を慰めてやるという意識もあった可能性かある。
又、久慶は長い間、病を患っており、健康祈願として効力のある岩川八幡の弥五郎どんを取り入れるために面を奉納したことも考えられる。
それでは、藩政時代は、九月十五日の放生会にデオドンがお出ましになったのであるが、現在は、御田植祭に登場するようになったのは何故かという疑問か生じてくる。
『日吉町郷土史』からは明治四十五年からと推定されるか、下野敏見は「南九州は御田植祭の南限地である」〔註17〕と述べている。
中央から伝来した田植祭りか、南薩から北薩、大隅の国分地方にかけて田植祭か濃厚に分布し、しかも盛大な祭りとなっている。
特に、日置地方は、日置八幡の田植祭だけではなく、鬼丸神社の田植祭、日置市伊集院町飯牟礼の熊野神社のじくら飛び等、藩政時代、日置島津領であった神社では田植え祭か盛大で村をあげての祭りとなっている。
旧暦九月のホゼ祭りは、各神社では神事か行われるだけで芸能等を奉納する祭りがない。
ホゼは人々の間では個々の家の民俗行事として残っているにすぎない。そうすると正祭りを放生会から田植祭に移した神社が出てくる。
日置八幡はその事例の一つである。デオドンは、稲の豊作を祈るための田の神としての性格を求められるようになってくるのである。


大人隼人や弥五郎殿の御霊会は、天保十四年に編纂された『三国名勝図会』によると国分八幡を中心とした国分地方で早くから行われていたことか分かる。
しかし、それが大人形行事には発展していかなかった。
巨人弥五郎伝説か濃厚に分布する大隅国の東部、日向国において大人弥五郎殿が登場する祭りとなっている。
しかし、巨人弥五郎伝説は、南九州だけに存在するものではない。
柳田国男は竹崎嘉通の報告にもとづいて「石見国邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があって、その瀧壺を弥五郎淵といふ。昔巨人名を弥五郎といふ者、石臼を負うてこの地を過ぎ、誤って瀧に落ちて死んだと伝へ、瀧の中程の岩に足跡の如き凹がある」〔註18〕と書いている。
このことで島根県の石見地方でも大人のことを弥五郎と言い伝えていたことが分かる。
柳田は又、他に南九州において、柳田は「現今この地方の神社で大人弥五郎の故事を伝へて居るものは何れも八幡である〔註19〕と述べ、八幡信仰と大人弥五郎との結びつきが強いことを指摘している。
八幡と巨人伝説について折口信夫は「征服者と被征服者との関係であるか、後には被征服者は、大神の御子神といふ事になって来る。
此は日本の神道特有の考え方で、行く先々の土地で信仰せられて居る神々を家来として、八幡の信仰を受け持たせた。
八幡の信仰では、部下の神を表すのに人形の形を用ゐている。                                                     244
また、巨人の形を取って居る例では大人弥五郎が名高い。此八幡の神に仕へる巨人は、殆、全国的に拡って居り、其地方々々によって名前は色々変わってくる」〔註20〕と説明している。
その考え方からいけば大人弥五郎は八幡神の御子神あるいは巻属神ということになる。
隼人の始祖と称される火闇隆命が八幡神社の末社あるいは門守神として祀られているのは、被征服者としての隼人族の始祖神は、征服者としての八幡神の従属神としての地位になり下がっている。
征服した隼人の御霊を慰めるために豊前宇佐の八幡宮では「養老四年(七二〇) 大隅・日向の隼人か反し、朝廷は八幡神に祈誓し、禰宜辛嶋勝代豆米か神事により、平定、本邦最初の神社放生会」〔註21〕が始まった。
南九州各地の八幡神社で旧暦の九月放生会により大人隼人の御霊を慰めているのはこの宇佐八幡の流れである。
その大人隼人弥五郎の御霊会は、南九州では大隅第一の宮である国分八幡宮を中心として始まったとみてよい。
それは、『日向地誌』〔註22〕に日南市妖肥の田上八幡神社の説明に「往昔大隅国桑原郡二、稲津弥五郎卜云者アリ、彼地一宮正八幡ノ神体ヲ負ヒ来リ、此地二鎮座ス」とあることからも察せられる。
又『日向地誌』に「当社(的野八幡のこと)伊東氏入国に先ち、島津氏統治時代よりの名社にして、神輿渡御に、偶人弥五郎の先駆を用ゆる事、薩摩の風を移せるものなるべし」
ともあり、偶人弥五郎の先駆を用ゆる事は薩摩の風を移したものであるといっている。
したがって、かつて国分八幡宮を中心とした大人弥五郎の思想は周辺部に定着し、中心部では大人弥五郎の名称さえ消失したことが考えられる。
しかし、国分八幡宮を中心とした八幡神社に巨大な竹偶人が登場した放生会の例があったという正確な伝承はない。
やはり、巨人弥五郎伝説の濃厚な大隅国東部や日向国において独自に発達したものではなかろうか。
そういう意味で、『日向記』の偶人弥五郎を用いる祭りが薩摩の遺風だとする記述は、根拠に乏しいものと思われる。
次に、大人弥五郎が征服された隼人の首領なのか征圧した権力者側の武内宿襴なのかの問題である。
『鹿児藩名勝考』〔註23〕の末吉壕岩川の八幡(やはた)八幡の大人弥五郎について「里俗武内宿禰と申伝ふといふ、按に大人弥五郎ハ隼人記に拠れハ、火蘭降命の子孫なり」と記されている。
又、山之口町の的野八幡の大人弥五郎について『薩偶地理纂考』は「大人弥五郎卜号シテ熊製師力形状を模セルナリトイフ」と述べられている。
これに関して『日向記』には「八幡神社なるより見れば、もと武内宿禰に擬せしには非るか」と書かれている。
隼人を征服した八幡神社の立場からは武内宿禰説をとるのか当然であろう。しかし、征服された隼人の子孫である南九州の人々の立場からは、大人隼人と解したいであろう。
御霊会祭のとき御幸に登場する大人形は、隼人の怨霊を大きな力で押さえ、威圧、退散させるのは武内宿禰と理解するのが権力者側にとっては当然であろう。
しかし、熊襲や隼人の首領が大人であったということと、しかも弥五郎という名称がついていること、及び御霊信仰の本来の意味は、征服された悪神、弥五郎を徹底的に祭りに上げ、供養することによって守護神化してくことにある。とすれば、武内宿禰と解するのは無理がある。
この神事が、放生会が変化してホゼ(方祭)という稲の収穫行事に重きをおく常民の考え方からいけば大人隼人が守護霊化、田の神化した大人弥五郎と解するほうが妥当である。
次に隼風神社あるいは早風神社の祭神のことであるが、カゼとは何かということを考慮に入れると、祭られるのは隼人の神でなければならない。
カゼというのは災厄をもたらす悪霊や怨霊のことである。隼人の怨霊を鎮めるのであれば、隼人の神を祀り、供養しなけれはならない。                        245
その点で、鹿児島神社では征服者側の日本武尊の持っていた鉾を祀ってあるが、これは、御霊信仰という思想からは間違いである。
その周辺の戸上神社や蒲生八幡神社が隼人の始祖といわれる火闌降命を祀るのが正しいと思われる。
又、薩摩川内市の新田八幡神社では、級長津彦神(しなつひこのかみ)と級長津姫命(しなつひめのみこと)となっている。
級長津彦神は『古事記』では、伊排諾尊と伊眸再尊の間に生まれた風の神、級長津彦命(志那都比古神〈しなつひこのかみ〉)のことである。
『日本書紀』では伊誹諾尊が吹き出した息から生まれた風の神、級長津彦命となっている。この神は、悪い風を防ぐ力を持っている。
しかし、ここには征圧された隼人の神、火闇隆命を祭り上げて守護神化していくという思想がなく、単に記紀神話の風の神を祭神としただけである。
鹿児島神宮も、新田八幡でも征服された側の神を祭るという御霊信仰の本来の姿が忘れ去られようとしているところに特色がある。


隼人の御霊会は、旧国分市の戸上八幡の慶長の頃まであった大人弥五郎の鎮魂祭が古い姿を示している。
しかも、例祭が正月七日で正月行事となっているのである。正月には日本人は先祖霊を招いて祀る風習が今でも続いておる。
隼人霊を先祖霊として祀った戸上神社の御幸には注目しておく必要があろう。


旧栗野町の勝栗八幡の弥五郎面と十王之会箱の蓋裏の銘の「本願弥五郎殿」の記録であるが、それらが奉納されたのは、室町時代の末期である。
日向から大隅の北部に勢力を広げていた北原氏に関係があると見なければならない。
弥五郎という名称は、当宮の本宮である国分八幡から伝来したことが考えられるが、日向国の弥五郎伝説も流入したことが十分推測出来る。
ここ、大隅国の北部にある栗野地方では、大人を弥五郎どんという呼称は聞かれない。
次に、「本願弥五郎殿」の記録や弥五郎面の裏銘にある「神兵人之面」の記録から、大人弥五郎は八幡神の脊属神あるいは守護神、御子神であることを証明してくれる貴重な史料である。


大人弥五郎伝説の分布は、大隅国の中部から東部にかけての地域から日向国へ繋がっている。
大隅国の中部・北部と薩摩国では、伝承としては全く聞かれない。したがって、日置八幡デオドンを弥五郎どんと呼ぶ風習は全くない。
しかし、巨大な人形の形態は岩川八幡や的野八幡、田ノ上八幡の弥五郎どんと同性質、同形態である。弥五郎どん三兄弟ではないが、大人四兄弟には入れてよいのではないか。


寛政七年『鹿児藩名勝考』では岩川八幡の弥五郎どん。
天保十四年の『三国名勝図会』では、的野八幡の弥五郎どんと岩川八幡の弥五郎どん、日置八幡のデオドン(大王殿)、「大隅国桑原群鹿児島神社旧記」では的野八幡の弥五郎どんのことが記されている。
巨大な竹偶人は、薩摩藩では江戸時代中・後期には、弥五郎どんの例は二つしかなかったということが窺われる。
その意味で長い伝統を有している的野八幡の弥五郎どんは国指定の無形民俗文化財に指定する価値があると思われる。
もし可能であれば、岩川八幡と田ノ上八幡の弥五郎どんさらに弥五郎どん類似の日置八幡のデオドンも一括して指定したほうかよいと考えられる。


1 『三国名勝図会』旧薩摩藩領の薩摩・大隅および日向(一部)の三国の自然・寺社・物産などについて記述した編纂物。
天保十四年(一八四三)藩主島津斎興のころ、五代秀発を総裁とし、橋口柄、五代友古らか藩命を受けて編纂した。

2 『日吉町郷土史史跡編』一九七三年 四七ページ
3 『日吉町郷土史史跡編』四六ページ                                                               246
4 『日吉町郷土史史跡編』四七ページ
5 『鹿児島県史』県によって編纂された県全般にわたる歴史書。全五巻、他に別巻、年表がある。
昭和四年(一九三八)から準備か進められ、昭和十八年(一九四三)までに四巻までと別巻を刊行した。
昭和十九年には年表を、第五巻は昭和四十二年に刊行した。第二巻 八六五ページ
6 『日吉町郷土誌』下巻 一九八八年 三八〇ページ
7 『日吉町郷土誌』上巻 一九八二年 一三九ページ
8 祝儀のこと。昔は物を贈るときは花を添えて贈ったという〔瀬戸山計佐儀『都城さつま方言辞典』一九九二年〕
9 中村明蔵「熊襲」 一九八一年(『鹿児島大百科辞典』三三六ページ)
10 『国分郷土誌』下巻 一九九八年 四五二ページ
11 『国分郷土誌』下巻 四五二ページ
12 『南九州の仮面』』 一九九一年 七〇ページ
13 『薩偶地理纂考』全 鹿児島県教育会編・発行 一八九八年 四九三ページ
14 新田神社文書』(一)一九七二年 八一ページ 川内市
15 村田煕「弥五郎殿祭」 一九九四年(村田煕選集一『盲僧と民間信仰』二七六ページ)
16 真鍋隆彦「大隅町岩川八幡神社の弥五郎どん祭り」 一九八九年 (『鹿児島県文化財調査報告書第三十五集』一九八九年 七七ページ 鹿児島県教育委員会)
17 下野敏見『御田植祭りと民俗芸能』隼人の国の民俗誌Ⅱ 二〇〇四年 六三ページ
18 柳田国男「妖怪談義 大人弥五郎」 一九一七年(『定本 柳田国男集』第四巻 三九八ページ)
19 柳田国男「妖怪談義 大人弥五郎」 一九一七年(『定本 柳田国男集』第四巻 三九九ページ)
20 折口信夫「上世日本の文学」 一九三五年(『折口信夫全集』第十二巻 四〇四ページ)
21 中野幡能「八幡信仰」 一九九九年(今泉淑夫編『日本仏教史辞典』 八五四ページ)
22 平部嶠南著 一九七六年
23 白尾国柱著寛政七年(一七九五)に藩内の古城・名勝の由来や伝承などについて書き著したもの。(鹿児島県史料『鹿児藩名勝考』 一八八二年 一二四ページ)

【参考文献】
・荒木靖之・村田煕『日本の民話22 肥後・薩摩・大隅篇』 一九七五年 ほるぷ
・有馬英子『かごしま・民話の世界』鹿児島文庫81 二〇〇三年 春苑堂出版
・小野重朗『民俗神の系譜』 一九八一年 法政大学出版局
・小島摩文「薩摩日置八幡御田植祭考」 一九九九年 (下野敏見編『民俗宗教と生活伝承』岩田書院)
・下野敏見『御田植祭りと民俗芸能』 二〇〇四年 岩田書院
・瀬戸山計佐儀『都城さつま方言辞典』 一九九二年 三州文化社
・鈴木健一郎『日向の伝説』 一九三三年 文華堂
・中野幡能「八幡信仰」 一九九九年 (今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館)
・中村明蔵「熊襲」 一九八一年 (『鹿児鳥人百科辞典』 南日本新聞社)                                         247
・平部嶠南『日向地誌』 一九七六年 清潮社
・福田アジオ等編「日本民俗大辞典』上・下 一九九九年 吉川弘文館
・村田煕選集Ⅰ『盲僧と民間信仰』 一九九四年 第一書房
・『南九州の仮面』 一九九一年 鹿児鳥県歴史資料センター黎明館(担当 出村卓三)
・『折口信夫全集』第十二巻 一九六五年 中央公論社
・『柳田国男集』第四巻 一九六八年 筑摩書房
・『麑藩名勝考』寛政七年 (鹿児島県史料 一九八二年 鹿児島県)
・『三国名勝図会』 天保十四年 (一九六六年 南日本出版文化協会)
・『鹿児島県史』第二巻 一九四〇年 鹿児島県
・『鹿児島県文化財調査報告書』第三十五集 一九八九年 鹿児島県教育委員会
・『阿久根のむかし話』 一九八〇年 阿久根市
・『薩偶地理纂考』全 一八九八年 鹿児島県教育会
・『宮崎県史蹟調査』第一輯 一九二七年 宮崎県
・『宮崎県史蹟調査』第四輯 一九二五年 宮崎県
・『宮崎県史蹟調査』第五輯 一九三〇年 宮崎県
・『宮崎県史蹟調査』第六輯 一九三〇年 宮崎県
・『新田文書』一 川内史料集一 一九七二年 川内市
・『新田文書』二 川内史料集五 一九七三年 川内市
・『山之口町史』 二〇〇五年 山之口町
・『伊集院郷土史』第一部 一九七六年 伊集院町
・『大隅町誌(改訂版)』 一九九〇年 大隅町
・『加治木町誌』 一九六六年 加治木町
・『栗野町郷土誌』 一九九五年 栗野町
・『国分郷土誌』下巻 一九九八年 国分市
・『樋脇町史』上巻 一九九三年 樋脇町
・『日吉町郷土史史跡編』 一九七三年 日吉町
・『日吉町郷士誌』上・下巻 一九八八年 日吉町
・『宮之城町史』 二〇〇〇年 宮之城町
・『吉松町郷土誌(改訂版)』 一九九五年 吉松町                                                         248

画像 249~253Pまとめて

調査主体及び調査員・協力者等一覧
調査主体 都城市教育委員会山之口生涯学習課
旧山之口町教育長(調査委員長)上徳辰美
生涯学習課 連城輝子
生涯学習課課長補 下徳吉弘

専門調査員(所属は調査時・敬称略)
段上達雄(別府大学文学部文化財学科教授)
山口保明(宮崎県民俗学会会長)
塩水流忠夫(前都城史談会長)
所崎平(鹿児島民俗学会代表幹事)
森田清美(鹿児島民俗学会副代表幹事)

地元調査員(所属は調査時・敬称略)
中元工禮(山之口弥五郎どん祭り保存会顧問)
下徳実雄(山之口弥五郎どん祭り保存会顧問)
永徳節男(山之口弥五郎どん祭り保存会長)
山下博惟(的野正八幡宮氏子総代長)
日高広之(的野正八幡宮宮司)
永野勝己(旧山之口町文化財保護審議会委員)

今回、行事調査から報告書作成に至るまで様々な方に資料や情報提供の御協力をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。(順不同・敬称略)
岩切悦子 冨満恭子 大學康宏 山下真一 高見乾司 亀沢優二 矢口貴子 大久保泰男
宮崎県教育庁文化財課
宮崎県立図書館
都城市立図書館
大分県宇佐八幡宮
日南市教育委員会生涯学習課
日南市文化財保存調査委員
日南市田ノ上八幡神社
鹿児島県曽於市教育委員会社会教育課
鹿児島県曽於市大隅町弥五郎どん祭り実行委員会
鹿児島県曽於市大隅町岩川八幡神社
鹿児島県日置市教育委員会日吉支所社会教育課
鹿児島県日置市日置八幡神社
高原町教育委員会社会教育課
旧山之口町文化財保護審議会
都城芸術文化協会山之口支部
都城市山之口地区自治公民館連絡協議会
都城市山之□地区婦人連絡協議会
山之口弥五郎どん祭り保存会
的野正八幡宮奉賛会
的野正八幡宮八幡講
中原太郎踊り保存会
桑原奴踊り保存会
乗平矢旗踊り保存会
正近棒踊り保存会
都城市立富吉小学校郷土芸能保存会
下富吉郷土芸能保存会
山之口各地域郷土芸能保存会
都城市立山之口中学校
都城市立山之□小学校
都城市立麓小学校
都城市立富吉小学校                                                                     254

あとがき
南九州の八幡系神社に伝わる、宮崎県都城市山之口町的野正八幡宮の「弥五郎どん」・日南市田ノ上八幡神社の「弥五郎さま」・鹿児島県曽於市岩川八幡神社の「弥五郎どん」は、各地域で大人人形伝説として広く言い伝えられてきており、現在でも八幡系神社で行われる祭りの先導役をつとめる巨大な人形であります。
本調査報告書は、「日向の弥五郎人形行事」として先人達より郷士の誇りとして脈々と受け継がれ伝承されてきている「弥五郎どん祭り」か、各地域で保存会を中心にして、毎年実施されてきていることを受けて、南九州全域に伝わる大人人形伝説に関する地方的展開の解明を図るために、取り組んだ詞査事業であります。
調査記録書は、山之口町が先駆けて取り組みましたが、その背景には、古き良き伝統を守り続けるなかで、弥五郎どん祭りの現形を知る古老たちか年々少なくなり、時代の流れにより古式豊かな祭りが変容していくのではとの危機感をいだいておりました。
「日向の弥五郎人形行事」として、文化庁より無形民俗文化財の選択を受けている山之口弥五郎どん祭りの現在の姿を保存し、正しく継承するために「弥五郎どん祭りの記録書を残しましょう」との熱意から、平成十六年八月に保存会員を中心に記録保存調査委員会を結成し、記録保存調査報告書の作成に向けた取組を進めてまいりました。
調査が進む中、都城市立図書館に収蔵の『山之口名勝志』、さらに今回新たに見つかった古文書『古今山之口記録元』により『近世山之口町郷土史料』が宮崎県文献史料研究会会員の御協力により翻刻され、弥五郎どん祭りに関する詳細な記述を見ることができ、奥深い祭りの現状が浮き彫りとなりました。
平成十七年度より、文化庁及び宮崎県教育庁文化財課の御理解と御支援、御協力を賜り、専門調査員及び保存会員による調査委員会を新たに組織して、本格的に調査研究を進めてまいりました。
専門調査員として、別府大学文学部文化財学科の段上達雄教授をはじめ、宮崎県民俗学会会長の山口保明氏、前都城史談会会長の塩水流忠夫氏に御依頼するとともに、保存会員の方々にも地元調査員として引き続きお願いし、弥五郎どん祭りの歴史的・民俗的背景の解明に向けた調査を始めました。
祭りを彩る浜殿下りのルーツを求めて、地元調査員は大分県の宇佐八幡宮まで足を伸ばし浜殿下りの由来を確かめました。
一方では、大人人形「弥五郎」の名称に由来する伝統行事か、宮崎県日南市田ノ上八幡神社の「弥五郎さま祭り」、鹿児島県曽於市岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」として執り行われていることから、
調査の更なる深まりを求めて、鹿児島県民俗学会代表幹事の所崎平氏、同じく副代表幹事の森田清美氏を専門調査員に御依頼し、南九州におよぶ「弥五郎人形行事」の調査研究を進めました。
南九州の王面を調査する中で、新たに鹿児鳥県日置市日置八幡神社の「デオドン」(大王殿)の面も弥五郎どん祭り行事に関連するのではないかと疑義を抱き、さらに調査範囲を拡大し、まさしく日向の弥五郎人形行事の祭祀のつながりを記録に残す調査となりました。               255
本調査報告書は、民俗芸能研究者の専門調査員五名と地元調査員六名の方々の懸命な調査、史料収集により、八幡系の神社の秋祭りに登場する弥五郎人形が詳細に記録されており、「我が国にあまねく伝播している八幡信仰の地方的展開を解明する上で欠くことのできない習俗」の記録書として作成したものです。
今回の調査研究の成果が、弥五郎どん祭りを確実に後世へ守り伝え、さらに保存会や地域住民はもとより都城市民にとって貴重な財産となることを顧ってやみません。
末筆になりましたが、本調査報告書の刊行にあたり、段上達雄教授をはじめとする専門調査員及び地元調査員の方々には、公私ともに御多忙の中に、現地での聞きとりや原稿執筆、編集、校正など多岐にわたる調査に御尽力いただき心より感謝申し上げ、厚く御礼申し上けます。
このほか刊行に際し、御助力御協力をいただいた方々の御厚情に対し深く感謝申し上げます。

都城市教育委員会 山之口生涯学習課
日向の弥五郎人形行事記録保存調査委員会事務局                                                              256

日向の弥五郎人形行事記録保存調査報告書
発行日 平成19年3月1日
編集 日向の弥五郎人形行事記録保存調査委員会
発行 都城市教育委員会山之口生涯学習課
   〒889-1802 宮崎県都城市山之口町花木2005番地
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印刷 宮崎県印刷工業組合都城支部