以下は山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレットです。
文部省告示第百六十一号(平成七年十二月二十六日)
国指定重要無形民俗文化財
山之口麓文弥節人形净瑠璃
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁1
都城市山之口町の麓地区には、昔から文弥節(ぶんやぶし)と呼ばれる人形浄瑠璃が伝承されています。人形浄瑠璃とは、台本を元に語る太夫(たゆう)の語りに三味線(しゃみせん)と拍子木で調子を合わせて演じる人形芝居のことです。
「文弥節」とは大阪で活躍した岡本文弥の節回しをいい、「泣き節」「愁(うれ)い節」とも呼ばれています。岡本文弥が始めたもので、素朴(そぼく)で、どこかもの悲しさを感じさせる独特のものです。三味線と拍子木は、語りの調子に合わせて、ゆっくりになったり、はげしくなったり、もの悲しくなったりして、語りを盛り上げます。
人形浄瑠璃は、全国的には文楽と呼ばれる3人使いの人形浄瑠璃がありますが、「文弥節」は「文楽」よりも古く古浄瑠璃とも呼ばれています。麓地区の人々の伝統を重んじる心によって、今日まで受け継がれてきた「文弥節人形浄瑠璃」。平成7年12月には、国の「重要無形民俗文化財」に指定されました。
第87号
重要無形民俗文化財指定証書
山之口の文弥人形
山之麓文弥節人形浄瑠璃保存会
文化財保護法第五十六条の十の規定により重要無形民俗文化財として平成7年12月26日文部大臣により指定されました
平成8年6月19日
文化庁長官 吉田 茂
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁2
文弥節人形浄瑠璃は、岡本文弥が17世紀後半に大阪出羽座を拠点に上演し、流行していました。山之口麓には、その人形浄瑠璃を習い覚え持ち帰り演じたという伝承があります。
人形の館に保管されている床本(台本)の中に文政9年(1826年)と書かれたものがあります。その中には、番所警固の郷士「曽木某」が人形を舞わして村民を楽しませたことが記されており、当時から頻繁に上演されていたことが伺えます。文弥節人形浄瑠璃は当地以外に全国3ヶ所(鹿児島県薩摩川内市、石川県白山市、新潟県佐渡市)で保存伝承されていますが、年号を明記した文弥節人形浄瑠璃上演資料が残されているのは、当地だけであり、とても貴重な資料です。 なお、現在の出世景清の文政9年(1826年)写本演目「出世景清(しゅっせかげきよ)」「門出八嶋(かどでやしま)」は、ともに世話物で有名な近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の作品です。
人形浄瑠璃は、大正末期までは地区の祝いや落成式など、この地域の娯楽として、盛んに上演されていましたが、日中戦争や太平洋戦争の影響で途絶えてしまいました。昭和24年(1949年)この人形浄瑠璃を復興させようとする動きがおこり、厳しい食糧語り太夫 坂元 鐘一 氏不足・生活困窮の中、人形の修理や再生復興に取り組み、昭和26年(1951年)保存会を結成しました。平成4年(1992年)
には、上演場と展示室を備えた山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館が完成し、現在では年4回(3月、6月、9月、11月)の第3日曜日に定期公演が開かれています。
平成6年(1994年)からは、保存会とともに都城市立麓小学校の5、6年生が「文弥節人形浄瑠璃」の保存・伝承を図る活動(麓小学校文弥節人形サークル活動)に取り組んでいます。サークル活動で、年20回の練習に保存会とともに取り組み、3月の定期公演で練習の成果を披露します。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁3
出世景清(しゅっせかげきよ)
平景清(たいらのかげきよ)は、源氏から「悪七兵衛(あくしちひょうえ)・景清」として恐れられていた武将でした。(悪とは「悪人」の意味ではなく勇猛さを指す)源平の戦いに敗れた平家の大将平景清は、敗れた悔しさをどうしても忘れることができず、どうにかして源頼朝に復讐しようと考えていました。台本の作者「近松門左衛門」は、そこから悲劇的な葛藤を抜き出し、『平家物語』とは違った新たな景清像を描いています。
初段-大仏殿普請の段(ちゅのたて)
二段-阿古屋住家の段(つくりぶん)
三段-拷問の段(水責め火責め)
四段-牢舎の段(ずやんば)
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁4
初段-大仏殿普請の段(ちゅのたて)
源平の戦いに敗れた平家の大将、悪七兵衛景清は、尾張の国(今の愛知県)熱田神宮の宮司の元に身を隠しました。そのうちに宮司の娘、小野の姫と結婚の約束をするまでになりました。
しかし、戦いに敗れた悔しさをどうしても忘れることができず、源頼朝が南都(今の奈良県)に東大寺を建てるために家来の畠山重忠をその奉行に命じたを知ると、憎い頼朝を討つ前に、先ず重忠を倒そうとして大工になりすまし、南都に忍びこみました。
そして、すきを見て重忠を討とうとしたが逆に見つけられ、大格闘の末、その場を立ち去っていきます。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁5
二段-阿古屋住家の段(つくりぶん)
畠山重忠のもとから逃げ出した悪七兵衛景清は、以前、都で知り合い二人の子どもまでいた阿古屋という女のところにしばらく隠れていました。ところが、そのことを知った阿古屋の兄、伊庭十歳が景清の居所を幕府に知らせて褒美をもらおうと思い、阿古屋に幕府へ届け出るようにすすめます。
しかし、言うことを聞かないので、景清が以前結婚の約束をした小野の姫から偽の手紙を作り阿古屋に届けます。偽の手紙であることを知らない阿古屋は、悔しさのあまり兄のすすめに従って、景清が隠れていることを奉行所に知らせてしまいました。
そこで奉行所の役人が景清を捕らえに来ましたが、今度も危ういところを逃げ切ることができました。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁6
三段-拷問の段(水責め火責め)
源氏は悪七兵衛景清の舅、大宮司を六波羅の牢に押し込めました。そのことを聞いた景清の妻(大宮司の娘)小野の姫は、父のいる牢屋はいずこかと捜し歩いているところを、町見廻りの役人 梶原源太に捕らえられました。
「父は何も白状しないが、おまえは夫婦だから知らぬことはあるまい。」と、六条河原に引き出して水責めの拷問にかけるが白状しません。次は、古木責め。それでも小野の姫は白状しません。この上は、火責めにせよと、薪を積み重ね団扇で扇ぎます。
いざ責めんとするとき、景清が見物人の間をかきわけて、「我こそが景清だ。」と名乗りを上げます。妻や舅が苦しいめにあっているのを見かねて、抵抗せずに捕らわれます。小野の姫は、なんでこんな所に出てきたのかと泣き、景清もまた涙をこらえ、御身は父大宮司を大事にして菩提を弔ってくれと頼みます。
小野の姫もかけよってすがり泣きますが、すぐに引き離され、大勢の中を押しわけ引き立てられ、その場を去って行きます。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁7
四段-牢舎の段(ずやんば)
悪七兵衛景清が牢屋に入れられたことを聞いた阿古屋は二人の子どもを連れて景清に詫びに行きました。子どもたちは、「お父さん。足が痛いでしょう。」と、父景清の足さすりながら大声で泣き、景清も涙をこらえることができません。しかし、「自分はやがて殺される身だ。ここで親子の情を断ち切っておこう。」と思い、「子どもたちよ、私を父と思うな。私もおまえたちを子どもだと思っていない。」と冷たく突き放します。それを見た阿古屋は、「夫に見放されては、私も生きていく望みがありません。」と言ったかと思うと、二人の子どもを刺し殺し、自分も刀で自害してしまいました。そこに、阿古屋の兄、伊庭十蔵がやってきて、さんざん悪口を言ったので、景清は牢屋を押し破って十歳につかみかかり、十蔵を殺してしまいました。「これですっきりした。これから関東へ逃げようか、それとも西国へ行こうか。」と、一町程逃げ走ったのですが、「このまま逃げてしまえば、また大宮司や小野の姫が憂き目をみるに違いない。」と思い、もとの牢屋にもどり、自害した妻子たちのことを思い、観音経を唱えるのでした。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁8
門出八嶋(かどでやしま)
『平家物語』でも有名なシーンを佐藤継信を主人公に近松門左衛門が人形浄瑠璃の台本として書いた作品。
源義経は、のちに義経四天王と呼ばれる佐藤継信・忠信兄弟とともに平家追討軍に参加し、屋島に拠っていた平家を強襲します。戦いは、弁慶の活躍で源氏が勝利します。しかし、その戦いの裏側では、平家一の弓使いである平教経におそわれ、源義経あわやの場面。その弓を防ごうと矢面に馳せる佐藤継信。はたして、その運命やいかに。
初段-出陣の段(うっがんめい)
二段-八嶋合戦の段(いくさんば)
二段-八嶋合戦の段(弁慶の段切)
三段-八嶋の浦の段(提灯とぼし)
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁9
初段-出陣の段(うっがんめい)
佐藤継信が、今度の義経の出陣に是非加えてもらいたいと、氏神に詣でて祈願しているところに弟忠信の恋人 幾代が現れ、忠信が戦に志願しないよう説得方を申し出ます。兄継信の恋人 早姫も現れ、継信が戦に出陣しないよう忠信に説得方を依頼し、継信と忠信の出陣争いとなります。「弟は残れ。」「いや兄は、家を継ぐために残れ。」などと言い争っている時、父の庄司が二人の出陣を許し、更に幾代、早姫のことまで許したので、兄弟は悦び勇むが、父は二人に訓示を与え、親子の惜別まで申し述べるのであります。
御大将をはじめ、諸武士一同袖を濡らす場面に安西の弾正が馳せ参じ、平氏が陣を上げたと急を告げます。そこで源義経は、佐藤兄弟を先陣に加える旨を弾正に伝えますが、今度は弾正が、兄弟は不軍にてと罵る事で喧嘩となります。そこに志田の三郎が割って入り取り鎮め、義経は「おれの晴軍だ、皆励んでくれ。」と西国さして出陣していきます。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁10
二段-八嶋合戦の段(いくさんば)
出陣した義経一行は、一の谷を攻め破り八嶋に陣を張り、寄せ来る平家の兵船を待ち受けます。佐藤継信は、自分の鎧を鷲尾の三郎に着せて自分の弟に見せかけます。そこでまた、血気者の弾正と言い争いになるが、他の武者共に押し鎮められます。その時平家の兵船が磯に近づき合戦の開始となります。
平家の大将能登の守は弓の名人であるため、御大将を守ろうと継信がその矢を防ぐために前方へ出て立ち仕掛け矢を胸板に受け落馬してしまう。
忠信は、兄の仇と真っ先に突進し、源平入り乱れての戦いとなりました。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁11
二段-八嶋合戦の段(弁慶の段切)
八嶋の合戦では、源義経の右腕である武蔵坊弁慶が大活躍しました。
戦半ばには、敵将兵の首二〜三十を数珠つなぎにしてひきずりながら登場。
それでも足りないとばかりに、念仏を唱えながら大太刀を振りかざして敵を追い回します。
弁慶の大暴れの段切りで平家は滅び、源氏の勝利で合戦は終幕となりました。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁12
三段 -八嶋の浦の段(提灯とばし)
佐藤忠信は、信夫兄弟と共に、矢に討たれて倒れた兄継信の行方を追って浜辺に探しに行きました。
忠信は、疲れ果てていましたが、大声を張り上げて探し回ります。能登の守に弓で射抜かれて倒れている継信を見つけることができました。
弟の声を聞きとめると、「忠信か。」と返事をしました。喜んだ忠信は、駆け寄って継信を抱き起こします。死にそうな継信は、自分のことには答えずに、「君にお変わりなかったか。味方はどうだったか。」などと聞きました。「戦いは味方が勝ちました。兄上を連れて参れとのお言葉です。」と忠信が言うと、「おお嬉しいぞ。君のお姿に接してから死にたい。」と言うところに、信夫兄弟が駆けつけ二人で戸板に乗せて義経の本陣に帰ります。継信は義経に介抱されながら静かに息をひきとっていきます。
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁13
間狂言(まきょうげん)
「間狂言」とは、人形浄瑠璃の幕間ごとに演じられる演劇のことです。能では一番ごとに狂言をはさむのと同様に、浄瑠璃の一段が終わるごとに、間の物として、滑稽寸劇や舞踊音曲などを上演しています。能では「あいきょうげん」と呼ばれていますが、山之口では古くから「まきょうげん」と呼ばれています。方言を用いた滑稽なせりふが特徴で、「出世景清」や「門出八嶋」とは、違った魅力があります。間狂言は古浄瑠璃時代から正徳ごろ(17世紀〜18世紀前半)まで盛んに行われていたようですが、当地では現在まで大切に語り継がれています。山之口麓文弥節人形净瑠璃資料館には、江戸時代に作成されたとされる「太郎」という名の人形を展示しています。
東嶽猪狩(ひがしだけのいのししがり)
太郎の御前迎(たろうのごぜむけ)
山之口麓文弥節人形浄瑠璃パンフレット頁14
東微の猪狩(ひがしだけのいのししがり)
太郎、五郎、弥蔵の三人が東嶽に猪狩りに出かけた時の話です。途中大蛇に出会い、弥蔵が巻かれてしまいます。タバコの煙で大蛇を酔わせ、無事に弥蔵を助けだし、大きな猪を期待して待っている太郎の妻の元へ帰ります。
太郎の御前迎(ごぜむけ)
太郎が弥蔵の仲立ちで高砂婆と結婚する話です。
小柄で気の利く弥蔵が、頭の大きい太郎と、美人で色気のある高砂婆の仲立ちをして縁談をとりまとめ、結婚式にこぎつけます。祝言に招かれた者が鶏などを棒にぶら下げ差し担いでやってきます。無事、三三九度も終わり一同祝い唄でにぎやかに舞い納めます。