兼重神社と腹切っどん
所在地 山之口町大字花木一六四六番地一
兼重神社境内にある古石塔は水輪に袈裟がけに刀傷があることから「腹切っどん」の伝説が残っており、町内に残る五輪塔の中では一番大きいものです。
南北朝期に肝付兼重(南朝)は、高城の月山日和城を中心にこの地域も領していました。延元四年(一三三九)八月十四日足利尊氏(北朝)の命を受け肝付討伐にあたった畠山直顕、島津貞久は兼重の居城である月山日和城を攻めました。自決を覚悟した兼重に家臣の江田武部小輔家定はかねてより受けた恩義を感じ脱出再挙を訴え身代わりとなって割腹しました。兼重は一命を取りとめ肝付郡高山城(鹿児島県)に逃れることが出来ました。
この時の武将の墓であると伝えられ、この神社を「兼重神社」と呼んでいます。ここは兼重の支城の一つであった松尾城の跡(現在のあじさい公園)でもあります。
またここは、その昔連性寺の釈迦堂があったところで「三俣院記」の記載によると「前代連性寺卜伝ル寺為有之由候、右堂ノ前古石塔有之、其内大成石ヲ花木殿石塔与由伝候前代花ノ木村領地ノ人之由也」とあることからこの地を領した豪族花木殿が訛り伝えられたものであることもいわれています。