花木地区郷土芸能 あげ馬祭り
古来より、霧島盆地内には戦勝と、その成就、五穀豊穣などを祈願して、神社に鎧、兜、刀、槍、馬、穀物などを奉納したり、土地や祭米を寄進するなどの風習がありました。
県指定無形民俗文化財 平成六年二月二十五日指定
所在地 (南方神社)山之口町大字花木九五三番地
古来より、霧島盆地内には戦勝と、その成就、五穀豊穣などを祈願して、神社に鎧、兜、刀、槍、馬、穀物などを奉納したり、土地や祭米を寄進するなどの風習がありました。
このあげ馬祭は地区の鎮守である南方神社(旧諏訪神社)に奉納するものです。
あげ馬は神に献上する馬、神前に捧げる馬として「あげん馬」「献上馬」と呼ばれ、揚げ馬、上げ馬などの字をあてています。
諏訪神社は長野県諏訪市、諏訪郡を本拠とし、狩猟神、農業の神、武神として信仰されています。
祭神は「建御名方命」を上社、「八坂乙女神」を下社としているため古くは諏訪上下大明神社と呼ばれていました。
古書(三俣院記)などには現在の南方神社も諏訪上下大明神の名で記されています。
天保十四年(一八四三)に記された「三国名勝図会」によると、「諏訪上下大明神は花木村にあり和銅二年の創建と言われ応仁元年、弘治三年などの上梁牌を蔵さむ、祭七月二十七日この夜、土民は行列をなして当社に詣で、的野八幡宮濱下に準ず、」とある。これらの記載を見ても、この頃にはすでに大名行列(あげ馬行列)は実施されていたことがわかります。
今でも地区の古老達は南方神社とは言わず、「お諏訪どん」と呼んでいます。
今の南方神社の呼び方は明治四年七月の改名の時からです。
盆地内諏訪神社に係る「あげ馬」が保存伝承されている都城市高木の南方神社、高城町穂満坊・桜木の両諏訪神社のいずれも、島津氏(十七代島津義弘)の文禄・慶長の役出陣にあたり、島津家筆頭崇神である諏訪神社への戦勝祈願成就と凱旋を祝って「献上馬」と「神楽」を奉納すべく組まれた行列を模したものであると伝えられています。
献上馬と憑座(稚児)を中心に据え神事の行列を組むこのあげ馬は薩摩藩内都城盆地の諏訪神社、四社のみに残された貴重な文化遺産です。
花木のあげ馬
一、さても見事な お諏訪の馬場よ
鳥居には倉鳩が イヨ 胙をかける
二、ここを立つ立つ この調子で立つよ
先も栄える イヨ 後茂る
三、吉野山道 尋ねて行けば
顔にゃ紅葉が イヨ 散りかかる
四、揃うたよ 人足揃うた
稲の出穂より イヨ また揃うた
五、七つ八つから馬方すれば 冬(寒)の師走も
日の六月も駒の手縄で イヨ 日を暮らす
六、竹にゃ白雪 朝日でとける
とけて流れて三島におつる
三島女郎衆に
イヨ 化粧の水
七、嬉しゆ目でたの 若松様よ
枝も栄える イヨ 葉も茂る
八、かしげ かわらず なべ屋の木蔭
せいはほそかれ イヨ
世をとおす
九、花の江島がからりとならば
かしげ かわらげ イヨ
たがやどよ
南方神社