山之口麓文弥節人形浄瑠璃調査報告書
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「出世景清」牢屋の段
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間狂言の人形と大蛇
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序文
田園のかなたにそびえ立つ霧島連山を一望でき、四季折々に見せる霧島の姿は、誠にすばらしい眺めであります。
その一角に麓という集落があります。二五〇世帯、七六八名、町内では二番目に大きい集落であります。
この地域には、武家屋敷道や石敢當(魔除け石)、走湯神社の大杉群(樹齢四百年)等貴重な文化財が点在しております。
当地に伝わる山之口麓文弥節人形浄瑠璃は、昭和四七年には、国の無形民俗文化財として選択指定を受け全国的にも脚光を浴びることとなり、東京や大阪において何回となく公演を行うなど、充実した保存伝承活動が行なわれております。
本町では、平成二年度事業で地頭仮屋跡地に保存伝承の場として人形浄瑠璃資料館「人形の館」の建設に着手し、平成四年五月にオープンしたところであります。
その後、定期的に上演することとなり県内外の多くの方々に見ていただき、高く評価されることとなりました。
資料館の完成を機に全国的にも数少ない貴重な文化遺産を保存伝承すべく町としてもこれに積極的に取り組むことといたした次第であります。
平成三年度に国の特別な御配慮により補助をいただき、保存伝承のための記録作成事業に取りかかりました。この調査では早稲田大学文学部教授内山美樹子先生、同大学演劇博物館助手和田修先生、園田学園女子大学近松研究所講師時松孝文先生、福岡県史文化史料編担当の永井彰子先生の四名に調査を依頼し、あらゆる角度から人形浄瑠璃についての調査をしていただきました。文化財専門員の山下博明氏にも執筆していただき、その他多くの地元の老人の方々からも昔の話を聞かせていただくなど絶大な御協力をしていただきましたことに対しまして厚く感謝を申し上げる次第であります。
調査の結果は本文にまとめられておりますが、調査の中で、麓文弥節人形浄瑠璃に貴重な価値があると評価されたことにより、保存会の皆さんはもとより町民すべてが自信と誇りを持つことができました。
御協力いただきました国・県並びに関係者の皆様に衷心より敬意と感謝を申し上げます。
今後、麓文弥節人形浄瑠璃保存会が人形の館を中心に保存伝承を継続され、日本を代表する人形浄瑠璃を目指し、更に演出技能の向上を図るよう期待して止みません。
平成五年三月
山之口町長 中原 安美
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何もないページ
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目次
序文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山之口町長 中原 安美・・1
あらまし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第1章 山之口麓の芸能環境・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井 彰子 ・・6
第2章 浄瑠璃史における文弥節・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内山 美樹子・15
第3章 山之口麓文弥節人形浄瑠璃の歴史
第1節 文弥節の伝播・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時松 孝文・・23
第2節 保存会の歩み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下 博明・・28
付 翻刻 明治六年「人形廻シ名簿」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
保存会会員名簿(平成四年現在)/保存会規約 ・・・・・・・・・・・・40
第4章 山之口麓文弥節人形浄瑠璃の現況
第1節 概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・和田 修・・42
第2節 文弥節の台本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・和田 修・・45
付 「出世景清」牢屋場 本文対照表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
第3節 文弥節の曲節・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内山 美樹子・70
付 三味線・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
第4節 人形と操法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時松 孝文・・86
付 人形の現況(図録)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93
第5節 節間の物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・和田 修・・99
付 間狂言台本「太郎御前迎」「東嶽猪狩」 ・・・・・・・・・・・・・・103
主要参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山之口教育長 艮 敏雄・・110
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あらまし
宮崎県西南部、都城盆地の北端に位置する北諸県郡山之口町麓地区に、文弥節人形浄瑠璃が伝承されている。
文弥節は、延宝頃大坂の人形浄瑠璃芝居、伊藤出羽掾座に属した岡本文弥が語り始めたとされる浄瑠璃の一派で、竹本義太夫による当流浄瑠璃誕生以前の成立であることから、古浄瑠璃に分類されている。
元禄頃になると、二代目の文弥をはじめ、出羽座の太夫たちは、義太夫節に押されて頽運を余儀なくされるが、その哀婉な節まわしは享保頃まで中央で一定の支持を得ていたようである。山之口麓への伝来については、
江戸時代薩摩藩の支配下にあったこの地の郷士が、参勤交代の供に行ったおりに習い覚えて帰ったとも伝える。
近代以降も士族の家柄の人々がこの芸能の担い手であった。明治大正期までは地区の祝いや落成式などに上演された。
大正末から第二次大戦中は正式な上演はなされず中絶状態だったが、昭和二六年に保存会を結成して復活し、今日に至っている。
昭和四五年から毎年三月に麓地区公民館で定期公演を催していたが、平成四年四月に保存公開の施設としてやかた「人形の館」が建設され、年に四回の上演を予定している。
伝承している演目は、浄瑠璃操が「出世景清」「門出八嶋」の二曲七段、間狂言として「太郎の御前迎」「東嶽猪狩」の二番(新作もある) 、「娘手踊」一曲がある。明治大正期までは「三番叟」を演じていたともいう。
また座興にハンヤ節などで人形を踊らせることもある。
「出世景清」は、貞享二年(推定)に近松門左衛門が竹本義太夫のために書き下ろした作品。
のち山本角太夫が義太夫本の字句を少々改めて自己の語り物とした。
文弥節を伝える当地では角太夫本系によっていたが、中絶期前後に義太夫本系の詞章に改められた。
「門出八嶋」は、近松門左衛門の作で元禄二年五月に竹本義太夫が初演した「津戸三郎」にもとづき、山本角太夫が改作改題した曲とされる。
「津戸三郎」は正本の現存点数も少なく、「門出八嶋」の方が人気があったようである。
人形は差し込み式の一人遣いで、大部分の人形はカシラがノド木に固定されている。
道外人形の「太郎」は引き栓で目口を開閉することができる。
舞台は一米二五糎ほどの幕によって観客席と仕切る。明治大正期や戦後の復活当初は民家の座敷や屋外で上演されていた。
現在では右の人形の館に専用の舞台が常設されている。
文献資料としては、文政九年の年記のある「出世景清」の浄瑠璃本に「フンニヤ節」を演ずるとの識語があり、近世後期からの伝承を確実にたどることができる。ほかに江戸期から昭和期にいたる浄瑠璃の台本、
明治六年の「人形廻シ名簿」、明治六年の年記のある人形首の内銘および大蛇の箱蓋の裏書きなど、豊富な資料に恵まれている。
今日、古浄瑠璃系とみられる人形浄瑠璃は、この山之口麓の他に、新潟県・石川県・鹿児島県の三県に伝承地が知られている。
山之口麓の文弥節人形浄瑠璃が中央の学会に紹介されたのはもっとも遅く、昭和四二年に早稲田大学商学部教授杉野橘太郎氏が現地調査し、翌年の日本演劇学会秋季大会において発表があった。
昭和四〇年頃まで、麓ではこの浄瑠璃を「モンヤ節」と言っていたが、杉野氏の教示により鹿児島県東郷町斧淵の文弥節を視察し、同じ節であることを確認、それ以降「文弥節」を称するようになった。
その以前、昭和三六年には山之口村(当時)の無形文化財の指定をうけ、昭和四四年に宮崎県無形文化財指定、昭和四七年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」の選択指定を受けている(芸能一三〇号)。
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「出世景清」偽文を読む阿古屋
(昭和四四年頃・菊池明氏撮影)
本調査は、一平成四年度国宝重要文化財等保存整備費補助金の助成を得て実施された。現地調査は平成四年六月二八日、七月二五~ニ七日、九月一一~一三日、一一月二一・ニニ日の四回行なった。調査および執鏡は次の五名が担当した。
内山美樹子(早稲田大学教授)
時松 孝文 (園田学園女子大学近松研究所講師)
永井 彰子 (福岡県史文化史料編担当)
山下 博明 (山之口町文化財専門委員)
和田 修 (早稲田大学演劇博物館助手)
調査事務は山之口町教育委員会吉住文隆があたった。編集は陳増英(創遊社)があたった。また調査に際して山之口文弥節人形浄瑠璃保存会の方々の全面的な協力を得、さらに左記の方々にも種々お世話になった。記して深く感謝の意を表する。
泉房子・宇野小四郎・菊池明・木場岩利・児玉三郎・佐々木義栄・白石一郎・信多純一・竹内有一・角田一郎・廿日岩仁吉・原田解・福島理子・山本修巳・演劇研究会・園田学園女子大学近松研究所・宮崎県立都城図書館・早稲田大学演劇博物館。(敬称略)
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第一章 山之口麓の芸能環境
一 山之口麓の歴史的背景と郷士集団
文弥節人形浄瑠璃を今に伝えている山之口町は宮崎県西南部、都城盆地の北東部に位置し、東は宮崎郡田野町、南は北諸県郡三股町、西北は高城町、北は東諸県郡高岡町と接している。
鹿屋市を起点とする国道二六九号線が都城市を経て山之口町を通り抜け、宮崎市へと走る。町の北東部に連なるのは鰐塚山や青井岳である。
古代に遡れば山之口は諸県郡に属し、延喜式に見る日向国駅路「水俣駅」が置かれた地と比定されている。
建久八年(一一九七)島津惟宗忠久は鎌倉幕府から薩摩・大隅・日向三国の守護職に任ぜられ、のちの島津家初代となった。当時の山之口は「日向国図田帳」に「島津荘三俣院」と記され、その広さ七百町と伝える西海道の拠点のひとつであった。南北朝期には、北朝方の土肥氏が四代にわたって山之口城を本拠とした。
明応の頃には、三俣院進出を企てた伊東尹祐に島津氏が一千町歩を譲り、以後四〇年程は伊東氏領となる。
やがて天文元年(一五三二)、北郷忠相(都城島津)が統一し、三俣院全体が北郷領となった。その際山之口地頭となったのは、忠相の家老山内豊前守義清であった。
島津征討を経た秀吉は、文禄四年(一五九五)都城城主北郷時久を祁答院へ領地替えさせ、かわって伊集院忠棟を北郷氏本領と大隅の一部をあわせた八万余石の領主として送りこんだ。
当時の山之口城も伊集院氏十二外城の一つとして、城の修復整備がなされたという。慶長四年(一五九九)には「庄内の乱」がおこる。
伊集院氏に主家横領の陰謀ありとされて忠真が宗家義弘に反旗をひるがえしたもので、翌五年(一六〇〇)二月、山之口城も落城し、忠真の降伏によって乱も終結した。
そして北郷讃岐守忠能が都城島津家十二代城主として都城へ復帰し、その家老北郷四郎右衛門久武が山之口地頭となった。
慶長一九年(一六一四) 、都城島津家の北郷忠能は所領四万四千四百石の三分の一にあたる三俣院一万四千石を宗家に返納・献上したため、これ以後山之口は北郷氏の支配をはなれ、薩摩本藩直轄領である「表方」となった。これは財政立て直しをはかる島津宗家が薩摩・大隅・日向三州の各私領に命じて、領土の三分の一を献上させる「上知令」の発布に伴って行われたもので、これまで山之口城を本拠としていた北郷氏一族は都城へ引き揚げることになる。
そのため島津宗家は藩内各地から集めた武士団三百名を派遣し、引き続き警護の任にあたらせた。山之口郷にはそのうちの七五名が移住した。 06
薩摩藩では、元和元年(一六一五)の幕府の一国一城令によって、本城鶴丸城を残して山之口城も他の城とともに破却されたため、領内を区分して城主格を地頭と称する地頭制をしき、それぞれ地頭仮屋と呼ぶ役所を設けている。この地頭制により、山之口郷には初代地頭として大寺主計介が任命された。このように薩摩藩では外城とその出城である小外城からなる外城制度を作りあげており、徹底した対策を断行して領民を統治下においていた。実際に政務を遂行したのは地頭の代理である噯役であり、検察の任務などは横目役が担当した。
山之口に配置された武士団七五名は地頭仮屋の周囲に集住し、「府下」と称する一つの聚落を形成した。史料の上では「府下衆中」・「麓衆中」の名で記録されている。
関ケ原合戦で西軍に荷担して敗退し、徳川氏の動向を警戒する島津氏にとって、辺境警備は特に重要な課題であった。三俣院は隣藩飫肥伊東氏と境を接しており、島津宗家は私領都城島津家に命じ、伊東氏との藩境警備のため、元和頃には山之口に境目番所として一之渡番所を創設した。
それ以後、本道には番所、間道には飛松、日当瀬、吉野元、宇名目、山神平、中川内、天神川原、六頭子、餅ヶ瀬戸、永野、妙寺ヶ谷の各辺路番所を設け、出入国の際の手形検査や禁制品の搬出入の取り締まりにあたらせた。延宝頃の記録では、番所には定番として三人の番士が朝昼夜の三交替で勤務していた。
また享保頃になると定番は八人、一人に付き扶持米壱石八斗が与えられていた。さらに加番人弐人が「麓大興衆中繰廻」して勤務した。
このような番所勤務を任務の一つとする郷士は、身分的には武士として公認されていた。平時は知行のほかに耕地を持って自作するが、馬場で調練を行うなど常に武芸を磨き、一旦戦いとなれば直ちに出陣する義務が課せられていた。半農半士であった郷士達は郷村で農耕作業に携わり、農民とも日常的に接触していた。彼らにとって番所勤務は特に大きな負担を強いたようだ。
貞享頃、日当瀬辺路番所に先祖の代から勤務してきた定番の一人は、見廻りのかたわら山間部のわずかな畑を耕作してきたが、生活が苦しく女房ももてずに一人身で不自由していること、借銀、借米を重ねて生活が窮迫していることをあげ、噯役を通して地頭宛に扶持米の増額を願い出た例がある。
この願いは聞き届けられ、宝永頃より番所勤務は七、八年の年限で麓に戻ることが許されるようになった。
これまでみたような郷士制度は薩摩藩の特徴的なもので、近世の山之口郷はこれら郷士を中心に北郷氏下臣筋の百姓、薩摩藩各地からの移百姓である所移者などによって構成されていた。
天保九年(一八三八)を例にとると、山之口郷の人口は郷士とその家族男女合わせて五二二人(一二三戸) 、出家一人、社家一三人、郷士下人・下女四一人、百姓一二九〇人、合わせて一八六七人を数えている。
従って全人口の二七%を郷士とその家族が占めており、一つの共同体を形成していた。(1)
このような郷士集団が文弥節人形浄瑠璃を愛好し、また演じたことを示すのが現存最古の資料、台本「出世景清」の奥書である(三章一節)。 07
これには番所警固の郷士「曽木氏某」が人形を舞わして村民を楽しませたことが記されている。山之口麓の人形浄瑠璃を特徴づけるのは、演者がこの郷士集団であったことである。
そして以後も引き続いて後裔の人々によって厳格に管理・継承されてきたという口承がこの集団内に存在し、その間、職業的芸能者が関与した形跡が見られない。
その上、演目が「出世景清」と「門出八嶋」の二つに限られ、明治六年以来、殆どそのままに引き継がれてきた。
とりわけ山之口の人形浄瑠璃の初発について興味をひかれるのは、島津家参勤交代の際、藩主の無聊を慰めるために人形を操ったこと、あるいは大坂・京で流行していた人形を習い覚えた郷士達が持ち帰り演じたという伝承を郷士集団が伝えてきていることである。
今のところ、この伝承を裏付けるような史料には恵まれていない。しかし同じように文弥節を伝承してきたとする鹿児島県東郷町斧渕の人形浄瑠璃の場合も、「参勤交代の折り随行した東郷の郷士達が上方から文弥節の師匠を連れ帰ったのが始まり」という山之口と共通する点の多い伝承を残している。
以上のことを考え合わせると、この伝承は文弥節伝来に関わる事実を何らかの意味において投影したものとみることができ、単なる伝承として退けるわけにはいかないであろう。
ところで山之ロ一帯には、景清にかかわる伝説・ロ碑が残されていることに気付かされる。そこでこの景清伝説をめぐって、それを管理してきた芸能集団についてもみておく必要があろう。
山之口にどのような経緯で文弥節がもたらされ定着したか、その芸能的土壌を考える上で、何らかの示唆を与えるものと思われるからである。
二 景清伝説と盲人芸能者
山之口麓の地頭仮屋跡の北に位置する要害の地に山之口城(亀鶴三石城)趾がある。この城について、平家全盛の頃に平悪七兵衛景清が築城したという伝承が残されている。
「三国名勝図会(2)」には「城の左右に山尾あり、右を亀の尾、左を鶴の尾といひ景清は亀の尾に居たりとぞ」と記されており、天保頃には在地の伝承として山之口に根を下ろしていたことが確かめられる。
また古大内川をはさんで福王寺跡の近くには古石塔があり、これを景清の娘人丸姫の墓と呼んでいる。このように山之口には景清と人丸にまつわる断片的な伝承が現存している。
そこで柳田国男の言に従えば、一小人物である景清を英雄に仕立てあげ、その説話を語り歩いた職業的な「遊芸団」がかつてこの地にも存在したこと、それが文弥節人形浄瑠璃を根付かせる芸能的基盤の一端を形作っていたのではないかということが想定されるのである。
古来日向地方には、山之口に限らず平家座頭や地神盲僧などの盲人集団の始源に関わる伝承が集中的に存在していた。
例えば盲僧縁起では、「欽明天皇の御代に、日向の鵜戸窟にいた祐教礼子という盲人が土神を祭る法を異人から習い、それが盲僧行として九州・中国に広まった」という職能伝承を伝えており、日向を発祥の地としている。また景清に関係した遺跡に限っても、宮崎市に生目神社、下北方に景清廟がある。 08
このほかにも景清塚や人丸墓、景清の旧居・草庵の跡地、景清目洗いの井戸、景清遺愛の琵琶「春日野」、景清の持仏千手観音など、周辺にはさまざまな景清にまつわる伝承が残されている。
これら景清伝説のあるものは、「日向地誌」によれば、一六世紀の中頃にはすでに日向の地に定着していたという。すなわち、永禄五年(一五六二)成立の伊東義祐の「飫肥紀行」に、平家一門の景清の墓について記述されていたことから確認できるのである。
さて、これらの伝承にあらわれる景清についての説話は、平家に描かれている景清像とは別の独立した説話であって、向井芳樹氏は景清の遺跡がもともと地神盲僧系の人々の管理するところであったと指摘している。(3)
また、この説話の展開に大きく関与したのが九州の地神盲僧の集団ではないかと推定したのは荒木繁氏である。(4)
現在では、この説話に取材して幸若の徒は「景清」を創作し、謡曲「景清」・「大仏供養」・「籠景清」が作られ、さらに幸若舞曲を集約した形の古浄瑠璃「かげきよ」に依拠して近松が「出世景清」を作り上げたといわれている。
この説話の中では、景清は偉大な英雄として描かれており、中世以降の演劇や文学の世界に、少しずつ形を変えながら幾度も登場してきたのである。
ところでこのような独自の景清説話を管理してきた地神盲僧とは、地神陀羅尼経などを琵琶を弾きながら読誦し、地神を祭ることを職掌とする呪術的な宗教者であった。
この盲人集団の中から平家を語り芸能を本業とする平家座頭があらわれ、中世には当道座を組織するのである。近世には、当道座の中にも景清を祖神とする景清派があり、同じく蝉丸派と共に地神派と呼ばれ、「座頭昇進之記」によれば「至極下りの物」と位置付けられていた。(5)
一方の地神盲僧は当道座に対抗するほどの全国的な組織を持つに至らず、地方の有力寺社のもとで小集団を形成していた。南九州ではのちに常楽院を本寺とし、財部座・三俣座などの座を組織して家督職を称している。(6)
やがて両者の間に、芸能の営業権をめぐって軋轢が生じ、史料の上では寛永頃からその動きが記されるようになる。
あくまでも配下におさめようと圧迫を加える当道座に対抗して、盲僧は本寺を求めて比叡山に接近した。
延宝二年(一六七四)、両者の争いは公事として表面化した。裁決の結果、幕府権力を後ろ楯にした当道座の主張が一方的に認められ、地神盲僧側の敗訴となる。
そして盲僧は胡弓・三味線・筑紫琴、小歌・浄瑠璃など遊芸で渡世することを禁じられ、琵琶を持ち地神経を読むことだけが許された。(7)
この盲僧条目に規定されている芸能禁止令を通して、延宝頃の地神盲僧が浄瑠璃を語るなど平家座頭と同じように遊芸に携わっていたことを読みとることができる。
この座頭争論の裁許は各地におかれた当道座の地方組織にあてて下知された。南九州でその対象となったのは、大田検校を支配役とする薩摩島津藩、日向では延岡・高鍋・飫肥の諸藩であり、これらの藩には平家座頭の拠点がおかれていたことがうかがえる。(8) 09
このように一七世紀後半には、すでに当道座の地方組織は遠く西国にもおよんでおり、近世的な座として確立していた。一八世紀にかけては、その勢力が最も盛んな時期であった。
それは元禄文化を背景に、専門的芸能者としてばかりでなく、素人への芸能伝授者として盲人芸能者の進出を歓迎する豊かな芸能市場が都市には開かれていたからである。
例えば大坂は商品経済の全国的な発展に伴って近世的な商業都市として繁栄していたが、それは同時に盲人芸能者の活躍の場を提供することになる。
平家座頭は琵琶を携えて平曲を語るほか、三都を中心に三味線や箏を手にして伝統的な長唄・端唄などの地唄や箏曲・浄瑠璃など、特に庶民の間に普及した芸能の舞台で活躍した。
寛文・延宝の頃には、浄瑠璃は井上播磨掾・宇治加賀掾らによって大いに発展し、やがて元禄頃には竹本義太夫によって近世浄瑠璃として大成する。
そして当時流行した浄瑠璃諸流にも多くの盲人芸能者があらわれた。
「人倫訓蒙図彙」巻七によれば、浄瑠璃芝居における三弦が多く盲人芸能者の手になること、また「今みやこにては嘉大夫、角大夫とて其名四方にきこゑたる名人」が「両流を田舎までももてはや」したことを伝えている。
このように操浄瑠璃は都市から地方へと運ばれていき、盲人芸能者の活動の舞台も広がっていった。
ここで近世芸能の地方への伝播のルートを考える時、見落とせないのは諸大名家に抱えられ、また招かれる芸能者の存在である。
諸大名は江戸藩邸や国許で、酒宴での接待や座興に必要なこともあって、能役者らとともに盲人芸能者をも召し抱えていた。
前にみた薩摩島津藩お抱えの扶持検校、大田検校のように、当時盛行した芸能をもって奉仕する盲人芸能者の存在はめずらしいことではなかったのである。
また明暦から元禄にかけて松平直矩が「松平大和守日記」に記したように、当時諸大名が能・狂言・浄瑠璃を楽しむために、江戸藩邸に芸能者を呼び寄せる例も少なくなかった。
従って国許の藩士が江戸・上方で、当時流行していた都市的な芸能に接する機会は大いに有り得たであろう。
さて、山之口に現存する景清伝説に始まり、これまで盲人芸能者が関わった延宝以降の都市的芸能を中心に述べてきた。
しかし諸大名に扶持されていた検校・勾当などの当道の上層部とは対照的に、地方には村々を語り歩く末端の座頭たちも存在していた。
また浄瑠璃は盲人芸能者だけの持ち芸であったわけではなく、江戸・上方でもてはやされた芸能は諸国を往来する雑芸能者などによっても遠く九州まで運ばれてきたにちがいないのである。
そこで次に村々では浄瑠璃がどのように享受されていたか、浄瑠璃の地方的な在り方を考えてみよう。
三 「正房日記」にみる地方的浄瑠璃
幕末期に薩摩藩の命令に応じて山之口郷年寄が提出した記録「古今山之口記録三之下」には、「御条書写」が収録されている。(9)
その中に「他国より或猿舞或致狂言鉢之者入来候ハ、常々禁止二被申付候旨申付、御番所外より可相帰候、若御領内を通如他領罷越候ハ、可為格別之条、御番所より致添状所次衆中相付可差通候、
通筋之外脇々江曽而不立寄様二可申付候、右通路之内何方二而も仕業見物仕候事堅可為停止之事」という一条がある。 10
これは宝永五年( 一七〇八)三月に出された山之口番所の心得るべき「条々」の一つである。
ここに示されているのは「猿舞」や「致狂言躰之者」についての取り締まりの例だが、これを山之口を訪れる芸能者一般に対する規制策とみても差支えないであろう。
しかし果たして山之口郷ではこの「条々」が厳守され、村外からの芸能者は歓迎されなかったのであろうか。
山之口には、どのように芸能が享受され、規制されたかなどを直接語る史料に欠けていて、その具体的な様相を明らかにすることができない。
そこで筑前福岡藩の在郷武士の例ではあるが、加藤正房が記した「正房日記(10)」を取り上げることにする。この日記は、さまざまな芸能者が正房宅を訪れたことを記録している。
彼らの姿を通して山之口郷の場合を推察する手がかりを得たい。
「正房日記」の筆者、加藤金左衛門(のち助太夫)正房は、福岡藩の大老である三奈木黒田家の玄関頭番として福岡城内の屋敷に勤務していたが、天和二年(一六八二) 、父助太夫の急死により家督相続し、
それ以後は知行地である筑前下座郡三奈木村に住んだ。慶長一七年(一六一二) の知行目録によれば、三奈木村は三奈木黒田家の知行地のうち最大の村であった。
福岡藩領の周辺部に位置しており、他の知行地とは三奈木街道で結ばれ、日田街道を経て商品流通のさかんな甘木と近接していた。
三奈木村では代々在郷家臣たちは農民と混在して生活しており、三奈木黒田家の屋敷である「御茶屋」を中心に一つの在郷家臣社会を形成していた。
この日記は延宝三年( 一六七五)より元禄二年(一六八九)までの在郷武士(陪臣)の日常生活を克明に記しており、浄瑠璃ばかりではなく三奈木村の人々の生活と芸能の関わりを知る上でも貴重な記録である。
この日記に登場する芸能者は、平家を語る勾当や小歌・浄瑠璃を語る座頭・瞽女などの盲人芸能者、踊り・稽を演じるカ武・芦屋・植木・豊前の各念仏集団(11)、仕舞・謡・拍子を披露する能役者である美麗一族、
立舞(舞まい)の役者又太夫など多彩である。(12)
ここでは浄瑠璃・あやつりを演じる芸能者に限ってその具体例を次に適記しておこう。
1 甲田無八。三奈木村の人形つかい。正房と親交があり、正房の主君一貫の城内屋敷でその「しゆつ」を披露。
2 説経金兵衛。小歌・説経・説経あやつりを演じる。三奈木村の馬祈祷に出演、正房宅でもその芸を披露した。
3 説経徳左衛門。説経浄瑠璃一座「徳佐組」の頭分。浄瑠璃・小歌・説経浄瑠璃を一座五、六人の者および浄瑠璃作太とで演じた。正房宅ではこたつの間に幕を張り人形をつかう。
4 浄瑠璃語りの与七。正房宅で浄瑠璃を語る。
5 浄瑠璃市郎兵・小八・権八・加佐・角内。一座六人は参宮下着祝として宮原であやつり、翌日正房宅玄関前で浄瑠璃「鎌足」、翌日昼にもこたつの間で浄瑠璃三段、狂言など人形をつかう。
夜は宮原で雨乞い願ほどきの稽、その間正房宅に滞在。 11
6 二郎兵衛。あやつりの大夫、正房宅に長期にわたって滞在し浄瑠璃・狂言・小歌・稽を披露。
7 座頭了重・林石・了益・三輪都・新乗院。小歌・浄瑠璃を語る盲人芸能者。嘉麻座頭が「大坂崩」、弥永の座頭が浄瑠璃「奥州合戦」を語った。
そのほか寺内玄春坪にてあやつりの者が六人、願ほどきとしてあやつりをしたこと、村の者にあやつりをさせたことなどが記録されている。
以上の他「正房日記」全体を通して注目される点をいくつか指摘しておきたい。まず第一に、浄瑠璃は説経・浄瑠璃語り・あやつりの大夫・座頭の持ち芸であった。
あやつりは説経金兵衛、説経徳佐組など五、六人で編成された一座によって、また甲田無八・ニ郎兵衛のような芸能者のほか村の者も行っていた。
また植木・豊前の念仏集団が何か稽を演じたことが記録されているが、この稽には人形浄瑠璃も含まれていた可能性がある。
第二に、正房は盲人芸能者をすべて座頭と呼んでいる。中でも三輪都は都名を名乗っていることから当道座に属する平家座頭とみてよいが、新乗院については、院号を持っていることから盲僧であった可能性が高い。
盲僧であったとすれば、延宝二年(一六七四)に出された盲僧に対する芸能禁止令が実際には徹底していなかったことの一例となろう。
第三に、筑前では盲僧が檀家を回って荒神祓いなどを行ったあと、余興として「くずれ」と称する芸能を行っていたことがよく知られている。
この「正房日記」にみる嘉麻座頭の語った「崩」がその初見である。これは「大坂崩」を指しており、大坂城落城にまつわる語り物と思われる。
このことから考えて「くずれ」の語源は戦記物を語るということになろう。
最後に、正房宅には多くの芸能者が滞在するが、そのうち上方から訪れたと記されているのは独狂言を演じた墨売り十郎兵衛である。
また二郎兵衛は十月より翌二月までというように長期間の滞在を重ね、正房宅を足場に近辺の家を回って浄瑠璃.稽を演じているが、本拠地について正房は全く記していない。
そのほかの芸能者は三奈木村近辺の村や筑前・筑後・豊前をその本拠地としている。
以上のように、正房宅には広い地域から多くの芸能者が訪れている。例えば村外から訪れた浄瑠璃市郎兵衛のあやつり一座を三奈木村では家々に招き、正房宅には「村侍、内儀・子供衆」まで見物にやってくる。
特に正房との間には日常的に親密な関係が取り結ばれていることが日記の随所にうかがえる。
浄瑠璃といえば、特に三都を中心に、都市文化の中の洗練された芸能の側面に光があてられがちであるが、三奈木村や周辺の地域の在郷武士の間でこのように愛好され、もてはやされた事実は、浄瑠璃の別の一面としてとらえることができるであろう。 12
ところで正房宅を舞台に多彩な芸能者が登場して浄瑠璃が語られ、あやつりが演じられたのは、決して三奈木村に限ったことではなく、より広く九州一帯の村にもみられたことではないだろうか。
その意味で注目したいのは肥後琵琶である。今日でも熊本地方を中心に広く行われている肥後琵琶は、盲人芸能者が琵琶を弾きながら段物などを語る語り物である。(13)
これについて田辺尚雄氏は「古浄瑠璃(宇治嘉太夫節、文弥節、説経浄瑠璃等)と同形式の語り物音楽で、即ち琵琶を用いた浄瑠璃である」と定義付けている。(14)
また兵藤裕己氏は肥後琵琶の旋律についての印象を「やや単調な(等拍的な)語りのテンポ・間合いなど、変則的な義太夫節よりも文弥節系(古浄瑠璃の一)の語り口に近い」と述べている。(15)
このような肥後琵琶と筑前地方の盲僧が余興として語る語り物「くずれ」を比較すると、その間には共通性が認められる。
例えば琵琶を伴奏楽器として用い、その際には三弦の本調子で調弦すること、現存する台本をみる限り、演目に義太夫節浄瑠璃や説経浄瑠璃を取り入れている点などである。
では全く同じかというとそうではない。
どちらもそれぞれ独特の演目、一例をあげると筑前地方では「筑前名島判官鬼人退散」・「筑前浜原田」、肥後地方では「菊池くずれ」などの在地の題材をもとにした合戦譚パートリーに含めており、地方的な独自性がみられるのである。
肥後琵琶の始源については次のような伝承が残されている。
延宝二年(一六七四)当道座の岩船検校(一説には船橋検校ともいう)が西下し細川藩主の前で平曲を弾奏したが、肥後滞留中「菊池戦記」を作歌作曲して盲僧に教えたのが始まりというものである。
この伝承の真偽については定かではないが、延宝の時期については注目すべきであろう。
延宝当時、肥後細川藩では扶持検校として山瀬検校、貞享頃には上嶋・神坂両勾当を召し抱えていた。
当道座の勢力を背景にした座頭たちは、琵琶にかわって流行の三味線を手にし、浄瑠璃を語るなど活発な芸能活動を行っていたものと考えられる。
しかしその一方で、依然として琵琶で語る肥後琵琶師もいた。
彼らは浄瑠璃を語る専業の芸能者であったが、遡れば地神経を琵琶で読誦する宗教者の系譜をひき、ワタマシなどの宗教儀礼にも携わっていた。
三味線を手にすることがなかったのは、このような理由からであろう。
以上のことから考えると、筑前の盲僧が語る「くずれ」も肥後琵琶で語られる浄瑠璃も本質的には違いはないことになる。
「くずれ」が「大坂崩」など戦記物を語ることによって、その戦いで亡くなった者の御霊を慰め、怨念を鎮め供養をしたのと同様に、肥後琵琶で語る浄瑠璃も芸能化・世俗化される以前は、御霊鎮魂のための唱導であったにちがいない。
かつてはその土地に伝承されてきた合戦譚や説話を語り歩く末端の宗教者や芸能者が、九州一帯に広く存在していたのだろう。
現在、筑前の「くずれ」や肥後琵琶、あるいは豊後浄瑠璃(16)の名で呼ばれている語り物は、このような語り手が各地に存在したことのあかしである。
さてこれまで「正房日記」を通して、正房の周辺で演じられてきた人形浄瑠璃の様相を探ってきた。
具体的に描き出されたその情景は、山之口麓の郷士達が文弥節人形浄瑠璃をあやつり、楽しんだ情景を彷彿とさせるものではないだろうか。
この人形浄瑠璃を担った芸能者たちは、その後どのような軌跡を辿っていったのであろう。座頭のようにその活動の痕跡を今日見出せる場合もあれば、残照さえとどめずに消えてしまったものもある。 13
また念仏集団は歌舞伎役者へと変容をとげた。
芸能を渡世の道とするほかはない専門的芸能者は、時代の風潮に合わせ、観客の嗜好に応えてさまざまなものを受け入れる寛容性を身につけていた。
それ故に芸能者相互の交流を通してその時々に人気の高い外題を持ち芸として取り込み、あるいは変貌を重ねることで生きのびてきた場合もあっただろう。
従ってこのことから、山之口麓の人形浄瑠璃が芸能を専業とする集団によるのではなく、在地の郷士集団によって伝承・管理されてきた点は、芸能の古態を考える上で大きな意義を持つと思われる。
(永井 彰子)
【注】
(1) 山之口麓の歴史的背景と郷士集団については、その殆どの部分を次の文献より引用した。山之口町史編纂委員会「山之口町史」(山之口町、昭和四九年)。
山下博明 「人形浄瑠璃の旅(山之口麓)石川県尾口村を訪ねて」(「季刊南九州文化」四四号、南九州文化研究会)
「山之口町麓人形浄瑠璃の旅 新潟県佐渡を訪ねて」(同四八号、同前)、「山之口麓文弥節人形浄瑠璃概要」(同五二号、同前)塩水流忠夫「山之口麓文弥節人形浄瑠璃 文化的価値とその伝承」(「もろかた」20)
(2) 「日本名所風俗図会」一五、九州の巻(角川書店、一九八三年)。
(3) 「語り物における景清像の展開 宮崎に残る景清伝説をめぐって」(「近松の方法」桜楓社、一九七六年)。
(4) 「幸若舞2」解題(平凡社、一九八三年)。
(5) 兵藤裕己「当道祖神伝承考(下) 中世的諸職と芸能」(「文学」一九八八年九月、岩波書店)。
(6) 「庄内地理志」三五(宮崎県立都城図書館蔵)。
(7) 中山太郎「日本盲人史」(八木書店、一九七六年復刻)。
(8) 高原文書63 「平家座頭と地神経盲目争論記写」(永井彰子「近世における筑前の盲僧」「福岡県史」近世研究編福岡藩(三)参照)。
(9) 山下博明「日向国三俣院山之口の関所」
(10) 「甘木市史資料」近世編、第七集(甘木市、一九八五年)。
(11) これらの念仏集団については拙稿「福岡藩領における芸能集団 寺中」(演劇研究会会報第一七号、平成三年)を参照されたい。
(12) 拙稿「福岡藩領における近世盲人芸能の展開」(「福岡県史」近世研究編福岡藩(四))参照。
(13) 肥後琵琶については「肥後琵琶」(肥後琵琶保存会、平成三年)に詳しい。
(14) 「荒神琵琶とその系統」(国立劇場第三回中世芸能公演「荒神琵琶」パンフレット、一九七〇年)。
(15) 「座頭琵琶の語り物伝承についての研究(一)」( 「埼玉大学紀要」教養学部、一九九一年)。
(16) 大分県国東、大野、直入地方で語られ、演目は「羅生門鬼退治の段」一曲だけである。方言で自由奔放に語るところが特徴である。 14
第二章 浄瑠璃史における文弥節
我が国には古代、中世、近世、近代を通じて、多種多様の人形劇が存在した。
近世の人形浄瑠璃に限っても、一七世紀、一八世紀、一九世紀に三都で書き下ろされ、初演された作品は、都会の観客に享受されるにとどまらず、初演直後から地方廻りの人形浄瑠璃劇団により、または土地の素人の伝習を通じて、日本全国に普及した。
これらの人形浄瑠璃のなかで、もっとも複雑な形態に発達を遂げた、義太夫節三人遣い人形浄瑠璃(現在、文楽と呼ばれるもの。別系に淡路人形がある)について、永田衛吉氏は、文化文政期(一九世紀前期)にこれを演ずる素人劇団が、全国で一千にものぼったと推定する(「日本の人形芝居」)。
現代まで生き残った三人遣い人形座は、宇野小四郎氏によれば、昭和五五年の時点で、六〇箇所とのことである。(「地域と文化」3 ) 。
三人遣い(文楽・淡路)人形浄瑠璃より、一段階前の、古浄瑠璃系人形浄瑠璃も、二〇世紀前半までは、全国に相当数伝存していたと思われるが、現時点における伝存地域は四箇所、即ち新潟県佐渡郡(新穂村・相川町・その他)、石川県石川郡(尾口村・鶴来町)、鹿児島県薩摩郡東郷町斧淵、そしてここ、宮崎県北諸県郡山之口町麓である。
古浄瑠璃とは、一六世紀末ないし一七世紀初期から、貞享二(一六八五)年、竹本義太夫・近松門左衛門の提携によって、義太夫節による新しい人形浄瑠璃が成立する(これが文楽の原点)以前の人形浄瑠璃の呼称であるが、
義太夫節人形浄瑠璃成立以後も、一八世紀前期までは、三都でも古浄瑠璃の興行は、ある程度続けられていた。
古浄瑠璃時代、一世紀余の間に、京、江戸、大坂三都それぞれに、優れた太夫が輩出し、何々節、何太夫節と呼ぶ多くの流派が生まれたが、
現在、佐渡、石川、鹿児島、宮崎に残る浄瑠璃は、流派としては、それらのうち、
(一)岡本文弥の語る文弥節に属するといわれるもの。
(二)岡本文弥と同門の山本角太夫の角太夫節と、何らかの関係をもつもの。
と考えられる。この(一)と(二)を截然と二つに分けることはできない。
まず現存の古浄瑠璃人形は、すべて(二)に属しその上で、佐渡の、説経(広栄座)以外のもの、石川県尾口村東二口、鹿児島県東郷町斧淵、宮崎県山之口麓のものは(一)にも属する。
(一)に属しない佐渡広栄座の説経人形と、石川県観来町(旧尾口村)深瀬でくまわしは(1)、同地域の(一)に属するものより、総体的に古態を思わせる。
但し同地域の(一)(二)に、語り方その他の点で、ある程度の類似が認められることも事実である。 15
(一)(二)いずれも浄瑠璃の演目としては、山本角太夫系のものを主体とし(但し佐渡文弥の主要演目はむしろ角太夫正本のない宝永以後の近松物)、佐渡説経広栄座、石川県尾口村東二口、鹿児島県東郷町斧淵、宮崎県山之口麓では、浄瑠璃の間に即興的な滑稽人形戯の間の狂言ないしこれに準ずるもの(四章五節参照)を演ずる(もしくは演じていた)。(2)
これも義太夫節の竹本座が、正徳五(一七一五)年初演の近松門左衛門作「国性爺合戦」を演じて大当たりをとった時から、間狂言が廃止されたとされているので、一八世紀初期までの人形浄瑠璃上演の古態を留めるものと認められる。
(一)にいう文弥節、(二) にいう角太夫節について、詳しくは三章一節を参照されたいが、文弥節、角太夫節、ともに大坂伊藤出羽掾座系の古浄瑠璃である。
角太夫節が京都を基盤にするのに対し、文弥節は大坂出羽座を拠点とし、一七世紀末に流行したが、一八世紀に入ると、義太夫節の盛行と反比例して衰退した。
しかし義太夫節などに「文弥」と呼ばれる節付けがあり、その華麗で哀愁を帯びたメロディが今日まで愛好されている。
一七世紀末から一八世紀初の義太夫節に、文弥節は少なからぬ影響を与えている。
正徳五(一七一五)年、義太夫節豊竹座「本朝五翠殿」の付録として初演された「浄瑠璃古今の序」には、井上播磨掾、宇治加賀掾、道具屋吉左衛門、江戸土佐掾、竹本筑後掾(初代義太夫)の浄瑠璃とともに「岡本文弥がなきぶし」を挙げる。
「浄瑠璃古今の序」の節付は、一八世紀後期に発明された義太夫節三味線の譜(朱)に採譜されて今日でも聴くことができるが、その「岡本文弥がなきぶし」の件で「文弥フシ」と文字譜を付した部分(演奏時間約四分程度)は、義太夫節各曲に含まれる「文弥」部分と、節付が共通する。
一七世紀後半、一八世紀初に活躍した古浄瑠璃太夫の中でも、山本角太夫は特に数多くの正本を刊行し、近松門左衛門が竹本義太夫のために書下ろした作品も、角太夫座に移され、角太夫節の正本をもつものが多いのに対し、岡本文弥の現存正本は非常に少ない。
現在全国四地域で語られる古浄瑠璃は、正本としては(義太夫節系のものを除けば) 、確認できるのは殆ど角太夫系ばかりである。
即ち、佐渡も、石川県東二口も、鹿児島県斧淵も、宮崎県山之口麓も、「文弥」を称するが、現存資料による限り、台本としては殆どが角太夫正本を語っているのであって、
「文弥」を称せずに角太夫正本を語っている佐渡説経、石川県鶴来町(旧尾口村)深瀬でくまわしの場合との区別がむつかしくなるのである。
山本角太夫の正本が、正本としてはこのように各地に浸透しているにもかかわらず、現存古浄瑠璃で角太夫節を称するものはなく、正本の極度に少ない文弥節のみが、何箇所にも伝存する。
後述の如く、近代まで文弥節を伝えた地域は、右四箇所の他にもあった。義太夫節の中でも、角太夫節を取り入れた「角太夫」という節付は、稀であるのに対し、「文弥」の節付け例は、現行曲に限っても枚挙に暇ないほど多い。文弥節は、作ではなく、節に、その生命があったといえよう。
がそれと同時に、義太夫節の現行文楽に直結する時期 -正徳末~享保初(一七一五~一七)の「国性爺合戦」以後- に、大坂で文弥節が、まだある程度の力を持っていたことにもよるであろう。 16
即ち元禄七(一六九四)年に初代文弥が没した後も、二代目文弥をはじめ出羽座の太夫などに文弥節を語る者が多くあったということである。
その場合、延宝、天和、貞享頃の初代文弥と、元禄後期ないしそれ以後の二代目文弥等とでは、同じく文弥節と呼ばれても、曲風に変化があったに相違ない。
山之口麓の文弥浄瑠璃が、このような人形浄瑠璃史の流れの中で、また現存四地域の古浄瑠璃人形劇もしくは文弥人形劇の中で、如何に位置づけられるかを見極めるために、まず最も研究の進んでいる佐渡の文弥節が、どのように捉えられているかをみておきたい。
文弥浄瑠璃の研究として高く評価されている、佐渡の佐々木義栄氏の「文弥人形の研究」( 「近代」三号)において同氏は、佐渡の文弥節を正本、文献、芸態の各方面から検討し、石川県東二口、鹿児島県斧淵(昭和二〇年代末か三〇年代初の故長倉孝夫氏らの演奏によると思われる、山之口麓の文弥が学界に知られる以前)とも比較した上で「フシヅケ、語り物、曲風三つの点から考えると佐渡の(斧淵も同様・筆者注)文弥節は実は角太夫節だ、ということになる。
にも関わらず、私はやはり岡本文弥に結ぶのが正しいのではないかと考えている。」として、「声曲類纂」(一八四七年刊)にいう文弥の角太夫正本流用を引き、宝暦六( 一七五六)年に大坂で刊行された「竹農故事」に「元禄年中の比、京都山本土佐掾(角太夫・筆者注)の門人岡本文弥、伊藤出羽掾芝居にて一流を語り広められ(中略)大坂中は云ふに及ばず、遠国までも名誉を顕されたり。」「伊藤出羽掾座の文弥節は諸国の浦々隅々迄もはやり、遠国辺土の西国順礼の衆中、京都にては御内裏様、大坂へ来ては出羽様の芝居を見て帰らねば西国したる甲斐もなく(下略)」と、文弥節が全国に浸透していた状況に加えて、
佐渡の「山椒太夫」が、「出羽掾阿波太夫の語り物(略)文弥の系統に属する」ことを挙げている。
佐々木氏が引用した「竹豊故事」では、角太夫(土佐掾)を初代文弥の師とするが、その後の信多純一氏の研究「山本角太夫について」(古典文庫「古浄瑠璃集・角太夫正本」(一))により、逆に文弥を角太夫の師または先輩とみることが定説化している。
が二代目文弥は角太夫の門人である可能性はあり、「想像をたくましくすれば、元禄期の出羽座の太夫は、角太夫節系の太夫ではないかと思われる」(信多純一「山本角太夫について」) とも言われている。
初代文弥自身、後輩の角太夫の正本を流用したと推定される例があり(阪口弘之「出羽座をめぐる太夫たち|-「道行揃」を手がかりに」(「大阪市立大学文学部紀要・人文研究」昭和四九年一〇月) 、初代文弥、二代目文弥と角太夫との関係は非常に密接で、特に元禄期とこれに続く時期の「出羽掾座の文弥節」については角太夫系正本で太夫名が削られ、「太夫直之正本」などとあるものは出羽座の正本として売られた可能性もある(時松)。
角太夫節の特色の一つとされるウレイブシは、初代文弥の「なきぶしを発展させたもの」(阪口弘之「日本古典文学大辞典」岡本文弥)といわれるが、文弥・角太夫の師伊藤出羽掾の正本にもウレイフシはみられ(阪口弘之「山本角太夫の初期語り物考」「国語と国文学」五二年六月)、二代目文弥も初代の門弟岡本阿波太夫も「角太夫節に傾き、むしろ「うれいぶし」を語る」状態で、元禄後期以後「ナキプシ」と「ウレイプシ」を、実質的にどれだけ別のものとして把握できるか、疑問なのである。 17
佐渡をはじめとする地方の文弥節を把握する場合も、この大坂の文弥節の状況を踏まえる必要があるであろう。
ところで、以上は文弥節という、音曲・浄瑠璃に関する佐渡と大坂との関係である。人形を伴った文弥人形浄瑠璃に関しては、佐渡とその他の地域では、大きく伝承事情を異にする。
佐渡は、文弥・説経.のろま、三種の古浄瑠璃系人形を、豊富なレパートリー、複数の伝承座、熟達した演者をもって伝承する古浄瑠璃国の牙城であるに相違ないが、しかし、佐渡説経.のろま人形が、近世以来、現在の如き古態を保って演じられてきたのに対し、佐渡芸能の顔というべき文弥人形は、人形劇としては明治期の創始である。
佐渡の文弥節は、近世には、人形を伴わぬ盲人の語り物として行われていた。
人形との結び付きは、佐々木義栄氏によれば、当道座のくずれた明治初期の頃のことであり、同氏はまた、盲人芸として明治期、及び昭和前期、飛騨や越後に存在していた文弥節についても調査している。
佐渡の文弥節は盲人芸であったが故に、音曲としての洗練を加え、節付の細やかさ、三味線の艶麗さ(佐渡のみ太夫の弾き語り)など他の三地域にまさる高度なものとなり得たが、琵琶の影響も、他の三地域以上に強いようで、また佐々木氏の指摘している、盲人芸奥浄瑠璃との近さもうかがわれる。
現存文弥浄瑠璃のうち、節付に、佐渡との類似がもっとも顕著であるのは、佐々木氏が昭和三〇年代初の時点で報告した通り、鹿児島県東郷町斧淵の文弥人形踊りである。
斧淵の現在の伝承曲は「源氏烏帽子折」二段目雪の段一段であるが、かつては「源氏烏帽子折」の他の段及び「出世景清」「門出八嶋」も行われていた(語り本が現存する)。
人形についていえば、斧淵では男の人形は一人遣いであるが、女役は二人遣いで、手の動きがこまかくなる。
遣い方も「人形踊り」と呼ばれるにふさわしく、人形を操る遣い手も、一種舞踊的な動きをする。浄瑠璃も、語り物性、演劇性よりも歌謡性に傾斜するところがある。
我々が今考察を進めようとしている宮崎県山之口麓の文弥人形浄瑠璃とは、距離的に他所より近くにある訳であるが、両者の間に、佐渡と斧淵の文弥節のような著しい親近性は認められない。
もっとも演目の共通、ともに「人形踊り」の名称がある(三五頁明治六年「人形廻シ名簿」参照、但しこの明治六年の時も山之口麓では「人形踊」より、「人形廻シ」の呼び方を正式に用いているようである)、また泉房子氏が言う如く、人形の表情が近い(「かしらの系譜-宮崎と九州の人形芝居-」)、等の指摘はできるが、それらの現象は直接の交流なしでも起こり得る。
斧淵の、二人遣いを併用する舞踊的、歌謡的な人形に対し、山之口麓の人形は、他の古浄瑠璃の人形と同じく、一人遣いで、後述の如く、ストーリー本位、演劇的である。
(但し斧淵に関しては、現在、伝承曲が一段のみであるため、語り口や人形の演技の詳細な点には言及し難い)。 18
今一つの、文弥浄瑠璃、文弥くずしなどと呼ばれる石川県尾口村東二口のでくまわしの場合は、確かに演目のいくつかは佐渡、斧淵、山之口麓の文弥と共通し、語り口にも若干の類似は認められるが、語り口の古朴さ、古浄瑠璃系のカシラの伝存等は、むしろ同村(尾口村、現在は別町)深瀬のでくまわし、ないし特に佐渡説経人形(広栄座) 、即ち文弥を称しない古浄瑠璃系人形と、重なりあうところも多い(角田一郎「諸国の人形操り」参照)。
ともかく東二口の浄瑠璃は、「文弥くずし」と言われる如く、佐渡、東郷町斧淵、山之口麓のものとは、語り口の面で、やや趣を異にすることは留意してよいであろう。
佐渡、東二口、斧淵文弥浄瑠璃が、昭和二〇年代までに紹介され、研究対象に含まれていたのに対し、宮崎県山之口麓文弥人形は、昭和四一年以前には、学界に知られる機会がなかった。
昭和四一年に、早稲田大学商学部教授で、地方の人形劇のすぐれた研究者である杉野橘太郎氏が、山之口麓出身の原沢仁麿氏の話を聞き、昭和四二年一〇月三一日に山之口麓を訪れて調査、昭和四二年度日本演劇学会秋季大会において「江戸系三人遣い人形の「堰歯首」と宮崎県山之口麓の文弥人形浄瑠璃」の発表を行ない、「山之口麓文弥節人形浄瑠璃について-発見と調査-」(「早稲田商学」二〇一号・昭和四三年六月)を著して、周く知られるところとなったのである。(3)
最も遅れて紹介された山之口麓文弥人形浄瑠璃は、しかし、文弥人形浄瑠璃研究の上に、きわめて重大な資料を提供することになる。
佐渡の文弥人形は、人形浄瑠璃としての成立は明治以後であること、前述の如くである。
その浄瑠璃は、近世に盲人芸として佐渡でさかんに行なわれ、幕末までには文弥と呼ばれていたことは、佐々木氏が、明治初を記憶する古老から確認し、さらにそれ以前近世中期頃に文弥と称していたであろう徴証も指摘されているが、「文弥」と明記した文献資料は、佐々木氏の調査では、明治二一 年のものが最古である。
石川県東二口でくまわしは、古浄瑠璃人形の古態を残していることは疑うべくもないが、近世の記録類は乏しく、これを「文弥」と称したとする近世の年号を記した記録は報告されていない。(4)
鹿児島県斧淵については、角田一郎氏が昭和四一年に行った調査ノートによると、「慶応元年丑十一月吉祥日」と記す景清(牢破り)のカシラがあり(近松研究所所蔵「角田文庫」の「斧淵人形ノート」)、少なくとも幕末以来のこの芸能の伝承を裏付ける記録(5)であるが、このカシラを用いて演じた人形踊りが「文弥」と呼ばれたという記録ではない。(現在、東郷人形浄瑠璃保存会会長木場岩利氏が保存する正本類の中で、最も古い識語に記すところは明治一七年三月である。)
要するに三所とも近世にこれを文弥と称したと認めるのは、口承によらざるを得ない。
これに対し山之口麓の文弥人形浄瑠璃については、「文政九丙」(一八二六)年の識語を持つ「出世景清」写本に「関農士」の「曽木氏某」が「フンニヤノ浄留理ヲ好諷之」「操ヲ企而人形舞ス地ヲ話」って、村民を楽しませた状況が述べられている。
近世の年号を明記した文弥人形浄瑠璃上演資料を有することは、他所にない、山之口麓人形浄瑠璃の特長である。
というよりも、一八二六年の時点で、その七〇年前の「竹豊故事」に「諸国の浦々隅々迄」文弥が行なわれたと記すことを裏付け(6)、大坂から最も「遠国」の当村で、文弥節の人形浄瑠璃が愛好されていたことを明らかにするこの文献資料の存在は、佐渡をはじめとする他所の文弥浄瑠璃の伝承状況、大坂の文弥節との関係等を解明する上にも、きわめて重要であるといわねばならない。 19
佐渡、類似する東郷町斧淵、及び山之口麓の文弥節、三者とも、元禄七(一六九四)年に没した初代岡本文弥の語り口に源を発するものではあるが、実質的には、元禄後期以後の二代目岡本文弥とその後継者達、宝永、正徳、享保前期頃に出羽座に拠った太夫達の語り口が、地方に伝えられたものではなかろうか。
佐渡文弥の「山椒太夫」が初代文弥門弟岡本阿波太夫の語り物であることに注目したい。
元禄一六(一七〇三) 年に竹本座で、近松門左衛門作「曾根崎心中」が大当たりをとる頃まで、「出羽にはさまくのからくりなどし」て観客を呼び、竹本座は興行的に出羽座に圧倒される状態であった(「今昔操年代記」一七二七年刊)。
宝永期( 一七〇四-一〇) に「文弥節もふるめかし」と言われたとしても、正徳三(一七一三) 年の時点で出羽座は「山本出羽芝居、夥敷繁盛。去年九月より阿弥陀仏四十八願記と申、上るり閏五月九日迄仕候。(中略)三重郎四十八願記、出羽が通すきと唐仕立甚結構なる綺羅と云々。」(「鸚鵡龍中記」正徳三年五月一五日)という盛況であり、「阿弥陀仏四十八願記」は早速歌舞伎に移されている。
初代文弥以来の出羽座のおはこともいうべき「阿弥陀仏四十八願記(7)」を、おそらく、基本的には、「ふるめかし」い文弥節または角太夫節で語ったのであるが、華美な衣裳や当世風を加味した演出で、人気を呼ぶことができた。
しかし享保期に入ると義太夫節に対する古浄瑠璃の劣勢は顕著になり、休場を余儀なくされることも多くなったであろう。
出羽座末期の正本として、享保一七(一七三二)年一二月「前内裏島王城遷」があるが、義太夫節の太夫が語り、節付も義太夫系である。
この段階にいたる以前、二代目文弥の活躍期、元禄末宝永前期出羽座浄瑠璃の節付けに、スヱテの多用など義太夫節の影響が濃厚であることは七八頁に述べる通りである。
宝永、正徳、享保前期、出羽座の浄瑠璃が生き残りのために、義太夫節の語り口を取り入れていた一方、義太夫節の方も旋律が華やかで感傷的に聴衆の心を捉える「文弥」の節付をさかんに取り入れ、享保一一年豊竹座で記録的成功を収めた「北条時頼記」雪の段は、座頭の上野少掾(初代豊竹若太夫)が文弥節を多用して人気を得たことで、竹本座座頭竹本播磨少掾( 二代目義太夫)から、批判を受けた。
それだけ、享保中期の時点で、文弥節はまだ大坂で生きていたのである。しかしこの前後から、大坂の中央劇界からの撤退を余儀なくされつつある時、文弥節は以前にもまして、地方興行の地盤獲得に力を入れ、「遠国」「諸国の浦々隅々迄」文弥節が根付くこととなったと考える。
現存の全国文弥の代表曲「出世景清」「門出八嶋」の曲目そのものは、「阿弥陀仏四十八願記」などと同じく、初代岡本文弥生前から語られていたであろうが、このような早い段階の曲も、地方へ伝播する際に、二代目文弥及び宝永正徳頃の出羽座の節付や演出が加わったはずで、佐渡、斧淵、山之口麓の文弥節はこの系列に立つものと見るべきであろう。
他方、佐渡広栄座の説経.のろま人形、石川県深瀬のでくまわし、および東二口の文弥くずしでくまわしは、土地に伝わった時期はともかく、人形浄瑠璃の形式としては、角田一郎氏の「諸国の人形操り」の説くところに従えば、これらより古い、一七世紀末以前の古浄瑠璃人形を伝えたものと言えるかもしれない。 20
佐渡等の文弥浄瑠璃が、もし従来の説の如く元禄七年に没した初代岡本文弥の浄瑠璃を直接伝えたものであるとすると、たとえば佐渡文弥節の主要曲目が、初代文弥も角太夫も没した後の、近松の宝永、正徳、享保初期の作品であることの説明が困難である。
山之口麓の場合は、演目は「出世景清」(義太夫本貞享二年・一六八五)「門出八嶋」(原作の義太夫本「津戸三郎」元禄二年・一六八九)であるから、初代文弥であっても差しつかえないが、語り口ないし節付面で、一八世紀初期文弥系浄瑠璃の義太夫節への接近状況の投影があるかと見られる点(七八頁)、また総体に写実的な演出傾向(「提灯とぼし」で大豆をつかって波音を出すなど)を、もし初代文弥(角太夫の先輩)との関係から見るならば、後に生じた変化とせざるを得ないが、正徳享保頃の出羽座浄瑠璃の系列においてみれば、この程度の義太夫節への接近や写実性は、本来的なものともみなし得るのである。
しかも、山之口麓の文弥浄瑠璃の新しさは、どこまでも三人遣い発明(享保一九・一七三四年)以前、古浄瑠璃系一人遣い人形の演出の範疇で捉え得るものである。
平成四年に発見された明治六年六月上演時の演出台帳「人形廻シ名簿」に注目すべき記載がある。
「門出八嶋」「出世景清」各段各場の人形登場のし方を指示するのであるが、人間の俳優や三人遣い人形の如く写実的に上手(同書に「上」と記す)または下手(同書に「下」) から歩いて「出る」指定以外に、「上におやし」といった指定がある。
「おやし」は生やし、即ち古浄瑠璃系人形特有の、幕の下からぬっと生え出るように登場することに相違なく、現在でも、「おやし」とある箇所では、そのような登場のし方をすることが多いのである。
山之口麓地区の近世と近代の分岐点ともいうべき(8)明治六年の時点で、三人遣い人形成立以前の人形動作が、適切に描かれているこの演出台帳は、文政九年の「出世景清」写本識語とともに、古浄瑠璃研究の重要資料であるといえる。
古浄瑠璃人形の主流をなす文弥人形浄瑠璃については、昭和四二年以前の段階では、佐渡とその系列に近い斧淵、より古風な形態を思わせる東二口、の二種に大別された。
昭和四二年に学界に紹介された、山之口麓文弥人形浄瑠璃は、語り口は段階的には東二口より佐渡に近いが、斧淵のように佐渡と随所に共通点があるものではなく、佐渡とは異なる演劇性も認められる。
一八世紀初期大坂出羽座の文弥節を祖として、佐渡、東郷町斧淵、山之口麓は、兄弟関係にあると考えられる。
古浄瑠璃の具体的芸態に関わる視野は、文弥人形浄瑠璃の近世の文献資料を備えた、山之口麓文弥人形浄瑠璃の発見により、研究的に拡大されたと言えるのである。
(内山 美樹子) 21
【注】
(1) 深瀬でくまわしを文弥節人形に含めた解説類があるが、土地の伝承に即していないとの、角田一郎氏の指摘(角田一郎「諸国の人形操り」「日本の古典芸能」所収)があり、深瀬でくまわし保存会会長廿日岩仁吉氏談も、文弥と称したことはないとのことである。
(2) 明治以後人形劇となった佐渡文弥人形でも、間狂言を演じていたが、現在は演じられていない。
(3) 同じ時に出された調査報告に山崎久松「九州地方の人形芝居 一 山之口麓の人形浄瑠璃」四二年一〇月三〇日調査(「農村舞台の総合的研究」所収)がある。
(4) 「尾口のでくまわし」(昭和五一年、本田安次・山路興造・渡辺伸夫執筆、観光資源保護財団編)に善財宗一郎氏から得た史料に「白山麓二口村文弥でくの舞由緒書」を挙げるが、年号がなく「遡れても、せいぜい江戸後期までのものと思われ、一級史料というわけにはいかない」とする。なお尾口村東二口でくまわしについては善財宗一郎・小倉学・高橋秀雄などの研究がある。
(5) 「東郷町郷土史」には「人形踊り(人形浄瑠璃)」として「南瀬の人形踊り」と「斧瀬の人形踊り」を掲げ、前者(現在廃絶)に関して明治末以後に失火のために焼失した人形の頭部内側に「元禄何年と書いてあったという。」と記し、深川家に残った人形の頭部内面に「寛政元年己酉六月廿日宮之城・大磯作也作」とあるという。この首が現在所在不明であることが惜しまれる。
木場岩利氏の話でも、南瀬の人形踊りは、斧瀬と同じく文弥人形であったとのことである。勿論右の年号は、首の製作年代であって、文弥節の伝存を伝える直接史料ではない。
(6) 「竹豊故事」が記すところは、直接には文弥節の「元禄年中」における全国的流行である。
けれども、同書がかかれる半世紀以上前に「諸国の浦々隅々迄」文弥節が行なわれていたことを明示する文献資料を「竹豊故事」の著者が手にしていたとは考え難い。
著者の手元に若干の文献と口承があり、これを裏づける事実として、宝暦の現在になお、地方で複数の文弥節が行なわれていたことを考慮に入れるべきであろう。
(7) 伊藤出羽掾と山本角太夫(土佐掾)に同名の正本があり、岡本文弥に「四十八願記」「四十八願記あみだの本地」(絵入本)などがある。
(8) 山之口御番所は明治三年九月までは、確実に機能し、近世の体制が保たれていた史料がある(「高原町史」に明治五年九月に関所が撤廃されたとある)ことから、
山下博明は山之口御番所もその頃に廃されたと考えている(山下博明「日向国三俣院山之口の関所」「季刊南九州文化」二五)。 22
第三章 山之口麓文弥節人形浄瑠璃の歴史
第一節 文弥節の伝播
山之口麓人形浄瑠璃は、文弥節人形浄瑠璃が遺存したものとされている。当地の人形を初めて学会に報告した杉野橘太郎氏によると(1)、昭和四〇年頃まで、当地では「モンヤ節」と呼称していた。
この呼称は八代目語り太夫で、山之口麓人形浄瑠璃の継承に尽力した坂元業衛氏(明治一二年生)以来の口承であったと言う。
杉野氏はこれを「文弥節」の諺伝かと疑い、現地調査に赴き、伝存する「出世景清」の台本の識語に「フンニヤノ浄瑠璃」という文言を見出した。
更に、語りや人形の芸態、伝わるレパートリーを他所に残る文弥人形と比較したうえで、山之口麓人形浄瑠璃を文弥節人形浄瑠璃と認定した。以来、研究者が多く来訪し、広く認められるに至った。
以下、杉野氏が山之口の人形浄瑠璃を文弥節と結論する上で最も有力な証拠となった文政九年(一八二六)に記された台本の識語を検討し、あわせて文弥人形浄瑠璃の伝播状況について考えてみたい。
画像
文政九年写「出世景清」台本の識語を左に翻刻する。
※現在一部破損して読めない最終行のカッコ内の文字を杉野氏の判読文で補った。 23
(読み下し文)
爰に農士始めて関守の務を蒙りて、関内に屋を有したる寡者曾木氏某あり。
兼日フンニヤの浄留理を好み之を諷ひて四民を賑し且つ厄除を爲し、折々宗廟に誓ひ満願して邑内に吟し、操を企て人形を舞す地を話り、此の出世景清の浄留理本を寡者独庵の楽と爲して日夜之を翫び妾室の情と爲す。
然るに軽薄の拙士兼務の刻某懇睦す故、此本を冩ことを望む。悪毫人の嘲りを耻て㗂い絶す。たとへ笑膽の人ありといへども遮て臨達の意をなし、堪て冩し聴聞す。
僫果ありといへども怖畏なく止むことを得ずして之を写す者なり。時に文政九丙戌年応鐘念有。
(解釈)
ここに始めて関所勤めを命じられ、関所の内に住む独身の曽木某という郷士がいた。
日頃から文弥節の浄瑠璃を好み、語って人々を楽しませ、また厄除を神社に祈り、願成就におよんでは村内で語り、操り芝居を企てては語り、この「出世景清」の浄瑠璃本を独り身の楽しみとして日夜玩び、わが室の慰みとしていた。
しかるに軽薄な私が関所の勤めの折に、某と親しくなったので、此の本を写すよう望まれた。悪筆で人に笑われることを恥じて言葉も出ない有様だが、例え笑う人がいても気にせず望みに応じ、恥を忍んで写し、(浄瑠璃を)聞く。悪い結果になろうとも恐れず、やむなくこれを写した。
時に文政九丙戌の年十月二十日余り。
山之口は薩摩藩の御番所が置かれていた土地で(一章)、識語前段にみえる関守の農士曽木氏某は番所に詰める郷士であったと思われる。
曽木氏は「古今山之口記録」によれば、元禄年間、既に山之口に居住しており、その後、幕末に至るまで当地の古記録に散見する。
曽木氏某は兼ねてから「フンニヤ(文弥) 」の浄瑠璃を好み、しばしば人を集めて語り、折をみては願成就芝居を企てた。
土地の祭祀に祈誓し、満願の日に芝居を行なう所謂「願成芝居」は江戸期を通じて地方にごく普通にみられる興行形態である。
こうした在郷武士の娯楽は当時さほど珍しいことではなかった(一章)。
杉野氏は、「この(識語の)筆者は曽木氏某が文弥をこの村で始めたことを云い伝えとして聞いたものを由来として書き留めたものだろうから、筆写の年よりも遥かに人形初発の年は古くなければならない」とされるが、識語では「曽木氏某」と筆写を依頼した「某」とが同一人のようにも読め、この限りでは文政九年を遡る根拠にはならないであろう。
山之口には「今から二百数十年前旧島津家の殿様が参勤交代の折道中のつれづれを慰めるため始められた」とする言い伝えがあり、杉野氏は確言を控えつつも「京大坂で(文弥節が)盛んに行われていた時代(引用者注 一七〇〇年前後)に移されたものと考えるべき」かと推定された。
現時点では、杉野氏の説が伝来時期についての代表的見解のようである。 24
文弥節の祖岡本文弥は、延宝から元禄にかけて大坂の出羽座で活躍した浄瑠璃太夫である(2)。
出羽座は、正保五年(一六四八)には既に大坂で浄瑠璃を興行していたらしい(粟津家旧蔵文書)。
出羽座を主導した浄瑠璃太夫伊藤出羽掾は、明暦四年(一六五八)後一二月に受領し(「清閑寺大納言藤熈房卿記」)、万治寛文期を中心に多数の正本を刊行している。
初代岡本文弥は、「名人忌辰録」記載の享没年(元禄七年歳六二)を信じると寛永一〇年(一六三三)に生まれた事になるが、出羽座への出座が確認できるのは延宝七年(一六七九)七月の「難波鶴」が初出のようである。
出羽座が延宝六年に和歌山巡業した折の記録には文弥の名が見えず、貞享三年(一六八六)の巡業の折に「初遇出羽信勝岡本文弥」と記されているので(「家乗」)、延宝七年に入座したのかもしれない。
この頃大坂の町浄瑠璃の師匠は、本出羽風や播磨風といった大立者をさしおいて文弥風の師匠が一番多く(「難波雀」)、既に文弥は人気者の浄瑠璃語りであったと思われる。
この後、出羽座は、太夫に岡本文弥、人形遣いに山本弥三五郎を擁し、京都の同門山本角太夫と協力しつつ、隆盛した。
この頃の出羽座の盛況ぶりを「竹豊故事」は次の様に伝える。
大坂には伊藤出羽掾座の文弥節は諸国の浦々隅々迄もはやり、遠国辺土の西国順礼の衆中、京都にては御内裏様、大坂へ来ては出羽様の芝居を見て帰らねば西国したる甲斐もなく、死ては閻魔大王の前にて言訳の無様に有難がつて持賞しける
初代文弥が没した後も「岡本今文弥」を名乗る後継者(元禄一三年(一七〇〇)刊正本「源平太平記」初見、元禄一一年「三国役者舞台鏡」に見える「当地の文弥」は二代目か)によって出羽座は持ちこたえ、人形遣い山本弥三五郎は、元禄一三、一四年と連続して禁裏の御覧にかかり、飛騨掾と河内掾に重任される名誉を得た。
この時期の出羽、文弥の在名正本はごく少ないが、「宝暦板外題年鑑」に「岡本文弥同阿波太夫(中略)等は何れも先師土佐掾(注 角太夫)又は井上氏の浄るりを多分語られし故新作多からず」とあり、角太夫没後に多数刊行された角太夫節正本のうちには、出羽座の興行に関わるものもあったと考えられる。
元禄一三年刊「御前義経記」三―二に[京衆ならば嘉太夫角太夫、江戸にては土佐半太夫さつま永閑、大坂にては文弥義太夫おすき次第]とあり当時の三ケ津の人気浄瑠璃として認められている。
宝永四年(一七〇七)刊「男色比翼鳥」に「文弥節もふるめかし」と評されるが、これは初代文弥を指すのかもしれない。
正徳一年(一七一一)九月から翌閏五月まで「阿弥陀仏四十八願記」で大当りをとった事が「鸚鵡龍中記」に記されている。
宝永五年(一七〇八)に山本飛騨掾が江戸へ下り、享保初年頃から江戸堺町土佐少掾芝居で座元山本出羽が芝居を興行するが(3)、この座に文弥節の太夫が出座した確証は見出せず、「浄瑠璃大系図」(一八四二)に「岡本文弥 一流をかたり出し後江戸へ出て文弥節を広む」とあるを知るのみである。 25
享保も半ばを過ぎ新興の宮古路節が持て囃されるようになると、出羽座は文弥節を諦め、義太夫節によって延命を計るようになった模様で、享保一〇年(一七二五)には義太夫節太夫の江戸出羽座への出座が確認できる(「今昔操年代記」)。
本拠地大坂の出羽座でも同じ頃に「照天姫操車」「今様続日本紀」などの上演が推定されるが、浄瑠璃は義太夫節であった可能性があり(「義太夫年表」)、享保一七年には義太夫節浄瑠璃を興行しながら終に芝居断絶に至ったらしい(「宝暦板外題年鑑」)。
享保一八年には江戸の出羽座が当流浄瑠璃に櫓を明け渡し、一九年には大坂の出羽座が火事で類焼、地所も一旦は人手に渡る始末であった(「今昔芝居鑑」)。
享保二〇年(一七三五)「役者初子読」には「生れつき声よく義太夫嘉太夫国太夫の上るり。何段にても所望次第」とあり、文弥が国太夫節(豊後節)に取って替られた様相がうかがえる。
享保一九年の火事以後、出羽は人形浄瑠璃から撤退し、からくり子供芝居に関わることになるが、遇目した番付を見る限り、文弥節の太夫が出座した様子はない。
さて、本拠地大坂の人形浄瑠璃芝居から撤退した文弥節は、寛延二年(一七四九)上演の豊竹座浄瑠璃「華和讃新羅源氏」番付に「出羽の掾の昔操/岡本文弥の昔節」と回顧され、宝暦六年(一七五六)刊「竹豊故事」では「時移り年変りて一向当時は用ひず」とまで記された凋落ぶりであったが、上方から全く消え去ったわけではなく、宮地芝居などで興行し続けていた可能性はある。
かなり時代は下るが、寛政六年(一七九四)八月北堀江市の側西側芝居で「善光寺御堂供養」を岡本角太夫らが上演している(「義太夫年表」)。
番付の口上によればこれは角太夫節浄瑠璃であるが、文弥節と角太夫節の近さ、太夫がすべて岡本姓であること等を勘案して、文弥節の末流とみてよいだろう。
天理図書館蔵角太夫正本「大念仏七万日詣」の裏見返しに「岡本角太夫門弟」「天明二年十一月吉日」等の墨書があり、天明寛政頃の岡本角太夫一派の活動を裏付る。
「駿国雑誌」巻七文政元年(一八一八)八月簓村書上によると当所玉川座は以前は説経節であったが、近来は豊後、義太夫、文弥、外記、土佐節の浄瑠璃を興行するという(三田村鳶魚全集21) 。
歌舞伎に出座した例では、延享三年( 一七四六) 五月大坂嵐座所演の歌舞伎「子敦盛一谷合戦」に浄瑠璃鳴戸阿波太夫、岡本広太夫(いずれも文弥門人)が勤め、宝暦二年(一七五二)大坂、浅尾十蔵座所演の歌舞伎「九州苅萱関」に岡本半太夫が勤め、続いて翌年三桝大五郎座の歌舞伎「幼稚子ノ敵討」で同じく浄瑠璃岡本半太夫、これは初演時番付と台帳が残り、四つ目口明に文弥節の道行がある。
少なくとも宝暦頃迄は、文弥節は大芝居の舞台で語られていたのである。
「幼稚子ノ敵討」の作者並木正三は、幼い頃出羽芝居に出入りしたことが知られるが、天明五年(一七八五)正三の十三回忌追善に出版された「並木正三一代噺」序に「金毘羅講の文弥ふしになつみ、席にすすみし交りの深き」とあり、生前の正三と序者入我園主人は金毘羅講で集っては、文弥節を稽古していたらしい。
大坂の役者松島茂平次が文弥節を得意とし、舞台で披露している例もある(「役者初子読」「役者福若志」)。 26
当流義太夫節にも「文弥」の節付は多い。著名な例では、豊竹座の「北条時頼記」は享保一一年(一七二七)年越しの大当りをとり座の経営基盤を安定させ、特に四段目雪の段の出語りは後に越前少掾一世一代として上演されたが( 「義太夫年表」)、その聞かせ所は文弥節にあった。
これを竹本播磨少掾は「文弥ぶしにて誉を請られしは義太夫の本意にはあらず」と批判しているが(「音曲口伝書」)、人々の耳から文弥節が遠ざかる状況にはなかったのである。
例え芝居の舞台から撤退しても、先述した並木正三の金毘羅講におけるごとく座敷浄瑠璃、稽古浄瑠璃の場で好者に迎えられれば、興行がなくとも正本は販売される。
例えば文弥と同門の京都の山本角太夫は元禄末年頃に没し、一座も遠からず立ち消えたようであるが、正本は幕末まで刊行され続け、生前の角太夫とは縁のなかった江戸でも売られていた。
天理図書館蔵角太夫正本「こそでうり」の見返に「享保二十年乙卯年如月上京之節求焉」「高山島河原町いせ川」との墨書がある。尚山島河原町は岐阜県高山市の町名として今も残る。
享保二〇年といえば、山本角太夫は勿論、大坂の出羽座も浄瑠璃芝居から撤退した後であるが、その頃に購入され岐阜高山の住人が入手していることは興味深い。
天理本「石山開帳」には見返に「山本土佐掾末葉門人山本植右衛門」、裏見返に同筆で「文化元甲子」(一八〇四)とある。
角太夫節正本には他にも角太夫系、文弥系の末流と思われる芸人の署名を時折見かける。
最盛期であった延宝元禄期を過ぎても、文弥節は芝居の中で、また座敷芸としても愛好されていたのである。
山之口への伝来の時期については、現時点では「出世景清」が初演された貞享二年(一六八五)以降、台本が書写された文政九年(一八二六)以前であることを確認するにとどめる。
人形の操法は一段式幕手摺の一人遣いで古式を伝えているが、座敷操りとしての成立、伝来も否定できず、操法による伝播時期の推測は困難である。
当地で聞いたところでは、旧家の土蔵から人形首をはじめ、関係する古文書がまだ眠っているとのことで、保存会を中心とした今後の調査に期待したい。
(時松 孝文)
【注】
(1) 杉野橘太郎「山之口麓文弥節人形浄瑠璃について」「早稲田商学」二〇一
(2) 以下、出羽座、岡本文弥、山本角太夫をめぐる記述には、横山重、信多純一、阪口弘之各氏の下記の研究を参照した。
横山重「古浄瑠璃集出羽捺正本」古典文庫
信多純一「山本角太夫について」「古浄瑠璃集(角太夫正本(一))」古典文庫
阪口弘之「山本角太夫の初期語り物考」「国語と国文学」昭五二・六
「出羽座を巡る太夫たち」「人文研究」二六・三
(3) 祐田善雄「豊竹肥前掾論」「浄瑠璃史論考」
27
第二節 保存会の歩み
●明治六年(一八七三)
・「人形廻シ名簿」書写(人形の館蔵)
この人形廻シ名簿は明治六年六月に永田権之丞の手写に係り、この書の表紙および「序文」に依って原田源兵衛高政の所有であったことが推察される。
資料は原田高政の子孫にあたる原田チエ氏(山之口町大字山之ロ二九三四番地・大正七年生 七四才)の寄託されたものである。この名簿の記載により次のようなことが判明する。
四月一九日 神社への奉納
麓中の病気除の願を宗廟である圓野神社(円野神社)にしておいたところ、めでたく成就したので御礼として「門出八嶋」と「出世景清」の人形浄瑠璃を奉納した。
五月 遷宮祝奉納
地区の宗廟である圓野神社が補修中であったが五月にめでたく遷宮されたので「門出八嶋」と「出世景清」の人形浄瑠璃を奉納した。
この他にも明治六年当時の浄瑠璃演目の各段の呼称、舞台上での人形操法、位置、動き、小道具、配役などを知ることができる。なお、「人形廻シ名簿」全文は三五頁以下に翻刻掲載する。
・蛇箱(人形館蔵)
大蛇入れ箱蓋裏の銘文
画像
間狂言(東岳猪狩)に使用する大蛇を保管する「大蛇入れ箱」が残っているが、この蓋裏にも原田源兵衛の名が見える(上写真)。
(銘文)明治六年壬酉四月十九日麓中武運長久のため人形踊付蛇入箱として造納者也
坂元業右衛門 原田源兵衛方江相渡
従来この蛇箱の記載内容により、保存会では明治六年、征韓論争に破れた西郷隆盛が鹿児島に帰郷し「私学校」を設立した時、この地より入学した生徒の武運長久を祈って人形を操り、
その時に製作した物であると伝えている。しかしこれは誤って伝承されたのではないかと推察する。 28
西郷隆盛が征韓論争に破れ帰郷したのは明治六年一一月一〇日であり、西郷の後を追った者達と私学校を設立したのは明治七年六月であり当地の入校者は一三名であったとされている。
又、武運長久となると「戦」がなければなるまいが当時としては該当するものがない。明治維新の変動の中で特に五年、六年という年は重大な時期ではなかったろうか。
太陰暦が太陽暦に変更され、政権安定、興国の為にも常備軍制度が必要となり、当然のことながら明治五年より国民皆兵の動きが見え、明治六年一月一〇日には「徴兵令」が発布され全国的に常備軍が組織されている。
当然軍隊の設立であることから「戦」を前提としている。旧薩摩藩の直轄領地であった当地にも徴兵令の風は吹き組織されたと思われ、この時の軍隊構成員の武運長久を祈ったものではないかと推測する。
・人形首製作
原田源兵衛の名は麓文弥節人形浄瑠璃の保存伝承に関わった者の一人としてよく知られている。
現在保存会には二十八体の人形が遺存しているがその中の間狂言に使用する「高砂婆」の後頭部に「原田源兵衛」の墨書があり、同じく間狂言使用の「太郎」の後頭部に「小濱金次郎」の名が見え、「人形廻シ名簿」の記載によりこの当時両名が製作を担当していたことが判明する。なお太郎の首には製作期日と思われる「癸酉十月三日」の墨書がある。八九頁参照
●明治七年(一八七三)六月 西郷隆盛私学校設立
・西郷隆盛を慕い私学校へ二二名が当地より入校した。これを祝って人形を操った。(典拠11保存会伝承・山之口町史)
●明治一〇年(一八七七) 西南の役
・山之口郷より薩軍に呼応する者が多く、これらの出兵士の戦勝を祈願して人形浄瑠璃を奉納した。(典拠11保存会伝承・山之口町史)
●明治二六年(一八九三)
・人形首補修 明治六年の内銘のある「太郎」の後頭部左側に「明治廿六年」の墨書があることからこの年に改造もしくは修理が施されたものと思われる。
●明治四〇年(一九〇七)
・明治初期より活躍された原田源兵衛高政氏死去(八六才)
●明治四五年(一九一二)
・浄瑠璃台本書写
「出世景清大序」 田辺 祐政
「門出八嶋大序全」田辺 信子
●大正二年(一九一三)
・浄瑠璃台本書写
「出世景清」 田辺 祐政
●大正八年(一九一九)
・浄瑠璃台本書写
「出世景清」 艮 栄蔵
29
●大正一〇年(一九ニ一)
・橋口清安・小濱安棟・池江矩仲氏等が中心となり人形を操っていた。(典拠11保存会伝承・山之口町史)
●大正一二年(一九二三)四月
・山之口小学校麓分教場の落成を祝し上演した。
●昭和四年(一九二九)
・浄瑠璃台本書写
「出世景清」 村岡 純利
「門出八嶋大序」 村岡 純利
●昭和六年(一九三一)一二月二九日
・明治大正昭和と活躍した六代目語り太夫永田俊蔵氏が死去。
※第一次世界大戦後の世界的な大恐慌の中、多くの国民は貧窮のどん底にあった大正期においても麓文弥節人形浄瑠璃は絶えることなく演じられている。
昭和初年の大凶作により農村不況は深刻となり、そんな中、昭和六年満州事変が起り時の政府は不拡大方針と称しながらも日支事変からついに太平洋戦争に突入していった。
食糧、衣料などの物資は著しく不足し「ぜいたくは敵だ」と叫ばれ、若者は戦地に召集され、人形を演ずる旦那衆(旧郷士)の高齢化は進む中で、もはや人形を演ずることは不可能であったろうと推測する。
●昭和二四年(一九四九)
・昭和の大戦で絶えていた人形浄瑠璃の再生復興の議が、原澤仁麿・松永犬三・語りをしていた坂元業衛・三味線の里岡サノ氏などの手により始まった。
●昭和二五年(一九五〇)
・戦前に人形浄瑠璃を演じていた坂元業衛・稲田安良・ 前田潔・平嶋岩見・田辺実弘・松永犬三・坂元鐘一・多田重成氏等が中心となり復興が開始された。
※人形は戦前の師匠格であった古老の田辺祐政氏宅の土蔵倉にあったがその他にもそれぞれ二、三体づつ分散されていたものを持ち寄った。
いずれも土蔵倉の中にあったものでその中の三体についてはまったく使用できぬ状態であったので模造新調することにした。
他の人形も似たりよったりで、頭髪は抜け、衣裳はボロボロで使用不能であったため二、三の物を除いて、各家より古着など持ち寄り新調した。頭髪は前田潔氏宅の髢を頂いて修理結髪した。
人形の頭部に無数の穴があけてあり、そこに髢を数本づつ束ねて糸で結び、その上を紙で巻き穴に押し込む、その後その束ねた髢の中心に竹串を差し込んで抜けないように補強、修理結髪した。
顔は塗料の禿げかかったものは補修し、その他のものは眉、眼、口等を描き出し復元することができた。
(故坂元鐘一氏談) 30
浄瑠璃語りについては戦前太夫を務めていた坂元業衛がいたことから、それぞれの記憶をたどりながら一応の形態は整えることができた。
復興を喜んだ地区の有志の方々の援助と、鎮守走湯神社からの多大な資金、物資の援助があった。補修された人形、小道具等は稲田安良宅の土蔵倉に保管することとなった。
●昭和二六年(一九五一) 保存会結成
・一〇月五日 「山之口麓人形浄瑠璃保存会」を結成 会員一六名(別記)
・一一月二五日 かねてより改築中であった山之口村総鎮守走湯神社が七月九日に成就した。この走湯神社改築成就祝として人形浄瑠璃を奉納した。
場所は山之口小学校麓分教場であり寒風の中沢山の見物人が参集した。「高幕のかわりに杉の葉を並べて演じていた」(有川虎男、小山辰生談)
・浄瑠璃台本書写
「門出八島」 松山充雄
●昭和二七年(一九五二)
・一〇月 宮崎市の「神宮さま」(宮崎神宮秋の大祭)に人形浄瑠璃奉納の要請があり、保存会では村役場のトラックを借り受け、会員も小道具も同じ荷台に乗り参加した。
以降も要請により参加している。昭和三〇年には宮崎神宮御神幸祭奉賛会より賞を受ける(人形館蔵)。
.都城市の「神柱神宮」の大祭に奉納上演
.浄瑠璃台本書写
「出世景清」 坂元鐘一
「門出八島」 坂元鐘一
上二冊の台本は九代語太夫坂元鐘一氏が死去される昭和六二年まで使用されたもので現在一〇代語太夫村岡純秋がそのまま引き継いで使用している。
●昭和三六年(一九六一)
・九月二〇日 山之口村無形文化財の指定を受ける。
●昭和四一年(一九六六)
・本年五月に二松学舎大学で日本演劇学会の春季大会が催された折、
同大学の理事兼総務部長原澤仁麿氏より早稲田大学教授杉野橘太郎氏に「自分の出身地の宮崎県山之口にもフンニヤ節という人形浄瑠璃がある」の話しがされると教授は大変驚き近日中の訪問を約束され、隣県の鹿児島県東郷町斧淵にも同種の人形浄瑠璃が伝承されていることを教えられた。
連絡を受けた保存会ではさっそく斧淵へ視察調査に赴いた。(坂元鐘一・山元政行・松山充男・平嶋岩見) 31
画像が2枚 32
●昭和四二年(一九六七)
・一〇月三一日 杉野教授は鹿児島大学での独文学会の帰途、調査のため山之口麓を訪れた。
・山之口麓人形浄瑠璃保存会では杉野教授の報告書を基に保存会の名称を「山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会」と変更した。
●昭和四三年(一九六八)
・ 四月一日 昭和二六年の復興当時よりの功労者初代保存会長稲田安良氏の勇退により、二代目会長として元村長の前田潔氏が就任した。
稲田安良・三味線の里岡サノ・甲斐フサ氏は顧問となり、復興の中心となって活躍した坂元業衛氏(顧問)は病気のため退会、松山充雄・橋口辰巳氏等も高齢を理由に退会し、会員構成に大きな変動があった。
・一一月 山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会が地元紙宮崎日日新聞社の「文化賞」を受賞した。受賞式には初代会長の稲田安良氏が参列した。
●昭和四四年(一九六九)
・三月 日本演劇学会員を中心とした文化庁委嘱調査団一四名の調査。
・九月五日 宮崎県無形民俗文化財の指定を受ける。
・一〇月二三日 明治百年記念第一〇回九州地区民俗芸能大会(佐賀県)に宮崎県代表として参加上演する。
・一一月一八日 戦前、戦後を通して人形保存継承の重要な役割を果たした八代語太夫坂元業衛氏が死去。
●昭和四五年(一九七〇)
・三月 麓地区老人クラブ(約二五〇名)、別称「高令加来大学」の生涯学習の必修課目となる。以降毎年三月第三土曜日が定期公演日と決まる。
●昭和四七年(一九七二)
・三月二〇日 古浄瑠璃人形の「首」の研究家斉藤清二郎氏が来町され調査された。発表前に死去。
・会員坂元鐘一・山元政行氏が上京して杉野教授に面会、文化庁を表敬訪問。
・八月五日 文化庁より重要無形民俗文化財の選択指定を受けた。(芸能一三〇号)
●昭和四九年(一九七四)
.三月 従来の人形の着物が古くなったので新調した。
●昭和五三年(一九七八)
・四月 南九州文化協会主催「夢色百人劇場」(都城市)で上演。 33
●昭和五六年(一九八一)
・四月~九月 朝日新聞社主催「生きている人形芝居展」に古来の人形と大蛇を貸出し展示。
.一一月二六日 昭和二六年の発会より、会員の「なだめ役・まとめ役」として尽力された初代保存会長稲田安良氏が死去。
●昭和五七年(一九八二)
.一一月 九代語太夫(芸能部長)坂元鐘一氏「宮崎県文化賞」を受賞する。
.一一月二六日 元芸能副部長平嶋岩見氏死去。
●昭和五九年(一九八四)
・七月二九日 宮崎日日新聞社主催「宮日民俗芸能まつり」(都城市)に出演。
・県の助成金にて人形の保存箱と痛みのひどい人形の補修をした。
●昭和六〇年(一九八五)
.一一月一二日 山之口町文化祭行事に参加上演。
●昭和六一年(一九八六)
・三月二六日 芸能副部長多田重成氏死去。
・三月二六日 十代語太夫村岡純秋・十一代三味線野添律子氏の初舞台(高令加来大学定期公演)
・親子劇場創立一〇周年記念大会(宮崎市)に出演。
・南九州民俗芸能研究会・二一世紀研究会主催「芸能の夕ベ」に出演。
●昭和六二年(一九八七)
・一月六日 二代目保存会長前田潔氏は顧問となり、三代目会長に山元政行氏が就任(会員一八名)
・七月一三日 戦後復興の中心的役割をなし、歴代保存会長の補佐役として会員の指導、人形の保管に務められた芸能部長、九代語太夫坂元鐘一氏死去。
●昭和六三年(一九八八)
・一一月五日 宮崎県教育委員会主催の「民俗芸能鑑賞会」に出演。
●平成元年(一九八九)
・八月四日 二代目保存会長前田潔氏死去。
・九月二七日 一〇月四日まで東京「高島屋」にて「第二回日向自慢みやざき展」に県を代表する芸能として参加上演。
●平成二年(一九九〇)
・一月 日向市大王谷中学校にて上演。
・一月 日向市文化連盟主催「日向市芸術文化祭」で上演。
・四月二七日 山之口町営青井岳会館落成式にて上演。
・五月一一日 一三日 保存会員六名が石川県尾口村東ニロの文弥人形浄瑠璃保存会を現地調査する。
・六月二日 鹿児島県東郷町斧淵の人形浄瑠璃保存会会員が視察調査のため来町。 34
・六月 山之口町立麓小学校「学習発表会」にて上演。
●平成三年(一九九一)
・三月二三日 大阪国立文楽劇場一行五名現地調査に来町。
・四月一三日~一五日 大阪「高島屋」にて公演(日向自慢みやざき展)
・五月一〇日~一二日 保存会員十名は新潟県佐渡の人形浄瑠璃保存会を現地調査する。
・都城庄内の昔を語る会外三団体共催の会場にて上演。
・山之口中学校文化祭にて上演。
●平成四年(一九九二)
・一月一九日 都城市地場産業センター「特産品フェアー」で上演。
・三月六日~八日 大阪国立文楽劇場「ふるさとの人形芝居・文弥人形と人形狂言」にて公演。会員・家族など一行二九名参加。
・四月二三日 山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館落成。「人形の館」と命名。
(山下博明)
明治六年「人形廻シ名簿」
画像
共表紙 一丁
裏表紙 一丁
墨付 九丁
原寸 縦二十五糎
横十六糎
序
明治六年癸酉春麓中諸病除之願
成就として同四月十九日吉辰をゑらび
惣廟圓野神社於社前二門出八嶋及
出世景清之双紙人形廻し相催し将亦」(1オ)
今般右神社寶殿を始修甫有之同年
五月迁宮二付諸在一統之踊有之候付又々
右之人形を廻し両日之執行首尾能
成就相成候ものなり
原田源兵衛
明治六年癸酉六月 高政謹誌」(1ウ) 35
門出八嶋 永田健助
初段
義朝公八男九郎判官
一 源義経
上二おやし
上二入ル
平嶋隼二
但 長烏帽子二釆配
一 武蔵坊弁慶
上同
鹿屋平蔵
但 白鉢巻七ツ道具
一 志田三郎勝衡
下ニおやし
案内ニ而上ニ入
小濱松右衛門
矢之根とぎ」(2オ)
一 早姫
下二おやし
下二帰る
池江筑右衛門
二番座
一 佐藤四郎兵衛忠信
下より出
上二入ル
藤井藤右衛門
一 早姫
中より出
上二列立入ル
愛甲権七
三番座
一 佐藤三郎兵衛次信
下より出
段切り
里岡静蔵
初段
但 🔲🔲二而氏神参詣」(2ウ)
一 行世
(中より出
中ニ入ル
池江筑右衛門
一 忠信
(下より出
段切り
江口休次郎
一 早姫
(下より列立出
中二入ル
坂元鐘次郎
一 義経
(下より出
上ニ入ル
小濱松右衛門
但 装束前二同し
一 弁慶
上同
愛甲権七
但 同断
一 佐藤荘司
上同
原田正太郎」(3オ)
一 志田三郎
上より出
上二入
藤井藤右衛門
右四人同列
秀衡侍大将按西使
一 弾正大輔氏重
下より出
下二入
永田俊蔵
一 中間二三人
引列成ル
是は役者次第繰合
道行之座
一 信夫小太郎
下より出
上二入
原田正太郎
一 同小次郎
上同道
永田健介
右貳人共銘々鎧箱荷ひ」(3ウ) 36
一 鷲尾子供兄弟
姉 但 草鞋荷ひ
下より出
上二伴ひ入
坂元鐘次郎
二郎義秀
上同
里岡元右衛門
合戦之場
大将 検非為使
一 義経
上二おやし
上二入
江口休次郎
但 装束甲胄弓矢騎馬
一 弁慶
上二おやし
段切り
永田健介
白鉢巻長刀七ツ道具騎馬」(4オ)
一 畠山二郎重忠
上二おやし
上二入
永田俊蔵
但 甲胄騎馬
一 佐々木四郎高綱
上同
役者繰合
但 同断
一 土井
上同
役者繰合
但 同断
外二亀井太郎片岡八郎伊勢三郎駿河次郎始拾万
余騎略之
一 次信
上二おやし
手負
北原十郎左衛門
但 甲胄弓矢騎馬
一 忠信
上二おやし
上二入
鹿屋平蔵
但 同断」(4ウ)
一 鷲尾
上二おやし
上二入
里岡静蔵
但 鎧
一 小太郎
上同
役者繰合
但 陣羽織
一 小太郎
上同
役者繰合
但 同断
一 弾正
上同
原田正太郎
但 甲冑
一 郎等
上同
役者繰合
但 陣羽織
右源氏之勢拾万余騎陸二おやし」(5オ)
葛原親王九代後胤
平家大将
一 能登守教経
舟
平嶋隼二
但 長烏帽子鎧弓矢
一 紀九郎
上同
手負
池江源之丞
但 陣羽織
一 坊主
船
役者繰合
但 白鉢巻長刀
一 船頭
上同
但 白鉢巻
一 兵船一艘」(5ウ) 37
右平家之軍勢船にて漕寄スル
釈教
一 忠信
下より出
上二入
平嶋隼二
但 陣羽織手挑灯
一 次信
手負
中二おやし
池江筑右衛門
一 小太郎
下より出
上二荷ひ入
愛甲権七
一 小太郎
上同
里岡元右衛門」(6オ)
右門出八嶋六座切幕二而段続は本ンにて
しるべし
出世景清双紙切幕
大佛殿普請場
普請奉行
一 畠山重忠
上二おやし
上二入
永田健介
一 本田次郎
上同
江口休次郎」(6ウ)
一 門間三人位
里岡静蔵
同元右衛門
一 杢頭
平嶋隼二
但 幣
一 修理頭
永田俊蔵
但 同断
一 悪七兵衛景清
下より出
段切リ
原田正太郎
但 頬冠箱荷ひ」(7オ)
小野姫裁許之場
一 梶原平三景時
上二おやし
下二入
里岡静蔵
一 同源太景季
上同
小濱松右衛門
一 中間三人計
但 縛縄 平嶋隼三
団扇 江口休次郎
丹荷 永田健介
熱田大宮司娘
一 小野姫
下より道行ニ而出
下ニ入ル
坂元鐘次郎」(7ウ) 38
一 拾弐梯二胴中ヲ縛リ付水責
ニ 高木二引上ヶ引卸し
三 火責
一 景清
下より出召捕ヘ
下二入
永田俊蔵
牢籠之段
一 同人
牢しや
里岡静蔵
一 小野姫
下より出
下二入
坂元鐘次郎」(8オ)
但 酒食持参して賄ふ
一 阿古屋
自害
池江筑右衛門
一 いやいし
上同
藤井藤右衛門
一 いやわか
上同
里岡元右衛門
右母子三人下より列立出ル
一 射場十蔵弘親
下より出
中ニ死ス
小濱松右衛門
一 若党小者
右三座ハ切幕二而段続ハ本ンニ而しるべし」(8ウ)
一 浄瑠理
坂元甚左衛門
小山直太
一 三味線
池田十郎兵衛 妻
柳橋休右衛門 母
一 手附
原田源兵衛
池田一郎左衛門
一 人形彩色并武器大蛇
坂元業右衛門
田口源左衛門」(9オ)
一 甲胄一色
都城住士 三浦映山
以上
人形造 小濱金次郎
原田源兵衛
明治六年癸酉六月
此書物永田権之丞書也」(9ウ) 39
40はすっ飛ばし(画像貼るだけ?)
山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会規約
(名称)
第一条 本会は山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会(以下「人形保存会」という。)という。
(目的)
第二条 人形保存会は、人形浄瑠璃の保存及び二十一世紀に伝承する事を目的とする。
(事務所)
第三条 人形保存会の事務所は、山之口町大字山之口二九二一番の一、人形の館内に置く。
(業務)
第四条 人形保存会は、第二条の目的を達成するために次の業務を行なう。
一 人形浄瑠璃の調査研究に関すること。
二 人形の操作、浄瑠璃の語り、及び三味線の技術向上を図ること。
三 保存、伝承に欠くことの出来ない後継者の確保及び育成に務めること。
四 定期公演及び臨時の公演
五 その他保存、伝承に必要な業務
(役員)
第五条 人形保存会を運営するために、次の役員を置く。会長一名、副会長一名、事務局長一名、記録広報係一名、会計一名、人形の館責任者一名、監事二名を置く。尚顧問若干名を置くことができる。
(役員の任期)
第六条 役員の任期は三年とし、再任を妨げない。役員が欠けたときは、その後任者の任期は前任者の残任期間とする。
(役員の任務)
第七条 会長は会を統括し、人形保存会を代表する。
副会長は会長を補佐し会長不在の場合は会務を代理する。
事務局長は会長を補佐し、会の事務運営にあたる。
記録広報係は、人形保存会の記録、広報、及び文章の保存を所掌する。
会計は、会の経理を所掌する。
人形の館責任者は、館を使用したとき等はその後始末の責任者となる。
(会議)
第八条 会長は会議を召集し会議を開く、会議は定例会と臨時会とする。
一 定例会は月一回を原則とする。
二 臨時会は会長が必要と認めたとき又は会員の要望があったときに開くことができる。
(経費)
第九条 人形保存会の経費は、会費、補助金、寄付金、その他の収入をもってこれにあてる。
(委任)
第十条 このほかに人形保存会の運営に必要なことは、会長が別に定める。
(付則)
この規約は平成四年四月二十三日から適用する。 41
第四章 山之口麓文弥節人形浄瑠璃の現況
第一節
概要
山之口麓の文弥節人形浄瑠璃の保存伝承の拠点として平成四年に完成した人形の館における定期公演の様子を記し、以前の上演方式についても補足的にふれておく。
あたらしい人形の館では、年四回の定期公演を予定している。平成四年度は次のとおりであった。
第一回 六月二八日(日)
「出世景清」拷問の段
「門出八嶋」出陣の段
第二回 九月一三日(日)
「出世景清」普請の段
「門出八嶋」八嶋合戦の段
第三回 一一月二一日(土)
「門出八嶋」八嶋合戦の段
弁慶断切の段
提灯とぼしの段
第四回 平成五年 三月二七日(土)
「出世景清」普請の段
偽文の段
各回とも最後に間狂言一番を演じた。
それ以前には、昭和四五年から、山之口町の生涯教育活動「高令加来大学」の一環として、山之口町麓地区公民館で毎年三月の第三土曜日に上演されていた。
現在の会場は、観客席が百枚の畳敷きで、舞台は一段高くなった板張り。
この上に手摺幕を張り(幕の高さについては九〇頁参照)、観客席に張り出して上手(舞台に向かって右)側に太夫座が常設されている。太夫座には立派な物語絵の屏風を立て廻し、見台を置く。
公民館では太夫座が施設の関係で下手にあったが、以前から下手と決まっていたのではなく、舞台の配置によって変更されたようである。座敷で上演して狭いときには幕の中で語ることもあったという。
また、大正頃に小学校の落成式など屋外で上演する場合、竹を横に渡し藁を束ねて杉の葉をさし、幕代りとして舞台を造っていた。
その場合語太夫と三味線、拍子木は、櫓を組んでその上で語ったという(松永犬三氏談)から、あまり太夫座の位置にはこだわっていなかったようである。
保存会員の上演に際しての役割分担を記す。浄瑠璃を語る太夫を語太夫と呼ぶことが多い。現在は村岡純秋氏である。
三味線は代々女性が勤め、里岡フミ氏が指導にあたり、野添律子氏、原沢ハツエ氏のふたりが現役である。ふつう三味と呼んでいる。 42
「出世景清」四段目 ずやんば(牢屋)
画像
幕のかげで拍子木をうったり、ツケをうったりするのが、小山辰男氏の役割で、小山氏はまた間狂言のせりふをひとりで演じ分けている。
人形は山元政行会長、稲田廣事務局長をはじめ、保存会員が分担して遣う。語太夫の村岡氏も間狂言の「東嶽猪狩」のときには稲田氏とともに秘伝の大蛇を操る。
語太夫と三味線は裃を着用する。これは昭和五〇年より少し前に、骨董品を集める人が寄贈したのがはじまりで、その後新調した。以前は袴程度だった。
人形遣いは黒の法被を着て、前垂れのついた黒い頭巾をかぶり、文楽の人形遣いと同様、すっぽり顔を黒衣でおおう。
これも山之口村(当時)の文化財指定を受けた頃(昭和三六年)からで、それ以前は素頭であった。
練習は、現在毎月一八日を定例日として行なっている。仕事が終わって夜の七時半頃から始める。公演の前は三日ぐらい続けて練習する。公演当日の午前中にも練習がある。
現在の定期公演は午後二時頃からで、浄瑠璃二段、狂言一曲、あわせて一時間半程度。明治大正期や復活当初は、昼頃から始めて夕方まで上演した。二日三日にわたることもあったという。
平成四年九月一三日には、人形の館館長で山之口町教育長艮敏雄氏、保存会長などの挨拶があり、二時一五分から「門出八嶋」の二段目切八嶋合戦の段、引き続き二時二八分から「出世景清」初段の普請の段を演じ、二時四四分まで。
休憩を挟み二時五一分から三時九分まで間狂言「東嶽猪狩」。閉会の辞があって終了した。
平成四年一一月二一日には、山之口町主催シルバーヤングフェスティバルの一環として、泉房子氏による特別講演「人形芝居と傀儡子」が午後一時から行われ、二時一六分から二一分まで開幕の祝儀に「娘手踊」、二時二二分から四〇分まで「門出八嶋」の二段目切八嶋合戦の段・弁慶断切の段、四三分から五三分まで同じ「門出八嶋」の三段目提灯とぼしの段、二時五九分から三時二〇分まで間狂言「太郎の御前迎」が上演された。
上演前は舞台の引幕をしめ、道具などを整える。語太夫と三味線は上手にある出入口から出て、太夫座に登る。準備ができると拍子木をうって幕を明ける(上手に引く)。
浄瑠璃の場合は拍子木と同時に語り出しの三味線を弾く。「娘手踊」も太夫座でうたうので、拍子木にあわせて前弾きを弾き始める。間狂言は音楽なしで幕が明く。
浄瑠璃一段がおわり、段切の三味線を弾くと拍子木を打ち、幕をしめる。太夫三味線はそのまま太夫座に座っている。 43
用意ができ次第、拍子木を打って幕を明け、次の段にかかる。ふたつめの浄瑠璃が終わって幕を引くと、太夫三味線は太夫座を降りて引っこむ。
公演後は片付けと簡単な反省会をして解散する。
上演可能な演目は、浄瑠璃としては「出世景清」「門出八嶋」の二曲七段、間狂言「太郎の御前迎」「東嶽猪狩」の二番(新作に「大世間ばなし」) 、そして「娘手踊」一曲である。
浄瑠璃の伝承状況を、明治六年の「人形廻シ名簿」およびその後の資料と比較すると、次のようになる。
「門出八嶋」は、明治六年には初段大序から三段目前半まで「六座」(六場)を通して上演している(ただし二段目「道行之座」に弾正の人形が出ないので、冒頭の件り~十行板本で八行ほど~は省いたか)。
つぎに昭和二六年七月、すなわち復活上演の準備が進められている時に、松山充雄氏が筆写した本では、同じく大序から三段目前半迄を五段に分けている。
初段前半の、明治六年に二座扱いとした、志田三郎と義経一行、早姫忠信の件りをまとめて一段としたのである。
昭和二六年以来のこの五段のうち、現在は第一段と第三段(前記「道行之座」)が省かれ、残る三段が上演される。
「出世景清」は、明治六年には「大仏殿普請場」(序切)、「小野姫裁許之場」(三ノ切)、「牢籠之段」(四段目)の三座を出している。このほか二ノ切阿古屋住家も現在上演される。
明治四五年の写本にも、二ノ切に赤鉛筆で節付が記入されており、明治六年の時は時間の関係などで省かれたのであろう。
なお「牢籠之段」の最初、小野姫の件りは、明治六年には上演され、明治四五年の写本にも、三味線等の書き入れがあるが、現在は上演されない。
また三段目「小野姫道行」も、坂元鐘一本に合の手の書き入れがあり、比較的近年まで行われていたようであるが、現在は大部分カットされている。
明治六年時も現在の如くほんの一部を演じたらしい。「普請場」の節事もかなり切詰められている。
このように、明治六年時に比べて、若干の省略はあるが、大部分は今日まで引き継がれている。
平成四年に貴重な演出台帳「人形廻シ名簿」が発見されたことを機に、カット台本の見直し、演技演出面の総点検の行われることが、いっそう望ましいと考えられる。
なお、各段の当地での呼称は次の通り。
「出世景清」
初段 普請の段 「ちゅのたて」
二段目 阿古屋住家の段 「つくりぶん」(偽文)
三段目 拷問の段 「火責め水責め」
四段目 牢舎の段 「ずやんば」(牢屋場)
「門出八嶋」
初段 出陣の段 「うっがんめい」(氏神参)
二段目 八嶋合戦の段 「いくさんば」(戦の場)
「弁慶断切」
三段目 八嶋の浦の段 「提灯とぼし」
(和田修) 44
第二節
文弥節の台本
山之口麓の文弥節浄瑠璃の正本として、「出世景清」「門出八嶋」の二曲につき、それぞれ六種、四種、計十種の写本を調査し得た。当地では台本と称するので、以下はその呼称を用いる。
いずれも浄瑠璃に縁の深かった家に伝えられてきたが、現在では「人形の館」に一括保存されている。板本の伝存は知られていない。
一、書誌
各本の書誌を簡略に記す。
「出世景清」
●文政九年本
画像 「出世景清」文政九年本
大本一冊。
袋綴。
縦二四糎x横一五・七糎。
本文六七丁。
表紙はもと墨色または墨の格子模様と思われるが、断片をのこして表面剥落し、もとの見返しまたは芯のみが残っている。こよりで中綴したうえで四つ目綴の装幀。
紙と本文との間に
「文政九戌天末夏弐十有五陰/出世景清/此主🔲🔲」と記した扉一丁をおく(裏は無記)。巻末に識語一丁半(二三頁参照)。
なおこの度の調査に当たり、美濃紙にて巻頭・巻末に各一丁の仮表紙を加えた。内題「出世景清」。巻末に「大尾」と記す。丁付なし。七行。
明治大正期に語太夫として活躍した永田俊蔵家(山之口町大字山之口三〇〇〇番地。現在戸主永田哲生)旧蔵。
●江戸期写本
画像 「出世景清」江戸期無年記本
大本一冊。
袋綴(こよりにて仮綴)。
縦二五糎x横一六・五糎。
本文二六丁(二段目の終わり近くまで、以下欠丁)。
表紙なし。識語なし。
内題「出世景清」。
丁付なし。五行。
写本の時期は不明ながら、体裁・字体などから江戸時代のものと思われる。
永田俊蔵家旧蔵。
45
●明治四五年本
画像 「出世景清」明治四五年本
大本一冊。
袋綴。縦二五・三糎x横一六・五糎。
本文九四丁。
濃茶色の厚紙の表紙を付す。
見返しは青色無地。奥書なし。
裏表紙見返しに鹿児島県東郷町斧淵の文弥節についての新聞記事(昭和二十七年三月十一日付)を貼付。
表紙に「明治四拾五年五月十八日/出世景清大序/所有者田辺祐🔲」、見返しに「著者近松文左衛門」と記す。
内題「出世景清」。
丁付なし。初丁~五丁裏まで六行、六丁表は四行で丁を改め(六丁裏は記載なし)、七丁表以下は七行。
鉛筆・赤鉛筆による書入れが多い。田辺祐政氏筆。同家旧蔵(山之口町大字山之ロニ九六一番地。現在戸主 田辺薫)。
●大正二年本
B5版一二行縦罫用箋袋綴。一冊。
本文一〇二丁。
竹を描いた厚紙表紙を付す。表紙題簽に「出世景清大序」と記す。
内題「出世景清」。丁付なし。六行。
一〇二丁裏に「大正二年九月写/主 田辺祐政」と識語。節付の書入れがある。田辺祐政家旧蔵。
●大正八年本
艮栄蔵氏筆。山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会の「あゆみ」に記録されているが、現在所在不明。
●昭和四年村岡本
大本一冊。
袋綴。
縦二八・三糎X横二〇 ・三糎。
本文一〇四丁半(終丁は半裁)。
表紙は黄色地に茶で模様が描かれていたらしいが、表面剥落。裏表紙は白色。
用紙は五〇丁目まで縦罫用箋、五一丁から終丁まで罫なし。
内題「出世景清」。
六行。本文の前に識語一丁あり。
「本書原著者ハ今ヨリ三百年前彼有名ナル文豪 近松門左衛門🔲其文章文句🔲麗ナルヲ愛シ茲ニ🔲シタルモ🔲/昭和四年🔲紀元🔲/写之🔲/書🔲」。
朱の句切点はあるが、節付はなし。
同年の「門出八嶋」村岡純利氏写本と同筆で、識語にも「岡」とみられる文字の一部が残る。村岡純利氏は現語太夫村岡純秋氏の祖父にあたり、同家旧蔵(山之口町大字山之口三二四四番地)。
●昭和四年艮本
前田清常氏が東京より持参した「近松名作集」により、艮栄蔵氏の筆写した本があったというが(四九頁参照)、現在不明。
●昭和二三年本 46
坂元鐘一氏筆写本があったと記録されている(前掲保存会の「あゆみ」) が、現在不明。
●昭和二七年本(現行本)
画像 「出世景清」昭和二七年本
B5版一四行縦罫用箋(山之口村農業共済組合用)袋綴。一冊。
本文九七丁。巻頭に識語・梗概三丁(四九頁参照)。
黒の厚紙表紙。
四二丁裏と裏表紙見返しに「小野姫拷問の場」の省略詞章を記した半裁の用箋を貼付。
表紙に「町・県・文化庁指定/出世景清/文弥節人形浄瑠璃保存会」と記す。
内題なし。丁付なし。
行数は場面により五行~七行。
上段に朝日古典全書「近松門左衛門集」の頭注を抄記する。
坂元鐘一氏筆。現在、村岡純秋氏が引き継いで使用。
「門出八嶋」
●明治四五年本
画像 「門出八嶋」明治四五年本
大本一冊。
袋綴。
縦二五・六糎x横一八・五糎。
本文四三丁(三段目まで)。
一七丁裏は白紙。巻末に書き損じの紙一丁を遊紙として綴じ込む。薄茶色の厚紙の表紙を付す。
表紙に「明治四十五年五月十八日/門出八嶋大序全/所有者 田辺信🔲」と記す。
内題「門出八嶋大序」。丁付なし。識語なし。
九行を基本に、八行、一〇行もあり。節付の書入れあり。
田辺信子氏(田辺祐政氏夫人)筆。同家旧蔵。
●昭和四年村岡本
大本一冊。
袋綴。
縦二八・五糎x横二〇糎。
本文七七丁。
裏表紙は無地の厚紙。表紙も同じであったと思われるが、右端をのこして欠落。
内題「門出八島大序」。七行。
終丁裏に「昭和四年即(皇紀二千五百八十九年)一月/写之/村岡純利」と記す。
また本文の挟込みに「八島門出大序/本書ハ別冊出世景清卜共二今ヲ去ル三百年前ノ文学者近松門左衛門ノ著書ヲ愛デ謄写シタルモノナリ/昭和四年一月二十三日」と記されている。
節付はなく、語注がある。村岡純利家旧蔵。
●昭和四年近本 47
前田清常氏持参の「近松名作集」により、艮栄蔵氏の筆写した本があったとされる(五〇頁参照)が、現在不明。
●昭和二三年本
坂元鐘一氏筆写本があったという(前掲保存会の「あゆみ」)が、現在不明。
●昭和二六年本
大本一冊。
袋綴。
縦二六・五糎x横一八・五糎。
本文六四丁。一九丁から四四丁までは紙の縦寸法が一・五糎ほど短い。
厚紙の無地表紙を付す。表紙に大きく「門出八島」と記す。
内題「門出八島」。丁付なし。七行。
六四丁裏に「昭和二十六年七月書」と記す。節付あり。
松山充雄氏筆(山元保存会長による)。人形の動きについて注記がある。
●昭和二七年本(現行本)
画像 「門出八嶋」昭和二七年本
B5版一四行縦罫用箋(山之口村農業共済組合用)袋綴。一冊。
本文八二丁。
巻頭に識語・梗概一丁。黒の厚紙表紙を付す。
表紙に「町・県・文化庁指定/門出八島/文弥節人形浄瑠璃保存会」と記す。
内題「門出八島」。丁付なし。五二丁裏まで五行、五三丁表から七行。
識語は五〇頁参照。末に「昭和二十七年三月」とある。
坂元鐘一氏筆。現在、村岡純秋氏が引き継いで使用。
二、諸本の関係について
「出世景清」
「出世景清」の台本には、文政九年本と江戸期の成立かと思われる年記のない本の、二つの古い写本があり、明治以降の本も同じ系統に属すると判断される。
その関係を示すため、一例として「牢屋場」の一部につき、①文政九年本、②明治四五年本、③昭和二七年本(現行本)の本文対照表を別表に掲げたので参照されたい。
なお、板本として山本角太夫正本(一〇行二六丁山木板)を校合に用いた。大阪大学国文学研究室笹野文庫蔵。
まず、江戸期の二本の関係について述べる。
文政本、無年記本とも、板本からの転写本であり、その底本となった板本は、今回校合したのと同系統の一〇行二六丁の角太夫本であったと考えられる。
文政本・無年記本には角太夫本に記載されていない節付(文字譜・胡麻章)はほとんどないが、角太夫本のすべての節付を写しているわけでもない。
その中で文政本、無年記本ともにあらわれる「かけ」という節付は、角太夫本の節付ではない。 48
これは角太夫本の板心の「かけ」を文字譜と見誤って写したもので、たとえば「偽文」の段の「大いきついで」の句に、文政本・無年記本とも「かけ」の文字譜があるが、角太夫一〇行二六丁本のおなじ位置に板心の「かけ」があるのである。「かけ」を写しているのはわずかなので、たまたま本文のそばに板心があったときに目が移ったのであろう。
また、文政本には板本の字形をそのまま写しとったとみられる文字もあり(対照表中の「尋ししが」など)、板本からの写しであることは確実と思われる。
文政本と無年記本の関係については、同系統の本文ではあるが文政本の方が優秀で、明治以降の台本も文政本の系統を引いており、無年記本には独自の異文がある。
両本が同系の本文に立つことは、共通する誤写によって知ることができる。
たとえば、角太夫本初段の「北のかたも悦びてむねもり公よりたび給ふ。あざ丸といふめいけんを」の箇所で、「むねもり公よりたび給ふ。」が文政本・無年記本とも脱落していること、二段目の「ないく御身もしるごとく」の「しるご」三文字がともに欠けていることなどである。
これらは明治大正期の本にも引き継がれている(後者は大正二年本であとから「知るご」が書き加えられている)。
相違点としては、文政本はおおよそ板本の文字遣いのままに写されており、文字譜も平仮名だが、無年記本は適宜に漢字仮名をあて、文字譜を片仮名に改めて平仮名の振りがなと区別するなど、読みやすさに意を用いているようである。文字譜の数も文政本の方が多い。
無年記本には「逢わん間に」「数ならん我々」(二段目)などしばしば当地の音便が取り入れられているのも特徴である。
また、無年記本独自の異文としては、角太夫本初段の「月をごくはうとみかさ山」が「月を虚空に」となっていること、二段目の「とぶ鳥ふところに入時は」(角太夫本)が、「究鳥懐に入時は」と改められていることなどがあげられる。
後者は意図的に改めたのではなく、「飛鳥」と漢字が宛てられていたのが読みづらかったのかもしれない。これらは文政本および明治四五年以降の本にはみられない。
明治四五年本は、本文はほとんど文政九年本と同文だが、節付には文政本あるいは角太夫本にみられないものがあり、伝承や別の伝本によって記したかと推測される。
赤鉛筆等で後から書入れたとみられる節付もある。
こうしたことから、山之口では角太夫板本にもとづく文政九年本の系統の本文が書承されてきたことが確認され、無年記本はやや傍系に位置づけることができるようである。
ただし、文政本が直接角太夫板本によったものかどうかは明らかでなく、板本との間にさらにいくつかの写本が存在したことも考え得る。
無年記本も文政九年本についたとは限らないから、その成立時期を文政九年本との関係で押さえることはできない。
このような角太夫系の本文は、昭和に入って義太夫系の本文に改められることになる。現行の坂元鐘一氏筆昭和二七年本の巻頭に次の識語がある。
この浄瑠璃写は古来伝承されてゐたものと、 49
昭和四年六月中旬前田清常氏東京より墓参へ帰省の砌「門出八嶋・出世景清」の記事近松名作集とにより艮栄蔵氏へ田辺祐政依頼し昭和四年十二月筆写し保存しありたるものと昭和二十五年六月三十日発行の
朝日新聞社編刊
日本古典全書
監修(略)
近松門左衛門集(上)
校註 高野正巳
右の本により昭和二十七年三月筆写せるものなり
山之口人形浄瑠璃保存会 芸能部長 坂元鐘一
昭和四年に前田氏によってもたらされた近松名作集は、時期と書名から日本名著全集本かと思われるが、昭和四年一二艮本は現在所在不明とのことで、確認できなかった。
同じ昭和四年の村岡本は、文政以来の角太夫本系である。
現行の昭和二七年本は義太夫本によっているが、節付については、朝日古典全書の義太夫本をそのまま写したのではなく、古来の伝承を参考にしているようである(次節参照)。
「門出八嶋」
「門出八嶋」については、明治四五年本が現存する中では最も古い。
今回本文を調査し得たのは、この明治四五年本と昭和四年本、二六年本、二七年本の四種で、その関係は充分明らかにし得なかった。
原拠となる角太夫の「門出八嶋」の板本も諸本が多く、系統立てはむずかしいが、比較的早期の本の再刻とおぽしき早稲田大学演劇博物館蔵の一〇行二九丁奥欠本(内題下「大夫直之正本」) を主として参照した。
明治四五年本は、語太夫田辺祐政氏の夫人の手になり、祐政氏による「出世景清」と同じ五月一八日の日付をもつ。
三段目までで終わっているが、すでに明治六年の「人形廻シ名簿」によっても、「門出八嶋」は三段目前半(現在の「提灯とぼし」)までしか上演されていないので、完本とみなしてよいのだろう。
その本文は、角太夫の板本と相違するところが時おりみられるが、もとより義太夫本「津戸三郎」によったものではなく、その典拠はあきらかでない。
現行本の昭和二七年本には、「出世景清」と同様、巻頭に次の識語がある。
この浄瑠璃写は古来伝承されてゐたものと、昭和四年六月中旬前田清常氏東京より墓参へ帰省の砌「門出八嶋・出世景清」の記事近松名作集とにより艮栄蔵氏へ田辺祐政氏依頼し昭和四年十二月筆写し保存しありたるものを再筆写せるものなり
昭和二十七年三月 山之口人形保存会 芸能部長 坂元鐘一
この場合も、右にいう昭和四年一二月の艮氏筆写本の存在は確認していない。
昭和四年村岡本は明治四五年本系の本文であるが、明治本の誤脱が正されているところがあり、現存本以外に参照した本があったのだろう。
のちに名著全集等による訂正が施されている。 50
また坂元本の前年の「昭和二十六年七月書」の年記をもつ松山充雄氏筆写本は、日本名著全集の「近松名作集」を、本文節付ともそのまま写したものである。
昭和二七年坂元本はすべてを名著全集によっているわけではない。いま明治本と昭和二七年本の、冒頭近くを掲げる。
(明治四五年)
秀衡が諸将にて
頼朝に加わゝつて
ぎやくとしつめ(んため)
おく勢。拾万余騎をいん卒し。
御進発とそ🔲
およそ三軍をつかさどり
御きりやう。
てんねん其徳にそなはつて。
そなへ行列貝太鼓。
諸将せいくとして。
金鉄御代なる御陣をし。
ほくとしやうぶはかふべをたれ。
草木も枝をかたぶける。
(昭和二七年本)
秀衡が書状にて
頼朝に加はり。
平家の逆徒を鎮めんため。
奥勢十万余騎を引率し。
御進発とぞ聞へける。
凡そ三軍を司る
御器量。
天然其の徳そなはつて。
そなへ行列貝大鼓。
鏦々凄々として
金鉄皆鳴る御陣押し。
牧童樵夫も頭をたれ。
木も枝をかたぶけり。
角太夫本は大部分が仮名書きであるが、明治本(あるいはその祖本)は、転写の際に誤ったのではなく、語りの音によって漢字をあてているように見うけられる。
昭和二七年本はここでは名著全集によって用字を正している。
ところが、次の例(二段目)では昭和二七年本は、明治本と同じ本文で、角太夫の名著本と相違する。
ただし、「おし静め」には🔲が付され、「さりながら」を補入、「百里も二百里も」の「も」に削除の印をつけるなど、後に訂正して、角太夫系の本文に近づけている。
(角太夫本)
次信むつとせきあげしが。
お、やすい事く。
去ながら
百里二百里はくわらんぢ
何の用に入申。
(明治四五年本)
次信はむつとせきあげしが。
おししづめ。
おゝやすひくこと。
百里も二百もはくわらんぢが。
何の用に入り申。
(昭和二七年本)
継信はむつとせき上げしが
おし静め
おゝ易い事く
百里も二百里もはく草鞋が
何の用に入り申す。
昭和二七年本の本文は、五段目までを収めており、直接明治四五年本によったのではないようである。
この地に伝承される本文を採用しながら、漢字や意味の不明確なところなどを名著全集(またはその系統の写本)を参照して作った校訂本文であるらしい。
ところが、節付はまた別の様相を呈している。明治本の節付は、記載されている大部分が角太夫正本と一致するが、すべてを写したものではない。
また角太夫本に文字譜のないところにしばしば「詞」の節付がなされているのをはじめ、独自の曲節がみられる。昭和四年村岡本には節付がない。
昭和二七年本は、たびたび手が加えられ、節付も追加訂正されていて、その段階を追うことは難しい。 51
墨で記された文字譜は、「詞」と「節」が大部分で、「節色」というものもある。
初段冒頭には頻繁に「上」「下」が記されている。この墨の文字譜は初段の末尾「癖ぞかし」以下には付されていない。
それ以降は赤鉛筆で「フシ」という文字譜と胡麻章が記されることが多い。「上フシ」「ハヅミ」「詞」も一、二例ずつみられる。
この墨と赤鉛筆の節付は、角太夫正本と無関係に施されているようである。
これとは別に、赤インクで書き加えられた文字譜がある。これはほぽ角太夫正本のままに写されており、明治四五年本や名著全集に記載されているよりはるかに多い。
右に示した「牧童樵夫」の箇所には墨で「詞」が二回書かれているが、そこに赤インクで「地」と記されるなどの矛盾も生じており、研究目的の書き入れで、実際の演奏のための注記ではなかったように思われる。
先に記した「さりながら」の補入などの本文の訂正も同じ赤インクなので、この時に行なわれたようである。
今回確認し得なかった写本・板本の類によったのかどうか、なお今後の調査にまちたい。
(和田 修) 52
「出世景清」 牢屋場
本文対照表
一、本表は「出世景消」四段目「牢屋場」後半について、①文政九年本、②明治四五年田辺本、③昭和二七年坂元本(現行本)の本文を示すものである。
①については角太夫板本(一〇行二六丁)との異同を注記した。
一、通行の字体に統一した。仮名づかいは底本のままとした。
一、文字譜はすべて採用したが、墨譜は省いた。
一、判読し得ない文字は口とし、推定した場合は🔲内に入れた。
一、底本の文字が🔲で囲まれている場合、本表ではで□囲んだ。
一、句切点は、底本の「。」を「。」、「.」を「、」で表わした。
一、底本の誤字とみられる文字もそのまま翻字した。
【文政九年本】
(ふし上)
是は扨置。
(地)
あこやのまへ。
いやいしいや若もろ共に。
(1)(2)山ざきのたにかげに
ふかくかくれておはせしが。
景清ろうしやと聞よりも。
わが身も有にあらればこそ。
六はらにはしり付。
此ていを一めみて。
(かん入)
なふあさましのふ🔲(3)やな。
やれあれこそ(4)父わがつまと
(5)ろうの(6)🔲にすかり付
(うれいふし)
なくより外の事ぞなき。
(7)景清(8)🔲まな🔲かどを立。
(かけ9)
やれ物しらずめ
にんげんらしく
ことばをかくるもむやくながら。
(10)
何のなまづらさげて
今此所へ来りしぞ。
おのれゆび一つかなひなば
つかみひしいで。すてん物をと
(かんをとし)
はがみをして。ぞ。ゐられける。
げに(11)御うらみはことはりなれ共。
わらはが事をも聞給へ。
兄にて候十蔵
そにんせんとせしを。
さいさんとゞめて候所に。
大くじの娘おのゝ姫と。やらんより
したしき御ふみ参りしゆへ。
女心のあさましさは。
しつとのうらみに(12)ほたされ
あとさきのふまへもなく。
たうざのはら立(13)やりかたなく
ともかくもと申つる。
こうくはいさきにたゝばこそ。
(かんことは)
さは去ながら
しつとは殿ごのいとしさゆヘ
(14)女🔲ならひ
たが身の上にも候ぞや。
(15)云わけいた🔲程
皆いひおちにて候へ共
(16)今迄の(17)うらみには
(はる)
たうり一つを聞わけて。
只何事も御めん有。
こんしやうにて今一ど。
(かん)
詞をかけてたび給へ。
(18)それを力にじがいして。
わが身のいゝわけ立申さんと
(うれいふし)
地にひれふしてそ。なきゐたる。
むさんやないやいし
(19)ちゞか姿をつくぐ見て
(20)なふ父上程のかうのものか。
(21)なせやくとはとらはれ給ふそ
いておしやぶつてたすけ奉らんと
(22)はしらに手をかけゑいやくと。
(かん)
おせ共ひけ共ゆるかばこそ。
(かんおとし)
ふひん成ける所存也。
(地)
弟のいや若は。
(23)ほだしのあしにいだき付。
(かん)
いたいかや父上様。
(はるいろ)
なふいたむかやと
なで上なでさけさすり上。
(かん)
兄弟わつとさけびければ。
(かん)
思ひ切たる景清も
ふかくの涙は。せきあへず。
(ことは)
やゝ有て涙をおさへ。
やれ子共よ
父がかやうに成たるはな。
皆あの母が悪心にて
なはをも母がかけさせ。
ろうにも母が入けるぞ。
しやけんの母がたいないより
出たる物と思へば。
汝ら迄がにくいぞや。
父共思ふな子共(24)思はぬ
(25)はやくかへれとしかるにぞ。
(はる)
子共は母にすがり付。
(かん)
なふ父をかへしや
父上かへしやと。
(はる)
ねだれなげきし有様は
(うれいふし)
めもあてられぬ。しだい也。
(地)
あこやはあまりたへかねて。
(ことは)
よし此上は
みづからはともかくも。
かはいやな兄弟に
やさしき詞を只一ごん。
(かん)
さりとてはかけてたべ。
(引)
(26)なふ子はかはゆふはおぼさぬかと
(引)
(27)又せき上てそなけかるゝ。
(28)景清かさねて
おことがやう成悪人に
へんじもせじとは思へ共な。
今のくやみを
(29)なぜさいぜんには(かけ30)思はざりしぞ。
されば天ぢくにしゝといふけた物有。
身はちくしやうにて有ながら
ちゑにんけんにこへたれば。
かりうとにもとられず
かへつて人を取くらふ。
され共ふく中に
とゞくといへるむし有て。
此むしどくをはくゆへに
たいをやぶつてしめつす也。
されば女のしつとのあた
人をうらむと思へ共。
ふうふはおなじたいなれば
皆是わか身をせむることはり。
わこぜがやう成
かまんぐちのさるぢゑを。
しゝしん中のむしにたとへて
仏もいましめ給ふそや。
汝が心一つにて
本望とげずあまつさへ。
ちじよくのうへのちじよくを取。
今いひわけして
さい子がなげくを(31)ふびんにとて。
日本一の景清が二たび(32)心かへすべきか。
何程いふても
汝がはらより出たる子なれば
景清が敵也。
つま共子共思はぬと
思ひ切てぞゐたりける。
(いろ)
扨は何程申ても
御せういん有ましきか。
お、くどいく
見ぐるしきにはやくかへれ
思ひ切たぞ。
(いろ)
なふもはやながらへて
(はる)
いづかたへかへらふぞ。
(かんことは)
やれ子共よ
母があやまりあれはこそ。
(はる)
かくわびこといたせ共。
(33)つれなき父ごの詞をきいたか。
(かん)
おやゝおつとに敵と思われ
(34)おのしらとてもいきかひなし。
(かへるいろ35)此上は
てゝおやもつたと思ふな。
(36)母計が子成ぞや。
(かん)
みづからもながらへて。
(かん)
ひだうのうき名なかさん事。
(はる)
みらいをかけてなさけなや。
(はる)
いさもろ共に
しでの山にていひわけせよ。
(37)いかに景清殿。
わらはかしんてい是迄と
いやいしを引よせ
まもり刀をすばとぬき。
なむあみだ仏とさしとをせば。
いや若おとろきこゑを立。
(かん)
いやく我は母様の子ではなし。
(かん)
父上たすけ給へやと
(38)ろうのこうしに(39)かほをさし入く
にげあるく。
(はるいろ)
ゑゝひけう也と引よすれば。
(はるいろ)
わつといふて手を合。
(40)ゆるしてたべこらへてたべ。
(41)あすからはおとなしう
さかやきもそり申さん。
(42)やいとをもすへませふ。
(かん)
扨もじやけんの母上様や。
(かん)
たすけてたべ父上様と
(うれいふし)
いきをはかりに。なきわめく。
(43)おゝことはりよ去ながら
ころす(44)母ころさいで。
たすくる父ごのころさるゝ。
あれみよ兄もおとなしうしゝれば。
おことや母も
しなでは父のいひわけなし。
いとしいものよようきけと。
(地)
すゝめ給へは聞入て。
(かん)
あゝそれならばしにませふ。
(かん)
父上さらばといひすてゝ。
(はる)
兄がしがいによりかゝり。
(45)打あをのきしかほをみて。
(かん)
いづくに刀を立べきと。
(はる)
あこやはめもくれ手もなへて
(うれいふし)
まろびふしてぞなけきしが。
(ことは)
ゑゝ今はかなふまじ。
かならずせんせのやくそくと思ひ
母をばしうらむるな。
おつ付行ぞなむあみたと。
心もとをさしとをし。
さあ(46)景清殿らみをはらし給へ。
(かゝり)
むかへ給へや御仏と。
刀をのとにおしあて。
兄弟がしかいの上にかつはとふし。
共にむなしく成給ふ
(かんおとし)
扨もせひなきふぜい也。
(はる)
景清は身をもたへ。
(上)(ゆり引)
なけど。さけべど。かひそなき
(下かゝり)
神や仏はなき世かの。
(はる)
さりとてはゆるしてくれよ
わかつまよと。
(かん)
おにをあさむく景清も
(うれいふし) (ゆり引)
こゑを上てぞなきゐたり
(下)(のるふし)(引)
物の。あはれのかきり也。
(47)かくとはしらていばの十蔵
かちはらが取なしにて。
せうくくんこうにあづかり。
わかとう小ものあまたつれ
ゆさんよりかへりしが。
此ていをみてきもをつぶし。
是は扨しなしたりく
ふびんの事をみる物かな。
是侍共。
我此ごとく御おんしやうをうけ。
ゑいようゑいくはにさかゆるも
きやつらを世にあらせんため。
此比はうぐ(48)尋ししか共
其行方のなかりしが。
扨は何ものぞへんしうをおこし
がいせしか。
たゝしは大くじがはからひとおほへたり。
よし何にもせよ
なを景清にいひぶん有。
先々しかいを取おけと
かたはらにほうふらせ。
ろうやにむかつて立はたかり。
是さいもうとむこ殿。
いかにうらみあればとて
げんざいのつま子をころさせ。
うでかなはずは
などいきほねでも立ざるぞ。
ないくは某
御へんが命を申うけ
出家させんと思ひしが。
もはやほつてもならぬく
侍ちくしやう大たはけと
いかつはいてぞ申ける。
景清くつくとふき出し。
こりやうろたへもの
あのもの共は
おのれが(49)とうよくをかなしみ。
しかいしたるが(50)しらざるは。
それさへ有にうぬめが口から
侍ぢくしやうとはたが事ぞ。
命おしむ程ならば
かゝる大じをたくむへきか。
又いきやうと思ふ程ならば
へろくはしらの五十や百。
此景清が物のかずと思ふへきや。
心しつかにくはんをん経
どくじゆするうれしさに。
なくさみ半ぶんに
ろうしやして有物を。
くはんたいすぎたるたはことつき。
二こんとはかば
つかみひしいですてんずと
はつたとにらんて申さるれば。
十蔵からくとわらひ。
其いましめにあひながら
(51)某つかまんとは。
うでなしのふりずんばい。
かたはらいたし事おかし。
さいはい此比けんへきいたきに。
ちつとつかんでもらひたしと
(はつみふし)
そらうそふきてそゐたりける。
(ことは)
景清はらにすへかね。
出物みせんといひもあへず。
なむせんじゆせんげん生々せゝ。
一もん(52)めうめつぢうざい。
大じ大ひくはんおんりきと。
こんかうりきを出し
ゑいやつと身ぶるひすれば。
大くぎ大なは
はらくすんときれてのいた。
くはんぬき取ておしゆかめ。
とびらをかつはとふみたをし。
(かゝり)
大手をひろけおどり出。
八方におひまはすは
(かん) (引)
あれたるやしやの。(53上)ことく也。
(かゝり)
むらがるわかとうちうけん
はらりくとけたをし。
十蔵をかいつかみ取ておしふせ。
せほねもおれよとどうとふまへ。
何と景清をそにんして
御はうびにあづかり。
ゑいぐはといへるは此事かと。
二つ三つふみ付れば。
(かんことは)
なふかなしや
ほねもくだけていきもたへ入候。
御じひに命をたすけ下されと
(うれいふし)
こゑを上てなきにける
(ことは)
景清も手をたゝき打わらひ。
おゝ某がほうびには
ひろい国をとらせんと。
両足取てさかさまに引上。
かたをふまへて
ゑいやつとさきけれは
とうなかよりまふたつに。
さつとさけてそのきにける。
ゑゝ(54)こゝちよしと。
ゆんでめでへからりとすて
さあしすましたり此上は。
くはんとうへやおちゆかん。
いや西国へや立のかんと。
ゆきつかへりつ
もとりつゆきつ。
一町計はしりしが。
いやく此たびおちうせなば
又大くじやおのゝ姫。
うきめをみんはぢぢやう也と。
(かゝり)
思ひさだめて立かへり。
もとのろうやにはしり入。
内よりくはんぬきしとゝしめ
ちすぢのなはを身にまとひ。
さあらぬていにてふもんほん
(55)とくしゆのこゑはおのづから
そくしんほさつのへんげならんと
皆かんせぬものこそなかりけれ
【明治四五年本】
是は、扨おき。
(地)
阿古屋のまへ。
いやいし、いや若、もろ共に。
山崎の、谷景に、
ふかく、かくれて、おはせしが。
景清、ろう、しやと、きくよりも。
我が身も、有に、有ば、こそ。
(三味)
六波羅に、走り付。
(詞◎)
此ていお、一めみて。
(カン)
なふ、あさましの、ふぜいやな。
やれ、あれ、こそ、父、我か、つまと。
(ハツミ)
ろうの、かう、しに、すがり付。
なくより、外の、事ぞなき。
景清、だいの、まなこに、かどお立。
やれ、物、しらずめ。
にん、げん、らしく、
詞お、かくるも、むやく、ながら。
何の、なまづら、さげて、
今、此所へ、来り、しぞ。
おのれ、ゆび、一とつ、かなひ、なば、
つかみ、ひしいて。すてん、物おと、
はが、みお、してぞ。ゐられける。
げに、御恨は、ことはり、なれども。
わらはが、事おも、聞給へ。
兄にて、候、十蔵
訴人、せんと、せしお。
さい、さん、とどめ、候所に。
大、宮司の、娘、小野々姫と。やらん、より、
した、しき、御、文ミ、参り、し、ゆへ。
女、心の、あさ、まし、さは。
(詞)
しつ、との、恨に、ほだ、され、
あと、さき、の、ふまへも、なく。
(ハル) (ハヅミ)
たう、ざの、はら、だち、やりかたなく、
(引)
と、も、か、く、も、と、申つる。
こう、くわい、さきに、たゞは、こそ。
(詞)
さは、去なから。
(ハルヲトシ)
しつ、とは、殿、ごの、いと、し、さ、ゆへ。
(詞)
女の、ならひ、
たか、身の、上二も、候ぞや。
(中イイ)
云、わけ、いたす、程、
皆、いひ、おち、にて、候得共も。
今、まで、の、恨に、
だう、り、一つお、聞、わけて。
只、何事も、御、めん、有り。
こん、じゃう、にて、今一と。
詞お、かけて、たび、給へ。
(ハル)(三味)
それお、力に、じがいして。
(詞) (ナゲキ)
我が、身の、い、はけ、立、申さんと、
(ナゲキ)
地に、ひれふしてぞ。なき、ゐたる。
むざん、やな、いやいし、
父が、姿を、つくぐ、見て。
なふ、父上、程の、ごうの、ものが。
なぜ、やみくとは、とらはれ、給ふぞ、
いで、おし、やふりて、たすけ、奉らんと、
はしらに、手お、かけ、ゑいやくと。
(カン)
おせ、共も、ひけども、ゆるがば、こそ。
(カンオトシ)
ふびん、成、ける、所存、なり。
(地)(引)
弟、の、いや、若、は。
(カン)
ほだしの、あしらに、いたき、付。
いたいかや、父上様。
(ハルイロ)
なふ、いたむ、かやと、
なで、上、なで、さげ、さすり上。
(カンハツミ)
兄弟、わつと、さけび、ければ。
思ひ、切、たる、景清も、
ふかくの、涙は。せき、あへず。
やゝ、有て、涙お、おさへ。
やれ、子共よ、
父か、かやうに、成たる、はな。
皆、あの、母が、悪心、にて、
なわ、おも、母が、かけ、させ。
ろう、にも、母が、入、けるぞ。
じや、けん、の、母が、たい、ない、より、
出、たる、物と、思、へば。
汝ら、まてが、にくい、ぞや。
父共、思な、子共、思はぬ、
はやく、帰と、しかるに、ぞ。
子共は、母に、すがり付。
(カン)
なふ、父お、かへしや、
父上、かへ、しやと。
ねだれ、なげきし、有様は、
めも、あて、られぬ、しだい、なり。
(ハル)
阿古屋は、あまり、たへ、かねて。
(詞)
よし、此上は、
みつからは、とも、かくも。
かは、いやな、兄弟に、
やさしき、詞お、只、一、ごん。
(カン)
さり、とては、かけて、たべ。
(引)
なふ、子は、かは、ゆふ、は、おぽ、さぬ、かと、
(引)
又、せき、上て、そ、なげ、か、るゝ。
景、清、かさ、ねて、
おことが、やう、成、悪、人、に、
へん、じも、せじとは、思へ、共も、な。
今のくやみお、
なぜ、さい、せん、には、思は、さり、しぞ。
されば、天、ぢくに、ししと、いふ、けた物有り。
身は、ちく、しやうにて、有ながら、
ちゑ、にん、げん、に、こへたれば。
狩、うどにも、とられず、
かへつて、人を、取り、くらふ。
され共、ふく、中に、
と、どく、と、いへる、むし、有て。
此、むし、とくお、はくゆへ、に、
たいお、やぶつて、じめつ、すなり。
されば、女の、しつとの、あだ、
人お、うらむと、思へ共。
ふうふは、おなじ、たい、なれば、
皆、是、我が、身お、せむることはり。
わごぜが、やう成、
がまん、ぐちの、さるぢへお。
しゝ、 しん中の、むしに、たとへて、
(詞)
仏も、いましめ、給ふぞや。
汝が、心、一ッにて、
本望、とげず、あまつ、さへ。
ちじよ、くの、うへの、ちじよくお、取り。
今、いひ、わけして、
さい、しが、なげくお、ふびんに、とて。
日本、一の、景清が、二たび、心、かへす、べきか。
(詞)
何程、いふても、
汝が、はらより、出たる、子なれば、
景清が、かたきなり。
つま共も、子共、思はぬと、
思ひ、切てそ、ゐたり、ける。
(詞)
扨は、何程、申ても、
御せう、いん、有り、ましきか
おゝ、くどいく
見くるしきに、はやく、かへれ
思ひ、切たぞ
なふ、もはや、ながらへて
いつかたへ、かへらふぞ。
やれ、子共もよ、
母が、あやまり、あれば、こそ。
かく、わびこと、いたせ共も。
つれなき、父ごの、詞お、きいたか。
おやや、おつとに、かたきと、思われ、
おのしら、とても、いきがいなし。
此上は、
てゝ、おや、もつ、たと、思ふな。
(ハル)
母、計が、子成ぞや。
(詞)
みづからも、ながらへて。
ひだうの、うき名お、ながさん、事。
未来ヲ、かけて、なさけなや。
いざ、もろ共に、
しでの、山にて、いひ、わけ、せよ。
いかに、景清、殿。
わら、はがしん、てい、是、までと、
いや、いしお、ひき、よせ、
まもり、刀お、すはと、ぬき。
なむ、あみ、だ、仏と、さし、とお、せば。
いや若、おとろき、こゑお、立。
いやく我等は、母様の、子ては、なし。
父上、たすけ、給へやと、
ろうの、こう、しに、かほお、さし入く、
にげ、あるく。
ゑゝ、ひけう、なりと、ひき、よすれば。
わつと、いふ、て、手お、合。
ゆるして、たべ、こらへて、たべ。
(ハル)
あす、からは、お、と、な、しう、
さか、や、き、も、す、り、申さん。
やい、と、お、も、す、へ、ま、せう。
(詞)
扨も、じゃ、けんの、母、上、様や。
たす、けて、たべ、父上様と、
いきお、はがりに。なき、わめく。
(詞)
お、お、ことはりよ、去ながら、
ころす、母、ころ、さ、いて。
たすくる、父ごの、ころ、さるゝ。
あれ、みよ、兄も、おと、な、しう、した、れば。
おこや、母も、
しなでは、父の、いひ、わけ、なし。
いと、し、い、もの、よ、よう、きけと。
(地)
すすめ、給へは、聞、入て。
(カン)
あゝ、それ、ならば、しにませふ。
(カン)
父上、さらばと、いひ、すてゝ。
兄が、しが、いに、より、かかり、
打、あお、の、き、し、かほお、みて。
(カン)
いづくに、刀お、立べきと。
阿古屋は、めも、くれ、手も、なへて、
(ナゲキ)
まろび、ふしてぞ、なげき、しか。
(詞)
ゑゝ、今は、かなふ、まじ。
かならず、せん、せの、やく、そく、と、思ひ、
母、おば、うら、むる、な。
おつ付、行ぞ、なむ、あみだと。
心、もとお、さし、とおし。
さあ、景清殿、恨み、はらし、給へ。
むかへ、給へや、御仏と。
刀お、のどに、おし、あて。
兄弟が、しがいの、上に、かつ、はと、ふし。
共に、むな、しく、成、給ふ。
(ハル)
扨も、ぜひ、なき、ふぜい、なり。
(詞)
景清は、身お、もだへ。
(上)
なけど。さけべと。かひぞ、なき、
神や、仏は、なき、世、かの。
(ハツミ)
さり、とては、ゆるして、くれよ、
我が、つま、よと。
おにを、あざ、むく、景清も、
こゑお、上てぞ、なき、ゐたり。
(ノリブシ) (引)
物、の、あわ、れの、かぎり、なり。
(カゝリ)
かく、とは、しらで、いばの、十蔵、
かぢ、はらが、取り、なし、にて。
せうく、くん、こう、に、あづ、かり。
わか、とう、小、もん、あまた、つれ、
ゆさん、より、かへり、しが。
此、ていお、みて、きもお、つぶし。
是は、扨、しなシ、たりく、
ふびんの、事お、みる、物、か、な。
是、侍、共も。
(コノ)
我、此、ごとく、御、おん、じやう、おうけ。
ゑいよ、ゑい、ぐわに、さか、ゆるも、
きやつ、らお、世に、あらせん、ため。
(コノゴロ)(方々)
此、比、はうぐ、たづね、しか共、
其、行方の、なか、りしが。
扨は、何、ものぞ、へん、しう、おこ、し、
ゞか、い、せしが。
たゞ、しは、大宮司が、はか、らいと、おぼへ、たり。
よシ、何にも、せよ、
なお、景清に、いひ、ぶん、有り。
先々、しかいお、取、おけと、
かたはらに、ほうふらせ。
ろうやに、むかつて、立はたがり。
是さ、いもうと、むこ殿。
いかに、うらみ、あれば、とて、
げん、ざいの、つま子お、ころさせ。
うで、かなはずは。
など、いき、ほね、でも、立、ざる、ぞ。
ないくは、某、
御へんが、命、お、申うけ、
出家、さ、せん、と、思ひ、しが。
もやは、ほつ、ても、ならぬく、
侍、ちく、しやう、大たばけと、
いかばつて、ぞ、申ける。
景清、くつぐ、と、ふき出し。
こりや、うろ、たへ、もの、
あの、もの、共も、
おのれが、どう、よくを、かなしみ。
(か)
じがひ、したるが、しらざるは。
それ、さへ、有に、うぬめが、口から、
侍、いちく、しやう、とは、たが、事ぞ。
命、おしむ、程ならば、
かかる、大事お、たくむ、べきか。
又、い、きやうと、思ふ、程、ならば、
べろく、はしらの、五十や、百。
此、景清が、物の、かすと、思ふ、べきや。
心、しづかに、観音経、お、
どく、じゆ、する、うれシ、さに。
なく、さみ、半ぶん、に、
ろう、しや、して、ある、物お。
くわん、たい、すぎたる、たは、こと、つき。
二言と、はかば、
つかみ、ひしいて、すてん、すと、
はつ、たと、にらみて、申さる、れば。
十蔵、からくと、わらひ。
其、の、いましめに、あひながら、
某、つかまんとは。
うて、なしの、ふりずんばい。
かたはら、いたし、事、おかし。
さい、わい、此ごろ、けん、べき、いた、きに。
ちつと、つかんで、もらひ、たし、と、
そ、ら、う、そ、ふう、きてぞゐたりける。
景清、はらに、すへ、かね。
(ハヅミ)
出、物、みせん、と、いひも、あへず。
なむ、せん、じゆ、せん、げん、生々、せゝ。
(ハヅミ)
一もん、めう、めつ、ぢう、うざい。
大慈、大悲、観音、りきと。
(ハヅミ)
こん、かう、りきお、出シ、
(ハヅミ)
ゑい、やっと、身ぶるひ、すれば。
大釘、大なは、
はらいく、すんと、きれて、のいた。
くわん、ぬき、取て、おし、ゆるめ。
とびらお、かつはと、ふみたおし。
(ハヅミ)
大手お、ひろげ、おどり出。
八方に、おい、まはすは、
(ハヅミ)
あれたる、やしやの、ごとく、なり。
(ハヅミ)
むらがる、わか、とう、ちう、げん、
(ハヅミ)
ばらりくと、けたおし。
(以上ハヅミ)
十蔵お、かい、つかみ、取て、おしふせ。
せぽねも、おれよと、どう、と、ふまへ。
何と、景清を、訴人、して、
御はうびに、あづ、かり。
ゑい、ぐはと、いへるは、此、事、かと。
二つ、三つ、ふみ、付れば。
(ナゲキコトバ)
なふ、か、な、し、や、
ほねも、くたけて、いきも、たへ入候。
御、じひに、命お、たすけ、下されと、
こゑお、上て、なきに、ける、
景清も、手お、たた、き、打、わらひ。
おゝ、某が、ほびには、
ひろい、国お、とらせんと、
両足取りて、さかさまに、引上。
かたを、ふまへて、
ゑい、やっと、さき、ければ
どう、なかより、まふ、たつに。
さつと、さけてぞ、のきに、ける。
ゑゝ、こ、こ、ち、よし、と。
ゆん、で、めて、へ、からり、と、すて、
さあ、しす、まし、たり、此、上は。
くわん、とう、へや、おち、ゆかん、
いや、西国、へや、立、のかん、と。
(ハツミ)(ハヅミ)
ゆきつ、かへりつ、
(地)(ハヅミ)
もと、りつ、ゆき、つ。
一町、計、はし、り、しが。
いやく、此、たび、おち、うせ、なば、
又、大宮司や、小野、姫。
(定)
うき、めを、みんは、理、ぢやう、なりと。
思ひ、さた、めて、立、帰り。
(ハツミ)
もとの、ろうやに、走、入。
内より、くわん、ぬき、し、とゝ、しめ
(地) (カン)
ちすぢの、なはを、身に、まどひ。
(イロ)
さあらぬ、てい、にて、ふ、もん、ぽん、
(カン)
どく、じゆ、の、こゑは、おの、づから、
そく、しん、ぼ、さ、つ、の、へん、げ、ならん、と、
皆々、かん、ぜぬ、もの、こそ、なかり、けり
【昭和二七年本】
(補入)
(さてもそののち)これは扱おき
阿古屋の前。
弥石、弥若諸共に、
山崎山の、谷蔭に
深く、隠れておはせしが。
景清牢舎と聞くよりも。
我が身も在るにあらばこそ。
六波羅に走りつき。
この体を一目見て。
(詞)
なう、あさましの御風情や。
やれ、あれこそ、父よ、我が夫と。
牢の格子にすがりつき。
泣くより、外の事ぞなき。
(詞)
景清大のまなこに、角を立て、
やれ、物知らずめ。
人間らしく、
言葉を掛るも、無益ながら。
かほどの恩愛を振りすて、
夫の、訴人をしながら。
何の、生面下げて、
今、この所へ来りしぞ。
おのれ、指一ッかなひなば。
つかみひしいで、すてんものをと。
(スヱテ)
歯がみをしてぞゐられける。
げに、御恨みは理なれども。
わらはが事を聞き給へ。
兄にて、候、十蔵、
訴人せんと申せしを。
再三、とゞめて候ところに。
大宮司の娘小野の姫とやらんより。
親しき御文参りし故。
女心のあさましさ。
嫉妬の恨みに取り乱れ。
後先のふまへもなく。
当座の腹立やるかたなく、
ともかくもと申しつる。
後悔、先に立たばこそ、
さはさりながら。
嫉妬は、殿御の愛しさ故。
女の習、
誰が身の上にも候ぞや。
申訳致すほど、
皆言ひ落ちにて候へども。
今迄のよしみには、
道理一つを聞きわけて。
たゞ何事も御免あり。
今生にて、今一度、
言葉をかけて、たび給はば。
それを力に自害して。
わが、身の言訳立て申さんと、
(スヱテ)
地に、ひれ伏しぞ、泣きゐたる。
むざんやな、弥石、
父が姿をつくぐ見て。
(詞)
なう、父上程の、剛の者が、
何故、やみくとは、捕はれ給ふぞ。
いで、押し破つて、助け奉らんと、
柱に手を掛け、えいやく、と、
押せども、引けども、ゆるがばこそ、
ふびんなりける所存なり。
弟の弥若、
絆の足に抱きつき、
(詞)
痛いかや、父上様、
なう痛むかと、
撫で上げ、撫で下げ、さすり上げ、
兄弟、わつと、叫びければ。
思ひ切つたる景清も。
(スヱテ)
不覚の涙せきあへず。
やゝあって、涙を押へ、
やれ、子共よ、
(詞)
父がかやうになりたるはな。
皆、あの母奴が、悪心にて、
縄をも母がかけさせ。
牢にも、母が入れけるぞ。
邪慳の女が胎内より、
出でたる者と思へば。
汝等迄が、憎いぞえ。
父とも、思うな、子とも思はじ。
はやく、帰へれと、叱るにぞ。
子供は、母にすがりつき。
なう、父をかへしや、
父上かへせと、
ねだれ歎きし有様は、
(スヱテ)
目も当てられぬ次第なり。
阿古屋は余り堪へ兼て、
よしこの上は、
みづからは、ともかくも、
可愛いやな、兄弟に、
やさしき言葉を、たゞ一言、
さりとてはかけてたべ。
なう、子は、可愛ゆうは思さぬかと、
(スヱテ)
又せき上げてぞ歎かるゝ。
景清重ねて、
(詞)
お事が様なる悪人に、
返答もせじとは、思へどもな、
今の悔🔲を
など、最前には思はざりしぞ。
されば、天竺に、獅子と言ふ獣あり。
身は、畜生にて在りながら、
智恵、人間に超えたれば。
狩人にも、とられず、
かへつて、人を取り食ふ。
されども、腹中に
蠹毒と言へる虫あつて、
この虫、毒を吐く故に、
体を破つて自滅すなり。
されば、女の嫉妬の仇、
人を恨むと思へども。
夫婦は、同じ体なれば、
皆、これ、我が身をせむる理。
和御前が様なる
我慢愚痴の猿智恵を。
獅子身中の虫にたとへて
仏も戒め給ふぞや。
汝が心一つにて
本望遂げず、あまつさへ。
恥辱の上の恥辱を取り。
今言ひわけして
(愍ビン)
妻子が歎くを不便よとて。
日本一の景清が再び心を返へすべきか。
何程言ふても
汝が腹より出でたる子なれば、
景清が敵なり。
妻とも子とも思はぬと
思ひ切つてぞ居たりける。
扨は如何程申しても
御承引あるまじきか。
オゝ、くどいく
見苦しきに、早やく帰へれ
思ひ切つたぞ。
なうもはやながらへて
いづかたへ帰らうぞ。
やれ子供よ
母があやまりあればこそ。
かく詫言いたせども。
つれなき父御の言葉を聞いたか。
親や夫に敵と思はれ
お主らとても生甲斐なし。
この上は
(テ、)
父親もったと思ふな。
母ばかりが子なるぞや。
みづからもながらへて
非道の浮名流さんこと。
未来をかけて情なや。
いざ諸共に
死出の山にて言ひわけせよ。
如何に景清殿。
わらはが心底これまでなりと。
弥石と引き寄せ。
守刀をずばと抜き。
南無阿弥陀仏と。刺し通せば。
弥若おどろき声を立て。
いやく我は母様の子ではなし。
父上助け給へやと
牢の格子へ顔を差し入れく
逃げ歩く。
エゝ卑法なりと引き寄すれば。
わつと言ふて手を合せ。
許してたべこらへてたべ。
明日からはおとなしう。
(サカヤキ)
月代も剃り申さん。
灸をもすえませう。
さても邪慳の母上様や。
助けてたべ。父上様。と
(スヱテ)
息をばかりに泣きわめく。
オゝ理よさりながら。
殺す母は殺さいで。
助くる父御に殺さるゝ。ぞ
あれ見よ。兄もおとなしう死したれば。
お事や母も。
死なでは。父への言ひわけなし。
いとしい者よ。よう聞けと
すゝめ給へば聞き入れて。
アゝそれならば死にませう。
父上さらば。と言ひすてゝ。
兄が死骸によりかゝり。
うちあふのきし顔を見て。
いづくに刀を立つべき。と
阿古屋は目もくれ。手もなえて。
まろび伏して歎げきしが。
エゝ今はかなうまじ。
必ず前世の約束と。思ひ。
母をばしうらむるな。
おつつけ行くぞ。南無阿弥陀と。
心もとを刺し通し。
(補入)
さあ(景清殿)今は恨みをはらし給へ。
迎へ給へや御仏と
刀をのどに押しあて。
兄弟が死骸の上に。かつぱと伏し。
共に空しくなり給う。
さてもぜひもなき風情なり。
景清は身をもだへ。
泣けど。さけべど。甲斐ぞなき。
神や仏は無き世かの。
さりとては許して下れよ
やれ兄弟よ。我が妻よと。
鬼をあざむく景清も
(スヱテ)
声をあげてぞ泣きゐたり。
ものゝ哀れの限りなり
かくとは知らで伊庭の十蔵
梶原がとりなしにて。
少々勲功にあづかり
若党小者あまた連れ。
遊山より帰へりが。
この体を見て肝をつぶし。
これはさてしなしたりく
(愍)
不便の事を見るものかな。
これ侍ども
我がこの如く御恩賞を受け。
栄耀栄華に栄ゆるも。
きゃつ等を世にあらせんため。
このごろ方々尋ねしかども。
行方のなかりしが
さては何者ぞ偏執を起し
害せしか。
但しは大宮司が計ひと覚えたり。
よし何にもせよ。
なほ景清に言ひぶんあり。
先づく死骸を取りおけと
かたはらに葬ぶらせ。
牢屋に向つて立ちはだかり
これさ妹聟殿。
いかに恨みあればとて
現在の妻子を目前に殺させ。
腕かなはずば
など息ぼねでも立てざるぞ。
内々は某
御辺が命を申しうけ。
出家せさせんと思ひしが
もやはほつてもならぬく。
侍畜生大だわけと
いかつはって申しける。
景清くつくとふき出し。
こりやうろたへ者。
あの者共は
おのれが貪欲心を悲しみ
自害したるが知らざるか。
それさへあるにうぬめが口から
侍畜生とは誰が事ぞ。
命を惜しむ程ならば
かゝる大事をたくらむべきか。
まつた生きようと思ふ程ならば。
べろく柱の五十や百
この景清が物の数と思うか。
心中に観音経
読誦する嬉しさに
なぐさみ半分に
牢舎してあるものを
緩怠すぎたる囈言つき。
二言と吐かば
つかみひしひで捨んずと
はつたとにらんで申さるれば。
十蔵かんらくと笑ひ
(イマシメ)
其の 縛 にあひながら
某を掴まんとは。
腕なしの振りづんばい
かたはらいたし事をかし。
幸い此の頃けんびき痛きに
ちっとつかんで貰ひたしと
そらうそぶいてゐたりける。
景清腹にすゑかね
いでもの見せんと言ひもあへず
南無千手千眠生々世々
一聞名号滅重罪
大慈大悲観音力と。
金剛力を出し
えいやっと身振ひすれば。
大釘大縄
はらくずんと切れてのいた。
貫木取つて押しゆがめ
扉をかっぱと踏倒し。
大手を広げて跳り出で。
八方に追ひ廻すは
荒れたる夜叉の如くなり。
群りかゝる若党中間
はらりくと蹴倒し
十蔵をかいつかみ取って押伏せ。
背骨折れよとどっとふまへ。
何と景清を訴人して
御褒美にあづかり。
栄華と言ふは此の事かと
二つ三つ踏みつくれば。
なうかなしや
骨もくだくけて息も絶え入り候
御慈悲に命を助け下されと
声を上げ歎きける。
景清手をたゝき打笑ひ
オゝ某が褒美には
広い国を取らせんと
両足取って逆さまに引き上げ。
肩を踏へて
えいやっと裂きければ。
胴中より真二つに
さつと裂けてぞのきにける。
エゝ心地よし気味よしと
弓手馬手へからりと捨。
さあしすましたりこの上は
関東へや落ち行かん。
いや西国へや立ち退かんと。
行きつもどりつ
もどりつ行きつ。
一町許り走りしが
いや今度落ちうせなば。
又大宮司や小野の姫
憂き目を見んは必定と。
思ひ定めて立ち帰へり。
元の牢屋に走り入り
内より貫木しとゝしめ。
千筋の縄を身に纏ひ
さあらぬ体にて普門品
読誦の声はおのづから。
即身菩薩の変化ならんと
皆奇異の思ひをなしにける
【注】
文政九年本と角太夫正本「出世景清」との異同を示す。ただし、仮名遣い・清濁・漢字仮名の別・句切点など、表記上の相違は略した。
あわせて底本(文政九年本)の判読不能箇所についても角太夫本を掲げた。
(1)ことは(節付あり)
(2)山ざき山
(3)ふぜいや
(4)父よ
(5)かん(節付あり)
(6)こうしに
(7)ことは(節付あり)
(8)大のまなこに
(9)(「かけ」の節付なし)
(10)か程のおんあいをふりすておつとのそにんをしながら。
(11)ことは(節付あり)
(12)取みたれ
(13)やるかたなく
(14)女のならひ
(15)申わけいたす程
(16)かん(節付あり)
(17)文政八年本は「よしみ」とある上から「うらみ」と書き直している。角太夫本「よしみ」。
(18)はる(節付あり)
(19)はる(節付あり)。「ちゞか」は角太夫本も同じ。
(20)かん(節付あり)
(21)はる(節付あり)
(22)はる(節付あり)
(23)はる(節付あり)
(24)思はじ
(25)はやく
(26)かん(節付あり)
(27)(下)(のるふし)(入)
又せき上てぞ
(28)ことは(節付あり)
(29)など
(30)(「かけ」の節付なし)
(31)ふびんよとて
(32)心を
(33)かん(節付あり)
(34)はる(節付あり)
(35)はるいろ(節付)
(36)はる(節付あり)
(37)ことは(節付あり)
(38)はる(節付あり)
(39)はる(節付あり)
(40)かん(節付あり)
(41)かん(節付あり)
(42)はる(節付あり)
(43)ことは(節付あり)
(44)母は
(45)かん(節付あり)
(46)今はうらみを
(47)ことは(節付あり)
(48)角太夫本と同じ字形。「尋」の最後の一画が延びたのを文字の如くに写したもの。
(49)とんよくしんを
(50)しらざるか
(51)某を
(52)めうがうめつぢうざい
(53)三重(節付あり)
(54)こゝちよしきみよしと
(55)かんくる(節付あり)
69
第三節 文弥節の曲節
節付については、主として「出世景清」の「牢屋場」(ずやんば)を例に、現在の太夫村岡純秋氏の話に基づきつつ述べていきたい。
村岡純秋氏は現行の各段を先代の太夫(九代目)坂元鐘一氏から習った。
村岡氏は舞台で語る際に、昭和二七年坂元鐘一氏筆写本(以下坂元本と記す)を使用している。
坂元本の「出世景清」は昭和二七年に坂元鐘一氏が朝日古典全書「近松門左衛門集(上)」(高野正巳校注)を底本として書写したものである。
しかし朝日古典全書本では、基本的に節付は省かれている。が坂元本にはさほど多くはないが節付の書入れがある。
この節付記入は、次の三種から成ると推定する(四章二節参照)。
①伝承や伝存本に基づくもの。②坂元鐘一氏の心覚え。③他の活字本(日本名著全集「近松名作集」)によって書入れたもの。
坂元本「門出八嶋」は名著全集「近松名作集」を底本とするよしが識語にあるが、前節に述べたように、実際には角太夫節の板本を翻刻した名著全集本にはない詞章があり、節付も伝承または伝存本によるところがある。
坂元鐘一氏には、山之口麓文弥の「出世景清」「門出八嶋」が近松門左衛門の作品であっても、語り本としては近松直系の義太夫本(「門出八嶋」は「津戸三郎」)ではなく、傍系の角太夫本系に属する、という認識はなかったと思われる。
その故に、坂元本「出世景清」では、五三頁の対校表にみる如く、文政九年本や明治四五年田辺本の角太夫系詞章が、「近松門左衛門集」や「近松名作集」によって義太夫系詞章に改められ、現在はその形で語られているのである。しかし、このような坂元鐘一氏の、知的判断に基づく本文処理と、同氏の演奏における曲節伝承のあり方とは、基本的に切り離して理解してよい(後述)。
さて村岡氏に聞くところによると、山之口麓文弥では、まず各段の語りはじめに、「さてもそののち」(譜例l) が置かれる。
もっとも、すべての段という訳ではなく、「出世景清」では三段目の最初は、板本(角太夫・義太夫とも同文)と同じく「かくてそののち」である。
また「門出八嶋」で、二段目後半から三段目前半を続けて演ずる時は、三段目の最初に「さてもそののち」も、板本にある「かくてそののち」も語られない。
節付の体系は、基本となる「語り」、人物の「ことば」、「区切り」のふし、高い音を用いた旋律的な「調子」、感情の高まりをしっかりおさえて語る「すえて」(坂元本は「スヱテ」であるが、
板本の文字譜及び義太夫節の曲節と区別するため、山之口麓のものはひらかなで記し、他はすべてカタカナで記す)、その他から成る。
「語り」は義太夫節にあてはめれば「地」にあたる(「地」という書入れも、坂元本・田辺本・松山本にある)。
「ことば」には、男、女、子供などの役による違いがあり、東二口などにみる白声的なことばは、山之口麓文弥には少ないが、それでも「門出八嶋」二段目「合戦場」の、角太夫本で「きく王(ことは)はくびをとらんとおり立所に忠信はるかにはなつやが」のあたりは、白声的な棒読み調である。
山之口麓では「ことば」のはじめの部分は音楽性を持たぬ、いわゆる「詞」であるが、写実的なせりふではなく、三味線の手も度々入ってくるので、中途から「語り」(地)との区別がつかなくなるところがある。
この点は佐渡文弥の「コトバ」(ないし「地コトバ」)と(佐渡の場合ほど音楽的ではないが)近いといえる。
山之口麓の文弥浄瑠璃は、斧淵また東二口のものに比べて(「提灯とぼし」のような節事を除けば)演劇性が強い。
それは、中世的語り物性の濃厚な東二口、歌謡的な節と朗唱的なことばから成る斧淵に比べて、「ことば」に近い地の簡潔な語り口を主体として、比較的早いテンポで劇的展開がなされるからである。
他方、佐渡の文弥は、音楽性とともに演劇性も備えているが、プロ的な巧緻さ故に、「ことば」などが義太夫節的演劇性に流れる危険があり、佐渡の幕末・明治期の名人が義太夫節への接近を戒めた理由もそのあたりにあると思われる(1)。
そしてこの義太夫化の危険は、義太夫節と直接接触する機会を持たなかったはずの(七六頁参照)山之口麓文弥にも、佐渡とは違った意味で存在するのである。
昭和四〇年代の坂元鐘一氏の「出世景清」二段目「偽文」では、阿古屋の「ことば」に義太夫節の女の「詞」(部分的には歌舞伎の女方のせりふ)に近い言い方があった。
明治四五年五月田辺本の「偽文」の「又思へば腹も立つ。」等数箇所に赤鉛筆で「コワイロ」と書入れがある。
七代目太夫である田辺祐政氏の活躍期からみて、明治末~昭和前期の書入れとみなしてよく、「コワイロ」という表現は適切でないが、ここの阿古屋について、他の部分の古風・素朴な語り口とやや趣を異にする、義太夫節の女の「詞」に近いような言い方は、昔からされていたのであろう。
山之口麓文弥浄瑠璃のもとになる、宝永・正徳・享保頃に全国に浸透していった出羽座の浄瑠璃(二〇頁参照)自体が、義太夫節との交流の激しい時期の産であるが故に、女のことばなどにある種の「コワイロ」はあっても不思議はない。
ただその場合も写実的なせりふではなく、三味線も入るのであるから、実際に「コワイロ」的な印象を与えるか、浄瑠璃の語り物性を逸脱しない範囲で処理できるかは、各太夫の声柄と肚構えによって違ってくる。
坂元鐘一氏は昭和二六年文弥人形浄瑠璃復活を主導し、以後も指導的な役割を果たし続けた山之口麓文弥随一の功労者だが、戦前は満州で教職にあり、音楽を教え、ピアノも弾いた(里岡フミ氏談。事実坂元本「出世景清」「普請場」に心覚えに八分音符を記した箇所がある)。
終戦後引き揚げ帰郷した坂元鐘一氏に、叔父の坂元業衛氏(八代目太夫)が熱心に文弥浄瑠璃を教え、復活後しばらくは、二人が交替で語っていた。
坂元鐘一氏の演奏は、昭和四〇年代と五〇年代のテープが残っているが、中絶以前からの太夫坂元業衛氏の演奏テープは残っていない。
業衛氏と鐘一氏は、語り口にさして違いはない(松水犬三氏ほか談)と言われている。
戦争を挟んだ中絶期間中も、子供の時から親しんだ浄瑠璃は麓地区の人々の耳に残っており、正式の上演はなくとも、「出世景清」「門出八嶋」の一部分を口ずさむこともあり(有川虎男氏、村岡氏)、復活に尽力したのも中絶以前に演じていた人達であるから、坂元鐘一氏の段階で曲節が変われば、周囲が容認しなかったに相違ない。 71
ただ、西洋音楽が身についている細い澄んだ声の鐘一氏の語り口に比べて、業衛氏は、もっとごつく、女役なども鐘一氏ほど高く細い声を使わなかったという(里岡フミ氏談) 。
事実、坂元鐘一氏の声柄は、「提灯とぼし」のような抒情的節事に適しており、劇的な語りのための自在さには、必ずしも適応しない。
つまり、本来語り物の枠内で処理可能な「コワイロ」が坂元鐘一氏の場合、特に浮き上がって聞こえたのは、四〇年代の同氏に西洋音楽的非語り物体質(絶対音高が身についていること)があったことによると考える。
ところで現在の村岡純秋氏は、天性浄瑠璃に適した粘りのある男性的美声の持ち主で、女のことばなど、坂元鐘一氏より村岡純秋氏の方が、自然と、詞と地の中間に納まって「コワイロ」が目立たなくなっているといってよい。
本文の正確な読みと曲節の伝承に関しては、村岡氏はまだ故坂元氏に学ぶべき点が多いと思われるが、劇的な語り物である浄瑠璃の本体の把握という点で、村岡氏は坂元氏にまさる、得難い古浄瑠璃太夫であるといえよう。
「区切り」は義太夫節でいうところのフシオチ、フシオトシに当たり、文末の五文字につくことが多い。
明治四五年田辺本に「ユリオトシ」などとあるのがこれに当たると思われる。明治・大正期までは、「区切り」と言わず「オトシ」と呼んでいたのではないか。
大正一一年以後、正式の上演は絶えたとはいえ、文弥を口ずさむ人は多く、昭和四年にも写本が作られ、節付そのものが中絶によって変わったことはないとみてよいが、曲節名の多くは、この中絶期に忘れられてしまったのではないか。
後人の役に立てるため、と昭和四年に二つの写本を残した村岡純利氏(村岡純秋氏の祖父)も、上演を考えての書写本であるにもかかわらず、節付は書入れていないのである。
終戦後から文弥を習いはじめた坂元鐘一氏は、昭和二七年当時、最も学術的水準の高い校注シリーズとされた朝日古典全書から、「近松門左衛門集(上)」所収の「出世景清」を書写したが、この本は節付が大部分省かれているので、名著本「近松名作集」、また伝存本や口伝を参考に、特に必要とされる場合のみ節付を記入したと思われる。
朝日古典全書本に入っていない「門出八嶋」の坂元本は名著全集「近松名作集」を参照しつつ伝存本または伝承によったと思われ、角太夫系の節付が残る。
坂元鐘一氏自身の脳裏にはこれらに基づく曲節名がいくつかあったと思われるが、その曲節名は十分伝えられることなく、現在の如き大雑把な五つの名称となっているようである。
「調子」は「語り」より高音でメロディックな曲節。坂元本では「節」と記されている場合が多い。 72
この「調子」ないし「節」の代表的なものは「出世景清」の「柱立」で譜例2 「いでおつ払うて落ち行かん」など、また譜例3 「ちつとつかんで貰ひたしとそらうそぶいてゐたりける。」など、高音でリズミカルな曲節であるが、これ以外にも、高音でメロディックな曲節がいろいろあり、その名称を問うと、村岡氏は「調子」の一種と答えることが多い。
が、譜例4-A 「母ばかりが子なるぞや」など、村岡氏に二回質問して、「調子」の一種とする答えと、「調子」ではないとする答えがあった。
また、二段目「偽文」の文の件りで、「いなせの便りもし給はぬは」以下の、高音の際だった節付けについて、同氏は、特色ある節だが何という曲節に属するか知らない、とのことである。
坂元本で「調子」を、多くの場合、「節」と記していることを含め、山之口麓でいう「節」ないし「調子」を、浄瑠璃曲節を基本的に、地・フシ・色・詞と分類する際の「フシ」にある程度対応させることができるようである。
「門出八嶋」三段目「提灯とぼし」の、忠信が手負の兄次信を探して八島の浦をさまよう件りは、前半ほとんどこの「フシ」(調子)ばかりで組み立てられた、美しい節事で、「ことば」的な地を主体とする運びの早い山之口麓文弥において、異彩を放つ抒情的な一段である。
「すえて」は、山之口麓文弥で特に重視する節付である。旋律型は譜例5-A(2)の通りで、「区切り」に接続する。
右の旋律型でxx記譜の箇所は「地にッ、ひれ伏してぞ」と息を詰めて突っ込んで語る。
それは義太夫節の「スヱテ」について「竹本極秘伝」(宝永頃刊とされる)にある如き「つよくおす」語り方を連想させる。
もっとも、「地にッ」のように、主として二字目で息を詰めて突っ込む語り口は、山之口麓文弥では、他にも「語り」や「ことば」(「ことば」的な地)などにみられるが、それが特に譜例5-Aの旋律と結びつき、「区切り」につながる形で用いられ、憂いの情感をこめて語り納める効用を持つのが山之口麓の「すえて」の特色である。
が、この山之口麓文弥の「すえて」を、浄瑠璃史的にいかに把握するかには、相当煩雑な問題がある。
まず村岡氏が、「出世景清」「牢屋場」で、「すえて」であるという箇所を、文政九年及び明治四五年田辺本で見ると、「すえて」とは書かれていない。
これは角太夫正本を用いてきた山之口麓文弥浄瑠璃としては、いわば当然なのであって、近石泰秋氏が「操浄瑠璃の研究 続編」で詳細に論じているところによれば、「スヱテ」の活用が、角太夫・文弥浄瑠璃と異なる加賀掾・義太夫系浄瑠璃の特色であり、角太夫が「ウレイ」「ウレイフシ」と記譜するところを、加賀掾は「スヱテ」に変え、義太夫節はその加賀掾の方法をさらに発展させていくのである。
「出世景清」の「地にひれ伏してぞ泣きゐたり」(角太夫は「る」)は、まさしく義太夫本は「スヱテ」、角太夫本は「うれいふし」と記譜され、山之口麓の文政九年本では、角太夫本と同様に記譜されている(五五頁参照)。佐渡文弥にも「スヱテ」という曲節があることは聞かず、スヱテは本来角太夫・文弥系には縁の薄い曲節とみなされている。
しかるに坂元本は、ここに「すえて」と記入する(3)。これは義太夫本を翻刻した「近松名作集」によった可能性がある。
「門出八嶋」にも「すえて」は何箇所もあるにもかかわらず、角太夫本翻刻の「近松名作集」を底本とする坂元本「門出八嶋」には殆ど「すえて」の書入れがない(4)ことから、そのように推測する。
だが問題は、この曲節の名称如何よりも、山之口麓文弥浄瑠璃におけるこの曲節の実態である。
村岡氏が「牢屋場」で「すえて」としたところは九箇所あるが、うち一箇所は、平成四年の録音で同氏は「すえて」に語っていない。 73
一方坂元氏晩年の録音では、村岡氏が「すえて」とした所の三箇所が「すえて」に語られておらず(うちの一箇所は、右の村岡氏と同じ)、村岡氏が挙げなかった二箇所に「すえて」の語り口がみられる。
したがって、両氏の芸談と演奏をあわせて、一応一一箇所の「すえて」が挙げられるが、それらが義太夫本、坂元本、角太夫本( 一〇行板本・阪大蔵)と如何に対応するかを表示すると下の如くである。
画像
●詞章は坂元本による。角太夫本との異同は五三頁参照。
●村岡氏はこのほか「共に空しくなり給う」や「奇異の思ひをなしにける」も「すえて」に近い語り方をしている。美声家の性癖として聴かせどころのふしを多用する傾向があるのかもしれない。
注1 以下は実質的に「区切り」の曲節になるが一括して「すえて」に扱っている。義太夫節の「スヱテ」のフシオチとの関係もほぼ同じ。
注2 村岡は「すえて」とするが、実際には坂元・村岡とも「すえて」に語っていない。 74
上のNoll(義太夫本は無記譜)を除けばいずれも、感情の高まりを表して区切りをつけるところで、これを義太夫は六つを「スヱテ」、三つを「フシ」、一つを「中フシ」、一つを無記譜とするのに対し、角太夫は七つを「ウレイフシ」、二つを「カンヲトシ」一つを「ノルフシ」一つを無記譜とする。
義太夫では、スヱテ・中フシ・フシ、すべて、曲節そのものとしては区切りを表す曲節である(このフシは七三頁上七・八行に記す、メロディックな部分としての「フシ」とは異なる。
一八世紀以後の義太夫本では、一般的なメロディックな箇所に「フシ」と書くことは少なくなり、区切りのメロディにのみ「フシ」と書くことが多くなる)。
近石泰秋氏は、角太夫系のウレイフシが、加賀掾・義太夫系で、「スヱテ」に変えられたことの意味を
土佐掾(角太夫・筆者注)がウレイ、ウレイフシで哀れに情調的に語って却ってウレイの深みを掘下げることができなかったのを、加賀掾はスヱテにかえて場面の区切りの節として、ウレイの情はその区切りにいたるまでの場面の語りによっておのずから表現されて来るように改め、義太夫はさらにそのスヱテに強く押して語るということを考えて、その場面の劇的情調をそこでさらに強く深く語ることにしたのである。
と述べる。
ところで山之口麓文弥における「すえて」という名称は、「近松名作集」によるものかと先に述べたが、上の表で知られる如く、坂元氏が「すえて」と語っていない三箇所のうちの2と5は、坂元本に「近松名作集」同様「すえて」の書入れがあるのである。
しかもこの三箇所は、いずれも角太夫本では「ウレイフシ」ではない。角太夫本で「ウレイフシ」と記す七箇所と、「ノルフシ」一箇所を、坂元氏は「すえて」で語っているわけである。
つまり、「牢屋場」における坂元氏の「すえて」は、同氏に角太夫系浄瑠璃に対する認識がなかったにもかかわらず、義太夫本の「スヱテ」より、角太夫本の「ウレイフシ」により多く対応しているのである。
山之口麓文弥の「すえて」のすべてがこの坂元氏の「牢屋場」のように、角太夫本の「ウレイフシ」と一致する訳ではないが基本的に角太夫本に「ウレイフシ」とあるものの大部分は「すえて」で語られ、そのほか角太夫本の「かんをとし」等から若干を加えて、愁いや情感のこもる文章のしめくくり(「区切り」のふし)につながる箇所に「すえて」が用いられる(5)。
次に坂元鐘一氏以前の、この曲節の扱いを伝存本によって調べると、明治四五年五月一八日と記す田辺信子本「門出八嶋」では、現行上演で「すえて」に語られ、角太夫本で「ウレイフシ」と記す三箇所(角太夫本該当部分にはこれ以外に「ウレイフシ」なし)に「ウレイ」と記し、下図の如きゴマ章を付す(角太夫本にはない)
75
画像
田辺信子本「門出八嶋」「ウレイ」のゴマ章
同じ日付を持つ田辺祐政本「出世景清」には、「ウレイ」の節付はみえないが「地にひれ伏してぞ」「まろびふしてぞ」は「ナゲキ」と記され、別に十蔵のことばに「ナゲキコトバ」の記入がある。
ともに赤鉛筆による書入れであるが、「ナゲキ」は単なる歎きの感情を表す、という心覚えではなく、曲節用語の一つとみなされる。
田辺夫妻の「門出八嶋」と「出世景清」で「ウレイ」「ナゲキ」と曲節名が異なる理由は明らかでないが、坂元業衛氏が鐘一氏にこの曲節の名を教えていないとみなされる(はっきり教えられていれば、鐘一氏の学究的姿勢からみて、変更するとは思われない)ことと考えあわせ、明治末の時点から、名称は固定していなかったと考えられる。
しかし近代の山之口麓文弥において、この曲節は重視され、かつ、「ウレイ」「ナゲキ」「ウレイフシ」といった、愁嘆的な、即ち角太夫の「ウレイフシ」、文弥の「泣キフシ」に近い概念で把握されていたことを知ることができる。
坂元鐘一氏は、本文書写や曲節命名という知的作業に活字本を用いたが、演奏自体においては、義太夫本の「スヱテ」より角太夫本の「ウレイフシ」に対応する伝承がなされていることに注意したい。
この事実と、師匠の業衛氏が昭和四四年まで生存し、ほかにも鐘一氏と同年代で文弥を語り得る人達(たとえば村岡氏の父村岡純三氏など)が同座で人形を遣っていることから、坂元鐘一氏の段階で、山之口麓の「すえて」の実体が変えられたことはあり得ない。さらに、それ以前にも、山之口麓で義太夫節の「スヱテ」の影響を受けたことはないと考えられる。
薩摩藩は他藩からの入国者をきびしく取締まり、山之口御番所では遊芸人の入国を禁じ、他藩領へ向かうための通行だけは許したが、「脇々江曽而不立寄様二可申付候(中略)右通路之内、何方ニ而も仕業見物仕候事堅可為停止之事」と規定している(第一章参照)。
こういう達しが存在することは、むしろ遊芸人が入りこむ機会があり得たことをしめすものとも受けとられる。
けれども、文弥人形浄瑠璃を伝えてきた郷士達は、まさにこの麓御番所を(直接勤務するか否かは別として)支える存在であり、その郷士社会の誇りと、ある種の閉鎖性は近代まで受け継がれている。
他所の文弥にない、衒学的ですらある文献資料を、複数伝存させたことも、この社会の体質と無関係ではない。
当地の文弥人形浄瑠璃が参勤交替の藩主の供をした時に、そのつれづれを慰めるために始められたことを起源とする伝承を、そのまま事実と認めることはできないにしても、そういう伝承を表にかざさねばならぬ、一般の遊芸人を拒否するたてまえが存在したことは認めざるを得ない。
近・現代に至っても、義太夫節を習う人は全くいなかったようで、近世以来、当地への義太夫節の流入は、まずなかったとみてよい。
またかりに、郷士が上坂した際などに習って持ち帰る機会がありえたと仮定しても、口写しを専らとする素人の義太夫の稽古に「スヱテ」などという特殊なテクニカルタームの曲節名が用いられることは、現実に考え難い。
義太夫節の活字翻刻において、朝日古典全書の如く、節付けが省かれることが多いのも、一つには、義太夫節の曲節が甚だ専門的領域の難解なものとみなされてきたためである。
いうまでもないことであるが、近世後期義太夫節の曲目に「出世景清」「門出八嶋」は存在しない。 76
「寺子屋」や「太功記」を習っている素人の語り手が、義太夫節の「スヱテ」を抽出して山之口麓文弥の「出世景清」の「ウレイフシ」部分に取り入れた結果がもとの義太夫本「出世景清」と符合するなどということは起り得ないのである。
だがそれにもかかわらず、義太夫節の「スヱテ」と山之口麓文弥の「すえて」とよばれる「ウレイフシ」の間には、旋律構造的な近さが認められる。
譜例6は義太夫節の「スヱテ」の例で、この例曲は一八世紀中期の初演曲(「義経千本桜 鮓屋」。現行曲の完成はさらに年代が下がるであろう)であるが、現行義太夫節の中で比較的古態を保つとみられる「国性爺合戦・甘輝館」(正徳五年初演)などに用いられる「スヱテ」も(細かなヴァリエーションはともかく)基本は同様で、この旋律型は義太夫節の早い段階からのものとみなしてよい。
この義太夫節「スヱテ」と山之口麓の「すえて」とよばれる「ウレイフシ」(譜例5-A)の旋律型は、「ふしし」または「ちにひれ」のxxの低音から急に高音へ上がり、そこから「ずみてぞ」「ふしてぞ」とほぽ五段階に下降してフシオチ的な(区切りの)旋律につながる点、共通しているのである。この事実を如何に理解すべきか。
近石泰秋氏が角太夫本のウレイフシが義太夫本のスヱテと対応することを指摘されたのは、きわめて重要である。
ただ、両者の間に七五頁の引用で述べられる如き違いがあるにしても、両者の入れ替えが可能であるのは、ウレイフシもスヱテも、多く文末十二字につく曲節であり、かつ旋律型自体にも共通点があったからであろう。
山之口麓文弥の「すえて」とよばれる「ウレイフシ」の、義太夫節「スヱテ」との旋律型の類似は、「ウレイフシ」本来のものと認めてよいのではないか。
さらに山之口麓文弥の「すえて」とよばれる「ウレイフシ」には「竹本極秘伝」の「スヱテ」条にいうところの「つよくおす」特長がみられる。
もっとも山之口麓文弥では「地にッ、ひれ伏してぞ」の如き、息を詰め突っ込んだ語り口は、「すえて」以外にも多用されるので、これは「ウレイフシ」本来のものではなく、後からつけ加えられた技法である、との説明もなされうるかもしれない。
けれども、かりにそういう面があるとしても、その「地にッ」の部分の低音から急に高音に上昇する旋律型に、義太夫節の「スヱテ」との共通点があることは、やはり見逃し難い。
現行義太夫節の「スヱテ」では、いずれかといえば強く押すのは三味線の仕事で、太夫のどの語りの部分が、当初強く押す機能を持っていたかはっきりしないが、三味線が未発達であった一七世紀末・一八世紀初頃の義太夫節の「スヱテ」では、もっとはっきりと太夫が「つよくおす」語り方をしていたであろうから、山之口麓文弥の「すえて」とよばれる「ウレイフシ」の如き形も、そのままという訳ではないが、一八世紀初頃の義太夫節の「スヱテ」を音の面から探る一つの手懸かりとなりうるであろう。
義太夫節と対立するはずの、出羽掾・文弥・角太夫系の山之口麓文弥の「ウレイフシ」に、義太夫節の特色である「スヱテ」が深く関りあうことが、不都合とは言い難い状況が、宝永・正徳・享保期の出羽座の二代目文弥とその周辺には存在した。 77
本拠地大坂の出羽座を中心とする文弥節、これと深く関る角太夫節の語り口にも、初代文弥以来半世紀近いその歴史の中で、幾度か変遷があったであろう。
二代目文弥の署名があり、元禄一四(一七〇一) 年出羽座初演と推定されている「国仙野手柄日記(6)」には「ナキフシ」「ウレイフシ」はなく、「ウレイ」が一箇所あり、「スヱテ」が一箇所、「スヱフシ」「フシスヱ」や「スヱ」が計七箇所ある。
また元禄一五年、二代目文弥の語り物とされる「雁金文七秋の霜(7)」も、「ナキフシ」も「ウレイフシ」もなく、「スヱテ」が四箇所ある。
さらにその三年後、宝永二(一七〇五) 年出羽座上演、太夫不明(奥書欠)「心中抱合河(8)」は、一〇行一四丁の短篇世話物で、スヱテが一〇箇所もある(スヱフシニ箇所。ナキフシなし。ウレイフシ、ウレイヲトシ各一箇所)。
また角太夫正本「弁慶京土産」(演博蔵)に朱筆で「スヱテ」が書き込まれた例もある。
即ち宝永頃の出羽座系の浄瑠璃では、義太夫節の影響を強く受けて、「スヱテ」が「ウレイフシ」にとって代わる状況が存在したのである。
その場合、貞享・元禄初以来の角太夫本を流用している「出世景清」「門出八嶋」の上演において、正本に記す「ウレイフシ」が、実際には、文弥節であれば当初は「ナキフシ」的に、宝永以後は「スヱテ」的に語られるといった変化は当然起りえたはずである。
山之口麓文弥における「すえて」の名称自体は、いわば誤解の所産であろうが、その「ウレイフシ」としての実体が、宝永以後の出羽座系浄瑠璃の「ウレイフシ」から「スヱテ」への傾斜と呼応する面があることを、偶然と見過ごすことはできないであろう。
佐渡文弥にも「ウレヘブシ」の曲節が存在する。
「強みの節」に対する「六つの哀れ向きの節」(「三口返し」「レイジユウ」「イロツナギ」「ウレヘプシ」「七ツユクリ」「ナキオトシ」)(佐々木義栄「文弥人形の研究」) の一つであるが、佐渡文弥の「哀れ向きの節」の中では「三口返し」がよく知られ、「ウレヘブシ」はあまり多用されないようである。
具体的には「源氏烏帽子折」初段第二場(ときは隠れ家) の「あれがげんじの惣領の。なれるはてかと計にてふししづみてぞ。なき給ふ」の件りが「ウレヘプシ」、変形として同じ段「一つは其身のきたうぞとぜんごふかくに。なき給ふ。」が「七ツユクリのウレヘプシ」である(9)。
角太夫本では後半「ふししづみてぞ。なき給ふ」「ぜんごふかくに。なき給ふ」に「ウレイフシ」の記譜があるが、佐渡文弥としての曲節の特色は前半「あれが・・・」「一つは・・・」の高音部にあり、後半の「ふししづみ・・・」「ぜんごふかくに・・・」の低音部は一般のフシオチに近いように思われる。
佐渡文弥には「哀れ向き」の曲節が数多く、佐々木氏が挙げる六つのほかに「愁嘆」という曲節もあるようで、節付が複雑化しているだけに、かえって角太夫正本の「ウレイフシ」との関係が把握しにくいところがある。
がいずれにせよ、佐渡文弥と山之口麓文弥の節付面からの詳細な比較検討を通じて、角太夫の、または出羽座系の「ウレイブシ」の実態に音の面から近づく途が拓かれるであろう(10)。
山之口文弥の曲節は佐渡文弥ほど複雑でなく、簡潔な「語り」(地)、「ことば」の占める比重が大きい。高音を多用するメロディックな「調子」(フシ)はあるがそれが佐渡の場合のように「哀れ向きの節」として発達していない。 78
たとえば、譜例4-Aは、「牢屋場」で阿古屋の悲痛な思いを語る、広義の「調子」の一種であるが、譜例4-Bの佐渡の同じ所と比較してみると、「子なるぞや」の旋律など、類似しているにもかかわらず、聴いた印象は、山之口麓のは明るく、佐渡のは悲哀に満ち、大きく相違する。
佐渡文弥では、「哀れ向きの節」以外の「地」や「詞」にも、「ぶんやぶし様のごとくに泣くが如くかたる」(「難波土産」)の近松の評語を彷彿とさせる部分が多い。
が山之口麓文弥には、その種の泣キフシ調は少ないのである。
この山之口麓の、いわば陽性な文弥節で、愁嘆または情感の激しい高まりを、強く印象づける重要な曲節が、「すえて」とよばれる「ウレイフシ」である。
観客に愁嘆的感銘を与える最も有効な手段として、角太夫本でいうところの「ウレイフシ」が生き続けていることは、山之口麓文弥の注目すべき特色であるといえる。
そして、この「ウレイフシ(すえて)」が、最も適切に活用された一段が、「出世景清」「牢屋場」なのである。
「出世景清」「牢屋場」は、山之口麓文弥浄瑠璃の代表曲であるが、節付は地味な曲である。
最後に十蔵との応答・牢破りで、やや軽快な節付になるが、しかし段切りに佐渡の「カントメ」のような際だった節付はない(11)。
これに先立つ景清と阿古屋の子供の絡んだ悲痛な応答部分では、譜例4-Aが唯一の「フシ」といってよく、他は「ことば」的な地が、「すえて」で締括られる形の連続である。従って運びが早い。
冒頭の「さてもそののち」に続く「是は扨おきあこやの前」の阿古屋の登場から、阿古屋の自害、景清の嘆きの「ものゝ哀れの限りなり」まで、村岡氏の演奏でほぼ二〇分である。
ところで、佐渡の文弥人形が昭和五九年東京早稲田銅鑼魔館で演ぜられた時の「出世景清」「牢破り」の梶原宗楽氏の演奏は、この同じ部分が約二三分であった。
が、これは景清の言葉の「されば天ちくにし、といふけだ物有」から「仏もいましめ給ふぞや」まで、角太夫本で約半頁分をそっくり抜き、他にも随所に省略がある、原作のおもかげを失わせるほどの甚だしいカット台本での上演である。
もしノーカットで語ったならば、この部分だけで四〇分近く、即ち山之口麓のこの部分の倍近くかかるのではないか。
それは、佐渡文弥節が、メロディックで、節付が技巧的であるために長くなるのであるが、その節付が、「出世景清」四段目の表現にとって効果的であるかといえば、そうはいえず、阿古屋に関する部分を「泣くが如く」に細かな節で語るために、この作の狙いである景清と阿古屋の劇的葛藤が成り立たず、景清の激しい言葉が処理しきれず、大幅カットを余儀なくされ、それでも散漫な、もしくはダレる印象を与えるのである。
佐渡文弥は多くの名人を輩出しているし、梶原氏も九年後の現在では、芸がさらに円熟の域に達しているであろうから、「出世景清」四段目にこういう欠点を感じさせない演奏もあるであろうが、九年前の梶原氏も、非常な美声家で、「ことば」なども決して拙くはなかった。
一般的傾向として、佐渡文弥「出世景清」では、初段「柱立て」や三段目「小野姫道行」の節事、三段目「責め場」の悲哀美などが本領で、劇的葛藤そのものを見せる四段目は、必ずしも適していないように思われる。 79
それは、近世に盲人芸の音曲であって、演劇ではなかった佐渡文弥節としては、自然に諒解される事柄である。
山之口麓文弥では、上の箇所は勿論ノーカットで一気に語られ、全体で三〇分程の上演(冒頭小野姫の件りは出さない)で、作品の内容が観客にはっきりと印象づけられる。
しかも、それを単なる素読に終わらせないために、情感を込め、突っ込むように強く区切りをつける「すえて」とよばれる「ウレイフシ」が、極めて有効に働くことになるのである。
山之口麓文弥の語り口について、ほかに、特色ある点を一、二記しておく。
先に山之口麓文弥の、二字目で息を詰めて強く押すいい方は「すえて」以外にもみられる、と述べたが、山之口麓文弥の特徴的な語り口に、右の「地にッ、ひれ伏して」、「仁義ッ、知らぬは」、「死ねッ、とはさらに」(「門出八嶋」「氏神参」)の如き、息を詰めて言う強調法と、いま一つ、「なーんの生づら下げて」「おーのれゆび一つかなひなば」「かーみや仏はなき世かの」の如く、一字目と二字目の間を伸ばし、あたまがちに強調していう形があり、後者は特に頻繁に用いられる。
これらの強調表現多用の故に、山之口麓文弥は、他の三所いづれの文弥よりも、ごつごつした印象を与えているが、二つとも、山之口麓文弥のみの特殊な語り口という訳ではない。
まず前者は、平曲の白声で「与一かッさねて辞せば」(那須与一)と息を詰めてしゃくるようにアクセントをつける方法と、たいへんよく似ている。
また後者、一字目と二字目の間を伸ばす形は、たとえば東二口でくまわし「酒呑童子」の「そーのなかで、わーたなべのつな」といった語り口と共通し、また東郷町斧淵の「源氏烏帽子折」でも、現在は全体に歌謡化が進み、一拍とる以上の強調的効果はなくなっているが、「つーくづくとうちまもり」「なーにものか」「むーねきよ」「もーりなが」等の語り方は、まさしく山之口麓の形と同根で、哀艶華麗を専らとする佐渡文弥では、「源氏烏帽子折」の同箇所に、このような強調法はみられない。
このほか強調表現ではないが、山之口麓の「門出八嶋」の「弁慶段切」で「念仏」を「ネンブン」、「出世景清」の「拷問の場」で「諸見物」を「ショケンブン」と「つ」を呑んで語るのも注目される。
これらの現象が、旧薩摩藩地域の言語体系の問題と、中世・近世前期的語り物の方法の問題とに、どのように関るかは、今後の課題である。
(内山 美樹子)
三味線
三味線は細棹を用いる。とくに中棹という必要もないようである。撥・駒とも象牙。浄瑠璃・娘手踊とも本調子。
三味線にはいくつかの決まった手がある。
男のせりふにつく手(一般の語りの受けにも広く用いる。譜例1の「そののち」の受け、譜例2・3の冒頭など)、女のせりふにつく手(譜例8) 、「調子」に弾く手(譜例2) 、「すえて」に弾く手(譜例5A)、
愁嘆がかったせりふや叙述につく手(譜例4の後半「子なるぞや」以降)などが、しばしば用いられている。 80
また段初と段末は同じ手を弾く(譜例l) ので、ちょうど三重のような役割を果たしている。こうした決まりの手にもとくに名称は伝承されていない。
また弾く人によって、いくらか細部の手が異なるようである。
語りやせりふの間をぬって入れていく三味線が、よく文句をのみこんでいないと弾けないので難しく、とくに「門出八嶋」の提灯とぼしが高音部とスリを多用するので難しいという。
現在は、野添律子氏、原沢ハツエ氏の二人が舞台を勤めており、ずっと坂元鐘一氏を弾いてきた里岡フミ氏が一線を退いて指導にあたっている。
里岡フミ氏は、坂元業衛氏を弾いていた里岡サノ氏から教わった。浄瑠璃の鐘一氏から指導された面も大きく、ぴったり息が合わないと叱られた。それでも鐘一氏は節があって合わせやすかった。
業衛氏は昔風のごつごつした語り方で難しかったが、サノ氏は合わせていたという。三味線は士族の妻などが勤めてきたもので、かつてはハンヤ節など誰でも弾けた音曲の盛んな土地であった。
現在は、民謡を弾く人も少なく、伝承には苦労があるようである。
三味線の他に音楽関係のものとして、拍子木と太鼓とがある。
拍子木は開幕・閉幕を知らせるほか、浄瑠璃中、合戦などの動きのある場面や「調子」の節付にあわせ、拍子木どうしを打ち合わせながらツケ板をたたき、リズムをとる。
太鼓は、間狂言「太郎の御前迎」の祝言の踊に打つ。浄瑠璃では使用しない。
また、大豆で波音の擬音を出したり、間狂言「東嶽猪狩」で鉄砲の音やへび笛を吹くなどの音響効果がある。
これらはいずれも手摺幕の裏に座って、客席から見えないようにして音を出す。
(三味線の項、和田 修)
【注】
(1)佐々木義栄「ある文弥人の一生 中川閑楽」(「近代」4)で、佐渡文弥の名人中川閑楽(明治四年生)が師匠の文慶先生から「義太夫をけいこしちゃならん。
あれをやると文弥がくずれるとよう云われました。」と語る。
(2)譜例5-Bは佐渡文弥の同箇所。旋律が一部類似するところがある。
(3)大正二年田辺本「出世景清」にも坂元鐘一氏筆跡で、スエテと書入れたところがある。この本は保存会に置かれていたため、坂元鐘一氏が書入れる機会があったのである。
(4)一箇所記入があるが偶然的なものと思われる。
(5)たとえば「出世景清」二段目「偽文」十蔵登場以後に、角太夫本には四箇所「ウレイフシ」指定があるが、山之口麓文弥では一箇所(やあ生けらん内はかなはじ)にとどまる。
この段は、愁嘆よりも女性の怨恨の情(阿古屋、小野姫の)を表すべく、高音の「調子」的な節が多く用いられ、「すえて」の使用は意識的にひかえられているようである。
(6)長友千代治編「錦文流全集」の「浄瑠璃篇」翻刻と年次考定による。
(7)黒木勘蔵「近世演劇考説」参照。テキストも同書翻刻による。
(8)注(6)に同。
(9)昭和四七年八月、早稲田大学芸能研究会(会長鳥越文蔵)で佐渡相川町矢柄に当時の佐渡文弥の第一人者北村宗演氏を訪れ、 81
宗演氏が、矢柄中学の教諭の協力を得て「源氏烏帽子折」初段第一場・第二場の演奏に曲節名のアナウンスを入れた録音テープを聞きながら、同氏からさらに詳しい話を聞いた。
ほかに「出世景清」の「小野姫道行」の曲節に関する芸談も聞いた。本報告書で佐渡文弥の曲節について記すところは、七三頁の佐々木氏の文以外は、専らこの時の資料にもとづく。
(10)角田一郎「義太夫節の形成に関する一試論(三) ~花山院の道行について~」(「近世文芸 研究と評論」七)に特に教示されるところが多い。
なお同氏「曲節と詞章の相関性 「出世景清」の節付けの問題」(「日本文学」二四-七)及び阪口弘之「山本角太夫の初期語り物考」(前掲)参照。
平成五年二月に読む機会を得た小俣喜久雄「「一中節の研究」「助六心中」「椀久末松山」にみる一中節の曲節を中心に—―」(東洋大学大学院、平成四年度修士論文)は、題名の如く初代都一中の語り物の曲節研究で、現存の地方の古浄瑠璃には言及されていないが、初代一中周辺の古浄瑠璃太夫、初代・二代目文弥、角太夫、松本治太夫、義太夫節系の太夫の曲節を論じ、ウレイフシ、ナキフシ、スヱテの問題の分析検討があり、本報告書にとっても興味深い。
(11)山之口麓文弥にはカントメという名称はないようであるが、譜例7の「出世景清」の「柱立」段切、あるいは「門出八嶋」の「氏神参」段切は、佐渡文弥のカントメによく似ている。
付記
泉房子「かしらの系譜 ~宮崎と九州の人形芝居~」の「山之口麓文弥節人形浄瑠璃」の項では、坂元鐘一氏が「「文弥節」の特徴ある節を、五種に分けて語られる。」として、①「大和大工」②杣人③源氏④針の穴⑤節、を挙げ、説明を加えている。
坂元鐘一氏の直話の基づくもので(坂元本にも同様の番号が記入されている)村岡氏の話しと一見相違するが、③④⑤は「門出八嶋」の初段大序にあり、現在聴くことができないので確かめる術がない。
ただ③と⑤については坂元氏の舞台用本に「節」と書入れがある。(坂元本の「節」と村岡氏のいう「調子」の関係は前述)。
①②は一続きの文章で、現行の演奏による限り、普通の「語り」である。泉氏の記述に関し、村岡氏はじめ保存会の方々から明確な説明を得ていないが、坂元氏は必ずしも①②③④⑤をもって、山之口麓文弥節の曲節を代表するつもりではなかったのではないかと思う。 82
譜例 採譜 竹内 有一
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第四節 人形と操法
以下の文中に示すカッコ内の洋数字は「人形の現況(図録)」に掲出した写真の番号である。採寸法については九三頁凡例に示す。適宜参照されたい。
現在、桐で作られた二七個の人形カシラが残る。内、浄瑠璃で遣うカシラが二三個、間狂言に遣うカシラが四個である。浄瑠璃に遣われる娘のカシラ三個は「娘手踊」にも用いる。
【浄瑠璃のカシラ】
浄瑠璃に遣われる二三個のカシラの寸法は、子役が八~一〇糎、大人のカシラは一三~一九・五糎の間である。
一三個が一木造、一〇個が頭とノド木が別で竹栓によって留められているが、外見では両者に技法、制作時期等の違いは見出せない。
ニ木造の内、女カシラの「小野姫」(10) 、「幾与」(11) の二個は頭とノド木の間、襟首に当たる所に木片が入れてあるが、それによって首の傾度が変る程ではない。
頭の穴とノド木の寸法が合わない為に生じたアソビを止めるための工夫であろう。女役カシラが若干仰くが、基本的には直立型の造形である。全てのノド木に円柱状のカマ穴がある。
髪はすべて竹串による植毛である。髭は「景清」(1) のみ植毛、残りは書き髭、又、眉は全て書き眉である。
塗り色は白、肌色(赤)の二色で、役の性根によって塗りわけられている。
彫りは総じて浅く、口が切ってある外は、「弁慶」(8) 、面[正」(19) 、「十蔵」(20) などの頬骨、「庄司」(7) の皺彫りが目立つ程度である。目、眉、鼻、口等の動く仕掛けはない。
「忠信」のカシラが二個あり、場面によって使い分ける。平成四年一一月二一日の「門出八嶋」上演では、戦の場で(5)を、提灯とぼしの段で(12)を遣った。
(12)のカシラの方が若干大きく髪が豊かであるが、提灯とぼしの段は、忠信の独演といってよく、大層そのカシラが映える。
場面によってカシラを使い分けることは、文楽系人形では常識であるが古浄瑠璃系では他にそういった例を聞かない。
【間の物のカシラ】
間の物に遣われるカシラ四個のうち、「高砂婆」(24) 、「五郎」(25) 、「太郎」(26) は、浄瑠璃のカシラより格段に大きく、彩色、彫りは異彩を放つ。
二木造でノド木に竹が使用されていることも大きな特徴である。また、太郎、五郎の髪は描き髪であるが、髷のみ植毛されており、瓢逸の風が漂う。
太郎のカシラは、ノド木から差し込まれた棒を上げ下げすることで両眼が上下し舌が動く仕掛けがある。
【肩板、胴串】
山之口では肩板を「カタ」、胴串を「クビ」と呼ぶが、固定した呼称という事ではないらしい。 86
肩板の中央に穴を穿ち、その穴に胴串の先端(カマ)を通してノド木のカマ穴に差し込む。
男首の肩板は偏平な板であるが、女首の肩板は竹や木を曲げた物を用い、なで肩にする工夫が見られる。
女カシラの肩板の寸法が長いのはそのためである(30)。
胴串は長さ一五~ニ六糎の一木造、先端のカマ木にあたる部分は円柱状に削ってある。「景清」の胴串に三三糎に及ぶ長いものがある。
これは稲田廣氏(現保存会事務局長)が入会した頃に作ったもので、長時間遣っていると疲れて腕が下がるのを、故坂元鐘一氏が繰り返し「腕を高く上げよ」と叱るため、隠れて作ったという。
一人遣い人形の操法を考える上で興味深い。
「門出八嶋」の「提灯とぼし」の場の忠信のカシラには「ガクガク式」とよばれる特殊な胴串が用いられる。
画像 図1
図1に示したように、胴串が二本の木で作られ、遣い手が左手の親指で操作することによって人形がうなづく。この機構は、忠信が兄次信の遺体を探し戦場を彷徨う場面に用いられ、大変効果的である。
明治期の田辺祐政氏の工夫によるということである。
石川県東二口の文弥人形に糸仕掛けの引き栓によるウナヅキの機構(ガクガク)をもつカシラがあり、また鹿児島県東郷町の文弥人形は、ヒキテの操作と胴串を突き出すこととでうなづかせている。
これらのウナヅキはカシラが二木造であるための動きである。二木を組合わせた胴串を用いて一木造のカシラをうなづかせる山之口の操法は外に例をみない。
「ウナヅキ」補説
東二口、東郷町の人形は、共に糸仕掛けの引き栓によるウナヅキの機構をもつ。東郷町人形は全体にウナヅキを頻繁に用いるようである。
東二口人形は、東郷町人形ほどには用いないが、人形を左右に振り上げるようにまわす時にカシラがうなづく。
この左右に振り上げる操法は、ウナヅキのない「案山子」型の石川県深瀬人形に最も特徴的で、東二口にも共通するように思われ、それは人形遣いの足踏みを土台とした舞うがごとき遣い方に淵源するようである。
その点、山之口人形には、そうした舞うがごとく振り上げるがごとき動きは認められず、操法においては、他と一線を画すようである。
先に述べた忠信のウナヅキの仕掛けは、戦場に倒れる兄をうつむいて探す仕草を表現する時にのみ使用される、いわば写実的な工夫であり、深瀬、東二口、東郷のウナヅキとは発想が異なるものであろう。
なお、東二口人形のウナヅキについては、斎藤清二郎氏に高幕使用に関連づける指摘がある(「現存する古浄瑠璃系の首」)。
【手】
人形遣いは、自らの右手で人形の右手を持ち、左手で胴串と左手を持つ。「弓手遣い」に類する操法である。
人形の右手には、長さ二五~三〇糎程の棒状の人形手を用いる。刀や釆配を差し込む穴、文を引掛けたり合掌するための針などの仕掛けがある。 87
「娘手踊」に用いる扇手は、手先に固定された扇の一方の骨に棒が留められており、その棒を押し引きすることで扇を開閉する仕掛けである(30)。
間狂言の高砂婆の右手首は継ぎ手になっており前後に動く。
人形の左手には、大きく分けて左記の二種類の形があり、それぞれに操法が異なる。
画像 図2(「人形の館」展示パネルより転載)
(一) 右手と同じ形態の人形手を用いる。この場合人形遣いは左掌で人形の胴串を握りつつ人差し指と中指で人形手を挟み、その末端を胴串に押し当て、そこを支点にして操る(図2) 。
(二)(一)の人形手に針金で作った長さ二〇糎程の持ち手を付けたもの。針金の末端は輪になっている(現地呼称「ワサ」)。
画像 写真A
人形遣いは左掌で人形の胴串を握りつつ親指をワサに入れ、それを支点に人差し指と中指で操る(写真A)。
親指でしっかり保持できるため、人形の激しい動きにも対応できる。女カシラの左手針金の曲げは特に目立ち、「娘手踊」などの演目で相応しい手振りが可能となっている(30)。
他に刀、弓を作りつけてある刀手、弓手がある(29、31) 。
山之口の人形は手の遣い方にエ夫が目立つ。例えば「出世景清」偽文の段で阿古屋が文を繰る所(五頁写真) 、「門出八嶋」合戦の場で能登守が矢を放つ所などで、両手とも人手で代用せずに人形手での演戯にこだわる操法は、他所に残る古浄瑠璃系の人形と比較しても格別のものといえ、それが古態を留めるか否かは別として、表現力は一人遣い人形として優れている。
【カシラの制作者、制作時期】
制作、補修者は、江戸時代については確かな記録がない。
現在判明する限りでは、明治六年の「人形廻シ名簿」(三章二節)に記載される坂元業右衛門、田口源左衛門、小濱金次郎、原田源兵衛の四氏が最も古い。
土地の言い伝えでは明治初期に小浜金次郎の子息で絵の勉強をした小浜金熊が「景清」「阿古屋」「忠信」を作ったとされる。
その他に、安楽尚知、忠信の「ガクガク式」胴串の考案者といわれる田辺祐政、昭和にはいって坂元鐘一各氏の制作補修が伝わる。
近年では小山辰男氏が間狂言カシラを補修する。いずれも現地に住む人であり、職業的な人形師の介在やカシラの購入などはなかったようである。
坂元鐘一氏の人形補修については、塩水流忠夫氏が詳細な経過を報告されている(「山之口麓文弥節人形浄瑠璃 -文化的価値とその伝承-」、三章二節)。
制作時期については、当地の人形を学会に紹介した杉野橘太郎氏の調査報告に、「次信」「五郎」「太郎」「弥蔵」は江戸時代から伝わるもので、残りの内、一八個は明治四年に旧来のものを模造新調し、三個は昭和二五年に模造新調したとする聞書の記載がある。
しかしその後の塩水流氏、泉房子氏の調査報告には、カシラの伝来についての聞書に小異が認められる。
泉房子氏は、古作と伝えられるカシラを解体し内銘を赤外線写真に撮影、解読された。
その内銘写真と解読を氏の御好意により転載させていただく。(写真B・C・D・E )
画像 B(太郎の頭部)
画像 C(太郎の頭部)
画像 D(太郎の頭部)
画像 E(高砂婆の頭部)
B 癸酉十月三日
此太郎右衛門
工藤進衛門
合三人🔲🔲🔲五郎右衛門
c 明治廿六年
D 小浜金次郎造之
泉氏は、内銘Bの癸酉の年を、文化一〇年、明治六年の両年に絞り、さらにその墨付の古さから、文化一〇年と推定し、そのころ太郎右衛門ら三人によって造られ、それを内銘Cの明治二六年にDの小浜金次郎が修補したと考えられた。
ところで、今回の調査の直前に発見された(1)「人形廻シ名簿」(三章二節)は明治六年癸酉六月に書写された資料であるが、その末尾に「人形造 小濱金次郎/右同 原田源兵衛/明治六年癸酉六月」とある。
この新出資料によって、太郎の内銘の「癸酉」は、明治六年の可能性が高まったといえよう。
改めて内銘の写真を見るに、泉氏が仮に「工藤進衛門」と判読した文字は「ヤ蔵左衛門」とも読める。
内銘の一連の人名(太郎右衛門、五郎右衛門、ヤ蔵左衛門)は、太郎、五郎、弥蔵の三体の道外人形の名前に、左衛門、右衛門をつけた形であり、「合三人」の文字は制作者ではなく、三体の人形を指すとも考えられる。 89
さらに「高砂婆」の内銘Eを泉氏は「原田進源兵衛」と読まれ、進を源兵衛の父かと推定されたが、山下氏の調査によれば当時原田家に「進」を名乗る人はいない模様で、
写真の「進」字も「人形廻シ名簿」の「造」字と同字同筆と思われ(四〇頁の写真参照)、「原田/造/源兵衛」と読めそうである。とするとこれも明治六年時点の制作ということになるが、内銘を実見していないのでこれ以上の推論は控える。
ただ、内銘も明治六年文書も知られていなかった杉野氏の調査の時点で、四体のカシラを江戸時代の制作とする具体的な聞書を得ていることは、今回の調査では確認できなかったものの、伝承として尊重すべきであろう。
山之口では関係者が亡くなった時カシラを納棺する習慣があったという。そのためか、古作のカシラはあまり残っていない。
しかし、現在のカシラは明治以降のものであっても、その構造や表情は古い伝統を確かに伝えるであろう。
泉氏が既に指摘されたごとく、鹿児島県東郷町斧淵に残る人形の表情、彫りの浅さ、眉の吊り、目の張りなどは山之口の人形に非常に近い。
東郷町との近代にはいっての交流はなかったことを思えば、両者のカシラに共通する表情を、人形伝来当初から受け継がれてきた造型と考えてよいかもしれない。
【操法】
一人遣い差し込み人形である。人形背面帯下の穴から両手を差し込む。左手で胴串を握りつつ人形の左手を挟み、右手は人形の右手を操作する弓手式の操法である。
現在は、胴串がほぼ目の高さになる位置で、人形の陰に隠れて遣っている。
着物を着付けた状態で、人形の頭頂から裾までの丈は、一米一〇糎から七五糎の間で、九〇糎前後が標準のようである。
他所の古浄瑠璃系人形にみられる人形遣いの特徴的な体さばき、足さばきは、山之口では顕著には認められない。
石川県深瀬、東二口は共にデクマワシの呼称に相応しい遣い手の舞うような体の動き、足さばきが重視され、鹿児島県斧淵の文弥人形も「人形踊」の呼称そのままの足取りで遣うのが常態のようである。
山之口では「門出八嶋」弁慶断切の場の切に、弁慶役の人形遣いがスリ足で左右に大きく動き最後に強く足拍子を踏むところが、人形遣いの動きとしては目立つ。
登退場に際しても同様のスリ足が認められるが、舞い踊るという程の体さばき、足拍子ではない。
ただし、人形遣いの意識としては、保存会員も人形遣いの足さばきを重視しており、「足ズリの巧い人は人形は巧い」といわれている。
【舞台】
「人形の館」(保存館)に間口八米弱、奥行四米弱、高さ三〇糎の額縁式舞台がある。
その両袖に取り付けた金具にロープを渡し幕をかけ、中央附近にたるみを支える支柱を立て一段式幕手摺を張る。
幕は昭和四七年国の重要無形民俗文化財選択指定を記念して新調したもので、中央に大きく「丸に二本竹」の紋を染める。
これは「門出八嶋」に出る佐藤忠信の紋所である。
幕の高さは一二五糎程度で、以前は一〇糎程高かったというが、現在の高さでは常設舞台の三〇糎ほどの高さとあわせても人形遣いの姿は隠しきれない。 90
その為か人形遣いは文楽式に顔を隠して出るが、昭和三〇年頃までは顔は隠さなかった。
保存会員の話では、故坂元鐘一氏は常に、両肱を合せ人形を高く持つよう指導したといい、現在の持ち方は以前より全体的に若干下がり気味になったとの印象があるらしい。
過去の舞台及び太夫座については四章一節に記す。
【道具】
画像 写真F(菊池明氏撮影)
馬、舟、弓矢などがある。馬は、馬の前半身を板で作り、支え棒をつけ紐で遣い手の首と腰にくくり付ける。
この工夫によって、「門出八嶋」の八島合戦の場で、騎馬武者が立ち廻る仕草が一人遣いで容易にこなせている(写真F) 。
「門出八嶋」で能登守らが乗る舟は支柱にとり付け幕下に隠れた遣い手が手で搖す。
舞台装置は、現在「出世景清」の「普請場」の吹き流し、「ずやん場」の牢、「小野の姫拷問の段」の梯子、木、「門出八嶋」の「氏神参」のお社、「東嶽猪狩」の山の神、「太郎御前迎」の高砂婆の部屋などがある。このうち、牢、お社などは古くから使用されたものと言う(32)。
【特殊演出大蛇】
画像 写真G
「東嶽猪狩」に遣う大蛇の操りは、古浄瑠璃時代の演出を伝えるものとして従来から注目されている。
大蛇の胴体は和紙を竹製の輪に張ったもので胴廻り四〇糎弱、蛇腹式の胴体を引き伸ばすと全長三五〇糎に及ぶ。
七米半程の長さの紐が頭部に一本、胴に二本、尾部に一本計四本ついている。
舞台の上方に間ロ一杯にパイプが渡してあり(かつては竹)、その上を通した紐の下端を二人の遣い手が持ち、締め弛めることによって蛇を操る。
紐をずらしていくことで、左右は勿論、方向転換、とぐろを巻くことも可能である。浄瑠璃操の創始期から大いに用いられた走線戯を伝える操法と考えるべきであろう(写真G) 。
【明治六年「人形廻シ名簿」について】 91
明治六年六月の序記を有する「人形廻シ名簿」(以下「名簿」)の詳細は三章二節を見て頂きたいが、「名簿」中とくに演出、操法に関わる部分につき触れておきたい。
それぞれの人形に用いる小道具類の記載は、現在用いられるものとほぼ一致しており、近年新調されたものが多い道具類が、明治六年以来の伝統を踏襲していることがわかる。
「名簿」で興味深いのは、各人形の下に記される演出指定とおぽしき「上ニおやし上ニ入ル」「下におやし下に帰る」「中より出上に列立入る」「下より出上に入」といった記載である。
保存会員にも検討していただき、これらが人形を出す場所、幕の上手から下手にかけてのどこに登場するべきかを指定したものということに落ち着いた。
このうち「おやし」については「おわす(いらっしゃる) 」かという保存会員の意見もあったが、「生やす」ではないかと考える見解がある(内山)。
舞台の袖を利用する登退場ではない、幕の下から立ち上がるような操法を示したもので、ここに古浄瑠璃の一人遣いの遺風をみるのである(二一頁)。
確かに古式を保った人形戯では袖から出るか幕の下から差し上げて出るかは重要な問題で、古表古要神社の神相撲では袖から出る人形と幕から差し上げる人形ははっきりと区別されている。
また、佐渡説経人形、東二口、深瀬に特殊な登退場の方法があり、角田一郎氏の次の様な指摘がある。
袖幕のない説経人形では、人形の登場は一方の端で、後ろ下から斜めに前上に回し上げて、幕の上に出す。退場はその逆になる。加賀の東二口も深瀬も全く同じ方法による。
説経人形から文弥人形に転向した古老は、その説経の登退場法を「マワシアゲル」「マワシオロス」といい、その動作の型もしてみせてくれた。
東二口の型も同じである。しかも両地は交渉がなかった。一方は大阪に学び、一方は京都に学んだが、その源流には帰一するところがある。
(角田一郎氏「諸国の人形操り」「日本の古典芸能7 浄瑠璃」)
この登退場の操法は、東郷町の人形にもはっきりと認められた(平成四年採訪時)。
保存会の木場岩利氏は、退場する時体を沈めつつ人形を床に付くまで下げるように教わったということで、台本(源氏烏帽子折)には「盛長、宗清廻りながら沈む」とあった。
「人形廻シ名簿」の「おやし」の注記はそうした登場の仕方についての操法を指定したものと考えてよいだろう。
(時松 孝文)
【注】
(1) 山下博明「山之口麓文弥節人形浄瑠璃」「季刊南九州文化」五四 92
画像 昭和四四年頃の「太郎」(右)、「弥蔵」(菊池明氏撮影)
人形の現況(図録)
山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会が現在所有する人形のカシラについて、その写真を掲出し概要を記す。
画像 のど木彫り付の場合の寸法
一 カシラの名称は、現在の保存会の呼称に従った。
一 寸法は、カシラの全長、ノド木長、胴串長、肩板長を記す。
全長、ノド木長の採寸箇所は、加納克己氏の示された「のど木彫り付の場合の寸法」に従った(人形芝居研究会論集「人形劇史研究」3 98頁の図を転載)。
但し、全長は植毛の鬘を含めて採寸したため、厳密な意味での寸法ではない。又、「娘手踊」を演じる女人形の肩板には曲げが施されており、これも厳密な寸法ではない。
一 彩色は、役柄とも関係するが、大まかに白、赤(肌色)、多色の三つに分類するにとどめた。
一 配列は、現在「人形の館」に展示される人形写真の配列に従った。
(時松 孝文)
画像 93
画像 94
画像 95
画像 96
画像 97
画像 98
第5節 間の物
ここでは、山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会に伝えられた人形浄瑠璃以外の諸芸を、かりに「間の物」と呼んで一括して扱う。具体的には次の三種である。
間狂言(座くやし)
「太郎の御前迎」
「東嶽猪狩」
娘手踊
三番斐
間狂言
太郎・五郎・弥蔵・高砂婆という名の道外人形を用いて演ずる滑稽寸劇、いわゆるのろま狂言の一類に属する。
山之口麓では現在「間狂言」と書いて「まきょうげん」と読んでいるが、この名称は古くから行われていたのではないという。
いつから「間狂言」と呼ぶようになったのかは、明確な答えが得られなかった。あるいは研究者などの命名の可能性もあろう。
それ以前の呼称ははっきりしないが、「座くやし」と呼ばれ得るものであることは、保存会員や古老の意見が一致する。
「座くやし」は、座をくずす、直会といった意味で、一般にも使われているようである。「娘手踊」は「座くやし」とは呼ばないとのことである。
この呼称の使用範囲もいまひとつ明確でないので、ここでは一応現在通用している「間狂言」の語を採用しておく。
浄瑠璃の間狂言は、古浄瑠璃時代から正徳ごろまで行われていた。
能一番ごとに狂言をはさむのと同様に、浄瑠璃操の一段が終わるごとに、間の物として、滑稽寸劇や舞踊音曲などを上演した。
人間の役者による寸劇や踊、また歌・三味線のみの場合もあったが、延宝頃には道外人形を用いた滑稽寸劇が主流になっていたようである。
これを、使用する人形の名をとって「のろま狂言」などと呼ぶことが多い。義太夫節による当流浄瑠璃でも演じられていたが、正徳五年の「国性爺合戦」の前後から姿を消したとされる。
古浄瑠璃系諸座での消滅の時期は不明ながら、ほぼ所属の座と命運をともにしたのではないか。
古浄瑠璃座が退転し、竹本・農竹の義太夫節専門劇場で上演をみなくなった後も、一部にこの芸を伝える者があり、とくに江戸では文人の尚古趣味に合致して幕末明治まで命脈を保った(郡司正勝「のろま管見」「かぶき -様式と伝承-」、信多純一「道外人形の系譜」「のろまそろま狂言集成」参照)。
当地以外にも、佐渡の説経人形座の広栄座にのろま狂言が伝えられている。同じく佐渡の文弥節も、明治になって人形操を取り入れた当初はのろま狂言を演じていたが、その後廃れた。
鹿児島県東郷町斧淵の文弥人形ではかつて間狂言が演じられており、伝承のためその概要を録音したテープも残されているが、現時点では上演されていない。
石川県尾口村東二口では、道外人形が「花の御礼」をいい、同県鶴来町深瀬では上演に先立つ口上触れに道外人形を用いているから、これらの地域でものろま狂言の類が行われていた可能性はあろう。 99
しかし、現在上演されている点で、佐渡広栄座とともに山之口麓の間狂言は貴重な存在である。
佐渡ののろま人形は人形遣い自身がせりふを言いながら演ずる掛け合いの即興劇であるが、山之口でも人形遣いの掛け合いによって演じられてきた。
昭和四、五〇年代には多田重成、平島岩見、小山辰男の三氏が得意としていた。その以前には坂元鐘一氏、橋口辰美氏などが演じていたという。
ところが多田氏・平島氏がそれぞれ昭和六一年、五七年に亡くなった後、頓知が必要なこの役を勤める後継者があらわれず、現在では小山氏がせりふ専門で、すべてのせりふを演じ分け、これにあわせて人形を遣うという変則的な形態となっている。
即興では人形を合わせるのが難しいので、大体の相談をしておくが、近年は台本を作り、一応それにのっとりながら、即興のせりふを交えて上演している。
小山氏は、復活当初は保存会に加わっておらず、昭和四三年頃に入会し、多田氏から狂言を教えられたという。器用なので人形の修復や小道具類の作成にも当たっている。
間狂言といいながら、現在上演されるのは浄瑠璃操が終わった、いちばん最後である。観客の一番のお目当てなので、これが終わると帰ってしまう人がいるためである。
昭和三、四〇年代には浄瑠璃の上演が昼頃から夕方までかかり、その間に狂言一番を演じていた。ただし、最後に出すこともあったといい、とくに定めはなかったようである。
伝承されている間狂言の演目は、「太郎の御前迎」「東嶽猪狩」の二曲である。
画像 間狂言「太郎の御前迎」
「太郎の御前迎」は、太郎が弥蔵の紹介で高砂婆と結婚する話で、小柄で気の利く弥蔵が、大きく間の抜けた太郎と、ぞっとするような色気の高砂婆の仲立ちをして縁談をとりまとめるコミカルな喜劇である。
途中、弥蔵が一物を出して水を吹き出す放尿シーンがあり、佐渡ののろま人形の喜之助との共通性が注目される。
御前迎は結婚式のことで、この場面では祝言に招かれた者が鶏一羽を棒にぶら下げ、差し荷いでやってきて、一同祝い歌でにぎやかに舞い納める。
昭和六一年に小山氏によって書かれた台本には歌が記されているが、現在では三味線と太鼓ではやすのみである。
平成四年一一月二一日の所要時間は約二〇分。
なお、鹿児島の斧淵の間狂言も「御前迎」と題し、結婚式の歌や踊を中心に構成されているが、山之口のものと内容は異なる(木場岩利氏による伝承の録音による)。
「東嶽の猪狩」は、太郎・五郎・弥蔵の三人が山之口の東方にそびえる東嶽に猪狩に出かけ、弥蔵が大蛇にまかれるが、煙草の煙を吹きかけたりして大蛇を退散させ、助けて帰るまで。
筋は単純だが、四本の紐を遣って操る大蛇の動きが見もので、九一頁を参照されたい。
またせりふの中で、木橋がコンクリート(方言で「コンクイ」)の橋に架け換えられたことが話題にされるが、これは昭和一〇年頃の話なので、この頃に手が加えられたことを示すかと思われる(ただし昭和一〇年頃は中絶期とされ、人形を伴うような大がかりな上演はなかったはずだが)。
地名が多く出てくるので、土地のことをよく知っていないとせりふがいえないという。平成四年九月一三日の所要時間は約二〇分。
いずれも山之口の方言によって演ずる。この地は薩摩領であったから、方言も独特で、宮崎市あたりの人でもわからないという。弥蔵というのはきかん坊のことをいう。
また最近、小山辰男氏が「大世間ばなし」を新作した。他の地域に出かけて上演する時に、その土地々々の言葉で即興的に作るという。
近年は大道具を出すようになった。高砂婆や太郎の家などの書割りをベニヤ板で作る。
娘手踊
画像 「娘手踊」
女人形三体を小歌に合わせてゆっくりと踊らせる優雅な小曲である。所要時間は五分ほど。
人形は専用のものがあるわけではなく、浄瑠璃の早姫・幾与・小野姫をそのまま使う。ただし、右手を扇手に替える。扇は引き手で開閉することができる。
歌は「お伊勢参り」と題する。村岡純秋氏使用本によってその歌詞を示す。
一、舟は出て行く 帆かけて走る
茶屋の娘が出てまねく ツツツツツンツン
まねけど舟は よらばこそ
おもいきれと その風が吹く
いやそーれそおゝれ ほんかいなー
ツツツツツンツン
二、お伊勢まいりは あさまが茶屋に
花を一枝おき忘れ ツツツツツンツン
あとでさすやら ささぬやら
ささせてみたさの あの江戸桜
いやそーれそおゝれ ほんかいなー
ツツツツツンツン 101
返し歌になっていて、旋律は一と二と同じである。。口三味線の部分は合の手が入ることを示し、このとおりに歌うのではない。
娘手踊は浄瑠璃の前後に演じていた。浄瑠璃の三味線を里岡フミ氏が弾いていた頃は、里岡氏が弾き語りをした。
近年あまり上演をみなかったが、平成四年一一月の定期公演では開幕に上演された。語太夫の村岡純秋氏がうたい、三味線は原沢ハツ工氏であった。
合図の拍子木に連れ、前弾きの三味線を弾く。幕が明くと三人の人形が出ていて、歌に合わせて踊る。歌が終わると人形にお辞儀をさせて幕の下へおろす。
後弾きに合わせて拍子木を打つ。つづいて浄瑠璃になるので幕は閉めない。
山之口には三番叟が伝承されていないので、そのかわりに開幕に上演する慣習があったようで、今後も継続してゆくことが望まれる。
山之口では人形以外にこの歌をうたったり、歌にあわせて人が踊ったりすることはないという。
一の「舟は出て行く帆かけて走る 茶屋の娘が(は)出て招く」は「山家鳥虫歌」などにも載り、近世中期以降、各地に広まった類型歌詞であるが、「まねけど舟は」以下を含むものはあまり例を知らない。
宮崎県内では、山之口の南隣の北諸県郡三股町の大太鼓踊歌(浅野建二日本民謡大事典」)、児湯郡西米良村の座興歌「ほんかい」(宮崎放送原田解氏御教示)などにほぽ同文の類歌がある。
また鹿児島県川辺郡坊津町鳥越の十五夜踊歌(平成三年九月現地採集)、大分県国東郡姫島の盆踊歌(「日本民謡大事典」)にも類歌が見出せたので、南九州地方に多く分布する歌謡かとも思われる。
「お伊勢参りは」の方はいまだ類歌を知り得ないが、ともにこの周辺で歌われていた踊歌を取り入れたと推測される。
三番叟
現在保存会では「三番叟」を伝承しておらず、会員の中に「三番叟」を見た記憶のある人もいない。また三番叟の首も残っていない。しかし、かつては「三番叟」があったようである。
松水犬三氏は明治四四年の生まれで、大正期の上演を知る数少ない長老の一人である。昭和二七年の復活時にも参加して努力したが、現在は保存会を離れている。
その松永氏が子供の頃の記憶に、いちばん最初に三番叟があったことを覚えている。
日の丸の烏帽子をつけた人形が二人出て、「おおさいありや、おおさいありや」といって、二人が行き合うような所作をする。
浄瑠璃の方の準備ができるまで演じていて、子供心に早く始まらないかと退屈だったという。
この他、座興としてハンヤ節などによる人形踊を演ずることがあるようで、昭和四三年八月に演劇研究会が調査に訪れ、録音したテープにそれがある。
鹿児島県東郷町斧淵でもハンヤ節の人形踊が好まれている。
次に間狂言「太郎の御前迎」「東嶽猪狩」の台本を掲載する。従来から人形師達がかけあいで演じていたものを小山辰男氏がまとめられたもので、用字、句読点等を一部改めた。
現行の上演とは小異がある。
(和田 修)
102
間狂言台本
『太郎の御前迎』
幕 (弥蔵出てゆく)
弥蔵 ハイ、く、く、こんにちは く く。私しゃな、こげなつらをしちょっど
んなーここたいでわな人気もんがんさ。仲立どん、受けなへえば、城が、落っづた 、
どでん、こでんはめっくっとがんさ。
今日はなー、おはんたち、そろっと言っきかせもんどんなー、今夜な、太郎どんと、
高砂婆さんと、なんとか、なろごっがんさ。
今日は、ゆくさ来てくいやしたな、あいがとがすな。
もう、てげな頃な、あっちん方かい太郎どんが来い頃ぢゃっどんな。
なぬしちっどかい。
太郎 (唄)夜は冷たい、心は女ご・・・。
オー、弥蔵く。おいも家で待っちったどんね、
弥蔵が来んもんぢゃかい、おいが方かい、出っ来たっよ。もう種もんどましみたかよ。
弥蔵 んにや、こら良かとこで、出会たもんじゃ、太郎どん、く、お前や、何にゆ、ゆちっとお。
田んぽん、種どま、もう植ゆいごつなっちょっどう。
のんきなもんじゃねー、太郎どんな、そげなこっぢやかい、一人者じゃいかんち、言うとぢゃが、
お嫁を早うもらわんな、いかんがあなー。
太郎 よう、よう、弥蔵よ、おいもね、去年かい、わり、頼んぢよったぢやがね。
ふけらしもんぢゃねかよ。
弥蔵 太郎どん。そいならなー今夜、どしてんおいが、もろけ行たち、何んとか、せんならなー。
太郎 よう 今夜どま、どかしてもろっくりよ。
弥蔵 ほっで、ほっで、太郎どんが、そげんじゃろとおもつ、おとちん晩に、高砂ねえさんに、かたっちたっを。
山之口で一番良かにせじゃかいちなー。
太郎どんが、びんたが太人ぢゃちな、一言も語らんかったかいな。
そしたら、姉さんが喜くつなー、弥蔵さんが言うこっならちホホホ・・・まかすっぢち言わんばっかいぢゃったが太郎どん。
太郎 弥蔵く、そらまこっかよ。高砂ん姉さんかよ。
おいも、そんた気が付かんかったわい、都城あたり行かんな、いつめかいち、思ちょったどん、
そら、べっぴんぢゃろがよ、ほうら、もうゆだいが、ひん出っくいがよー弥蔵。
弥蔵 太郎どん。高砂ん姉さんななー、あっこあたいじゃ一番、良かおごじゃっち話しじゃがな。
今かい、いたつみろかいなー。
太郎 よう、よう、そんなら早う行たち見ろかいね。
(少し行く様子をする)
弥蔵 あー太郎どん、いっとっ待っちょっいやんせ、あんな座い込めば、長ごないかも知れんぢ、
ここで小便ぬさせっくいやん、ちっとでん出ちょかんならなあ。
太郎 ようく、わいも、頭はこめどん。
くめんと、だんどら、良かもんぢゃね。ほっで、おいが頼んだっぢやがね。
弥蔵 どらく、どこが良かどかい。おまや、あっちを見ちよいやん。ここたいで良かろう。どっこいしょ。
(一人言)ホホウ、ビッキョが今日は、湯のよなたぎった雨が降いがっち、たまがっちょっど。
太郎 おー(びっくりして)弥蔵よ、わらね、おいが頭が太てち言うおったどん、わいがた、又太もんじゃねかよ。
「小男ん、太まら」ち、まこっぢゃね、おいも、たまがった。
わいが見んなち言えば、どしてん見ろごたっがね。
十五夜絹引の絹とどっこいどっこいぢゃー。オーシタイ。 103
弥蔵 よしく、こいでスカッしもした。おてちっ語たいがなっぢゃろな。アッチく。
(というわけで高砂婆さんの家へ)
太郎 弥蔵く、まだかよ。
弥蔵 もうそこぢゃが、おまやここで待ちょいやん、おいがな「太郎さん」ち言たとか、いっき来やんせな。
太郎 ようく、んならここで待っちょらい行たっき。
弥蔵 (戸口で)姉さんく、おいやっなー。おいぢゃがなー、弥蔵ぢゃがなー。
ババ ハイく、あら弥蔵さんな早よ来やしたな。
弥蔵 今日はな、良かにせんどんぬ連れっ来たがな。
ババ もう知たんもんじゃ。もへ連れっ来やったっな。。こげなあたいげづつなー。
そし、どこん良かニセさんじゃろかいホホホ・・・。うれしこっぢゃ。
弥蔵 あんなー。おとち来たとっ、言ちたがな、亀甲太郎さんち、一目見てくいやん、よかにせぢゃっどうー。
ババ ハイく、弥蔵さん、あたいもな、心ん中じゃ、今日どま来てくいやっじゃろち考んげちょったをなー。
あたいはなー、ゆべかい、ちっとでん若こう見すいごっ、クリームをべったいぬいたくっな寝たっお、
今朝、起きっ見たらな、クリームぢゃのしポマードぢゃったがなーホホホ・・・。
ちったベタベタすいがち思ちょったわ。
弥蔵 高砂ん姉さん、よかよか、あたいがな、良かニセどんぬ、連れっ来っじな。待っちよ。
・・・やん太郎さん、早よこっち来て見やん、高砂ん姉さんの待っちいやっどー。
ババ あら、弥蔵さんな、あげなこっ言やいよ。
太郎 ようく、弥蔵よ。おいも外で聞いちょったどん、わいも仲立ちゃなれちょいね。
小便どんして、タバコも吸ださんかったがね弥蔵。
弥蔵 ヘーじゃろく。姉さんを太郎さんぢゃっど見てくんやん。
ババ アラく、こん人が太郎さんなおー、ホオー。どう言う頭ん太かもんなおー、こら太もんぢゃ。
おーしたい、西のお寺んつい鐘は笑ちょいがー。
弥蔵 姉さん、山之口亀甲ぢゃ太郎さんが一番良かにせどんぢゃっど。
ババ 弥蔵さんく、あんな、こっち来てみやん。弥蔵さんばっかい言っ聞かすっじな。
あたいもな、いっぺんな、森進一さんも見け来てくいやったをな、ホホ・・・。
昌子ちゃんがおらんなよかったどん、あたいも、だりたんねっ見てん、良かおご女じゃちほめっくいやっど。
なあーそこんすわっちょいやい兄さん、、ひったまがらじ言みやん。ホラ頭を下げやいがな、弥蔵さん。
弥蔵 高砂姉さん、何ぬ言ちょっとを、そげんいつでん男をえろおっと、いつでごけでおらんなならんど。
こげな良か話があろか、姉さん、今夜ゆう考へっみやん。
ババ ハイく、まあそげんゆっくいやれば、弥蔵さんのゆごっじやんそ。ほんなら弥蔵さんにまかせもそかいホホ・・・。
弥蔵 高砂姉さん、ぢゃっど、ゆう言っくいやした。良かニセどんに良かおご女じゃがなー。
今日は、天気も良かし、大安吉日で、良か日ぢやっどー。
そら、早よ支度どんしてくいやん。あたいも、太郎どんにゆちょっかい。
ババ ハイく、あたしゃ、こんちクリームをちょとぬったく行っぱっかいじゃんが。
弥蔵 太郎どんく。
太郎 ようーく
弥蔵 なんとかなったど。こげな良か女は、お前ばしねけれんな、もろださんな。 104
しわどま、ひとっぢゃ見えんど、良か女ぢやが。
太郎 弥蔵、わいも早えこつしたが。もれ出たかよ。ほんなら、後んこた弥蔵にまかすっじね。
五郎どんぬ頼ん、チャボでん取らんなわら、早よ、もどっちょっぢね。
弥蔵 太郎どんく、なんち、チャボ。チャボよかふとかテチョを取らんないかんがな。
今かい姉さんぬ連れっくっぢ、あら、もうおらんごっなっちょい。
(一人言)こっで、あたいも、おてつっもした。今から太郎どんの家で、ごぜむけどんやっ、座くやしどんせんな。
あら。まっち、太郎どんな六十田ん三味線ひく、頼んだろかい。
〇〇どんぢゃが・・・テコは〇〇どんが来てくるっちなっちょとぢゃが。あらく、もう支度がでけたな。
そろそろ行こかいな。高砂ババじゃっちばるっといかんが。高砂姉さんちゆちったかい。
ババ (手拭いかぶせる)弥蔵さんくなんとか言やったな、一人言ぐずくゆやいが。
みなさん良か嫁女ないもしたろがなー。太郎さんな良かにせどんなやー。弥蔵さん連れついたっくいやんせ。
(と言う事で太郎どんの家で二人は結ばれ、座くやしとなる)
太郎 弥蔵くこん女は高砂ババぢゃねかよ。
弥蔵 おまいも、こげんなっかいどすかい。よかよか。
太郎 わいも、しわどま見えんちゅたどん、おいがスワブルしたとっ見たらシワだらけじゃったが。
弥蔵 もう、こげんなってかい、どすかいを。歌でうたわんにやおまや一番ぢゃが。
おまいと暮せばからいもも米じゃ
かげた茶わんもお原はあ、良か茶わん
ハア ヨイくヨイヤサット
『東嶽猪狩』
「時」・・・夜明け前
目覚まし時計が鳴り始める。外はまだ暗い
ジン ジン ジン ・・・
ババ 父ちゃん父ちゃん、起きらんな。もう五時じゃっど。五郎どんがまっちょっど。
太郎 うん。
ババ アーアーこりゃこりゃ。〇〇の皆さん、早よかすな、あらーっ、拍手が多けがー。
あいがとがすなー。
私しゃな、太郎どんのおかたがんさ。あたいもな、生まれは山之口の麓がんさ。
お陰様で父ちゃんと仲良う暮らしかたで、もう三百年近うなっどん、どうかよろしゅ頼んあげもんど。
タベな。うちの太郎どんと五郎どん・弥蔵どん三人で吟味があっがすな、
昨日は六十田ん赤松谷でイノシシが出ち、北郷徒ん谷かい古大内川を渡ち、城山に出ち、五十山ん方へ逃げたかい、
明日は早よ起きち鰐塚山ん手前ん、東岳せえ廻ち行こかいち、語い方があったがんさ。
あたしゃな、そっで一時間ばっかい時計を進ませちょったオ、中屋でごろっやったばっかいじゃった。
にぎい飯どん、どっさい持たせち、やいもさんならなア。大食れどんばっかいじゃっじ。
太郎 よう、かかよ。何ぬ一人でぶつぶつ言ちょっとよ。おいもタベは、夢を見てね、目がさめっよ。
早よ起きっ鉄砲ん手入れどんして、犬のケンにも夜中け朝飯しゅ食わせちたかい、もう出っ行っばっかいよ。 105
ババ あらあら、そげなこっなア、ひとつも知らんがったがア。うつらうつらして夢んごっじゃなア。
ほんなら、今日は早よ湯どんぐらぐらたぎらけちょっじ、行ちおじゃんせなア。
太郎 ようよう、太かっが捕れたとか遅すなっじね。ケンケン。(犬を呼ぶ)
ケン ワンワン。
太郎 今日はまこち良か日和じゃね。星がきらきらじゃ。うっかたが五時じゃち言たどん、いつもよい早えごたいね。ケン!
ケン ワンワン。
太郎 やいや、五郎どんはいつも朝寝ごろじゃっどん今朝灯がとぼっちょいが。きどっな早よ起きったもんじゃ。
五郎く、もう目がさめたかよ。
五郎 はいく。あら、太郎どんないつも俺いが遅しもんじゃかい、今朝どま俺いが方かい太郎どん方へ、先き行こち目覚ます一時間進ませちたっじゃが、やっぱい太郎どんが早えな。
太郎 ハハハ・・・。五郎も時計を進ませちょったか。俺げん、かかも今朝早よ起きったがね。早え方はよかがね。犬のジョンに食せたかよ 五郎
五郎 太郎どんを、俺家ジョンなな、今朝早よ飯がわいたがち、半分しか食わんかったがな。ジョン!
ジョン ワンワン。
太郎 そら、じゃろだいく。かねちゃまだ寝ちょい頃じゃがね。もうヤゾも来い頃じゃっどんね。あらア、タマが来た。タマタマ!。
タマ ワンワン。
弥蔵 早よがすなア。五郎どんはきどっな早よ目がさめたどな。五郎どん。
五郎 まれけんな、俺が一番先きなろかいち思ちょったどんな、太郎どん。
太郎 よう、人数がそろたが、ぼっぼっ行こかいね。五郎、弥蔵。
五郎・弥蔵 はいはい。
犬 ワンワン。
五郎 太郎どんを、今日は東岳じゃろう。
太郎 よう、じゃっど。鉄砲を忘るんな 弥蔵。
弥蔵 はいはい。
「タマ」ワン、「ジョン!」ワン、「ケン」ワン、
行っど 身体ん小めた早よ早よ走しいごっせんならんが、歩まならんがね。
太郎 こん十輪寺の樅の木は、太なったもんじゃね。
五郎 こん前ん大風で頭を摘まえたよしじゃな。
こん野上の新橋もよとすなったどんな。
かけかえんないかんな。
太郎 よう、じゃっど。今度かけかゆっとかね、コンクイち言う橋になるげなどわら。足の腹がこそばいかも知れんね。
五郎 えー、お前や昔の奴じゃが、コンクイを知っちょっとなア、山元どんの爺さまかい習るたっじゃろ。
太郎 ようよう、見て見よ、もう腐れちょいがね。コンクイ橋なってん、柱は東岳ん樅の木を使うとじゃろだい。
そし、才ヶ野ん橋しゃね、こん前ん大風で流れっ、今一本橋じゃっどわら、弥蔵
弥蔵 はいはい。そら厄介なこっじゃなア、あたいは身体が小めかい良かどん、頭が太か人は真ん中で橋が打っ折れんな良かがな、五郎どんよ。
五郎 よ、俺いも語らしよ弥蔵、あんね昨日んイノシシゃね、太かったがよー。俺が上を走っ逃げたが、頭どんも太郎どんのが太ち言うどんね、まだ太かったんど、太郎どん。
太郎 五郎、そげん言なよ。あんね、かからん藪ん入った時きゃ尻の方かい出っとよ。
五郎も語っちょいね。話しゃゴマ塩飯や。後かいち、ゆう言たもんじゃ。ハハハ・・・。 106
弥蔵 太郎どん 良か話が出いもんじゃ。今朝は早よ出っ来たじ、野々宇都酒口っ通ち坂元どんの山を越えち、
上長野ん方さえ廻れば、昨日んシシと出っくわすいかも知れんど、太郎どん。
太郎 よう、よか考えじゃね。頭は小めどん、工面と段取りゃ良かもんじゃ。酒口の水どん飲ん行こわい。まっち五反田の新森さん方犬も連れち来れば良かったね。
ただでヤスヤス貸すとじゃが。何んのかんの語いうちに、野々宇都温泉に来たがね、五郎。
五郎 はいはい。とっの上を上れば荒山ん入っじな、そこん山の神がおいやっじ、今日は本榊どん上げち行こかいな。あら、まっちお神酒を忘れたわまたんこつじゃろ、太郎どん
太郎 よう、そらいかんがったね。まあ本榊を持っき俺が上ぐっじ。俺がまねして頭を下ぎよ。
えー、えーと、東岳の神々様、今日はシシ一匹お恵みお授けくだされ、お頼み申す。
太郎 よしよし、こいかい先きゃよ、薮が深けじね。あっこかい先きゃよ弥蔵を先き行かすっじね。
弥蔵 な・な・何ち、太郎どんな今何んち言うたな。みごえとこは、俺ばっかい、薮を切らせっ行っとじゃが。
まちった俺がごっ身体を小もすれば良かじゃっどんな、太郎どん。
太郎 弥蔵は後で独り言どん言ちょいが、山ん入れば弥蔵が一番働っとじゃが。戻っ時は俺と五郎とシシゅかたぐっとじゃがね。ね、五郎。
五郎 やや、犬がこそこそ動っでけたど。太郎どんの方んケンが走っ行たど。ジョン、わいも行け シッ、シッ。
ジョン ワンワン。
太郎 んにゃこら、煙草を吸う間もねな。ぼっぼっすけ廻ろうかいね。
弥蔵 おお!ケンが薮に入ったど、タマ、わいも後を行けっ。シッシッ!
タマ ワンワン。
太郎 よう、三匹でうなっどね。こら出っどオ。弥蔵、わいが先きいたっ薮をちっと切っくりよ。
弥蔵 はいはい。もうそげん言わせんかと思もちょった。こげんな薮ん来た時きゃ、俺が一番良かと。
身体が小めかい、どげな薮でんくぐっ行たっ、兎っでん、シシでん一番先きズドンちやっとじゃが。
どらどら、五郎どん、こらア薮が深こうなったど。道つ間違ごたっじゃねな。
太郎 弥蔵よそげん早よ行っなよ。五郎、俺と連れち行こわい。どうか今日は鳥肌が出いがよ。何んか五体がぞおっすいがね。
五郎 太郎どん、お前もそげんあいなお。おいも前かい、ぞおっすいがな。
弥蔵 太郎どん早よく、こんだ犬が上を見て一生懸命うなっど。
太郎 よオ、犬がうなっね。山ん兄貴ばひおっどかいね。
(大蛇が出てくる)
弥蔵 太郎どん、五郎どん、こらっ、ひったまげたな。な・な・長げっの太かっじゃ。足と腰が抜くごたっど。
五郎 弥蔵く、そらっ早よ撃て早よ撃て。こりゃなかなかじゃね。大蛇じゃがね。太郎どん、早よ撃たんや。
(鉄砲で大蛇を撃つ。大蛇弥蔵の方へ下りていく)
太郎 あらア、弥蔵んとこさね行っどね。こらっいかん!。シシ弾ばっかいで、今日はバラ弾を持たじ来たから、なかなか当たらんね。
(大蛇が弥蔵を巻き始める) 107
五郎 太郎どん、こら弥蔵が巻かるっど。こらっでひなこっじゃ。腰なたは持たんや。今日んくし、腰なたを忘れ来たね、しいぼん方かいでん狙わんないかん。
(弥蔵が大蛇に巻かれる)
太郎 弥蔵はとうとう巻かれたね。ケンもジョンもそばずた行っどん、長げちなとっかかっち行かんね。
よし、そんなら刻ん煙草を全部燃やせ。酔くろっ弥蔵を放すかも知れんど。
(煙草の煙を出す)
弥蔵 五郎どん、早よ俺る引っ張っくんやんを。
五郎 俺もそこずた行っがならんがよ。太郎どんゆう見てみやん。大蛇が弥蔵を飲んこまじ胴中を締めつけにうったったど。
太郎 よう、締めけうったったかよ。弥蔵まちったきばれ!。噛んつかならんかよ。うろこが固てじね。
鉄砲も弥蔵に当たっといかんかい、撃っがならんとよ。犬もしかくっどんね。
弥蔵 太郎どん、噛んつっどこかずたん腹が切るごたいが、早よ助けっくいやんを。あっ、ちったゆるんきたごたい。
(大蛇が弥蔵を放し、弥蔵は下に落ちる)
弥蔵 あいた!。高けとこかい落とすが。しったびらが痛てが。俺もちった煙草で酔くろたがを。
五郎 こーら良かった。太郎どん、弥蔵が助かったど。長げっが上せ上っじ、早よ連れっ戻いが。
太郎 よう、長げた逃げたかよ。まだ尻尾があっき見えちょいがね。弥蔵く、俺が所ずっ、這っ来がないかよ。俺がかるっ戻っじよ。
弥蔵 んにゃ、動かならん。足ん先くつっまげちょいし、指ん先があさってを見ちょっど。
太郎 よう、そらいかんね。ニワトリすれば切っうっ捨っとこじゃっどんね。五郎よ、俺が鉄砲を持て。
早よ戻っ、山の神に焼酎でん上げんなら。俺もごては太てどん、長げちなばったいいかんがよ。
五郎 太郎どん、いつもは犬が喜ろっくっ戻っどん、今日は尻尾をひんまげっち、ぐっとん言わじ山を下いかたじゃっど。
弥蔵。太郎どんにかいわれよ。どら、どっこいしよっと。
(五郎が弥蔵を太郎の背中にかかえ上げる)
弥蔵 あ痛!あ痛!。無理なこっしゃんな。
(三人は帰りはじめる)
五郎 太郎どんのかかどんな、早よ湯どん沸けちょっち言うたが、今頃はちわんちわんしちょっどな。
太郎 よう、早よかい、グラグラたぎらけちっち言ったがね。弥蔵、もういっき家ん着っじね。足がやっぱい痛てかよ。
弥蔵 足がちった治ったがお。
(太郎の家に着く)
太郎 かかよ。今戻ったわい。
ババ あらっ、今日は背中どみ、かるっな。小ジシをつかまえやったっじゃな。お湯がグラグラたぎっちょっど。早よ湯に中け投んこみゃんせ。
弥蔵 んにゃんにゃ、ババさんババさん、俺じゃ俺じゃ、弥蔵じゃがな。まれけんな背中けかいわれち戻っみらんなな。
山じゃ、難儀ばっかいすっとじゃがな。どら、降りっみやん。早よお神酒どん飲もかいな。
太郎 よう。弥蔵、わらどういうこっよ。足しゅつっまげたっち言うたが、嘘じゃったね。走っさるちょいが。んにゃ、こら弥蔵かい一本やられたわい。ワッハハハハハ・・・・・(チョン) 108
【主要参考文献】
杉野 橘太郎
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角田 一郎
「諸国の人形操り」「日本の古典芸能 7 浄瑠璃」平凡社 一九七〇
横山 正
「現存の文弥節について」「東洋音楽研究」30・31・32・33合併号 一九七〇
角田 一郎編
「農村舞台の総合的研究」 桜楓社 一九七一
角田 一郎
「義太夫節の形成に関する一試論(三) -花山院の道行について-」「近世文芸研究と評論」7 一九七四
泉 房子
「かしらの系譜 -宮崎と九州の人形芝居-」 鉱脈社 一九八四
塩水 流忠夫
「山之口麓文弥節人形浄瑠璃 -文化的価値とその伝承-」「もろかた」20 一九八六
山下 博明
「山之口麓文弥節人形浄瑠璃」「季刊南九州文化」54 一九九三
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山下 博明
「日向国三俣院山之口の関所」「季刊南九州文化」25 一九八七
横山 重
「出羽掾について」「古浄瑠璃集 出羽掾正本」古典文庫 一九五四
佐々木 義栄
「文弥人形の研究」「近代」3 一九五六
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「山本角太夫について」「古浄瑠璃集 角太夫正本(一)」古典文庫 一九六一
阪口 弘之
「出羽座をめぐる太夫たち -道行揃を手がかりに-」「人文研究」26・3 一九七四
阪口 弘之
「山本角太夫の初期語り物考」「国語と国文学」52・6 一九七七
郡司 正勝
「のろま管見」「かぶき 様式と伝承」学芸書林 一九五四
斉藤 清二郎・信多 純一
「のろまそろま狂言集成」 大学堂書店 一九七四 109
あとがき
臨時教育審議会の第一回総会での内閣総理大臣あいさつの中に。
教育改革は、我が国固有の伝統的文化を維持発展させるとともに、日本人としての自覚に立って、・・・という言葉が出ています。
伝統文化の保存・発掘・継承は今特に重要な課題だと言えます。
三百年程前から伝わっている山之口町の人形浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれ「麓文弥節人形浄瑠璃」として伝承されてきました。
昭和四十七年文化庁の選択指定を受けて以来全国的な脚光の中で、保存会も一段と活気をおびてきました。
なお記録作成の仕事がはじまり、その価値が改めてわかりようになりました。
調査が終わり、その記録作成が完了した事につきましてただ感謝とよろこびで一杯です。
公務御多忙の中に、遠方から何回もおいでいただき、誠心誠意御尽力下さいました内山美樹子先生、和田修先生、時松孝文先生、永井彰子先生に対しまして心から敬意と感謝を申し上げます。
町の文化財専門員の山下博明さんや保存会の皆様に厚くお礼を申し上げます。
今後此の資料から学んだ事を基にして、更に認識を新たにし、保存伝承に努力したいと思います。今後共御力添えよろしく御願いいたします。
「麓文弥節人形浄瑠璃」は山之口町民のためだけでなく広く日本の伝統文化の維持発展に大きく貢献できるものと信じています。
御協力をいただいた関係者の皆様に重ねてお礼を申し上げます。
山之口教育長 艮 敏雄